保育園に息子をお迎えに行くと、園庭の隅っこ、かなり遠くに小さく見えた。
何をするでもなく、うねうねと辺りを歩いていた。 息子は何だか元気がなさそうに見えた。 それは、体調が悪そうというものではなく、精神的に落ち込んでいるといった感じ。 ひとりで淋しそうにしている息子を見るのは気持ちがぎゅうっとなる。 それから息子は私を見つけ、いつもなら犬のように走ってくるのに、はにかんだような顔をして身のやり場のない雰囲気だった。 先生に話を聞いてみると、つい先ほど、息子は帽子を誰かにひょいと奪われてしまって、それで落ち込んでいたらしい。 やっぱり落ち込んでいた。 あんなに遠くに小さく見えても、人は落ち込んでいる様子が表れるのだなあと思った。 息子は、おもちゃなどを取る側/取られる側に分けるなら、明らかに後者である。 優しい、というのとはちょっと違って、なんというか、気が弱いのである。 物を取られても息子は言い返したり叩いたり取り返したりもしない、というか、できない。 しかし、人の物を取る/取られる、悪いのは前者だ。 先生たちもその様子を見かけ、取った子に注意をしてくれたと言う。 息子は気持ちのやり場がなくて困っていたので、ぎゅうっと抱きしめる。 しかし、こういうとき、どのように声をかけたら良いのだろう。 「物を取られないようにしっかり警戒しなさい」 「取られたら取り返しなさい」 「取られたら嫌だと言いなさい」 どれもしっくりこないのだが、強いて言うなら、「取られたら嫌だと言いなさい」だろうか。 幼い子の世界で、言論により解決が可能なのだろうか。 もし叩かれたのだとしたら、 「叩かれないようにしっかり警戒しなさい」 「叩かれたら叩き返しなさい」 「叩かれたら嫌だと言いなさい」 嫌だと言うだけだとやられっぱなしな気もするし、四六時中叩かれないよう警戒する気の抜けない生活も良いとは言えない。 かと言って、叩き返すのは戦争の始まりのようにも思う。 嫌だと言うのは、言い方にもよるだろう。 怒って嫌だと言うのか、冷静に嫌だと言うのか。 そして何より、おそらく子どもの世界というのは大人の世界とだいぶ違うと思うから、大人が安易にアドバイスをして良いものかもよく分からない。 今私にできるのは、落ち込んでいる息子に、大丈夫かと問うことと大丈夫だと伝えることだろうか。 公園に寄って帰る道中、もう一度抱っこしながら「大丈夫?ぎゅうってしようか?」と聞くと「さっきしたじゃん」と言われた。 そうだね、さっきした。 映画を三本観た。 「Winny」「日本のいちばん長い日」「すばらしき世界」 「Winny」がとにかく泣けたのだが、私は最近映画などでほとんど泣くことはないのだが、どなたか観た方の感想を聴きたい。 自分の現在の琴線の在り処を知りたい。 <Youtube> 【書道古典・蘭亭序】書いたのは○○?【王羲之?】 <note> 【王羲之伝説!?】と20個の「之」を眺める
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息子の調子がなんだか変だったここ2~3週間ほどだが、その嵐は過ぎ去っているように思える。
イレギュラーを好まない彼の性格は仕方がないとして、イレギュラーを意図的に日常に組み込んでいくのが良いだろうと思う。 たぶん。 ところで数か月前、連日ゲーム機のswitchばかりやって風呂に入らないという理由でお母さん(私)が激怒し、彼からswitchを取り上げていた。 見えるところに置いていたのだが、数か月間彼は自らswitchを触ることはなかった。 よほど私が怖かったのか、私に嫌われるのが嫌なのか。 時折会う小学生の姪たちのswitchを見て大興奮しても、家のswitchをやりたいと言い出すことはなかった。 その姪たちが「スイカゲーム」という安くて流行りのゲームをやっていて、私がそれにハマってしまった。 それを見た夫が家のswitchで「スイカゲーム」をし始めた。 もとよりswitchは夫のものであるのだが。 これを機に、息子にもう一度switchを解禁することにした。 またswitchから離れなくなって怒るのも疲れるので、息子と契りを交わすことにした。 互いに正座して向き合って座り、「いいですか、このゲームを渡します。一日一時間です。守れますか?」と問う。 息子は一時間という時間がどれほどのものか分かってはいないが、制約が課せられたことは理解していて、「はい」と言った。 「守れなければまたゲームです。分かりましたか?」「はい」 二人して土下座のようなことになった。 ついでにもう一つ、最近最も手を焼いている療育施設での態度についても、「療育に行ったらお勉強できますか?できなければゲームは無くなります」というのも付け足した。 こういった交換条件というのは軽い脅しのように思えてあまり好まないと思っていたのだが、もうやむを得ない。 ここぞとこちらの言い分を聞いてもらおうではないか。 まあでもしかし、実際に一時間というのは適当なものでもっと長くやっている。 頃合いを見てタイマーをかけて鳴らすのだが、息子はすんなりとswitchを引き渡してくれた。 初日も二日目も三日目も。 そして今日療育の日。 どうしようもない態度で暴れまくっていたここ2、3か月で、今日も出だしには部屋に入らないとか靴を脱がないなどの嫌がらせを発動していた。 私が「ねえ、ゲーム・・」と怒った顔で言うと、すんとなり、今日は何とか全体をとして真面目に取り組んでくれた。 4月の初日で担当の先生が変わったというのも良かったのかもしれない。 ゲームの威力恐るべし。 お字書き道TALKSリニューアル! 書道家インタビューでゲストとしてお越しくださった板谷栄司with鯖大寺鯖次朗氏がなんとレギュラー参戦!! 是非ご視聴ください^^ <YouTube> 【元祖美文字】書道大古典をポップに鼎談「九成宮醴泉銘」-#073 <note> 【もしや丸文字のルーツ!?】難道開通!万歳!摩崖刻『開通褒斜道刻石』 悲しみと憤りの『祭姪文稿』。臨書は何を写し取るべきか 祖父母の法事でひと月に2回も帰省することとなった。
