人のお子さまの半名付け親になってしまった。
もうすぐ第一子が誕生するという生徒さんとのレッスン中、名前好きな私が盛り上がったのは3週間ほど前くらいだろうか。 そのことを確かこのブログにも書いた気がする。 カイ、ケイ、ジョウ、リョウ、などの音で漢字一字の名前にするということだけが決まっていて、字画はあまり気にしないということだった。 色々と挙げていく中で私は私の中でとてもピタッと来たものがあった。 つい最近無事に生まれたそうで、誕生と命名のご報告をいただいた。 名前は、絵(カイ)、男の子。 小説に出てきそうな小洒落感を携えながら、どこか凛と古風な感じも漂う。 「カイ」という音は比較的よくあるけれど、「絵」という字を充てたものは今まで私は見たことがない。 「絵」という字自体は女の子に使われることが多い文字ではあるものの、「絵」そのものの漢字には性別イメージはない。 最大のポイントは、どうとでも取れる「絵」という言葉の意味の広さ、自由さ。 名前自体も良い名前だと思うけれど、苗字との相性がこれまた抜群なのである。 全体の字面感がとてもしっくりきてカッコイイのだ。 ついでに、これは何を示唆するものでもないけれど、かなり色イメージが「紅」感のする名前である。 苗字はここには出せないけれど、そしてよくある普通の苗字だけれど、言ってみれば、この苗字はちょっとずるいと妬いてしまうくらいの想像の幅を持ち合わせていることに今回の件で気付いた。 ちなみに「竹内」と似たような風合いの苗字なのだけれど、「竹内」ではダメなのだ。 その苗字が何であるか公開できない以上、書くのはこのくらいにしておこう。 生徒さんは旦那さまであるが、奥さまがこのお名前を気に入ったらしく、お子さまの顔を見た奥さまが「コレしかない!」ということで決めたそうだ。 とにかく私は絶賛していたけれど、しかしながら、人のお子さまの大事なお名前に関わるなぞ、そんなのは大層気が引ける。 でも、私は、「絵くん」なんて名前の男の子に出会ったら必ず「良い名前ですね」と何十年後も言っているような気がするくらいの自信作なので、遠縁のおばさんにでもなった気分で、小さな命名書でもお渡ししてみようと思う。 日記として残しておきたいことがあと2件くらいあるのだけれど、既に風化気味である。
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「その日は撮影入っちゃってて・・・」なんて言葉を言ってみたかったということはないわけでもないくらいの感じだけれど、本当に「撮影入っちゃってて」なんて予定がある。
去年、バイナルレコーズ社からデビューしているロックバンド「ケミカルボリューム」さんのミュージックビデオに1曲だけ出演させていただいて、それが気に入っていただけたとのことで、今回はアルバム全体の書を担当させていただくこととなった。 このブログはそういった活動報告を全然と言っていいほどメインにしていないので、そういう感じで何を書いていいのかやや困惑気味であるけれど。 撮影は順調と言えば順調で。 ほとんど一発書きに近い状態で行うので、私の持ち得ることの平均値がありありと映し出される。 去年の初めての撮影で手が震えてしまって2時間強も私のせいで撮影を止めてしまったわけだけれど、もうどうにもひよっていても仕方がないのでとりあえずただ書けばいいのだと気を鎮める。 慣れと、撮影場所が私の自宅なので、それはもうほぼ大丈夫だ。 HP内にまとめていくつもりなので、よろしければ下のリンクからご覧くださいませ。 こちらから。 友人から頼まれていた短歌の豆書も結構良い具合にまとまった。 ちいさーい、すごーい、かわいー、の世界観は、やっぱりなんだか好きみたいだ。 自分の過去の俳句を選び出して、「恵美子は行く」の句集もそのうち作ってみようかと思う。 たまに居酒屋などで出会った人に、「書道家です」と言うと、少々驚かれる。 