毎朝、保育園へはいつも遠回りして向かう。
一日一万歩、私が歩きたいからである。 なるべく日々、少しでも昨日と違う道を通ることにもしている。 息子に新しい景色を見せてあげたい、という理由はほとんどなくて、私が昨日と同じではつまらないと思っているからである。 息子は保育園への最短ルートさえもまだ明確には道を覚えていないだろうから、どこを通ってもそれなりに新鮮なのかもしれない。 今は随分と規則的な毎日を送っている私だが、「不規則が規則」である毎日に身を置くと、結構広範囲の汎用性をもって状況対応力がつくのではないかと考えている。 至極当たり前のことだが、昨日と同じ今日は訪れない。 昨日の私は今日の私ではない。 昨日の机も今日の机ではない。 当然ながら自ずと毎日違うことが起きるのだが、その毎日の中に意図的な違和を加えることによってその場その場で対応を重ねていく。 どの物事も、かっちりきっちりとはできないかもしれないけれど、どのような状況にも強いストレスに押しつぶされることなく生きていたいものだ。 まあそれでも私の起こしている違和なんて、本当に微々たるちっぽけなものである。 紙の上で言えば、いつもの筆を使って、いつもの大きさの紙で書いているわけである。 それは、その中にも無限の宇宙があるからであって、たとえ一文字のみ、同じ大きさの紙に書くとしても無数の作品が出来上がってしまう。 また、無数の作品はできるとしても、「良いな」と思えるものができるまで時間がかかる。 だからなかなか、大きな変更をするまでにたどり着かないのである。 時々、旅行に行ったりなどしていつもの道具がない場所では、やむを得えない状況を味方につけて新しいものができやすく、それは楽しいものである。 寝る、食べる、運動する、のような超基礎的な日常の習慣も、私自身はそれほど規則的であることを望んではいないのだが、こと息子のことになると、やはり規則的な生活をさせるべきではないか、と考える自分もいる。 息子のための成長と健康を願う親の身としては、ある程度規則的な日々がやはり正しいのではないかと思っている。 もちろん、息子はまだまだ自分で身の回りの世話ができないわけなので、家族を含めた周りの人間との社会生活に合わせてもらう必要もある。 早く寝てもらうことは息子の健康に良さそうということだけでなく、私たち親の、個人時間の確保という意味も大きいのである。 保育園への送り道、ある場所を通るとたくさんの母子や父子とすれ違う。 案外保育園の送りは父子の姿も多いものである。 すれ違うだけで話しかけたりしないけれど、多分お互いにまたあの子がいたねえ、というくらいには認識しているだろう。 そう思っていたら、ある母子の母に、「あ、ねえ、前に・・・」と話しかけられた。 幾度か同じ場所ですれ違っていて、見たことがあるなとはお互いに思っていた。 児童館での身体測定や保健センターでの離乳食講習会で顔を合わせていたのだ。 「前にあそことあそこで会いましたよね!大きくなりましたね。うちの保育園はそこ。会えてうれしい。」そのお母さんは言った。 おそらく南米系の方なのだと思うが、やはりこの陽気な感じは日本離れしている。 私はそういう意味においては社交的でも明るくもないのだが、やっぱりコミュニケーションというのは嬉しいものである。 お互いに送りの時間が迫っているので、会話はそれだけだったけれど、またどこかで会うだろう。 息子も目がまんまるでまつげが長いけれど、その子はやはり外人さんらしくもっともっと目がくっきりしている。 あの坊やも大きくなったものだ。
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さてあれから息子のことについて、「感覚過敏」という新たなワードが出てきた。