息子が生まれてからは、だいたいいつも金曜の午後に出発して日曜の夕方に東京に戻っている。 ひとり身だった頃は、用のある当日に帰って、翌日の午前中に東京に戻ってきたりしていた。 今は少しでも、息子を見る目が多い方が良いと思っている。 金曜日の朝、息子に「保育園に行って給食食べてお昼寝したらお迎えに行って一度マンションに戻って荷物を置いてそしたら電車に乗って乗り換えて新横浜に行って新幹線ひかりスーパーエクスプレスに乗って豊橋まで行ったら東海道線で蒲郡まで行くよ!」と早口で滔々と何度か話しておく。 言い聞かせ納得させておくことは、今の息子にとって重要なことである。 今回は説明の通り、道中始終スムーズに地元蒲郡までたどり着くことができた。 ついでに、夜ご飯は焼き鳥屋の「鳥貴族」に行き唐揚げとポテトを食べることも伝えていたので、居酒屋にもスムーズに入ってくれた。 前回来たとき、鳥貴族に行くことは伝えておらず、けいこの家に直行するものと思っていた息子は大激怒して大変だった。 私も過去の失敗を活かしてできうる対応を取るが、如何せん息子は日々常に何かしら成長を遂げていて、つい先日のケースが全く当てはまらずに対処法をとったにも関わらず惨敗することもある。 だから、対処法を適切に遂行するのかどうかさえも対処法として怪しいと言える。 今回は、行きの道中に関しては成功したものの、おそらくそれは彼の中でも何度もしている体験だったのでイメージしやすかったというのもある、かつてない大癇癪にも見舞われた。 お坊さんが来てお経をあげていただいた後、会食場に移動するべく貸し切りのバスに乗る予定だった。 それまでごろごろとタブレットを見ていた息子は、途端に皆がバスに乗り始めてざわついたことに一気に気分を崩してしまった。 「バスに乗らない!!!!!!ぎゃーーーーー」とは言ったが、乗るほかないので、私がびちびち跳ねる息子を抱きかかえてバスに乗車。 それでも息子のパニックは収まらず、バスの中で這いずり回り、逃げる息子と引っ張る私で大勝負。 ひと昔前はスーパーやおもちゃ売り場でこのような光景をよく見かけたものだと思うが、最近は本当にあまり見かけなくなった。 先日も同じような癇癪を渋谷駅で数十分間やったが、同じことを思っていた。 現代の子どもは性質が大人しくなったのか、親や社会の制圧が効いているのか。 そういう癇癪は本人含め当事者たちにとって全く好ましいことでは全くないのだが、少しの微笑ましいことも無くもない。 全力で泣き喚く子どもを、私と夫は結構笑ってしまうことも多い。 まあその場合は私も夫もいて、人的時間的に余裕がある場合に限るが。 法事会場に着き、それでもまだ暴れている息子に私も激怒し、「お店に入らない!!!!」と言うので少しだけそのあたりを散歩することにした。 私に抱っこされ、皆がいなくなったら息子は落ち着いた。 ほど近くにかつて父の葬式を行った会場があったので、「おじいちゃんはここでお別れしたんだよ」と言うと「してない」と天邪鬼な答えが返ってきた。 しばらく歩いてなだめて、お店に行くことを納得してもらった。 息子が癇癪を起こしているとき、子どもらしさに笑ってしまう一方で、自分の過去を思い出してとても切ない思いになったりもする。 なぜ癇癪を起しているのか、根底には人に分かってもらえない淋しさがあって、やりきれないのだと思う。 だけれど、私が思うに、その淋しさと言うのは、ある程度は誰かが向き合うことで埋められても満タンにはならない類のものである。 それは仕方がない、とその淋しさを自ら背負う覚悟が決まるまでは、きっといくつになっても色々な形で癇癪的なものを起こすのかもしれないと思う。 幼いうちは、自らの思いの分析さえもできないから大変である。 その意味で大人になることは良いことだと私は思っている。 <YouTube> 自分のメモ読めないことある?これからの手書き談義 <note> 悲しみと憤りの『祭姪文稿』。臨書は何を写し取るべきか 3月はべらぼうに忙しかった。
気を揉んでいた。 傍から見ればそんな風には見えないかもしれないけれど。 いつも通り16:56に息子を保育園にお迎えに行き、近くの公園に寄る日は10分ほどのタイマーをスマートフォンでセットする。 時計やタイマーが好きな息子は、意外とそれで帰る気になってくれる。 保育園と自宅はとても近いのだが、彼のルーティンをいくつか行うので5分の道のりも最低15分はかかる。 大体17:30頃帰宅。 帰宅したら、まず息子に汚い靴下を脱ぐよう促し、自分の上着を脱ぎ、保育園用具の荷解き。 風呂掃除のスプレーを振りまき、こすらないで良いと書いてある、その間に息子の脱ぎ捨てた上着や自分のリュックを片付ける。 息子はタブレットを好きに見ている。 何だか物足りない日は、私はワイヤレスイヤホンで耳をふさぐ。 Amazonオーディブルで今聴いているのは養老孟司「バカの壁」、その続きを聴きながら家事をする。 オーディブルのポイントは「身につけよう、出来る限り理解しよう」をやめることである。 夕飯の支度をする。 以前は朝や昼に仕込みをすることもあったが、最近は夕方の2~30分ほどがすべての調理時間だ。 唐揚げの肉を漬け込むのもこの時間で十分である。 今夜はその唐揚げ。 息子が好んで食べるので、週1回は唐揚げである。 ビニール袋に入れた鶏肉をしょうゆと砂糖と酒、にんにく生姜のタレに漬けて揉んでおく。 3品作れば良いと思っている。 納豆とトマトとしめじとパクチーを合わせて、昆布だしと醤油で味付け。 今日は昨日の残りの鯖のトマト煮があるので、これで終わり。 風呂洗剤を流して、自動の風呂ボタンを押す。 息子の食べるごはんを温めたり、机に皿を並べたり。 通信指導の方の宛名書きをしたりなど、この時間で出来ることをする。 そのうちに「お風呂が沸きました」と機械音声が聞こえる。 タブレットに夢中の息子に「呼んだらすぐ来てよ!」と釘を刺し、私は先にお風呂に入る。 「来て~~~!」と息子を何度か、何度も呼ぶと、裸ん坊になってやってくる。 自分で服が脱げるようになって、言葉を理解して、風呂まで一人でやってくるのだ。 素晴らしい成長である。 息子を洗って、お風呂でいちゃいちゃして。 風呂から上がった、息子に皮膚薬を塗りたくって服を着せる。 皮膚は基本の作りが横の皺になっているので、横に塗り込むと良いと薬剤師さんに教えてもらった。 息子はまたタブレットに戻ってゆくので、私は息子のごはんを準備する。 唐揚げを揚げて、はさみで小さく切ってお出しする。 息子は片手間に「ありがとー」と言ってくれる。 18:40、夫が帰ってくるとか遅くなるとかの連絡が来る頃。 帰宅想定時間によっては私は夕飯を先に食べることもある。 夫に先に食べていてと言われることもあるし、私もお腹が空くからだ。 19時過ぎ頃夫が帰宅し、風呂に入り、洗濯機を回す。 夫も食事にありつき、少し会話をする。 平日にお酒を飲むのは基本的には私だけだけれど、夫は根本が大酒のみなので、1週間の総量は変わらないのではと思っている。 それぞれネットサーフィンなどをしつつ、私はやらなければならないことがあればPCに向かう。 ちょっとだけ、息子をかわいそうに思ったりもするけれど。 遅寝の息子は22時くらいまで余裕で起きている。 寝ない、食べない、そういう可愛い子である。 平日のルーティン。 <YouTube> ⇒【有名飲食店の筆文字ロゴ】推しロゴ、ある?「土間土間」「ラーメンつじ田」「しゃぶしゃぶ温野菜」「回転寿司みさき」など#069 ⇒本嫌い!!散歩しながらひと月1冊生活!【オーディオブック】-#070 ⇒【司法試験に革命】3日間で4万字廃止!?【さよなら手書き...】-#071 相方タナカのジャズチャンネルに参戦!(もうすぐチャンネル登録者数1000人!) 書道家にメロディの作り方を話してみた!【ジャズに役立つリズムフィギュアの話】 <note> ⇒【元祖美文字】美味しい水が湧いた!石碑を建てよう!『九成宮醴泉銘』 ⇒酔っぱらいの下書きが1700年後も最高峰!?書聖・王羲之『蘭亭序』 ⇒悲しみと憤りの『祭姪文稿』。臨書は何を写し取るべきか 現在、アートフェア東京を開催中である。
