新幹線ひかり。
始発東京駅から30分並んで自由席を獲る。 品川の地点で列車の連結部分のデッキにも人が溢れている。 民族大移動は年の暮れも暮れに顕在である。 年が明ける前に実家に帰るのは何年ぶりだろうか。 いつもは大抵元旦に帰るのだが、今年は3日の新幹線が大混雑のようなので2日には東京へ戻ることにした。 今年初め、東京に戻る新幹線の自由席が信じられないほどぎゅうぎゅうぱんぱんで本当に辛かった思い出がある。 トイレはおろか、一歩も動くことが許されずしゃがむこともできない牢獄に1時間以上も閉じ込められたわけだ。 ならばそもそも指定席を取れば良いのだが、毎度あれよあれよと当日を迎えてしまう。 馬鹿なのだろうか。 来る来年、2日後はどうなのだろう。 微妙に最大混雑時は避けているつもりではある。 出かける前、大掃除はできなかったけれど、一年分の作品の整理をした。 365日作品を提出することを強いた1年であっただけに、たくさんの紙が積み上がった。 毎日の書は、それそのものが日記と等しい。 そのときの状況、気持ち、季節感、場所、匂いなどを思い出すことが出来る。 1年間1日も休まずに出した根性は褒めてやりたいし、私なりにかなり上達をしたと思う。 あと、様々な人の同条件(前日にお題が出されて皆それを翌日までに書く)の書を見ることによって見る目も養われたのは確かなことだ。 私はこれまで、素人でも玄人でも、その人が気持ちのままに何の気負いもなく自然に書いたものが最も素晴らしいということに重点を置きすぎていたような気がする。 いやもちろん、今だってそれが最も素晴らしいと思ってはいるのだが、そこには何かしらの“説得力”が存在することを知った。 今まで知らなかったわけではないだろうけれど、比較的にありありと見て取れるようになっただろう。 それは書の技術もそうだし、その人の考えの強度もそうだ。 取り分け、技術に対してがそれなりに分かるようになってきた。 書は体を表すとはよく言ったもので、別に他の表現物も体を表すだろうが、やはり普段の言葉の代わりに物を申すことが可能である。 そこには先人が積み上げてきた膨大な文化が存在し、我々はその文化を拝借しながら己の個体をフィルターとして通して放出していく。 他人のことというか他人の書が少しずつ見えてきた一方で、自分の書は綿の中に隠れてしまったような気がしている。 何が書きたかったのか、どういう風に書きたかったのか、そもそもそんなものがあったのか。 昨日、私の今年の漢字が「困」だと言ったが、創作においても大いに困っていた感じがあった。 それが試行錯誤できていることもあれば、単にやる気を削がれただけのこともあった。 もっと困ったら良いのかもしれない。 困ることを止めてみたら良いのかもしれない。 どちらも同じようなことで、しかもそれの明確な方法が分からず、禅問答のようになってきてしまう。 そのループから抜け出せずにいた一年と言えるだろう。 占いごとや呪術的なはさっぱり好きではないが、年が明けることは何だか明るい心地がする。 人間が作った節目や時計の時間に囚われたくないと思っている節もあるが、もう既にその他文化と同様に享受せずには生きていけないのだから、素直に楽しんでみれば良いのだと思う。 と、豪速の列車の中、着いたら皆ですき焼きだそうだ。 こんな私ではありますが、真面目にやっているつもりですので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。 良いお年をお迎えくださいませ。
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30日、今年最後のレッスンを終えて一応仕事納め。