保育園に偶然別の用事で訪れていたクリニックの先生から発せられたようだ。 息子の食べる姿やハイハイの様子などを見ていてくださって、それで少し気になるということになったらしい。 感覚過敏、といっても種類も度合いもものすごく色々あるだろうことが、その言葉だけで多分に伝わってくる。 私は人間だれしも発達にムラがあると思っているが、その度合いが少し大きく、社会的平均と距離が離れている場合に、ある種の病気と名前が付く場合もある、ということだと思っている。 個性、とか、特徴、とか、そんな風に呼ばれることでもあると思うが、平均からの距離が遠ければ社会生活に支障がある場合もあるだろう。 息子の場合、1歳を過ぎてもどろどろのものしか食べられないのは、口の感覚過敏が原因なのではないか、ということ。 その先生曰く具体的には、食べるときに口の中央部しか使っておらず、舌を前後にしか動かしていない様子が見られる、これは口の全体に食べ物を広げるのが嫌なのかもしれない、ということなのだそうだ。 舌は乳首を吸う動きで母乳のほかの食べ物を食べており、所謂もぐもぐむしゃむしゃということをやっていない。 感覚過敏の子は様々なところにその症状が見られるらしいが、息子にあてはまるのは音や環境への過敏さだろうか。 保育園でも、昼寝中にはさみの音なのでも起きてしまうことがあるらしく、その他にも音にはやや敏感ですねとは前々から言われていた。 私としても、確かに、と思い当たる節はいくつもあるのだが、赤ちゃんは何でも初めての状況なのだからこんなものかしらと全然気にしていなかった。 そういえば以前、地下鉄に乗ったとき、コロナ対策で窓が開いているのもあって轟音がしていたのだが、息子は神妙な顔つきで固まってベビーカーをぎゅっと握りしめてぶるぶる震えていたことがあった。 大丈夫よと声をかけながら乗っていたが、眉間にしわを寄せたまま、目的地まで固まっていたのである。 あとは、初めていく児童館などで床に下ろそうとすると私からくっついて離れようとしないということもある。 しかし10数分で動き出すし、場所見知りという言葉があるくらいなのだから、当然の様子だと思っていた。 それに、場所見知りしない料理屋さんなどでは目を輝かせて机によじ登っていったりもするから、そんなに大したことではないように思う。 身体的発達や食事や意思表示や発語など、子どもによって本当に差があると言うし、どこまでが「普通とかけ離れている」とするのか、多くの場合は微妙なところだろう。 まあでも、離乳食の件については、平均からの距離が遠のいてきていることと、ここ数か月であまり進歩していないということを鑑みると、少し対策などを講じても良いのかもしれない。 そう思って、保育園に紹介された区の施設と、民間の施設に問い合わせを入れた。 区の施設はとても混んでいるようで、本当にケアが必要な子かどうかを判断する面談に進む前の電話相談をした。 民間の方は、さっそく体験レッスンを予約していたところである。 ところで「感覚過敏」という言葉を夫に出してみると、夫は「そうだと思った」と非常に納得感のある顔をしていた。 それを私に言うのは、私が悩んでしまうかもしれないので言ってなかったらしい。 私はそれを言うと悩んでしまいそうなタイプに見えるのか。 それに、以前から息子のことを過敏な奴だと思っていたのか。 私は何となく、自分自身を含め、皆が腑に落ちる原因が言葉として出てきたことは安心している。 事は解決していないのでここで安心しきってしまっては意味がないが、何かの原因が言葉になるというのはひとつの安心を生むものである。 対策などはこれからだけれど、この件は中期的に見て息子の人生にとってより良くなる選択をしてあげられればと思う。 イメージだが、感覚過敏というのは治す類のものではないと思うので、それとの付き合い方や個別の対処法などを知っていければ良い。 子育ては一難去ってまた一難、という感じだが、主に食べることでしか悩んでいないのはありがたいのかもしれない。 1歳2か月の彼は、まだ一度も発熱も風邪らしい風邪もないのである。 これまであったのは、便秘と肌荒れくらいか。 さて、話は変わるが、かろうじて隔月の句会には顔を出していて、とても久しぶりに特選をいただいた。 隣室の工事に負けじ生姜擦る 廃工場色なき風に父の影 芸術祭私は恋をしています 特選をいただいたのは、隣室の~である。 ついでにこれらを書にしてInstagramにアップする。 Instagramは、個人ページにその人の見た目上の世界観が現れるので、風合いのばらばらなもので汚したくないなと思っているので、アップするのをためらっていた節がある。 とりあえず今後は、Instagramは自発・自作を主にやっていこうと思う。 Instagramの投稿を見たある方からweb個展でもやれば良いのにと言われて、少し本気になっている。 リアル個展よりは本当に楽だろうけれど、それでも膨大な作業が必要になるだろう。 でも、やろうかなと思っている。 がんばりたい。 1歳を超えて未だどろどろとしたものしか食べられない息子を心配して、保育園から話があった。