アートフェア東京は毎年有楽町の国際フォーラムで行われる。 画廊やギャラリーと呼ばれる美術品を扱うお店が一挙に集い、数寄者やお金持ちがそれを目当てにやってくる大規模な展示会である。 展示会は最新の現代アートが多いが、例えばピカソなどの有名どころや、所謂骨董などもある。 ここ数年の私は美術品全般を観るのは非常に楽しく、怒涛の展示を行われるというのだから是非とも観に行きたい。 去年も一昨年も出向いている。 一般入場料が確か3000円だったと思うが、出展ギャラリーで買い物をした人などは招待券が送られて無料で入ることができる。 昨年、浜田浄さんという抽象絵画の画家の絵を買った友人が、私の分の招待券まで用意をしてくださった。 しかも、VIPのみが入場できる初日の特別観覧である。 入場時間の予約制となっているが、国際フォーラムの入り口は長蛇の列。 と言っても、10分も待たずに入ることができた。 中には、普段お見掛けしないような人種の人々が沢山目を光らせていた。 「人種」というのは、黒人白人黄色人種、などと使われるが、ある程度思想や嗜好やファッションや生活ぶりが似ている「人種」というのも分類可能なように思う。 「個性的である」という主張は、時に「個性的であると主張する人々」と括ることができる。 そして彼らの見た目や言葉遣いなどは非常によく似ているものだ。 もちろん調査したわけでも研究したわけでもないし、ともすれば私もそれとは「別の主張をしている人々」というジャンルに括ることもできるだろう。 いやしかし、大量の絵画や陶芸や彫刻などを見ながらすれ違う人々は、その洋服はどこで買えるのか、と単純に疑問がわくような、生地と仕立てがすこぶる良さそうなものをお召しになっている。 無論、服も、絵画や陶芸や彫刻などと同じ創作物である。 絵画や陶芸にばかり目が行く私は、本物の数寄者とは言えないのかもしれない。 アートフェア東京の出展ブースは数十あって、全部観て回るだけで大変なことである。 観たいところから順に、ざっくりと一周観て回る。 絵画や彫刻を観ていつも思うのは、「書道は工夫や書ける労力が足りない」ということである。 美術品全般、もはや、やり尽くされた技法、考え尽くされたコンセプトと共にあると言って良い。 それが多くの批評家、蒐集家、画商などに晒され尽くされている。 論文や分析の数も計り知れない。 歴史に残るもの、現代において目が出るものは、それらをくぐり抜ける意味のある美術品ということになる。 一方で書道は、現在も西洋美術とは認められていない。 それを西洋美術に乗せようという動きがここ数年である書道家の集まりにおいて勃興しているが、あまりにも壁が高いのではと私は感じている。 もちろん、そうなって欲しくないということではない。 私も、書道というものが、もう少し理解されたり分析されたりなどする”美術”になれば良いと心から願っている。 しかしながら、書道にはそれをやらない人で見る目がある人がほとんどおらず、分析家もまた同様にほとんどいない。 そのせいなのか、書道家は古典や書道団体の内輪に引き留まるのみの存在になっている。 私は、西洋美術へ食い込む前に、書道は書道としてもっと模索することがあるのではないかと思っている。 それは難しい話では全然なくて、例えばだけれど、「マジックを使った硬筆の書道」とか「色を使った書道」などを専門としている書道家さえ存在しないという事実がある。 「マジックを使った硬筆の書道」「色を使った書道」をやるべきだという話ではない。 そういった誰にでも思いつくようなアイデアでさえ試されていないような閉鎖的な世界なのだ。 書道は書道という範疇の中で、もっと言えば、抽象ではなく文字を使うという元来の縛りでも今までに見たことがない画面を私たちは見ることができるのではないかと思う。 その模索をすべきなのではないかと思う。 などといつも考えていることだが、アートフェア東京でも思ったのだった。 小津航さんという私よりも5,6若い画家さんの林檎の絵が欲しい。 月2万円のローンを組んだとして、2年くらいで変える。 アートフェア東京の中ではかなり安い。 <YouTube> 【有名飲食チェーン】筆文字ロゴ全て語りつくす!大物元テレビマンゲスト回】with板谷栄司with鯖大寺鯖次朗-#068 <note> →論文手書きが廃止!?日本最難関士業「司法試験」がCBT化へ →【リアルイベント告知】いけばなと墨流しの体験(2024/3/20(水・祝)24(日)明治神宮前) 今年はうるう年である。
今日は2月29日である。 食料品や日用品を買うのはほとんど私の役目で、その家計費を私が握っている。 月の予算を決めていて、それを30で割った金額をおよそ一日で使える金額としている。 日割り目標を持って、それが達成されていれば2月は余裕が出るし、31日ある月は足が出る。 ちなみに、月の予算は家族三人分の暮らしでカツカツな設定である。 ここ最近の物価上昇に伴い、家計が逼迫していることを夫に大げさに嘆くと、夫が出してくれたりする。 もう少し予算を上げれば良いのだけれど、まあこれで良いのだと思う。 最近は繰越金もほとんど出ないのだが、繰越金が出た月は次月に繰り越すわけではなく「おへそくり」と書いた封筒に貯金している。 こんなところに書いているくらいなので、特段秘密事項ではない。 今月は少し繰越金が出そうなので、週末に実家に帰る費用に一部充てさせてもらうことにしよう。 さて先日。 私が新卒で入社した会社の同期会なるものが催された。 私が大学を卒業したのは2007年。 就職活動がすこぶる下手だった私を採用してくれたのは、当時イケイケのIT系の会社であった。 WEB制作、広告、映画製作なども手掛ける会社だった。 ちなみに現在は買収されてその会社はなくなっている。 同期は67人もいて、本当に皆うるさい奴らだった。 67人もいるとゆるやかに、そして強固に、グループができていった。 私は昔から、何も示し合わさないのにいくつかのグループが組まれていく様がとても苦手だった。 