結局けいこの誕生日には「ロリオリ」というケーキ屋さんの突拍子もないドレス姿の女の子のデコレーションケーキをあげることになった。
もうこれにしようといもうとととある作家さんの陶器のビアグラスに決めたのだが、いざ伊勢丹に再訪するとその作家さんの会期が終わってしまっていて手に入らなくなってしまっていたのだった。 慌てて代替物を探してもピンとこず、ネット通販で見てもSOLDOUTばかり。 やはりこういった一点物は出会ったときに買わねばならない。 食べ物をあげてもさして喜ばないけいこにケーキをあげるのはいかがなものかと思ったが、このまま流れるよりも消え物で手を打っておいた方が良い。 ならば普段絶対に自分のためには買わないものを、その場を明るくしてくれるような少しの驚きと笑いを、ということで突拍子もないドレス姿の女の子とのデコレーションケーキと相成った。 こういった見た目重視のものは味が心配と言えば心配なのだが、そこは伊勢丹に入っているのだからと、また伊勢丹さんの質力に託すこととする。 当日、立食パーティに参加してくると言っていたけいこの腹具合を心配していたのが、全然食べる暇がなかったということでお腹が空いているという。 それはとても好都合。 伊勢丹のデパ地下には魅力的なケーキがたくさんひしめき合って並んでいた。 ロリオリのショーケースには、ドレス姿の女の子のケーキ屋、ビールジョッキを模したケーキ、食べられる大きなリボンにあしらったケーキ、ビーズの宝石箱のようなデコデコに薔薇の装飾されたケーキなど、およそ普段の生活ではお見かけすることがない色合いとフォルムのケーキがずらり。 食べ物は見た目よりも味、美味しければ何だって良い、なのは確かにそうだと思うけれど、果物や野菜のカービングや氷細工や飴細工や、食べてあるいは溶けて無くなってしまうものに施す、職人さんの装飾技術とその意欲や熱意を見るのが私は結構好きである。 興味のない人からすれば全くもって価値がないと言っても良いのだけれど、装飾に装飾を重ねて美しい見た目にしたいのである。 その一見無駄な方向への研鑽については、何だかシンパシーを感じるものである。 ちなみに、こういったことにシンパシーが感じられるようになってから、私は俄然世界のいろいろなことが面白くなったし、世界に対して優しくなれたように思っている。 され、ケーキは大きい方がインパクトがあるけれど、食べ残すのは嫌なのでここは一番小さいものだろう。 ろうそくはどこに挿すのやら、ドレスに放射状に?お尻に尻尾のように?とひとりにやにやとしながら、ネームプレートを書いてもらって購入を済ませた。 倒さないように、揺れないように、気を配りながら電車で帰路に着くと肩が凝ってしまった。 家に着いたけいこは持っていたおにぎりを食べると言うので、先日の結婚式の際の引き出物の伊勢海老のお味噌汁を出した。 おもむろに、ドレス姿の女の子登場。 結局ドレスに放射状に5本のろうそくを立てて火をつけて、ふーっ、おめでとう。 ケーキカットならぬドレスカット、いやケーキカットをして皿に盛り付ける。 こういうとき、私は発想が小学生男子のようになってしまうのだが、どうしても「花嫁惨殺 バースデー殺人事件」といった言葉が浮かんでそれを言わずにいられない。 上半身はチョコのようなマジパンのようなもので、皿に寝かせると棺桶で眠っている美女が想像されてしまった。 それはさておき、このケーキ、とても美味しかった。 ごく真面目に作られたショートケーキである。 けいこも喜んでいた、と思う。 翌日、パティシエの生徒さんが来ていたのでこんなケーキがあって、と話すと、「え!それうちで作ってるやつです!」と言う。 しかも、「クリーム私が絞った物かもしれません。いやでも襞が少しよれているから私じゃないかな」と言う。 背の高い箱ごと冷蔵庫に入らなかったので、私がヴェールのようなラップをかけたときに襞が崩れた可能性は十分にある。 真相は闇の中、だが。 全く関係ないところで各々が動き、それが後々リンクするという偶然体験は時々あるものだが、なんだかハイタッチしたときのような嬉しさがあるものである。
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頸を寝違えたり、人生三度目6,7年ぶりに足を攣ったり。