一般教科書的には離乳食を完了している時期で、もう柔らかめで刺激物でなければ大人と同じように何でも食べても良い時期なのに、まだ離乳食中期頃の感じなのは遅れが気になる。 入園して2か月以上が過ぎて、園でもやれることをやってきたが、ほとんど進歩がないので、もしかすると飲み込み、嚥下に異常があるのかもしれない。 1歳半の通常検診までまだ時間があるので、もし何かわかるのなら早い方が良いし、何か手だてがあるのであれば早いうちに取り組みたい。 噛むことや飲み込むことは脳や身体の発達にも大切だと思う。 一度、小児科や嚥下の専門家、耳鼻咽喉科などを受診してはどうか。 ざっとこんな内容であった。 仰っていることはとてもよく分かるし、ごもっともであると思う。 私も状況はよく分かっているが、以前離乳食を始めてから、離乳食をほとんど食べない、ミルクも全然飲まない、おっぱいも出ない、便秘もひどい、体重が減った、という時期を経験しているので、今はどろどろでも何でもカロリー的にはしっかり足りているはずなので、私としてはゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせていた。 しかしながら、9ヶ月検診の際お医者さんから言われたときもそうであったが、人から指摘を受けてしまうと本当にずどーんと重たいものが心に来る。 私は頑張っているつもりなのだけれど・・・・・と一気に自責が大きくなる。 他のお母さんはもっと上手にやっているのではないか、日々教えるということを怠っているのではないか、私が手抜きしているからではないか、サボっているからではないか、これまでも何度もそう思ってきたが、やはりまたそう思ってしまう。 もちろん完璧にやっている自覚など毛頭なくて、本当に頑張っているつもりの傍らで適宜手を抜きまくっているので、その罪悪感が他人からの発言により、自責へと変わるのである。 何だろうか、本当にずどーんとなるのである。 落ち込んで俯いてしまうのである。 とはいえ、最近息子は食べられる種類も量も増えて、見事な快便である。 元気そうだし、息子本人は困っていなさそうである。 ひきわり納豆やひき肉くらいのサイズは食べるし、蒸しパンや赤ちゃん用のかっぱえびせんなども食べる。 しかしながら確かに、バナナも一口サイズに切らないと食べないし、うどんなど細かく切ってももぐもぐできないし、齧る、咀嚼する、ということがまだ分かっていない。 これは受診に値するのだろうかと思いつつ、検診を受けた小児科は育児相談も行っているということだったので、予約して行ってみる。 9か月検診のときは怒られたように感じたのだが、今回先生は優しく感じた。 ひと通りの状況をかくかくしかじかと伝えると、「なぜ1歳検診ではなく1歳半検診なのかというと、1歳前後の時期は成長にとてもばらつきがあって、様々なことのできるできないの差が激しいからです。うーん、いろんな子がいるからね、まあ個性の範囲で良いと思いますけどね~個性よ、個性!!」とがははと明るくおっしゃった。 「喉までは分からないけれど、口や歯や顎などは見た感じ全く問題なし、体重を計ってもかなり順調に伸びている、1歳半検診まで見ましょう」ということだった。 私は先生のお墨付きをもらって、胸をなでおろした。 あぁよかった、と今朝保育園に報告したのだが、保育士さんはまだ困った顔をしていた。 要は、10月以降は園児が増える可能性が高く、今までのように特別対応が難しくなるかもしれない、ということだった。 なるほど、それが伝えたかったのか。 保育園としては、みんなと足並みをそろえたいし、できれば小学校前にひと通りの自立を目指したいということのようだ。 もちろん、それはその通りであるし、有難い前向きな姿勢である。 やはりこのままではいけないのか、とまたずどーんとなって送りの帰路についた。 ネット検索をすると、嚥下の専門は歯科と耳鼻科とのことだったので、友人の歯科医にlineで相談してみる。 