しかしながら無論1人でいることもできず、どこかには所属しなければならないプレッシャーと、所属しないグループのスタンスや価値観に気圧されるのが嫌だった。 また、所属するグループでは所属グループのアイデンティティも自らのものにしなければならないような空気も嫌だった。 まあそれもこれも、誰かが悪いわけでは全然なく、私が勝手に抱く被害妄想のようなものだけれども。 しかし、会社はもちろん仲良し会ではないので、自らの仕事を得て邁進することによって、同期とのやりとりも幾分学生時代よりは楽に感じた。 それに、若手のIT会社の合併分裂スピードは目まぐるしく、同期は皆年を追うごとに散り散りになっていった。 私は新卒入社の会社を早々と2年半で辞めたのだが、その後かつての上司が起業したベンチャー企業で少し働いたりしていた。 そこに数人の同期メンバーがいたりなどしたが、10年ほど前にはその会社も辞めて書道家として独立したので、その後はほとんど連絡を取っていなかった。 「同期会をやるよ」と連絡をもらって、「あぁ行かないかな」と思ったのだけど、なぜ自分がそんな風に拒絶を即決しようとするのかが引っ掛かった。 私が思い至ったのは、かつて抱いたあのグループへの違和感には、そもそもグループへの憧れのようなものがあったからではないのか、ということだった。 私だって心の底から彼らと仲良く楽しみたかったのではないか。 あぁ、ならば行ってみたいかもしれない。 不意にこのことを相談した方からは「2杯ひっかけてから行けばよい」とアドバイスをいただいた。 夫の帰りを待つ間に本当に2杯の焼酎ハイボールを家でひっかけた。 いざ。 会場に着くと、ノリの良い同期がワイワイと話していて、途中参加の私も温かく迎えてくれた。 そうだ、この感じ。 かつて私が所属していたグループの子はおらず、適当な席で、近況などをお喋りした。 22歳から39歳、17年の時が過ぎていたが、案外皆その姿は変わりが無かった。 ベトナムで起業し大社長になっている同期もいれば、転職した先で元々上司だった人を部下に従えている出世頭の同期もいた。 5人の母になった同期はその場には来られなかったけれど、ビデオ電話をつないだ。 ユーチューバーもいれば、沖縄に移住した同期もいた。 そして私は書道家になったし、母にもなった。 一次会、二次会、そして三次会。 帰宅したのは朝の5時半過ぎだった。 また同期会があるなら行くだろうなと思った。 企画者はたいそう骨が折れたことと思う。 感謝である。 <YouTube> お酒の筆文字ロゴを見てあれこれ喋ろうwith板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 しょうゆや老舗和菓子の筆文字ロゴを見てあれこれ喋ろうwith板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 <note> 【リアルイベント告知】いけばなと墨流しの体験(2024/3/20(水・祝)24(日)明治神宮前) 三浦しをん「墨のゆらめき」を聴いてみた【Amazonオーディブル】 今年の初め、もう少しブログの更新頻度をあげようとか何とか言っていた気がするが、あれよあれよと日が過ぎる。
あれよあれよ、だ。 あれよあれよ。 三連休、小中学生だった頃、サラリーマンだった頃には待ち望んでいた。 高校時代は土日も部活に明け暮れていたし日々が楽しかった記憶があるのでそんな感じはしなかった。 大学時代はもはや三連休の意味がよく分からないほどに休みだった。 今は三連休は少々気が重い。 私は休日に仕事もあるが、その間は息子を夫に任せることになり、その重荷感を思うのも多少心が苦しい。 また仕事が休みであれば家族3人で出かけるなどするのだが、基本的には息子の行きたい方向へとほとんど任せて進むため、電車に乗りに行くことが多い。 各駅停車などに乗って、ひたすらに電車に乗るのはまだ良いのだが、先頭車両で進行方法を見るために抱っこし続けるのは辛い。 彼は地上を走る電車に限らず、地下鉄の暗闇も進行方向を見たいと喚く。 彼が楽々運転席越しの窓を覗ける身長になるにはあと何年かかるのだろうか。 ちなみに、和光市から元町中華街まで延々と乗り続けて往復したこともある。 暇なのに、スマホを見ることも、オーディオブックを聴くことさえもかなわないのが、子連れ移動の悲しいところだと常々思う。 しかし私は、息子に対して何かしら偏りのある人間に育ってほしいと思っている節があって、熱中できる好きなことを極力妨げたくないという思いがある。 電車好きなどはいて捨てるほどいるが、何であれそれを好きなだけ堪能・追求できるのは、この世に生まれてきた大きな喜びの一つであろう。 もちろん親の都合にも合わせて、息子の好きを妨げることも多々あるが。 友人の息子さんが一時黄色にハマって、全身靴下や靴まで黄色のものを身につけていたことがあるのだが、そのブームが過ぎ去ってしまって友人はやや悲しく思ったそうだ。 それは私の偏りのある人間に育ってほしいという思いと同じのようで、たとえそれが今何の役にも立たず、その上将来何の役に立たなかったとしても、自分の好きなものを自分の思うようにこだわり続けられる人であってほしいと願うからだ。 ある見方をすれば、人と違うなんてことはそうそうないものだ。 個性的な芸術作品を作ろうなんざ、どれだけの人と比べてどれほど異なることが成せるのか。 そういう意味ではちょっとくらい変であってほしいし、ちょっと変であっても何にもならないのだ。 ならば、熱中できるものがあるその幸せを幼い頃から存分に嚙み締めてもらいたい。 しかしながら、言わずもがな私自身が熱中できるものがある幸せな人のひとりであって、それは他人の世話とは相容れない。 私自身の喜びに向かって、息子を放っておいてしまっていることも日常に多々あるだろう。 人間関係とは、親子であっても難しいものである。 三連休が終わる。 元気に保育園に行ってくれることこそが、日常の平穏の源である。 そして、息子は、一点の曇りなく、とってもとってもとっても可愛いのである。 ※春のいけばなとのワークショップの募集が始まりました。 <花と書の春のワークショップ> 3月20日(水・祝)と24日(日)の10時または13時から、明治神宮前にて <YouTube> しょうゆや老舗和菓子の筆文字ロゴを見てあれこれ喋ろうwith板谷栄司with鯖大寺鯖次朗-#067 お酒の筆文字ロゴを見てあれこれ喋ろうwith板谷栄司with鯖大寺鯖次朗-#066 <note> 三浦しをん「墨のゆらめき」を聴いてみた【Amazonオーディブル】 老舗お菓子店の筆文字ロゴまとめ(其の参) Amazonの聞く読書、オーディブルを活用し始めて数か月が経つ。