HPから依頼をいただいた命名書を書いて、年賀状も計70枚ほどを書きあげて投函。 一昨年くらいから実に20年ぶりくらいに、作品の一環として書き始めた年賀状だが、やはり骨が折れる。 当然ながら出来栄えに差ができてしまうが、全部を納得のいく形にもっていくまってやっていたらきりがない。 デザインも書きながらふわりと固めていくから、やはり後から書いたものの方が幾分クオリティは上がる。 どれを誰に送ろうか、なんてのは、顔を思い浮かべながら決める。 12月は本当に忙しかった。 私が一人別件で忙しさに追い打ちをかけていたこともある。 いやはやしかし、忙しかった。 ところで年賀状が一枚、既に自宅ポストに届いた。 普通の葉書に普通の切手を貼って「年賀」と書かなかったから届いてしまったのだろう。 内容は年賀状なのだから、郵便局も気を利かせてくれよと思う一方で、私が郵便局員ならきっと配達してしまうだろうなとも思った。 万一、差出人が何かしらの理由があってその葉書が年内に届くものと思っている可能性も全くないわけではないからだ。 それに一年で最もてんやわんやになるこの時期に、全ての普通葉書に対して、「年賀」と書かれていない年賀状らしきものはないか、などとやっていては効率が悪すぎる。 52円とか62円の仕事ではない。 まあだから届くべくして届いたのである。 一笑の価値はあるし、それもそれで良い。 それにしても私たちの日常は、字と言ったらほとんどが印刷物の活字である。 その中にぽんと肉筆が入っていると少し違和感があって驚く。 上手いとか下手とかではなく、肉筆のインパクトというのは、もはや日常に置いての見慣れなさなのかもしれない。 自分のメモくらいならあるだろうが、自分宛に書かれている他人の字を見る機会などほとんどないと言っても良いのかもしれない。 生徒さんの中に保険の営業マンが何人かいるが、彼らは頻繁にお客様に手紙を書いている。 その会社で全国トップ10の売り上げを誇るある一人の生徒さん曰く、「上手すぎないけれど、誠実さが伝わる読みやすい筆ペン字」が良いのだそうだ。 彼は、私の手本を行ごとに切り刻んで自分で書く紙の真隣りに置いて模写するスタイルを取っている。 時々、彼が書いた字に私の欠片が見えて、そんな時は生き血を吸われたような心地がするものである。 書いた手紙を私にも郵送してもらったことがあるが、やっぱり肉筆はその人と対峙しているような気分になるからか、悪い意味ではなく微妙で奇妙な気持ちになる。 読んでくれなさそうなものを手に取らせる、という効果は少なからずあるのだと思う。 楽しみにしていたフリースタイルダンジョンの特番をamebaTVで観ながら、玄関に貼る「謹賀新年」と「迎春」を書きあげて、明日のお題も書きあげた。 明日のお題は、今年を象徴する自分の漢字一字。 「困」という字が浮かんだ。 今年一年、私は色々と困っていた気がする。 何に、って漠然とまとめて言うなら、人生に、だ。 悩みの無い人なんていない、という言い方があるが、それと同じように私ももれなく悩んだり困ったりしたわけだ。 今年は夏もないようなものだったし。 来年はもっときちんと生きていきたいと思う。 「あなたの筆さばきを見ていると、本格的な古典の指導を受けていたらと思うとちょっと怖い」と、自他ともに認める上手いお方に言われた。
古典を真剣にきちんとやっていないから全然ダメ、と言われている一方で、何だか私自身が意外に涙が滲んでしまうほどに嬉しかった。 私は自分の筆さばきにおける技術について出来る方では全然ないし、自信もない。 多少は習っているけれども、師匠と呼べる師匠もいない。 それでもちょっとは、筆遣いの技術に息遣いが乗っかって線として表れていることが誰かに伝わるのであればそれは嬉しい。 書道をやる人たちの中では、私はやや異端系であろうし、斬新だとか度胸があるとかそんなことをよく言われる。 私は、レイアウトや字のくずし方がほんの少しだけ派手なだけだと思っている。 ある方向から見る人が見れば、線がなっていない、で一蹴されるような書であることは自分でも自覚している。 あと、それこそ素人が見たのでは分からないような玄人の味わい深く枯れた線について、最近になってようやくその良さを感じられるようになったばかりである。 まず、本人がその良さを分からないものを目指せるわけないがと思う。 私は確かに、このように動かすとこういう線が出る、ということをあまり考えていない。 どちらかと言うと紙の方を見ていて、面白い線は出ているか、ということと、紙面における白黒のバランスを見ている。 大雑把に言ってしまうと、「奇妙なバランス」になると良いと思っている。 しかしながら最近は何だか行き詰まり感も覚えるので、「奇妙なバランス」について分析をかける必要もあるだろうという気はしている。 