あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン かけましょ かばんを かあさんの あとから ゆこゆこ かねがなる ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン あらあら あのこは ずぶぬれだ やなぎの ねかたで ないている ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン かあさん ぼくのを かしましょか きみきみ このかさ さしたまえ ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン という北原白秋の「あめふり」の詩を、久しぶりの展示会への出品作として書いた。 普段の作品は、写真を撮ってアプリで画像に額装を施すが、実際の展示となると、当たり前だが表具の必要が出てくる。 三鷹にある山口文林堂さんにお願いし、軸に仕立てていただいた。 山口文林堂さんにはこれまでにも何度か表具をお願いしている。 私のように一匹狼のように活動する書家は横のつながりが希薄になりがちなので、時折自ら関係性を作りに、リアルな飲み会などに参加したりする。 年初の飲み会で偶然山口文林堂さんの社長さんもいらしていて、私の存在を覚えていただけていた。 私には顔の利く師匠もいないので、色々と相談に乗ってくれる腕のある表具屋さんとのつながりは本当にありがたい。 本当はパネル張りと言って、木の板に直接張り込む方法のものにしたかったが、展示場所である京都への送料や会期後の保管場所を考えるとやはりコンパクトに巻ける軸が良い。 軸の布もあれやこれや種類を見せてもらって、イメージと値段と、紙質布質などを鑑みながら、シンプルなごく淡い水色の生地にした。 出品作はInstagramでご覧いただけます。 6月開催のため、雨にまつわるお題。 昔は子どもがいるからと言って創作物に子どもネタを持ち込むのはいかがなものかと思っていた節があったのだが、実際に子どもを持ってみると、どうにも子ども中心というか、それに支配された生活しか送ることができない。 ならば、と子どもの発する言葉などを日記的に作品にしてしまおうと、ここ数年は色々と書いてきた。 数年前に個人的に行った「狼煙展」というWeb個展では、「私はシンガーソングライターになりたい」というコンセプトを掲げて、自分で紡いだ言葉のみを書いていた。 あれから時が経ち、書道とは何かに思い耽るうちに、自分の言葉を書く必要もない気がしてきた。 書家は書家、詩人は詩人。 どの立場を取っても、何をミックスしても良いのだが、その道一本で行くプロフェッショナルにはやはりかなうはずもない。 本当に大きく1周まわって、著作権の切れた名文を書こう、と思い立ってすぐに「ピッチピッチチャップチャップランランラン」だと思いついた。 雨降りの日に、抱っこしてという息子を抱いてよく歌っている。 せっかく書くなら詩への実感があった方が良い。 5番まであることを今回初めて知ったが、4番の「きみきみこのかささしたまえ」というのは幼子のセリフとすると随分大人びている。 昭和初期くらいには「~~したまえ」という言葉を小学校低学年くらいの子が使っていたということか。 それはともかく、久しぶりにまともな日本語文を書にしてみると、やっぱり楽しかった。 そして、自分の書風というものは、ある程度、一旦は、納得がいっていたので本当にすんなり書けた。 いつもは山ほど書くのに、3テイクほどでできてしまった。 ついでに、傘に入った親子の絵も入れてみた。 何度も試行錯誤を行ってきた結果の、背伸びのない書き方ができた気がする。 私にとって新しくはない。 しかし良くも悪くも、等身大の何でもない自分の書である気がする。 道はずっと続くので、そういう書が書けたからと言って安泰なわけでは毛頭ない。 しかし、私の書歴に残せる、ひとつ杭を打てるような作品ではないかと思う。 そんな作品のInstagramのいいねの数は過去最多だった。 いいねの数に振り回されるほどのフォロワー数ではないのでさほど気にしていないのだが、世間的にも少しは良い作品だったのではないだろうか。 <YouTube> お部屋のイメージチェンジ。インテリアの壁紙やカーテンを変えるように、書作品を飾ってみよう - お字書き道TALKS #032 <note> 明治の三筆の作品は数万円で手に入る!?【その3:巌谷一六】
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息子の体調がくすぶり続けていて、悪化させるのも怖く幼稚園を休ませたりするのだが、そうなるとなかなか思うようにいかない。
熱はないのだが、しつこい咳が続いている。 仕事×子ども、創作×子ども、というのは実に、実に相性が悪い。 まとめると、(個人的な)集中×子ども、ということか。 ねっとりと私にくっついていないと気が済まない息子は何をやっていてもそこにいる。 文字の読める息子は、パソコンやスマホで何か打とうものなら瞬時に駅名を連呼してそれを打って表示しろと言う。 今も、石神井公園だの小竹向原だの五反田だの青山一丁目だのを打ちながらこれを書いていたりする。 別にブログなど書かなくても良いのだが、何となく何かを更新しておかないとという気持ちになる。 と言うよりは、子どもと二人(今日は夫は別部屋でリモートワーク中)の極めて閉鎖的空間から社会の窓へ顔を出して呼吸をするという感じだろうか。 何か意味のあることをしたくて、いつも洗濯物を乾かしているサーキュレーターの埃の掃除をする。 べたべたとした誇りをわんさか取り除いていると、もちろん息子もやってきて同じことをする。 