使用にはムラがあるけれど、今のところ月額1500円を解約しようとは思っていない。 再三にわたり書いてきたが、読書コンプレックスの私にとって、本というものにどんな形であれ触れていられるのは嬉しいことだ。 未だ小説には手が出せないでいるが、エッセイや何かしらの学術本などをざざざっと聞いている。 この、ざざざっと聞く、ということが肝だ。 私が本が苦手な理由のひとつに、一々表現方法が気になってしまうという点がある。 作者はこんな言い回しをするのか、良いなあ、なんて思っているうちに頭が本の内容から離れてしまって、ついでに、いつもは気にならないサーキュレーターの音が気になったり、乾いたバスタオルを片付けたりし始めたくなってしまう。 本物の読書の場合、もうここで終了なのである。 しかし、オーディブルの場合、自動で読み進めてくれるため前進力には事欠かない。 もちろんオーディブルで聴いていても、他のことが気になって聞いていなかった、という事態は多々起こる。 それでもこちらがストップボタンを押さない限りはその読みを止めてはくれない。 オーディブルを始めたときはそのことが気になっていたのだが、だんだん諦めもついてきて、本を「読まないよりまし」「聴かないよりまし」というくらいで付き合えるようになってきた。 私はオーディブルで聴いた本の何パーセントを理解しているのか、ほんの数パーセントのように思うが、それでも良いのである。 それに、今のところ苦労して聴いているわけではなく、「本の続き聴きたい!」と極めて能動的な状態であれていることも好ましい。 言葉の端くれ、知識の端くれ、本の印象、読み手の声の印象、オーディブルというサービスについて、そんなものが断片的に私の中に入ってくればそれで充分である。 実際に、聴いた本の内容を要約してそれを知らない他人にお勧めする、というような行為は難しくても、「砂糖は薬として用いられていたんだって」(『砂糖の世界史』岩波ジュニア新書)のような一文だけ会話に取り出せれば十分なときもある。 そして、その端くれを端くれのまま頭に置いておくことができれば、次に別の端くれがやってきたときに稀にその端くれ同士がくっついたり共鳴したりすることがあるものだ。 端くれをただの端くれとぞんざいにしてはいけない。 端くれを端くれとしてただ持っていることが、自分なりに社会という大海原を航海するということに他ならないのではないか。 ところで、今聴いている、ダ・ヴィンチ・恐山こと品田遊氏の「キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々」という本が至極面白い。 私はインターネット上で活躍する恐山さんの大ファンなのだが、その彼の日記、短文集である。 彼に共感を抱く私は、自分自身の変さについてお墨付きをもらったような気分になる。 自分が”変”であることに懐疑的であるが、やっぱり”変”なのかもしれなくて、”変”に憧れてきた私にとってちょっと嬉しいことなのである。 彼は真面目で、謙虚で、鋭くて、機知に富んでいて、良いことを言う。 この後の電車移動でも続きが楽しみである。 <YouTube> 《ショート動画》ヒポポタマス AIド素人でも楽しい!書道家もAIを使ってみる <note> 有名飲食チェーン店の筆文字ロゴまとめ(其の弐) 去年私を熱狂の渦に巻き込んだヤフオクであったが、今はメルカリも併用している。
そして、買う側だけでなく、売る側にも参戦してみている。 ヤフオクって何、メルカリって何、というのは以前の私も同じだったので説明しておくと、要は素人でも参加できる中古品売買サイト、フリーマーケットである。 ヤフオクとメルカリの大きな違いは、ヤフオクは基本がオークション形式の入札制で値段が上がっていく、メルカリは決まった価格で早い者勝ちで即売されることである。 メルカリは値下げ交渉もできる仕組みで、気軽に希望価格を登録できたり、直接コメントで交渉することも可能なので、ヤフオクは始め値から上がる仕組み、メルカリは始め値から下がる仕組みの違いと言っても良いかもしれない。 これまでに、本棚2つ、紙を置く棚2つ、イス4脚、花瓶2つ、水差し2つ、フリーカップ2つ、グラス2つ、大きなクッションなど、書き出してみればかなりの数のものをヤフオク・メルカリで買ってきた。 どれも気に入っていて、インテリアの決め手になっている。 売ったのは、息子のサイズアウトした服数着、使っていない花瓶1つ、ワンピース1着、マグカップ1つ。 やはり有名なブランドの名前が付いている物は売れやすい。 送料を入れれば儲けは300~1500円くらいなものである。 一番最初は、品物と段ボールサイズを確認せずに出品して赤字になってしまった。 時間も手間も取られるので、どこまで売る側をやるかは考えものだ。 まあ売るものがそんなにないので、長くは続かないだろうけれど。 しかし、売り手がいて買い手がいてインターネット上でやりとりをして実際に物が運ばれていく、そんなことの体感が初めてで新しい気持ちをいただけている。 こんなネット上のフリーマーケットサービスが無ければ出会わなかった人たちが、物をやりとりを通じて、ほんの少ない息吹だけれど、そんなものまで送られる。 丁寧な人は梱包に「Thank you」のシールが付いていたり、手書きのメッセージが入っていたりもする。 私も、筆ペンで「ご購入ありがとうございました。またご機会ありましたら宜しくお願いいたします」と添えることにしている。 そして、これらフリマサービスの優れた点は宅配の簡便さにもある。 郵便局、ヤマト運輸と提携していて、双方の住所を記入する必要がない上に、双方の住所を明かすことなく送ることができる。 伝票はアプリのQRコードを読ませるだけで、店頭での支払いの必要もない。 郵便局、各コンビニから発送できるので、届くのも早い。 そしてなんと、全国一律の料金で可能なのである。 その上、それも通常の料金よりも少し安い。 実に良くできている。 あと、エコ的観点からも良いと思っている。 誰かが使わなくなった物を、双方が合意する値段で交換して、またその物を誰かが使う。 物は変わらないまま移動して、生き続ける。 エコだからとエコバックを大量生産するようなことが私はとても嫌いで、エコしたいのであればある物をそのまま使うのが一番だと思う。 まあこのことは、規模などを含めやり方次第とも言えそうだけれど。 物を売る、サービスを売る、ということはそんなに簡単なことではない。 けれど、その入り口として、もう少し息子が大きくなったら、このフリマサービスをちょっとやらせてみたい気もする。 <YouTube> AIド素人でも楽しい!書道家もAI画像生成を使ってみる <note> 有名飲食チェーン店の筆文字ロゴまとめ(其の壱) 息子の通っている保育園から依頼があって、パフォーマンス書道をやらせてもらった。