確かにそんな職業、絶対数が少ないから出会うことはあまりないのかもしれない。 ついでに、「アーティストってことですね」と言われると、私はこそばゆくなるというか、つい「そんなのではありません」と否定してしまう。 幼い頃からつい最近まで、自分の名前に大いなる乖離感があったように、自分について「アーティスト」という言葉を充てるには乖離しすぎている。 となると、私は「アーティスト」という言葉に一体どのような価値を付与しているのだろうか。 かつて、アーティストたるものを私は「偉人、変人、奇人、狂人」と括って、自分の中に入ってこないようにしていた。 「そういう人もいるけれど、私とは関係ない」と思ってきた、思おうとしてきた。 その後に私がぶち抜かれた甲本ヒロトという人間もその私の中では「偉人、変人、奇人、狂人」とレッテルを貼って、彼を崇拝しているという人がいたとしたらその人まで避けがちだったように思う。 今だって、ヒロトは「偉人、変人、奇人、狂人」なのかもしれない。 そして私は「偉人、変人、奇人、狂人」の彼に見事にしてやられた。 しかし、私が同時に分かったことと言えば、「偉人、変人、奇人、狂人」と言われている類の人も「とっても普通のただの人間」であるということだった。 「とっても普通のただの人間」が、大いなる努力と大いなる勇気を持ってエネルギーを作品に込めて、それが長い期間存在することに成功し、食い留まって、何か誰かに伝わった、ということだった。 甲本ヒロトは紛れもないアーティストだ。 そして、紛れもないとっても普通のただの人間だ、と、私は言い切りたいわけだ。 岡本太郎の「今日の芸術」に、「子どもの絵は素晴らしいがアートとは呼ばない、社会に対峙するエネルギーを持たないから」というようなことが書いてあった。 アートには、私が私になろうと、私でい続けようとする行為、またそのエネルギーを他者に、社会に発信していく行為、なのではないかと思う。 だから、音なき書道でも、言葉なき陶芸でも、静謐な風合いの生け花でも、ディスりあいのヒップホップでも、アートになり得る。 一方で、アートとは呼べないものだってたくさん存在し得る。 私は、アーティストになりたいし、アーティストになれたのなら、アーティストでい続けたい。 私にとって、この辺りの話は涙ものである。 撮影中、ざーざーざーざー降っていた雨があがった。 明日は早朝から、奥多摩の方までキャンプのようなバーベキューのような釣りのような川遊びのような温泉のような、そんなのに行く。 山の方はきっと、めきめきと秋めいているだろう。 3年ほど前に退職したときにもらったレインコートでも持って行こう。 曇りみたいだから、300円のサングラスもつばの広いハットも要らないだろう。 フジロックの経験が2度もあるから、キャンプはへっちゃらだ。 と思う。 ひと月ぶりくらいだろうか、完全休日の一日である。
まあまあ夜に寝て、まあまあ朝に起きた。 さてはて、何をしようか、洗濯機を回し、いそいそとコーヒーを淹れて、茶香炉なんて焚いて。 いただきものの明太子が冷凍庫に二本眠っているから、ブレックファストは明太うどんにでもしようかしらなんて考えながら。 プールに行きたい気持ちは山々だけれど、窓の外を眺めると雨模様だから行かない気がする。 顔真卿についての資料をまとめながら、ネットが遅いのでこれも書きながら作業をしている。 オフに仕事をしているじゃないか、と言えばそうだけれど、私にとってはこういう類のことは別にしなくても良いけれどやりたくてやっていることの延長なのであまり仕事との境い目はない。 wordを編集していて、ルビのフォントサイズが上手く変換できないものだから、会社員時代にそうしていたようにgoogleを使って調べてみる。 たいていのことはYahoo知恵袋などに質問が出ているものだ。 マクロでも可能だが、Alt+F9でフィールドコードを出して、ルビフォントサイズ部分であるhpsの部分の数値を置換することで可能、と書いてある。 