寝ている間にこういうことになるのは、暑すぎて寝苦しいからだろうか。 それにしてもふくらはぎを攣るのは本当に呼吸も止まるほどの激痛である。 寝ているまさにその間に起こるものだから、夢うつつカオス状態で痛みにたたき起こされると同時に一体我が身に起きているのかを脳が瞬時に把握に走り、経験上から早急に事は解明してもそうしたところで足を抱えてうずくまるしかない。 でも、その原因を把握できないよりは俄然マシである。 中学生くらいの時、初めて寝ている間にふくらはぎを吊ったときは痛みもさることながら、得体の知れない恐怖に慄いたものだ。 分かる、ということで痛みは消えないけれど、幾分か、いやかなり多大な安心作用はある。 それにしても痛かった。 渦中、対処法として足の親指を反らせるように引っ張るということをよく聞くが、痙攣している激痛のふくらはぎに逆の動きを加えるなど、毛頭自分でできるはずもない。 そしてもしできたとしても、患部がバキっと音を立てて千切れてしまいそうなイメージさえあるから、今度もし攣った際激痛に悶える全てを擲って、これで良くなるのであれば!と足の親指を反らせる行動には出られない気がする。 足を攣る痛みはおそらく、何分うまく計れないが、2,3分も経てば消える。 翌日も患部はひくひくするような違和感を抱えていて、こちらはまたあの激痛に襲われるのではないかとびくびくしている。 まあでも私の場合起きているときにふくらはぎを攣ったことはないし、連続でそれが起きたこともないので、そっと歩いていれば大丈夫であろう。 頸を寝違えた鈍痛は2日目に突入しているが、日常生活にはさほど差し支えはないので、快復を待つしかない。 足を攣るよりも良い。 できれば、双方、当然ながら、無いに越したことはない。 もうひとつの身体の不調の話があって、それは、むくみ、である。 身体に水分を蓄えて出ていかないことをむくむと言ったりする。 もちろんこれまでもむくみを感じたことがないわけではないのだが、こんなに顕著にむくみを感じたのが初めてだったのと、ちょうどその時に自分の体重をおよそ把握していたので2キロも増えていて驚愕したのである。 原因は明らかで、月のホルモンバランスとアルコールだ。 プロゲステロンの分泌が最も上がると言われるちょうどそのタイミングで少なくないアルコール摂取をしてしまったため、身体が使うかもしれない水分を保持しようとする力が最大級に働いて、結果、身体がとても不快になった。 固めで分厚くて大きなゴムの中に水分が閉じ込められているような感じで、とても重たく動きづらい。 特に足の甲がむっくりとしていて、骨や関節までの距離が遠くて感じづらい。 この場合、水分を多めに摂ることもさほど改善にはつながらない。 プロゲステロンの働きが落ち着いてくるか、加えて、血中のアルコールの分解が終わるか。 重たくて重たい身体は、何せ自分そのものだからいつも一緒で離れられない。 身体だけ置いて離脱した心だけで行動することができるのであればそうしたい。 肉体と精神を切り離す修行とかは、探せばこの俗世にいくらでも方法を指南してくれる人がいるような気がする。 そして昨日、むくみから丸二日後。 肉体と精神があまりに不快感を示していたので、一切のアルコールを摂取しなかった。 連続でサウナに行っていたのも良かったのか、体重はさっぱりと元に戻った。 身体の感覚もスッキリしている。 むくみの不快感を身体に刻み込んで、切り離せない肉体と精神についての和解を求めながら、お酒って楽しいよね、と、今また無邪気に思うのである。 夏の不調の話。 そうこうしているうちに気温が下がってきて、まだ7月だというのに淋しい気持ちが隠せない。 うだるような暑さが続いてるわけで、各地で熱中症などが相次いでいる中、不謹慎なのかしらと思わなくもないのだが、私は今年の夏の暑さが長いことについてとても嬉しく感じている。
「暑いですねえ、かなわないですよ」と開口一番の挨拶になるけれども、私はあまりそうは思っていない。 でもなんだか、「良い季節ですね」とは言いづらい。 皆が暑い暑いと翻弄されているのを見ると、たぶん私は人が体感している暑さより暑くないと感じているのではないだろうかと思うこともある。 まあそんなこと、人の身体ととってかわることはできないので証明のしようもないのだが。 実際のところ、このくらいの暑さならば一年中これでも良いなと思っている。 もう少し暑くてもそう思うだろうと思う。 というのはおそらく、私が体質的に汗かきではないことと、炎天下の中歩き回らなければならない事情がほとんどないからだいうのは当然ながらあるだろう。 