パフォーマンス書道というのは、観客の前で大きな紙に大きな筆でその場で揮毫するというもの。 きらびやかな和装をしたり、音楽を流したり、立った状態で壁面に書くといった演出もあるだろう。 実は、パフォーマンス書道の依頼は、私も何度か受けたことがある。 企業の新年会の催しだったり、ショッピングモールの小さなステージの催しだったり、地元から声がかかることが多い。 私はそれをことごとく断ってきた。 理由は、慣れておらず、簡単にできることではないから。 パフォーマンス書道は、普段はウクレレの奏者が、ギターのステージ演奏をお願いされているようなものだ。 それを全くやらない人よりはもちろん全然できるだろうけれど、そのクオリティは本人の納得には到底達することはできない。 ちなみに普段は人物を撮っているカメラマンさんが言っていたが、何か物を撮ってほしいという依頼は場合よってはお断りすると言う。 それはやはり、人物撮影と物撮りは全然違うから、という理由らしい。 プロのカメラマンは何でも撮れる、と私でさえも今まで思ってしまっていたのだが、申し訳なく恥ずかしい気持ちになった。 眼科のお医者さんにお腹が痛いから治してくれ、と言ったら眼科のお医者さんはきっと困ってしまうだろう。 「医者」というだけで眼前の医療が満足にやれるわけではない。 映画評論家にこの絵画の評論を頼む、と言ったら映画評論家は狼狽えるだろう。 「評論家」というだけで他ジャンルの芸事の評論が可能なわけではない。 もちろんそれらの専門家は、全くのド素人よりは数倍そのことに秀でていたとしても。 各プロフェッショナルはたいていの場合、狭小な専門範囲で生きているものだ。 と言うことで、普通の書道の作品を書くこととパフォーマンス書道は全然違うので、今まで一度も依頼を受けてこなかった。 しかし、何事も誰しも初めてというのはあるのだから、パフォーマンス書道の世界に足を踏み入れるという選択はできたはずである。 それでもやってこなかった。 それは自信が無かった、というのと、もう一つ、パフォーマンス書道なんて邪道だという意識もあったように思う。 書作品というのはパフォーマンスで創るものではない。 例えばパフォーマンス書道で書く前に祈りを捧げたりすることがあると思うが、それと書作品の出来栄えというのはほぼ関係が無いはずだ。 祈る行為は、ある書き手の精神統一の一つだとしても、多くの書家が祈りを捧げてから書くなんて聞いたことはない。 祈る時間は練習にあてた方が良いと思う。 書作品そのものに関わること以外のパフォーマンスは、その現場にいる観客を楽しませるために行うものだ。 私はそのパフォーマンス書道を否定しているわけでは毛頭ない。 観客が楽しんでくれるなら、美しい着物を着て、雰囲気の良い音楽を流し、壮大な生け花を飾り、10秒くらい祈りを捧げ、筆を振りかぶって大いに墨の飛沫を飛ばした方が良い。 やるならば、期待されるその役目を果たすべきだ。 とまあ、御託を並べるのはいくらでもできるのだけれど、今回、子どもたちの前でなら良いかな、とふと思い立った。 なぜか、やってみたい、とさえ思った。 やるならば、と気合いも入った。 木工用ボンドと墨汁を混ぜたボンド墨を使い、模造紙に書くことにした。 大きな書道用紙も持っているが、つるつるした洋紙の方が、ボンド墨の良さが出やすい。 100円ショップで模造紙を買い込んで、練習を重ねた。 文字のレイアウトを決めて、筆に墨を付ける箇所まで全て周到に計算した。 練習時期に来た生徒さんには、観客になってもらって本番通りに書くのを見ていてもらった。 本番、子どもたちが騒いだり走り回ったり邪魔しにきたり、そんな騒がしい環境でやることを覚悟していたのだが、皆水を打ったように、書き始めから書き終わりまで静かに食い入るように観てくれた。 心配していた息子も、皆と同じように椅子に座って私を見つめてくれた。 園に飾ってくれるという話だったので、家で書いた最も出来の良いものを持参していた。 本番で書いたものとその場で見比べて、やはり家で書いたものの方が良かったので、そちらを飾ってもらうというちょっとしたズルをした。 楽しかった。 早稲田大学の嘱託書家だった渡部大語さんのインタビュー後編が上がっていますので、是非ご視聴ください↓↓ <YouTube> 【書道家対談Vol.6 渡部大語】(後編)早稲田お抱え書家から現代アート作家へ <note> 現役書道家プロファイルVol.6【渡部大語】 さて息子が元気になったのは良いのだけれど、彼はまた痩せてしまった。
病気になる度に1キロほど痩せて、半年くらい前の体重に逆戻りしてしまう。 夫の体重からすれば1週間で5,6キロダイエットしたことになる。 今回のインフルエンザで彼が熱々チンチンになっているとき、彼のお腹を撫でると熱で身がそぎ落とされていくような感じがした。 高熱が引いていったあと、彼を抱っこすると明らかに軽くなったのが感じられる。 一緒にお風呂に入れば、ウエストにくびれができているほどだ。 一方で、2歳半の姪がいるのだが、彼女は本当によく食べる。 食べることへの執着心が物凄く、フートファイターのように真剣な面持ち食事に取り組み、目の前の食べ物がなくなると怒りを露わにする。 チョコレートソースのついたお皿をベロベロと舐め、食べ物に関する言葉をより早く習得している。 彼女は私には全然懐いていないが、食べ物を持っていれば物欲しげな顔をして私の元にやってくる。 息子と姪を見ていると、食べ物への興味の有無もあるが、大きな違いは嚥下能力かなと思いあたる。 思えば息子は1歳3か月くらいまでドロドロの離乳食しか食べられなかった。 例えばみかんの薄皮、ごく薄いものなら良いが、少しでも厚ければおえっとなってしまう。 おえっとなるのが嫌で、それ以降食べなくなってしまう。 彼が納豆を好むのはのど越しが良いという理由もある気がしている。 姪は、口に詰めすぎてちょっとおえっとしても、絶対に吐き出さず、うまいこと呑み込むらしい。 食べるのもとても早い。 まだ歯が生えそろっていないうちからそうだったらしいので、生まれつきそういう身体なのだ。 天性の嚥下能力を持つ姪と、脆弱な嚥下能力の息子。 そのうちに2歳も差がある子に体重を追い抜かれてしまうのではないかと心配になる。 ふくよかで良いなあ、ほっそりしていて良いなあ。 太っていて嫌だなあ、痩せていて嫌だなあ。 いつだってどちらの見方もできるけれど、生まれ持った性質というのは変えがたいから、自分の身体と上手く付き合っていってもらいたいものだ。 息子は今は食欲も戻り、昨日はご飯のあと、オレオを食べまくって歯を真っ黒にしていた。 元気が一番、と月並みだけれど、本当にそう。 <YouTube> AIに考えてもらった人生の格言を書道で書いてみた 【漢数字だけで作られた和歌】「八万三千八」なんて読む? <note> 現役書道家プロファイルVol.6【渡部大語】 禅の書「墨蹟」上手くない下手でもない新しい書(白隠とか) 保育園に息子を迎えに行くのはいつも決まって16:55。