埃をあんまり吸わないように気を付けてねと言っても無駄なので、濡らした雑巾で埃を抑えながら粗方きれいにする。 サーキュレーターのスイッチを再びオンにすると、「サーー」といつもと違う軽快な音になった。 こんなにも埃が溜まるのを疎ましく思う一方で、このサーキュレーターは空気を攪拌するだけでなく、空気清浄の役目も買って出ているのではと思い直す。 ついに息子に抗生物質が処方されて、ピンクの粉を朝晩飲ませねばならない。 抗生剤はいちご風味になっているがまずいらしく、超々偏食の息子がこんなものを飲んでくれるはずがないと絶望していたのだが、変な顔をしながらも頑張って飲んでくれた。 とてもとても意外なことだった。 続けて飲んでくれると良いのだが。 <note> ⇒書道の猛者!【明治の三筆】専業書道家が生まれる【その1:日下部鳴鶴】 ⇒天皇の目にも留まる、華々しき書道人生。明治の三筆!【その2:中林梧竹】 ⇒明治の三筆の作品は数万円で手に入る!?【その3:巌谷一六】 <YouTube> 洋風インテリアに合う書道作品を、自宅リビングに飾ってみよう - お字書き道TALKS #031 月曜の午前中は息子の療育に出かける。
乗り換え2回、1回は地上に出て乗り換えをする。 直線距離はさして遠くもないのにああだこうだ蛇行しながら歩くので、小一時間かかる。 9時に家を出発、10時〜11時で療育、12時に幼稚園に着く。 たくさんの時間が取られることに、時々、悶々とする。 悶々としないこともあるので、それは雨だからかもしれないし、ホルモンバランスの影響かもしれないし、仕事が溜まっているからなのかもしれない。 AIチャットが大隆盛の昨今であるが、AIの回答というのは実はあまりそのアルゴリズムがよくわかっていないらしい。 そこが人間と似ているらしく、人間の脳もまさにアルゴリズム的に動いている。 外的内的な複合的電気信号によって私たちは思考したり身体を動かしたりする。 私たちが“自分の考え”などと思っているものは、実は自分の考えなどではなくただの身体の反射に過ぎないのかもしれない。 “ワタシ”は“ワタシ”を観察することしか出来ない。 このふたつの“ワタシ”は、AがBを観察する、ことが出来ているわけなので別物だ。 では一体、“ワタシ”とは何なのか。 というインド哲学があったと思うが、AIが盛り上がりを耳にする度にこのことをなんとなく思い出す。 そこで良く言われるのがAIに“キモチ”や“カンジョウ”はないということだが、人間の“キモチ”や“カンジョウ”も単なる個々のアルゴリズム的反応に過ぎないのではないか。 “ワタシのことはワタシにしか分からないわ!” “ワタシはジブンが考えていることがよく分からない” ワタシはいつも、唯一ワタシから離れられないから、ワタシはワタシと仲良くした方が良い。 さて。 息子の体調不良で休んでしまったかな書道のレッスンへ行く。 「かな」とは平安期スタイルのうにゃうにゃっとした流麗な平仮名のこと。 実際のところ家でかなを練習することは殆どないのだが、ちょっと上達した気がする。 それは他のものを書くことで同時に引き上がる技術があるからだと思う。 かなを書いていると、本当に言葉の意味がどうでも良いことを思い知らされる。 かなは、変体仮名という現代では使わない平仮名を使うこと、そして読みやすさよりも景色が最優先である。 いかに紙面を文字で飾るか、それが最も肝要。 このことは、私の最近の方向性とマッチしていて、書いていて、そして教わっていて違和感がない。 書道は文字を書くから、言葉の芸術と言わんとする傾向があると思うが、それは本質では無いと考える。 極端に言えば、書く文字、書く言葉、なんてどうでも良いのである。 書家の本質はただの字食い、そういうことだ。 そうでなければ、実は少なくない現在の日本の書道人口が、こぞって漢詩を書くことに執心する理由がない。 その殆どは中国語を話せないどころか、漢詩の書き下し文でさえ危うい人たちなのだから。 ただ、元より意味のある漢字や言葉を成すひらがなを使うので、共通理解のある言葉の意味や詩的なことを含ませやすい媒体であるとは思う。 そして、意味のある漢字や言葉を成すひらがなを書くから、書き手の書家もそれに引っ張られてしまいがちでもある。 書道とは何なのか、書道には何が出来るのか。 絵画にできない、書道にしか出来ないことは何だろうか。 と最近は日々考えている。 あとは、物見遊山な気分で裁判傍聴へ行くなど。 これで4回目だろうか。 殺人、詐欺、窃盗など見てきたが、今回は合成麻薬を輸入した麻薬取締法違反。 アメリカ人の被告人で通訳が付く裁判だった。 素人の傍目からの毎度の感想は、こんなに早く判決になっていくのか、ということ。 世間的に取り沙汰される事件は大きなものであれこれ根掘り葉掘りマスコミがついたりするし、ドラマなどであれば“真実”を追い求めて奔走するものだ。 しかし実際には、結構あっさり、色々なことは取り残したまま、決まっていくものなのかもしれない。 〈YouTube〉 ⇒パン、カッパ、キャプテンはポルトガル語由来【半濁点の歴史】 - お字書き道TALKS #029 ⇒ラ゜は【L】半濁点で英語発音マスター!明治時代の日本人はすごかった。 - お字書き道TALKS #030 〈note〉 ⇒書道の猛者!【明治の三筆】専業書道家が生まれる【その1・日下部鳴鶴】 ⇒天皇の目にも留まる、華々しき書道人生。明治の三筆!【その2:中林梧竹】 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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