それで、なぜ私が冒頭のことを言われて涙が滲むほど嬉しかったのか、自分がそうなったことが意外だったことについて私は興味がある。 私のことを面白いと言ってくれる人たちは、私の持つ少々の書的派手さについて面白味を感じているのだろうと思う。 でもほんの少し、これまで培ってきた筆遣いが異端ながらも「上手い」という欠片になっていたのだろうか。 そして私は正統派に「上手い」と言われたかったということなのか。 あまり自覚はしていなかったが、正統派の「上手い」に強烈な憧れがあるということなのか。 それとも正統派のお墨付きがないとダメだと思っているのか。 いやまあ、そもそも「上手い」とはその方は言っていないと思うけれども。 私の書は、本当のところどうなのか、その“本当のところ”とは何なのか。 私はなぜ書を書くのだろうか。 根本にあるアートコンプレックスはきっとまだご健在。 ときどき、手紙の代筆のお仕事をいただくことがある。
「手紙は気持ち、どんな字だっていいじゃん」というのが一方の正論だったとしても、字で人を見られてしまうような気がするし実際に字がきれいだということで印象を良くすることもできる、というのももう一方の正論であろう。 一般的な字のきれいさを持っていることで、私も損をしたことは一度もない。 私は色んな書体を書くのでもはや何が最も自分らしい字なのかはよくわからない。 けれども自分の持っている一般的な字のきれいさは、私自身もお気に入りの字体であったりもする。 NHKの番組で「ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語~」というドラマがあって、それは”代書屋”のお話だった。 代書屋は込み入った事情の手紙の文章までも考えて、何なら字体までもその人に成り代わって書くというものだった。 私の代筆のお仕事は文章はほとんどいただいて書くけれど、何となくその気持ちが字に滲んだりすることもあるだろうと思う。 文章の力も、字の力も、それそのものの記号を越えることができるだろうことは、音楽や絵、その他のものと同じことである。 ご依頼者は、いつもだいたい深夜帯にご依頼がきて、できれば明日投函してほしいというような特急の依頼であることも多い。 私も夜型なのでそれはまったく構わない。 暑中見舞いや年賀状など違って、何かお礼などを伝える手紙を書きたい気持ちなんて熱いうちでないと意味がないことも分かるので、なるべく早く仕上げてあげたいと私も思う。 もちろん酷く酔っぱらっているとか、次の日が寸分の時間も割けないのであれば仕方がないのだが。 一杯だけハイボールを飲んで帰ってきた昨日、深夜も深夜、私はご依頼の手紙を書いた。 拝啓、のあとの時候の挨拶が所謂ものではなくてとても好感の持てる手紙の始まりだった。 さてさて、年が暮れゆく。 人の年賀状のデザインばかり考えていて、自分の年賀状のデザインが一向に決まらない。 いやはや実に師走らしく、皿が割れた。
なんてことでもあれば良いものだが、皿は割れていない。 もらった1個のショットグラスを小さなショルダーバッグにそのまま入れて帰ってきたのは本当だ。 何を言っているのだ。 今私は人生で初めての大きな考え事と調べ物とフィールドワークをしていて、それによって頭が沸き立っている。 そのことは別に悪いことではなくて、どちらかと言えば良いことと言うか、良くなるようにすることである。 しかしながら、もろもろの日常的なことをこなしながら、この考え事と調べ物とフィールドワークをするには忙しすぎるのである。 別に今やらなければならないことではさっぱりないのだが、ここまできて頭が沸き立って動いてしまって消費した熱量を何の成果物もなしに終わらせることがもったいなくなってしまっている。 いやでも、そんな一時の沸騰で決断するようなことではない。 しかし、一時の沸騰でもない限り決断できるようなことでもない。 まあ、またいつかこのことでヒートアップすることもあるだろうから、この考え事と調べ物とフィールドワークには何の成果物もないということはないとも言えるけれども。 もったいない、ということは興味深くて、私はいつも総合的な、もったいない、ということを基準にして行動をしているような気さえする。 書を書くことは、紙が本当にもったいない。 しかし言うなれば得られる満足の方が大きいことが多いものだから、積み上がった反故の山を作った自分に対して「よくやった」とさえ思う。 いつだって私たちは何かを消費浪費しながら生きている。 時間の浪費がおそらく一番惜しいだろう。 そこに対する総合的な心の釣り合いを取らねばならない。 あくまで“総合的な”。 さてはて、どうなることだろう。 興奮と快適を共存させた結果になれるだろうか。 ここ最近すっかりとブログを書くことを忘れていた。