17時までに降園の打刻をしないと追加料金となってしまう。 時に走ってお迎えに向かう。 私は息子の園の様子を少しでも見たいと思って教室の外から静かに息子を探す。 でも息子は即座に私を見つけて、やっていた手元のことを放ってこちらに走ってくる。 お迎えの時の彼はまるで犬のようだ。 私もその犬を撫で回して歓迎する。 先日迎えに行くと、なんだか青白い顔をした息子がいた。 なんか変だなと思っていたら、彼はこちらに来る僅か数メートルの距離の間で机に足をぶつけてしまい、泣きながら私の元へやってきた。 彼はいつもは、転ぶとかぶつけるとかいったことであまり泣かない。 抱きしめると頬がほんのり温かかった。 これは⋯、と思った。 日常的には頬ずりをしているとわかるが、大抵頬は冷たいものだ。 思えば、2023年の春夏に長期に渡って家族で体調を崩してから、彼は一度も発熱をすることなくピンピンしていた。 1回だけ、夜中に吐いたことがあったが、あれはなんだったのかよく分からないほどすぐに良くなった。 寒い、と震える息子を抱っこして家に着く。 かなり気温の低い日だったこともあり、願いも込めてまだ半信半疑だったのだけど、とにかく息子を着替えさせて暖かくした。 寒い、寝る、と言うので寝室に連れていく。 ブルブル震えながら「だいじょうぶだいじょうぶ」と言っている。 私がよく「大丈夫?」と言うからだ。 夜には熱々のチンチンになった。 チンチン、と言うのは愛知の三河や静岡の遠州弁で「熱い」ということ。 ヤカンがチンチンだで気をつけりんよ、ヤカンが熱いから気をつけてね、の意。 もちろんヤカンほど熱くはないけれど、人間としては相当熱い。 熱を計るのがイヤだと言うので計らなかったけれど、あれは過去の記憶からしても41度近くなのではと思う。 熱にうかされながら夜明け。 少し熱が落ち着いたなという印象で、彼の脇に体温計を突っ込むと39.7。 やはり。 生憎かかりつけの小児科は定休日で、近くの他の病院も定休日だった。 少し離れた小児科に電話をかけて診てもらうことにした。 夫も休みを取ってくれて一緒に来てくれたが、ひとりでぐったりした子を病院まで運ぶのは大変だ。 診察と検査がイヤだと暴れたが、まだまだ小さな子だ、大人には勝てない。 検査結果は本当に直ぐにその場で出て「インフルエンザA」。 仕方がないし、どうしようもない。 全身でウイルスと闘っている息子は目も充血して唇はガサガサ、疲れ切ってきてすぐに寝てしまう。 胃腸もやられているようで、お腹が痛いと顔を顰めて下痢をした。 夜中は水分を欲して10回ほど目を覚まして炭酸水を汲みに行った。 彼の常飲は甘くない炭酸水である。 また一日明けても、まだ熱々チンチン。 タミフルの粉薬とカロナールのシロップをアイスクリームやヨーグルトに混ぜて食べさせようとするのだが、通常にド偏食の彼には至難である。 宥めすかしても、半量が限界。 お互いに疲れてまた横になる。 我々両親にうつらないと良いのだが。 ホッカイロを貼ると良いとか、葛根湯が良いとか、信じてやってみるしかない。 息子は誰かに触れていないと不安なようで、べったりと張り付いてふぅふぅ言いながら寝ている。 息子の体調不良のときは、看病をしつつイヤホンをしてスマホでドラマを観る。 古畑任三郎なんかを観ている。 私たちにうつらず、息子は早く良くなって欲しい。 〈YouTube〉 AIに考えてもらった人生の格言を書道で書いてみた 〈note〉 禅の書「墨蹟」上手くない下手でもない新しい書(白隠とか) 1月7日日曜日。
と起床から振り返ってみようと思ったが、何時に起きたのかから思い出せない。 ビッグカメラに行って何と4台目のトミカ都営バスを買って、チェーンの焼き鳥屋さんで晩御飯を食べ、赤ワインとチーズを買って家で飲んだのが昨日の概略だ。 一昨日だったか、通りがかりの花屋さんで白梅の盆栽を買った。 私は植物が好きだ。 特に、芽吹きと開花がたまらなく好きだ。 そうだ、私の以前のブログのハンドルネームはtsubomiだった。 ふくふくと蕾をつけた梅の木、1300円、安い。 しかもミニチュアにも惹かれるので、大きな梅の木が卓上サイズに縮小したと思うとさらに愛おしい。 以前、同じ花屋さんで木瓜の盆栽を買ったことがある。 濃いピンク色の木瓜の花がいくつも咲いて随分と楽しませてもらっていたが、2,3日家を空けた際に雪が降ってダメにしてしまった。 それはもう5,6年も前のことだ。 花屋さんに注意事項を聞くと、梅は基本的に外のもので、室内だと開花することなく蕾を落としてしまうかもしれないということだった。 しかし今のマンションには外に置く場所がないので、できるだけ窓際に置いた。 経験上、室内の観葉植物は空気が動かないことに弱いので、洗濯物を乾かすサーキュレーターの近くに。 翌日朝、ひとつ、他の蕾よりもふくっとしていた蕾がさらにほころんで、ふわっと空気を含んで開きかけた。 夜にはその花はひとり満開になった。 満開、とは通常木全体の花のすべてが開くことを言うと思うが、ひとつでも開ききったその様は「満開」に相応しい様相だった。 また2つほころびかけている。 静かな植物の幹や茎の中で、どくどくと血が滾っている。 そんなおどろおどろしいものではないかもしれないが、間違いなく力が宿っている。 カポックもブラッサイアも、こんな季節に新芽が出てぐんと伸びてきた。 植物が動いている、そのことは今の時間に彩りを与え、未来の時間に楽しみをもたらす。 <YouTube> 【書道家インタビュー第6弾】早稲田最後のお抱え書家渡辺大語氏 【略字の世界】略字ってもう生まれないのかもしれない <note> AIド素人でも楽しい!AIでお正月らしい画像を生成してみた あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。 怒涛の年末、仕事が終わらず、実家にまで持ち込んで、泊まりに行った浜名湖のホテルにまで持ち込んで。 なんとかかんとか片付けたら年が明けた。 ブログも12月18日から書いていなかったのか。 今年はもっと短い、ただの事実の日記をブログとして書いていこうか。 しかし私は書き始めるとあれこれ脱線、派生して長くなって時間がかかってしまうので、どうしたものか。 長年のスタイルを変えてみる、というのも、吉と出るか凶と出るか何も起こらないか、それを知るだけでも無価値ということは無いだろう。 