状況をかくかくしかじかと話すと、「専門分野の接触嚥下の先生に聞いてみるから待ってて」とすぐに話をしてくれた。 摂食嚥下、思わぬ専門用語が出てきて少々驚いた。 ミルクやペーストが食べられるのであれば、嚥下機能自体に問題があるとは思えない、多少飲み込みが下手とか筋力が弱いとかあるかもしれないが、嗜好の問題かもしれない。 どこを受診してもその状態ならゆっくり慣れていってください、となると思う。 歯も生えそろうのに年単位の個人差があるから、平均といっても現実的にあてにはならないこともある。 とのことだった。 まあそうだよね、と思いつつ、専門分野の話が聞けてまた少し私の心は軽くなった。 病院にかかるような嚥下の問題というのは、ミルクも吐いてしまったり、先天性の奇形があったり、手術などの影響で長い間口から食べていないなど、もっと重度の問題らしい。 気持ちは晴れないけれど、何とか息子にもぐもぐと咀嚼することを覚えてもらえるよう、また新たに工夫してみるしかない。 先日ちゃんこ料理屋で鶏団子を少し食べたから、もっとふわふわに柔らかく作ってみたら食べるかもしれない。 さっそく鶏ひき肉とはんぺんと片栗粉と卵を練って、鶏団子を作った。 一歩ずつ進んだり戻ったり、たぶんそれしかやり方が無いのだと思う。 一日一段ずつ階段を上れれば良いのだが、そうもいかない子もいる。 大人は少し遅い時間に夕食となるので、ひとりで食事をさせるのもよくないのかもしれない。 私も一緒に食べたほうが良いのだろうか。 しかしながら、当人は現状で何も困っていないのに、周りの人たちが頭を悩ませているなんて、なんだか可笑しな状況だと思う。 牛すじ、牛すじなんかが売っていて、人生で初めて、牛すじを買ってみた。
「牛すじの煮込み」「牛すじ煮込みカレー」それ以外のメニューが思い浮かばない。 ちなみに「もつ」を買ったときも同様の高揚状態にあった気がする。 最近、本日のお献立をInstagramに上げているのだが、その日のメニューはその日に決めるというか、作っている最中に決めるというか、決まるので、事前に献立を書くことができない。 牛すじも、牛すじを買って帰ってから、牛すじ煮込みの材料や作り方を検索した。 ねぎと生姜があった方が良さそうだが、生憎両方切らしている。 そしてなんと驚くことに、適当に検索に当たったレシピには所要時間2時間以上、と書いてある。 大変なものを買ってしまった。 以前、その場の流れで鯵を買って、秋刀魚のように丸のまま焼いて食べられないことを知り、泣く泣く切れない包丁で雑に捌いたら、なんと魚臭い焼きものが出来上がった。 食材を無駄にしてしまう罪悪感というのは誰しも結構大きいのではないかと思うが、それは私も同様で、それでも食べられなかったので捨てたという記憶がある。 食べ物を捨てることに対する罪悪感は、きっと上手い思考の切り返し方があると思っているが、まだそれを習得していないので、心が得も言われぬ重さに沈んでしまう。 しかも、失礼な話だが、魚のそれよりも肉のそれの方が大きいように思う。 何としても、牛すじ、美味しく食べなければと呼吸を整えた。 説明文を読むのがとても嫌いで苦手な私だが、レシピにざっと目を通して、ポイントは肉の臭みを取ること、具体的には一度茹でこぼして肉を流水で洗い、似ている最中に出る灰汁をこまめに取ることだと分かった。 あとは和風の煮物だから、そこからは心配ないだろう。 あと懸念されるのは、圧力鍋でもないし、普通の家庭用のガスコンロで牛すじが柔らかくなるだろうか、という点である。 煮込めば煮込むほど柔らかくとろとろになります、と書いてあるがにわかに信じがたい。 というのも、鶏肉も豚肉も、長く煮ると出し殻になって肉の方にはほとんど旨味が残らないからである。 すじすじで固くて食べられなかったら、一緒に煮る大根と人参に旨味を吸ってもらって、せめてそれだけでも食べようと心をなだめておく。 さて、ねぎも生姜も無しで煮るのだから、臭み対策は手間を省いてはなるまい。 普段、生肉も茹で肉もほとんど素手で触らないので、肉を洗う、というのはあまりやりたくないのだが仕方あるまい。 生肉でないだけ幾分マシである。 少し緊張しながら、雪平鍋に水を入れて、水から肉を煮ていく。 確かにとてもたくさん灰汁が出てくる。 灰汁を取り除きながら、沸騰したところでお湯を捨てて、冷ましながら牛すじを手で丁寧に洗う。 