本当に、すっかりと。 私はこのことを嬉しく思った。 自分のHP上で集客のためにブログを書いているわけではほとんどなく、書いても書かなくても本当にどちらでも良い。 文章をなぜ書くのか、というのは、書をなぜ書くのか、ということと似ているというかほぼ同じことだと思う。 稀に燃えるように書きたい欲求を昇華していることもあれば、何となくそれを書いていること自体が気持ち良いこともあれば、少しの面倒を感じている中でもそれを行うと達成感や満足感を味わえることもあるからだ。 書もブログも私の日常の一部である。 どこにいても、何をしていても、書やブログのネタはないかと薄い意識を貼りつかせて生活している。 そういった意味においても、私はおそらくそれらを“人より”“平均値より”愛していると思う。 だからそれによって生活を成り立たせている。 今はしていないが、以前は文章を書く仕事もしていた。 ただ、仕事であってもそうでなくても、書もブログも書いてきた。 それは前述の通りの理由であるが、それを止めてしまったら私の一部が失われて私の価値が下がってしまうのではなかろうか、そんな一抹の不安を抱えているようにも思う。 「“人より”、“平均値より”、書や文章の創作への気持ちは強い」「私には愛してやまないことがある」、そのことの極めて勝手な優越感が私の行動の燃料になっている部分が少なからずあるだろうと思っている。 所謂「創作」ごと全般が苦手だと思ってきた子どもの頃の私への決別を未だしているような感じである。 世の中の平均より書や文章の創作が好きであると信じることなど何も意味はない。 しかも、誰よりも書や文章の創作が好き、なのではなく、平均より好き、という程度だ。 そろそろ手放しでそれらを好きだと言っても良いのではないだろうか。 そして、手放しで、それらをしたくないときにしなくても良いのではないだろうか。 するにもしないにも、それを修飾したり形容したりする言葉など要らないのではないだろうか。 そしておそらく、自縄自縛的に考えてやっても、手放しに考えずにやっても、結果は何も変わらない。 良くなることもなければ悪くなることもないだろう。 良し悪しについては、粛々と行ってきたそれへの時間や労力が複合的に出てくるのみであろう。 ここ数日ブログのことをすっかり忘れていたことは、「やりたくないからやらない」ということの一歩上を行けた気がして嬉しかったのだ。 「やりたくないからやらない」となると、それをやりたくなくなってしまっている自分に悲しさを覚えたり、罪悪感を持ったりする。 しかし「やりたくないからやらない」のではなく、それ自体の発想を持つことなく、「ただやらない」という状態が存在し得たのだ。 これはブログから全くの解放状態を過ごせていたということだ。 ちなみに書については書かなければいけないことがあってやや気を揉んでいたのだが。 前記事のラーメンから何か特別な状態であったわけではない。 そして、やらないことは、当然だけれどもそこからは何も生まない。 感動も興奮もない。 でもそれで良いような気がする。 無風や凪状態を自発的に作ろうとすることは難しい。 少しでも何かが動いてしまったら無風でも凪でもなくなる。 ただの無風、ただの凪。 それは掴めたと認識した時点で、それとは正反対の状態になってしまう。 と、そんなことに気が付いてまたせっせとブログを書いている。 良いのである、今私はこのことについて書きたかったのである。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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