と言いながら、たぶん本記事はいつも通り、長くなりそうである。 年始早々に何だか世の中はざわざわしている。 私はお陰様でというか、運良く、災害にも事故にも遭っていない。 それは有難いことだ。 飛行機事故があった時間、実家でNHKを見ていて、ほとんど一部始終を眺めていた。 最初はさほど炎は大きくなかったのに、消防の消火活動は間に合わず、みるみると燃え広がった。 飛行機の外壁がメラメラと燃えて、躯体がむき出しになり、やがて燃え落ちていった。 壮大な火事の実験のように思えるほど、現実味が湧かない光景だった。 息子は最近飛行機が好きだ。 大好きな飛行機から火が上がっていて、少し戸惑っているようにも見えた。 「なんか、ひこうきが、かじがでているねえ」 しかし、よく分かっていない感じもあって、また陽気に遊び始めた。 地震は自然災害であり、どうしようもない面も多いけれど、飛行機事故は確実な人災であって、見ていて心が冷たくなった。 人災は起こるものだ。 人だから。 しかし起きてしまったら悲しいしやるせない。 出来ることは今後同じことが起こらないような対策を練って実践することだ。 今日は1月3日。 夫も私も息子も正月休みは今日まで。 今年はどんな年になるだろうか。 ここ2年ほど、対面で文字を教えること以外の活動も増えた。 動画制作やnote執筆、いけばなとのワークショップ、書道についての講義的なもの。 それらの活動は大変だけれど様々な人にも出会えたし、最も助かったのは私の中でのスキルアップが感じられたことだ。 「どこか前に進めている」そういう実感は、私にとって心の平安につながるものなのだと知った。 それは私の純粋な創作活動にまで良い影響をもたらしたと思う。 2,3年前には自分の書がある地点に一旦落ち着いた気がしていたが、昨年はまた新たな地平を見た気がした。 それらには小さな反響があって、私の作品の話を向こうからしてくれる機会も何度か得た。 これについてはひとつ今年に持ち越して私は期待していることがあるのだが、それには淡々とまた制作をするのみである。 あとは、気に入ったものを自腹で表具してみようか。 私は普段の幅よりも大きな仕事があるとき、準備不足の夢をよく見る。 準備不足のまま当日になってあたふたしている夢である。 実際に準備不足で困った経験は今のところないのだが、それを現実に打ち消すのは周到な準備だけだ。 本年もよろしくお願い申し上げます。 早稲田大学に2016年まで勤務されていた早稲田最後のお抱え書家渡部大語さんのインタビュー動画が上がりました。 是非ご視聴ください。 <YouTube> ⇒【書道家インタビュー第6弾】早稲田大学最後のお抱え書家「渡部大語」さん-#059 ⇒とんかつ・かつ丼チェーン「かつや」の「つ」の点は何? #058 ⇒造字聖人!文字(漢字)は誰が作ったの?-#057 <note> ⇒AIド素人でも楽しい!AIでお正月らしい画像を生成してみた ⇒【いけばなと書のワークショップ】2023年活動報告 ⇒2024年辰(龍)年!年賀状サンプル一挙公開! 企業でやらせてもらった講演のようなセミナーのようなワークショップのような「書道のはなし」も満員御礼で終えることができた。
「お字書き道TALKS」がうまくいっているかは別の指標があるとしても、このような、「文字を教える」という従来型のレッスン以外の仕事ができたのはお字書き道TALKSの活動の賜物と言っていい。 YouTube番組の書道家インタビューも年内の収録を終えた。 ちなみに次のインタビューゲストは、30年以上早稲田大学のお抱え書家であった渡部大語氏である。 渡部大語氏は、「平成〇〇年度早稲田大学入学式」とか「健康診断会場」とか「卒業証書」とか「〇〇講演会」などのあらゆる人目につく文字を書いていたという人物。 私はその頃、本当に残念ながら書道に目覚めておらず、渡部大語氏の文字をうっすらとしか覚えていない。 しかし、記憶の片隅には確かに堂々たる看板が焼き付いている。 インタビューは前編、後編に分けて二回。 前編は12月29日(金)20時に公開。 あとイレギュラーのお仕事と言えば、年末のいけばなとのワークショップ、仕事の年賀状揮毫くらいだろうか。 まだまだ気忙しい。 月曜日は療育の日。 ここ2,3週は療育教室で暴れている息子である。 何をするにも反対のことを言う、とにかく指示に従いたくない、やらないという選択肢の発見、という幼児における盛大な反抗期を迎えている。 保育園でも多少その気を見せているようだが、保育園では一人のわがままが通るはずもなく、縦割りクラスで大きな子たちもいるので、おそらくそんなに利かん坊にはなっていない。 どちらかと言えば大人しく、あまり皆と絡まずに過ごしているだろう。 しかし、療育教室では先生が1対1でついてくれるし、先生方は絶対に大きな声を出したり怒ったりもしない。 おそらくそのことも息子は分かっていると思う。 手を洗う時の台を反対向きにしたい、椅子にちゃんと座らない、床を這って進む、「よろしくおねがいします」と言われたら「よろしくおねがいしますじゃない」と言う、アンパンマンのばらばらになった体をくっつけるパズルでは頭を下に置いたりなど。 ちなみにこれまで何か月も意欲的に、楽しそうに取り組んでいた。 療育に通い始めて約1年ほどとなり、彼はあの場にようやく慣れてきたのだと思う。 そして、僕にどれだけかまってくれるのか、先生たちを試しているのかもしれない。 何せ、家でもこんなに酷い態度を取っていないのだから。 私も少し離れた場所から見ているのだが、これは何か対応策というよりはこのかまってブームが過ぎ去るのを耐えて待つしか方法がないように思う。 もちろん療育の先生方はプロなのでお任せするが、さすがの先生方も何だかしびれを切らしているようにも見える。 事前に説明、納得をさせれば上手くいくこともあるので、日曜の夜には寝る前に小声で翌日のスケジュールをお話しすることにはしてみている。 2,3か月で変わってくるのではないだろうか。 ところで、寒い。 でも、今年の夏が昨日、やっと、やっと終わった気がした。 夏の居残り、居座り、私は夏が好きだけれど、さすがにちょっとこの寒さに安心している。 <YouTube> ⇒造字聖人!文字は誰が作ったの? ⇒世界の国々の漢字表記クイズ! <note> ⇒子どもの作品、せっかくだからオシャレに飾ってみる ⇒手書き年賀状の書き方【表面(宛名書き編)】 ⇒2024年辰(龍)年!年賀状サンプル一挙公開!(2023/12/19 19時公開) |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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