いまいちこれで合っているのか、不安は付きまとっていたが、シンクには灰汁のようなものが落ちていくので、これが臭みの素だということにしておこう。 ひと通り肉を洗って、小さめに切る。 この時点ではまだぶつ切りにざくっと包丁があたって、ごつごつすじすじしているのが分かる。 でも進むしかない。 再び雪平鍋に水を張り、肉を戻し入れて、同時に大根と人参と下茹でした糸こんにゃくも入れた。 沸騰して、和風だしの素、酒、しょうゆ、みりんを適当に。 牛すじの量も把握していないのでそこは適当に。 牛だしは味が濃いので和風だしの素は少しで良いとレシピに書かれていたので、控えめにする。 一時間ほど弱火でことこと、時々灰汁を取り除きながら。 この時間に他の品を作ることができるので、さほど時間ロスはないのかもしれない。 まあでも、1,2時間も台所仕事をしていたくないなあと思いながら。 頃合いを見て、汁の味見をしてみると、少し薄めだが、牛の味が出ていて旨い。 灰汁を丁寧に除いたので、汁も透き通っている、終盤まで心配していた臭みもない。 少ししょうゆを足して、再沸騰したので火を止める。 何にしても煮物は放置して冷ますことが最重要である。 晩ごはんのとき、仕上がり上々な顔つきの牛すじ煮込みをテーブルに並べる。 恐る恐る牛すじを噛んでみると、とろっとほどけた。 あらまあ、こんなに。 先日鶏の手羽元でクリーンヒットを出したばかりだが、これもクリーンヒットと言って良いのかもしれない。 旨い。 常々、料理に関して、時間や手間や気持ちの総合コストパフォーマンスにかなうレシピを探し求めている。 牛すじは少しだけ面倒が多いのだが、寸胴鍋でも買ってもっと大量に様々な野菜を放り込むことができそうだし、そうすれば数日食べられるし、さらにカレーなどにしても良い。 敷居の高い殿堂定番レシピ入りができるかもしれない。 人に料理をふるまうことはめったにないけれど、そういうときにも映える。 光明のある食材だ。 良い日、の認定をしても良いだろう。 先日作った鶏の手羽元で、久々にクリーンヒットを打てた。
昇天するようなホームランではなく、気持ちの良いクリーンヒットである。 私は料理は得意でも好きでもないが、日々の食事はそれなりには作っている。 計量スプーンもはかりも全く使わないので、その時々で味は安定しない。 だいたい許容範囲、ということにはなるのだが、時々、ダーツのブルを射抜けるように、狭い絶妙な美味しさの的に当てることが出来る。 鶏の手羽元をビニール袋に入れて、醤油と酒とみりんと片栗粉とチューブのにんにくを入れて揉んで数時間寝かせてオーブンに入れるだけ、なのだが、味の加減も染み込み方も絶妙なバランスであった。 チューブのにんにくを入れ過ぎたという認識だったのだが、それが功を奏したらしい。 しかし如何せん、肉も調味料も計量していないので再現性がない。 ただ、調味料を肉に染み込ませると美味しくなるというのは分かったので、いつもは塩コショウを振ってすぐに焼いていた、昨日も漬け鶏肉焼きを作ることにした。 みりんの代わりに蜂蜜を入れて。 まあ美味しかったのだが、先日のクリーンヒットとまではいかなかった。 蜂蜜よりみりんが良かったのか、漬け込む時間が短かったのか、にんにく量が足りなかったか、その他か。 にんにく量が決め手のように思い返されるが、分からない。 書でもそうなのだが、そのクリーンヒット、あるいはダーツのブルというのは、当然難しいものである。 しかしすべての要素が良い塩梅で作用して、どんぴしゃりと的を射抜くのは、まるで幻の雲を掴むようなことだ。 あのアレをもう1回、と考えうる手筈を全て整えても、そこにあるのは違う私と違う空間である。 だから全く同じアレを目指すことの不毛さに気付き、新しいクリーンヒットを打てば良いのだ。 がしかし、やる気満々で振りかぶっても、だいたい結果は芳しくないものである。 今日は鶏の手羽元を焼くことはしない。 Instagramに乗り遅れること早数年。 私は主に書のコミュニケーションなどはFacebookを通してやっているが、今やInstagramをメインに使っている人も多く、どのように参入すべきか考えていた。 Instagramは写真がメインコンテンツなので、その人の個人ページに行くと、ずらりとアップされた写真が並ぶ。 