暑いのは好きでも、直射日光はひどく苦手でもある。 真昼間、蝉の声を聞きながらエアコンもつけずにひとり部屋にいる。 だいぶ汗をかけるようになって身体はしっとりとしている。 現在の私にとって適温だ、と言っていい。 すごく気持ちが良い。 朝日が照り付ける部屋なので夜から朝にかけて冷房は入れるけれども。 夜も気温が下がらない所謂熱帯夜の連続であるのだと思うが、仕事終わりにスーパーに買い物に出向くとき、あぁこんな季節が続けば良いなあとまた切に思う。 暑いから素麺を食べたりもするけれど、寒い時期と同じようなごった煮を作ったりもする。 私に季節感が乏しいのは、日常の食べ物があまり変化しないからなのかもしれない。 個人事業主になって初めて、夏休みたる夏休みを取ることにした。 お盆に一泊、実家に帰る、とかではない。 ちなみに2年ほど前、フィリピンに行った際に冬休みは取ったことがある。 5年ぶり、5日間の夏季休業。 なんとわくわくする語感である。 どこか遠くに、どこか広いところに、行きたい。 フリーランスになって休みについてはほとんど仕事に任せてなるようにしてきた。 今はひと月の間に丸一日休みの日は正月を除けば、2日あるかないかくらいである。 それでも、別に毎日一日中仕事をしているわけではないので全くもって気にならないのだが。 さて夏休みとなったのは、青森・函館に行くことにしたからである。 本当はサウナの本場フィンランドに行こうと思っていたのだが、調べる中で旅費がどのようにしても最低25万円以上かかりそうなので断念しようかと思い始めたとき、青森出身の方と話していてねぶた祭りを勧められたからである。 フィンランドサウナと青森ねぶた祭りの旅的共通項はほとんど見受けられないのだが、まあ良い。 人からの勧めは知らないことなら揚々と受け取れば良い。 それに、遠くに行きたい、広いところに行きたい、だけだ。 あと、サウナは青森にも確実にあるだろう。 となると、日常的に行っているサウナにどこか遠くに行くついでにも行きたい、だけなのかもしれない。 青森でねぶた祭りを見て、知人の書家の方に青森観光をお願いして、その後函館にフェリーで北上する予定である。 久しぶりに旅日記でもつけようかなと思う。 けいこの誕生日プレゼントを探しに伊勢丹まで足を運ぶ。
普段見慣れていない、あまりそれについて思考を巡らせていない部類の良品を求めたいとき、私は伊勢丹に結構な信頼を置いている。 それが食べ物でも、アクセサリーでも、食器でも、傘でも、アロマオイルでも、タオルでも、盆栽でも。 自分が買うとしても、誰かへのプレゼントとしても。 天下の伊勢丹、高級な品ぞろえの伊勢丹、センスの良い伊勢丹、バイヤーが優秀な伊勢丹、伊勢丹に行けば何とかなる、伊勢丹のものなら間違いはない、そんなふうに少し盲目的にも思っている。 普段見慣れていない、あまりそれについて思考を巡らせていない部類のものを買うとき、選ぶのは苦し楽しいのであるが、コストパフォーマンスというずしりと重たい何かがこの選択決定に付きまとうので、それを少し伊勢丹背負ってもらいたいというのももしかしたらほんの少し深層心理にあるのかもしれない、とこれを書いていて思った。 ちなみに伊勢丹に出向くのは年に1回あるかないか、であるが。 いやしかし、伊勢丹については全幅ほどの信頼を置くとしても、私の難しいのはけいこの欲しいものがてんで分からないということだ。 母の日や誕生日には毎年いもうとと連名でプレゼントをあげているが、花というか植物以外に喜んでいる姿を見たことがない。 日曜消耗品のタオルを肌触りの良いものにすることも、毎日使う箸の質感を上げることも、香り高いコーヒーや紅茶のセットも、瑞々しくて甘い最高級びわも、自分の似顔絵が書いてあるケーキも、だめなのである。 では一辺倒に植物をあげれば良いのだが、けいこの家には枯れない植物たちがたくさんあるので、これ以上世話を増やすのは嬉しさも目減りしてくるだろう。 それに、あげる方も植物ばかりではやはり飽きてしまう。 しかし、以前何かの機会に一緒に行った伊勢丹で「欲しい」と言いながら見ていたロイヤルコペンハーゲンのコーヒーカップはプレゼントしたら戸棚にしまわれてしまうし、もう何だったのか詳細は忘れてしまったが昔あげた傘やら箸やらもどこにあるのだかよく分からない。 