その説明を落ち着いてやってみると、見事にフォントサイズが変更された。 なるほど、ルビの裏側はこうなっていたのか、と、こういうとき私はとても晴れやかな気持ちになる。 機械全般が苦手な私にとって、こういう技術が身に付いたことは本当にありがたく思っている。 ワードやエクセルやパワーポイントはおそらく人並みを少し超えるくらいには使えるし、サイトの作られ方や仕組みは大まか分かる。 画像編集までには至れなかったけれど、まあそれは良しとしよう、できるに越したことはないけれども。 隔月に一度の句会があった。 秋といふ文字を彩るのなら赤 神と書し滲み鳴るなり秋の雷 枝豆を一々並べて父の膝 全てが入選。 枝豆を~の句は今句会の4つもあった特選のうちの一つとなった。 今回は半日くらいで急いで作ったもので、秋といふ~以外の句は実は過去の自分の句のリバイス版である。 寝かせて、推敲して、これだ!とピタッとくる句が選ばれた時の方が断然に喜びが大きいらしい。 文字の色のイメージというのは、あまり本気で考えたことも人に話したこともないけれど、昔からある。 先日、もうすぐお子様が生まれるという方のレッスンを行っていて、一緒に名前を考えていた。 「カイ」「ケイ」という音にしようかと思っているとおっしゃったので、いくつか私が漢字を挙げている中で「絵(カイ)」というのが思いついた。 これを私はひとり絶賛自賛していた。 そのとき、「絵」という文字の色は「赤」であるとその字面を見てものすごく感じていた。 赤色のペンで書いていたからではない。 黒色の筆ペンで書いていても猛烈にそう感じた。 「赤」でも「紅」の方だ。 ちなみに「秋」の文字は「朱」でもなく「赤」だ。 秋は赤、冬はライトグレー、夏は白、春は黄緑色の水彩絵の具を何十倍にも水で薄めた淡い淡い黄緑色。 まあこれは秋の紅葉、冬の曇天、夏の入道雲、春の芽吹き、など容易い連想から来ているだろうと思う。 文字というか、血液型にも色のイメージがある。 A型は赤、B型は緑、O型は白、AB型は紫。 これは例えばいつかどこかで見た雑誌やテレビの血液型占いなどの区画色分けがそうなっているところから来ているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。 AB型が紫なあたりは、二つが双方同じくらいに現れているイメージだろうか。 まあB型の緑だって、青と黄の混色ではあるけれど。 子どもの頃、B型の人の血の色は緑色のイメージがあったものだ。 血液型以外のアルファベットで言えば、Cはレモン色、Dは山吹色、Eはブラッドオレンジ、Fはモスグリーン、Gは黒、Hは白、Iは肌色、Jは灰色、Kは暗いオリーブ色、LはPC画面上で見るようなゴールド、Mはこげ茶色、Nは黒めのグレー。 今想像するに、音階におけるA(ラ)は赤、B(シ)はグレー。 音階における、などと言ってしまっている以上、文字そのものだけから来るものではない。 では、例えば「識」は白、「偶」も白、「有」はショッキングピンク、「向」はコバルトブルー、「題」は焦げた木目調の色。 私はいろんな色が好きだ。 柔らかな雨がたくさん降っている。 今日の空は空色をしている。 出品を終えた。
漢詩とかな交じりの作品を1点ずつ。 漢詩作品はやっぱり面白い。 線がたくさんあるから。 忙しいのによく頑張った、というのは自分だけに細やかに囁くことにしよう。 頑張ったか頑張っていないかは、作品の評価の対象にはならない、なってはいけない。 ただ、作品の善し悪しがあるだけだ。 漢詩は一番最後にもう1枚だけ、と書いた作品が、かな交じりは途中経過でなんだか空きがおかしくなってしまったか?と思ったものが先生に気に入られた。 出品の際に複数枚を選んでいただくべく持っていくのだから、あとは先生の判断に委ねる。 もし私はこの1枚がどうしても譲れない!