溢れんばかりではなく、溢れるばかりの愛情というか、猫可愛がりが息子に対して出てしまうときがある。
「かわいいねえかわいいねえ。あらーもーぶちゅうー」と発しながら果敢に息子に迫っていくと、「やめろよぉ」と言った様子で、しかし満更でもない様子で手をばたばたさせている。 私がじたばたしてしまうくらい可愛いと思うときがある。 これまで、大人になってから犬などのペットを飼ったことはなく、小さき存在が四六時中そばに居るのは初めての経験と言って良い。 もし犬や猫などのペットを飼ったら猫可愛がりするのかどうなのかは分からないが、今この息子に対して臆面もなく猫可愛がりできる、ということがとても幸せである。 私の溢れるばかりの猫可愛がりを何だかんだ余すところなく息子は受け取ってくれるわけで、私の表現の一旦がきちんと昇華されていくようである。 まあ無論、そういう気持ちになっているときばかりではないのは、私が息子とは別の個体の人間であるからだ。 共有したり共鳴したりはするけれど、当然ながら、違う身体を生きているのである。 最近、機嫌が悪くて離乳食が食べ進まないとき、夫とふたりで、思い切り拍手をして「わーすごい!おめでとうございます!!素晴らしい!きゃーーフゥーー!」と騒ぎ立てると、なぜだか分からないが自分が祝福されているのだと勘違いするようで、「おれ?おれ?すごい?やっぱり?」といった照れる顔をして機嫌を取り直してごはんを食べてくれることがある。 また、こちらが笑えば笑うし、おちょぼ口をするとおちょぼ口をするし、「ねんねんねんねんねん」という発声をすると「ねんねんねんねんねん」と返してくれる。 また、思い通りにならないときは、「ん゛ーーうやーーー」と仰け反る。 だいぶ感情が発達してきているようである。 それでいて、喋らない、喋れない、というのはなんだか不思議で、特に息子が怒っているときは大人よりもフラストレーションが溜まるだろうなあと心配してしまう。 でもまああまり記憶はもたないようで、切り返せばすっきり顔なので、こちらもあまりそれの心配はしないようにしている。 離乳食は、どろどろにすれば様々な種類のものが食べられるようになってきた。 納豆も刻めば食べる、素麺も短く切れば食べる。 素麺は茹でてから刻んでも良いが、息子用に予めバキバキに折って短くしてしまうことにした。 バリバリバキバキ、細かく砕く作業は、やってはいけないことをやっている気持ちがした。 また、素麺を細かく砕くのは、新食感ならぬ新触感であった。 未だに少しでも固形物があると飲み込むのが苦手のようで、うどんは細かく切ってもオエッとなって食べられない。 離乳食の相談に乗ってくださった方が「喉が狭いと飲み込むことの大変」と教えてくれてなかったら、オエッとなる原因が分からずに不安がっていたかもしれない。 子どもがこんなにも可愛いものだと、知らなかった。 しかしひとつだけ、息子が産まれてしまったと思うことがあって、それは息子に今日も明日も明後日も明明後日もずっと会いたいということである。 こんなにも大切なものを作ってしまって、失えないものを作ってしまって、そのことを心底憂えて怖くなる時がある。 一般的には親より子が先に死ぬなんて、と思うが、明日死ぬ可能性は誰もが持っている。 現に私の父は私の祖父母よりも随分早くに死んだ。 私は、とてつもなく大きくて、今は小さき存在を生み出してしまったようだ。 息子を自分の所有物のように思うのは嫌だけれど、やっぱり宝物と言わざるを得ない。 夫がテレワークで帰宅が早いため、寝かしつけをしてくれる。 息子はぐっすり、外はやけに静かだ。 自粛中の都心は、みな早くに寝静まっているのだろうか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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