けいこがなぜ私たちからもらったものをしまってしまうのか、柄が気に入らないのか、比較的高価な物は使うのが惜しいのか、これまで使っていたものがまだ使えるからなのか、そのあたりもよく分からない。 去年はいもうとと考えに考えて行き当たったプロによる風呂掃除をプレゼントした。 これは本当に久しぶりのヒットプレゼントだった。 他人に家の中を掃除されるのを嫌がるかとも思ったけれども、きれいになった風呂場は喜びに値するものだったようだ。 しかし毎年掃除を派遣するのも何だか嫌味のように思ったりする。 そして今年またいもうとと悩みながら相談して、「私たちが実家に帰ったときに使いたいものにしよう」あるいは「要らないなら自分たちがもらってしまおう」ということで、何を乗せても良い器か陶器のビアグラスにしようというところに落ち着いた。 となれば、やはり伊勢丹である。 やはり信頼の伊勢丹には私の好みを射抜く陶器コーナーがあって、私はしばし自分の買い物欲をくすぐられる思いでそれらを眺めていた。 数か月前にコーヒーカップを買ったときと同じ売り場である。 どこかの作家さんが作った一点物の陶器たち。 直系15センチないくらいの平皿が6000円ほど、ビアグラス8000円ほど、大盛りのパスタ皿のような大きなプレートが15000円ほど。 100円ショップだって機能としては似たようなものが買えるし、容易に割れてしまうかもしれないものなのに恐ろしい値段である。 でもこういうの何だか良いなあと思う。 対やセットで揃えるのではなく、全部単品で、且つ家の全体調和を目指してひとつひとつ揃えていくのはとってもたのしいだろう。 物を選ぶのは、時に面倒で、時に苦しくて、時に楽しくて、時に嬉しい。 それをひっくるめて、たのしい、のだろう。 伊勢丹の閉店時間が来てしまったので、いもうとに写真を送って報告。 まだ買ってはいないのだが、ゴールは見えた。 少し久しぶりにサウナに行ったら、毛細血管に血流が行き渡って皮膚がまだらになる現象「あまみ」を観測した。 やはりサウナはまだ止められない。 せっせせっせとごはんを炊く。
3合炊きで2回。 1食分を残してせっせせっせとラップに包み、冷凍する。 ひと月以上ぶりに炊飯器を出した気がする。 お米はとても好きなのだけれど、1日2回の食事のブレックファストはだいたい食パンであることが多いし、この時期ともなると夜は素麺を茹でることも増えてくる。 お酒を飲むのであればあまり主食的な炭水化物を食べないことも多いので、最近はお米の出番がめっきりなくなっていた。 外食でも最近は麺が多かった。 それに炊飯器は使わないとき棚の中にしまってしまうので、なかなかお米を炊くに至れない。 家にある玄米は給水時間を含めると半日かかってしまうし、お腹が空いた!というときに炊飯などできない。 だから炊飯器を登場させるときには、そのタイミングで食べなくたって2回動かして貯金ならぬ貯飯する。 バナナを切らしても、パンを切らしても、解凍すれば食べられるごはんがあることの安心感たるや。 厚揚げを焼いたものに生姜をすって醤油をかけて、納豆をかきまぜ、それと結婚式の引き出物に入っていた伊勢海老のお味噌汁に湯を注ぐ。 炊きたてのごはんを本当に久しぶりに食べた気がする。 「!!!」となって、「ごはんっておいしいね」と隣りに誰かいたら、ホットケーキを頬張ったときのような満面の笑みで言っていただろう。 ライスは娯楽、と友人が言っていたが、その意味が分かった気がした。 娯楽は日々在り過ぎたら娯楽でなくなってしまう。 時折ある余暇的楽しみ。 ごはんには、パンにも麺にもない、ずっしりとした重たいパンチ力と全方位的な幸福感がある。 パンも麺も空気と一緒に食べるものだが、ごはんはあまり空気と一緒に食べるものではない。 その分だけ糖質が舌にあたる面積が大きくて脳的な刺激も大きいのかしら、と思ってみたりする。 何はともあれ私も満ちたし、冷凍庫も満ちた。 勧められていた「NHKスペシャル神の数式」をやっと観ることができた。 私のような浅学というか、その方向には無学と言ってもいい人にもとても分かりやすく構成されていて、且つ展開がドラマチックでとても面白かった。 番組制作力と言うのももう多分にあると思うが、研究者の歩んできた道をただ書くだけで十分にこのような壮大なドラマに仕上がっただろうと思う。 数学者や物理学者は脳的に異なる人種の人だと長らく思っていたが、最近は全然そんなことはないと思っている。 