ということであれば、1枚だけ持っていけば良い。 しかしながら、最後に書いたものが一番良いというのはなんだかホッとする。 積み重ねたことは無駄ではなかったのだ、と鍛練が報われる。 これはおそらく私が書いた今作の「六月二十七日望湖楼酔書 蘇軾」に思い入れがあまりないからだろう。 詩の気持ちを!ということを抜きにして、単純に字を書く、書を創る、という点にフォーカスできたということかと思う。 詩の気持ちを!という気分で書くと多くの場合、最初に書いたものが一番良いということになる。 気持ちの体現に最大の重きを置いても、それはその気持ちを何度もなぞっているうちに疲労が溜まったり飽きてしまったり外の空気が気になったりしてしまうものだ。 混じりっけない気持ちなど長くは続かないものだ。 あのときの気持ちなんて正しく同じ熱量で呼び起こせない、戻せない。 これまで私は好みの傾向として、どうにもならないこの気持ち!みたいな表現物に取り付かれてきた。 今だって大好きである。 けれども、それでお腹がいっぱいにならなくなってきた、というのは事実かもしれない。 何はともあれ芸事は、いつだって終わりなき旅路の途中、であって、納得なんていくものではない。 しかし、気持ち!ということを最重要視してそれが作品に最もうまく乗ることができたのなら、それはその地点の納得にはなり得るかもしれない。 後のちに観て、あれはもうできない、最高にいい感じだ、となり得る一方で、今あれをそのままもう一度できないし特にやりたくもない、となってしまう。 過去の気持ちが乗った過去の作品として納得できたとしても、最重要視した気持ちはすでに今この時点の気持ちとは異なってしまう。 芸事も人生も似たようなものかもしれないけれど、人生には終わりがあるという圧倒的な違いがある。 その人が死ねばその人の行う芸事は終わる、しかし、芸事本体は形を変えていくかもしれないけれど芸事本体はきっと残る。 あるいは、その人の肉体は滅ぶけれども、その芸事とともにその人もある意味で残ることができる。 このことは、私が美しいなと思うことの一つである。 でもやっぱり、その人本体は消滅するし、その人自身が生きているという感覚も当然消滅する。 久しぶりにブログを書く。 いつもと同じことを今日の気分で書いている。 久しぶりに花の写真を撮る。 とても楽しい。 久しぶりにロケット鉛筆を手にした。 懐かしくて嬉しい。 久しぶりにある人から連絡をもらう。 今回は会えなかったけれど、単純に嬉しく思う。 久しぶりに俳句を作る。 全然作れなくて、困る。 美味しく食べる、美味しく飲む、よりもやりたいことがある。 今は。 髪を切った、おかっぱ、ボブ。
野放図の様相をし始めていたから。 髪や衣服は、楽であることが第一優先にきがちな私で、髪は長い方が楽なことも多いのだけれど、ちょっとした気分転換としてばっさりいくことも特段何てことはない。 ついでにハイライトも何本か入れて、これは日が経つにつれて退色して浮かび上がってくるらしい。 切り終わったとき、いもうとみたいだ、と思った。 鏡の中の私が声を発すると、いもうとが発しているように感じた。 昔にもこんな体験があって、美容室の鏡で後頭部を見せてもらったとき、いるはずのないいもうとがいるのか!?と後ろを思わず振り返ってしまったことがあった。 鏡にはただ振り返った私だけがいた。 人に言わせればそっくりと言い、そんなに似ていないよと言う人もあり。 しかしながら、自分の声は他人が聞いている声とだいぶ違うと言うし、自分は自分のことを鏡や映像でしか見ることはできても、他人が見ているように自分のことを客観視することは不可能だ。 私は、鏡の中の私を、私であるという認識以外に、私の外側にいるいもうとの要素を重ね合わせてしまったのかもしれない。 外界のいもうとの中に私自身の要素、私が私らしいと思っている要素、を見出してしまっているということなのだろう。 