このスペースを雑多に汚したくないなあと思っていたのも、私にとっては参入障壁になっていた。 息子の一歳記念に写真館で撮影した写真をアップロードした。 そして、前々から少し考えていた献立日記を和紙の背景に1日ひとつ、載せていくことにした。 Facebookの方でやっている毎日の書に加えて自らノルマを課してみたがさていつまで続くのか。 あとはここに現代の骨董の書も載せていきたい。 しかし最近、毎日ひとつ、という縛りが自分にとって良いのか良くないのか分からなくなってきた。 ルールなど作らず、書きたいときに書いたものを載せれば良いというのもあるが、仕事でやる以上執念のようなものも重要なのではないかとも思う。 また現に、私は毎日の縛りの中で作品のクオリティを上げてきたように思う。 しかしながら、一旦始めると止めるのにも体力を使う。 だからルールを設けて始めることを躊躇っている。 始める前にぐるぐる回って足踏みしていることを良しとしているわけでもなく、なんだかもう・・・である。 https://www.instagram.com/p/CEEo_t_l0HL/?igshid=1d9qyjduk3uso あるいは、 「emiko.takeuchi.37」で検索できます。 この告知の仕方で合っているのか。 息子が初めて歩いた。
不意なことだった。 げらげら笑っている息子を立たせて、「さあ来い」と歩く練習をさせようとしていたのだから、不意ということもないのだが、さっぱり歩くと思ってはいなかった。 とて、とてて、と2,3歩進んで私に倒れこんできた。 初めの一歩の瞬間を、もしかすると保育園で迎えてしまうかもしれないと思っていたが、しかとこの目に焼き付けることができた。 夏休み最終日の夫もそこにいて、目をまん丸くして、酔っぱらっているときと同じような表情をしていたのが可笑しかった。 子が歩く瞬間というのはこの世に溢れかえっていると思うが、その多くの親がするのと同じようなリアクションを我々もした。 「わーーーー!歩いた歩いた!!すごいすごい!!!やったやった!!!」そんな月並みな言葉たちは、驚嘆と歓喜に満ちていた。 泣こうと思えば泣けたようなきがするが、息子はげらげら楽しそうなので続けて歩かせてみた。 こんなに感動するものなのかと、自分の感動ぶりに感動を覚える始末である。 翌日の今日もまだ昨日の感動がほかほかと心の内に留まっている。 夏休み明けの息子は、今朝保育園の引き渡し時に泣いていた。 今頃お昼寝をしているだろうか。 ところで短い夏休み、私たちは三人で都内のホテルに宿泊をした。 ホテルは駅前の大きめのホテルだったのだが、全然客がいなかった。 日曜日、月曜日、火曜日、だったからということもあろうが、それにしても閑散と惨憺たる有り様であった。 ワンフロアに我々ともうひと組いたか、いなかったか、そのくらいである。 朝食時も、ひと組、ふた組と出くわしたのみである。 レストランもまた然り。 2泊くらいでどうにかなるものでもないけれど、各々が各々の責任を請け負いながら、文化的に豊かな生活を送るために微力でも動くことは大切なことだろう。 それに、都内の旅行は交通費がほとんどかからないという点で、同じくらいの予算で旅行の質を上げることもでき、なかなか良いものであった。 大江戸博物館も北斎美術館もすみだ水族館も、何でもない土日に出向くことはなかっただろうと思うが、特に大江戸博物館は2時間では見切れないほどの充実さであった。 また散歩好きな我々は、いつもの半径3-5キロメートルほどの範囲には既に飽き飽きしているので、新しい地の散歩はそれだけでも楽しいものである。 しかし、暑くなければ、だが。 偏食の息子は食べるものに困ったが、息子のための和室でふすまを開け閉めしたり、布団でごろごろしたり、それなりに楽しんでいただろう。 ホテルの朝食のスクランブルエッグに持ち込みのひきわり納豆を混ぜているのは、少しも優雅ではなかったけれど。 今朝からまた保育園に行って、私はようやくまたひとりになれた。 昼寝などしている暇はない。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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