それは自分の経験からもそうだし、飲茶さんの本で「哲学的な何か、あと数学とか」を読んだことも大きい。 私が数学や物理をできるとは思わないし、何か特別な一つのことに偉大な彼らのように全身全霊を注ぐことも無理なのだが、何か未知のことに興味のまま走ったり、今あるものに常に疑問を抱いたりする姿勢については少し分かるような気がする。 方向性と度合いが違うだけだ。 と言いたい。 最後の回で、これまでの話で研究者たちが突き詰めても突き詰めてもぶち当たっていた数式の矛盾に、「496」という完全数を以てして糸口をつかむシーンは何だか鳥肌が立つ思いだった。 私はこれらの学問的なことを超表面的にぺらっぺらにしか理解していないが、このときの壮大な発見や彼らの興奮は私にも伝わるものがあった。 何せそれが分かると、宇宙の成り立ち全部が分かるかもしれないと言うのだから。 一人の人生の歩みとしても、物理学の歩みとしても、行きが止まるようなドキドキがある。 私が言うと、ただの感想なのにも関わらず、ぺらっぺら過ぎて嫌気がさすけれども。 今日はそう言えば、父の命日である。 たぶん来年が13回忌なのではないか。 さて、昼間が休みの一日である。
睡眠は足りている。 うきうきしている。 ブログを書く、HPや画像の整理をする、作品を書く、掃除洗濯をする、観たい番組を観る、読みたい本を読む、買い物に出かける、ごはんを作る、サウナに行く、ごろんとする、再び寝る。 私のやりたいことややらなければならないことは、これ以外のことであることはとても少ない。 言うなれば全部やりたいけれどどれもそれなりの時間を要するものだ。 まだお腹は空いていない、風呂はさっき浴びてしまった。 とりあえず、「ののワさん」のことが書きたいので、コーヒーを淹れてブログを書くことにした。 ののワさんとは、バンダイナムコエンターテインメントのゲーム『アイドルマスター』の架空の登場人物、天海春香のよそ見をする表情の「のヮの」AAから派生して2007年11月5日に誕生した、正体不明のキャラクターである。 ※ニコニコ大百科より抜粋。 私はこの界隈のことに詳しいわけでは全然ないが、そういうことらしい。 「の」が目で「ワ」が口になっている女の子ということだ。 要は、へのへのもへじ、だ。 何の脈絡だったのか定かではないが、「の」と「ワ」で、筆を使って顔を書き始めた。 ついでに、ののワさんの輪郭を数字の「3」にもしてみる。 キャラクター天海春香のよそ見する表情のAAという縛りは無しにして、というか、私は書き始めの時点でののワさんの本当の姿を見てもいなかった。 想像のののワさんの推移が下の画像である。 書道家として、「の」と「ワ」のバリエーションでもう無限のののワさんができることを知っている。 だから2種類のののワさん、男の子バージョンと女の子バージョンを書いた。 この推移に至るまでになんと紙を100枚以上は使ったと思われる。 私は絵描きではなく字書きであるし、絵については練習をしたこともほぼなければ、素質が元々絶望的ポンコツである。 女の子のイメージが一定の形に収束したのは比較的早かったのだが、男の子がなかなか書けず。 1枚目は人というよりかはお化けである。 序盤は書道家としては絵よりも線にこだわろうとしてしまっていたのだが、やはりこれは字ではなく絵なのである。 ”書的”ではなく"絵的"に何とか成り立つところを何とか探らねばならない。 しかも抽象ではなく、「の」と「ワ」と「3」のみを使って男の子と女の子の顔という記号が成立するように。 所謂書的な良い線の前に、記号としての顔が成り立っていないと絵にならない。 そしてもはや紙を数十枚も消費してしまっているものだから、とにかく何らかの成果物がないと報われないというすけべ根性を発揮してがんばる。 壁に貼っているいくつかの作品を見渡して、「の」の文字を完全に黒く潰した状態で書いているものを発見。 それをサングラスに見立てるというアイディアで漸くの着地点を見ることができた。 黒く潰した「の」が「の」であるかは微妙なところだと思うが、私自身は「の」を書いているつもりがあって、「の」によって導かれた"ののワ"くんが生まれたからそれで良い。 それにしても、目の向きや目に取り込む光りの具合、口の大きさや位置、輪郭の太細や湾曲方向など、「の」と「ワ」と「3」だけしか使っていないのに本当に絵というのは難しいものである。 すでに持ってはいるものの、改めて、背筋を正して、絵の世界に敬意を向けられる気がする。 