双子でなくても一般的に、自分の声や仕草は、自分自身よりも一緒に過ごす時間が比較的長い他人の方が知っていると言っても良い。 ぼーっとしていたり、怒っていたり、爆笑していたり、そんなときの内的な気持ちは自分自身だけのものだけれど、そんなときの自分の顔を私たちはほとんど知らないだろう。 ちなみに泣いている自分の顔を鏡で眺めたことは何度もある。 しかしその時点で、何かで「泣いている」その感情100%であることはありえず、「私ってこんな顔をして泣くのか」という探究心が混じってしまう。 新しい髪型はなかなか気に入ったけれど、きっとこれは短命だろう。 ブローが必要なのだけれど、ブローはほとんどしたことがない。 それに、私は髪が伸びるのが異様に早い。 ある生徒さんに、「先生が高校生みたいになっちゃって教わっているのが何か変な感じがします」と言われる。 これを言ったのは、50歳近くの、そして本当にお世辞でも何でもなく50歳に見えない、38歳くらいに見える、若々しい女性だ。 まあでも確かに、「書の先生」としては私は若いだろうし、服装もかなりカジュアルなので、年配の方の指導をカフェなどでしていると、時々奇異の視線を感じることもしばしばあると言えばある。 高校生、というのは言い過ぎにしても。 またしても展覧会の出品作の創作に追われている。 一つは、最近作った豆本でも書いた、太宰治「ア、秋」。 今回も長い文章を選んでしまって、根性勝負になっている。 もし時間が存分にあっても何かをやるとは限らないのだけれど、最近の私は時間のなさに何かとても焦っている。
とても久しぶりに、12時くらいに座椅子で寝てしまってそのまま夜を明かし、明け方5時くらいにもう一度ベッドに移って11時まで寝る。 よく寝た!よく寝た!と身体は声をあげて悦びに満ちた。 私の生活は睡眠によって均衡を保っている。 睡眠が満ちるといろんなことのやる気が出るわけだから、時間がないと言って睡眠を削ることは良いことではない。 仕事のやり方に割と大きな改革を入れても良いのかもしれない。 改革には痛みを伴います、というようなことが、収入が減ります、ということだとしても。 私は私のひとり会社の代表取締役なのだから。 そしてひとりしかいない優秀な社員でなくてはいけない。 私のひとり会社の最大の目的は、売り上げを最大化することではない。 実際は法人ではないけれども。 社員満足、代表取締役満足、そして顧客満足。 なんだか偉そうな物言いだけれど、偉そうにすることも全然まったく目的ではなくて、パフォーマンスの最大化・最適化を自分に図らねばならず、私がコミットすべきは私の持つ幾つかのセルフバリューのシナジーを生み出し、それらをクオリティコントロールすること、そして昨今そのフェーズに来ている、のような感じだ。 カタカナを積極的に使うと何だか面白い。 そして言っていることが言いたいことではなくなってしまっても別にいいか、と思ってしまった。 どんな些細なことでも、個人的な面白味や楽しみや笑いに興じるのは嬉しいことで、そんなとき、橘 曙覧の「獨樂吟」 を思い出す。 「楽しみは~」という歌をたくさん作った歌人だ。 ひとりを楽しめない者は他人といても楽しめません、そんなことが書いてあった気がする。 ベランダに一匹、アブラゼミがひっくり返って死んでいた。 あら、と思ってそのままにしておいたら、次にベランダに出ると、ひょいと起き上がっていた。 まさか死んでいなかったのか、と思ったけれども、生きている瑞々しさがない。 昆虫だから瑞々しいという言い方は変かもしれないけれど、やっぱり生きているものの艶感ではなく、カラカラに乾いている。 つついてみることもなく、またそのままにしておいたら、次にベランダに出たときにはまたひっくり返っていた。 しばらく見ていると、風が吹いて、小さなお菓子の空き袋のような軽さで翻って、アブラゼミが起き上がった。 死んでいることがちゃんと分かって、ほっとした。 日当たりの良過ぎる部屋のベランダで、ちりちり夏の残りの太陽に焼き照けられて、アブラゼミの死骸と煙草を吸う。 久しぶりにどつぼに嵌まる。
一旦そこから抜け出した今、浅くない安堵の気持ちと、恐怖感の後遺症で心のやり場に困っている。 臨書ではなく、自分なりの真面目な楷書体の半切作品を書いていた。 私が中学生の頃、ただの漢字ノートの宿題で、はたと、「書」ではなく「字」に目覚めたときに憧れたイメージな“きれいな字”の再現。 中学生の頃には既に習っていた書道教室を辞めていたし、書道部でもなければ、高校生になっても選択科目の授業は音楽だった。 長らく興味と憧れはいろんなものに覆い隠されて、しかし、なくならずに残っていたらしい。 大人になって、書道を再度初めて、ここ3,4年ほど人にペン字や筆ペンを教えるようになって、それはかなりブラッシュアップされてきた。 私の書く字の中で一番私が私らしいと思うのは、実はほとんど我流の楷書体である。 ちなみに、”一般的な”行書体も血肉になっている色々はあれど、ほとんど我流である。 そんな楷書体において、あまり好きではない字というものは少ないけれどあって、しかしまあそれなりにほとんど全ての漢字ひらがなカタカナにおいて自分なりをバランスを取ることができる。 漢字はパーツでできているわけだから、たとえ知らない漢字だったとしても。 が、今日はなぜだかいつもよりも筆の動きが悪く、その上、「樹」という字がどうしても定まらない。 どうしてもどうしても定まらない。 どうしても、どうしても、どうしても。 私は怖くなった。 線質も出ないし、なんだか全然乗ってこない。 肝が冷えた。 いつもは”それなり”ならなんとかなるので、こんなことは本当に珍しい。 14字の漢詩を書いていたのだけれど、「樹」は二字目に出てくるので、半切10枚くらいが「松樹樹樹樹樹樹樹樹樹樹樹樹」となった。 「樹」以外も書いては見るものの、なんだか本当に筆が言うことを利かない。 まあ普段あまり使わない筆ではあるのだけれども、それにしても。 しかし、ここで逃げる方がよほど恐怖だ。 この恐怖を残したまま、明日なら書けるかも、などということで、もし明日またどうにもならないかもしれない恐怖に今打ち勝てない。 どうにかこの半切を見られるくらいの作品に仕上げなければならない。 しばらく耐え忍んで筆を利かせていたらようやく「樹」の収まりが見えてきた。 それと同時に、それまで使っていた半切が終わって、別の種類の半切に変えた。 筆が、思い通りに、動く。 !!!と思った。 これは、紙のせい、だ。 いや、己の技量不足のせい、なのだけれど、その紙が他の紙と比べてものすごい水分吸収力があって、あまりにもこのタイプの楷書体の書き方に向かないのだ。 筆が上手く動かない原因は、言ってみれば、もさもさのスコーンを食べているときに口の中の水分が枯渇するあの感じに似ている。 また、比較的濃墨を使っていて、比較的早くない運筆のために、紙に墨が取られ過ぎてしまっているからだ。 私は特段紙にはこだわりがなく、練習用の紙はインターネットで安いものを買う。 色々使ってみたくて、だいたい同じものはあまり買わないけれど、これはもう買うのを止めよう。 紙が変わって、いつもの筆さばきに戻り、「樹」も収まって、それでも色々色々出てくるものだから書き直して、3枚を清書とした。 OKを出す人間は、結局どんなときだって私しかいない。 たとえばどんな巨匠に褒められたって、その賞賛が納得の少しの上乗せにはなり得るけれど、私がOKを出していなかったらOKにはならない。 いやしかし、どつぼは怖い。 ところでどつぼって何だろうと調べてみると、肥溜め、らしい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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