今回の創作過程での苦労というのは、私が絵についての知識や手法を持っていなさすぎということもあろうが、「どの方向性に行くとそれなりの納得感が持てるか」ということが見えなかったことによるところが大きい気がする。 このことは字のみの創作物でも十分に言えることであり、記号としての素材だけ用意されている状態から一定のイメージにたどり着くのは本当に苦しいものである。 私は書き始めの前に明確な映像が浮かんでいることなどほぼないので、日々の創作で私が最も大変であると感じるのはそこなのである。 ある程度これで良いかなという地点が見つけられれば、あとは線的余白的微調整と偶然の産物のマリアージュを待つのみである。 それが下の画像で言うと3番目以降であることは明白だろう。 この間にも非常に死んでいった多くのののワくんとののワさんがあった。 まあ、マリアージュまでは至らなかったが、最後はボンド墨を使う余裕もあった。 普段やらないことに精魂使い果たし、成果物はただのこれだけなのであるが、なんだかとても良い時間であった。 ちなみに最後の画像は「不立文字」という言葉を篆書体で書いてある。 禅宗の教義を表す言葉で、文字や言葉による教義の伝達のほかに、体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味、らしい。 久しぶりにマンションの屋上に上がってみる。
私が選ぶとき抜け感を最重要視したこのマンションは、私の部屋からの景色も良いけれど、屋上はさらに抜けていて、都会の風景と都会の大空が広がっている。 古い建物の特徴らしいが、屋上に洗濯物を干す鉄棒のようなものがずらりと並んでいるのも圧巻である。 例えば文京シビックセンターの上からの夜景や都庁の展望台からの夜景も、きらきらのビーズをわっとひっくり返したみたいできれいだけれど、同じような高さのビルがそびえる中途半端な位置からの夜景も良いものだ。 眺めるべき星空はないけれど、いつだってどこだってある空の広さを感じるには十分である。 幼い頃、実家のベランダから頸が痛くなるまでよく星空を眺めていた。 星座などにはあまり興味がなかったが、ただ星を眺めるのが好きだった。 このまま重力がなくなって空に放り出されたいと、ロマンチックな意味ではなく思っていた。 死にたいとか明確なことではなかったのだけれど、自分が生きているという実感は著しく乏しかったのだろうと思う。 空は雄大で全て覆い包んでくれるような、それでいて解放させてくれるようなものの象徴的存在ではあるけれど、そしてそれは一時においては事実であることもあるとは思うが、結局は何も跳ね返りの無いただの"空"である。 空を見上げればいつだって悩みが吹き飛んで、空を見上げればいつだって自分がちっぽけであることを確認できて、空を見上げればいつだって宇宙と繋がれる、そんなことはあるはずがないのだが、多少なりとも空に自分の安心を盲目的に託していたのかもしれないなと思う。 今も空は好きだけれど、全幅の信頼をおけるものでは全然ない。 私が空に何かしら作用することはほぼできないと言っていいと思うけれど、空があって私があって、空から私に何らかの作用がもたらされることを私が認識する、それでいいではないか、と思うようになった。 無理やり空を見上げるのではなく、見上げたら空があって、あぁ空だなあなんて思えたらそれで良い。 梅雨が明けたらしいではないか。 どうりで夏らしい強めの青空が広がっているわけだ。 毎年の展覧会が会期中なのだが、訳があって今回は誰にも告知することもなく、私でさえも会場に出向いていない。 書いた正信偈はこの目で見ておきたい気もするが。 その訳とは、私が今後団体への所属をどうしていこうかと思い始めてしまったからである。 私がこのように創作ができるのは間違いなく現所属団体のおかげであり、とてもとても感謝している。 それは変わらない。 けれども、もう離脱しても良いのかもしれない理由を自分で並べ立てることができてしまっているのである。 8日の日曜日まで国立新美術館で会期中であることを、こっそりとここに書いてみる。 私も行けたら行きたい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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