告知させていただいていた池袋の「書道のはなし」は15名満席となった。
本当に有難い、文字通り有難い話である。 至極月並みな話だが、自分だけの呼びかけるのではなく、企業を後ろ盾として、販促をしてくれるというのはすごいことだと改めて思った。 よくクリエイター関連の仕事で活躍していたサラリーマンが独立して、会社の名前が使えなくなって仕事が全く来なくなったという話があると思うが、私はそもそも会社員時代クリエイターではなかったのでそのような思いをしたことはなかった。 独立後も細々と自分でやってきたので、会社という信用や販促力にそこまであやかったことがあまりない。 もちろん、無いわけでもないのだが。 ひとりでやることの力の無さや孤独さや淋しさは、引き換え自由時間という名で返ってくる。 自由時間はハッピーな面が多くあるけれども、実際のところ、多ければ良いわけでも、少なければ良いわけでもない。 結局何事もバランスという言葉に尽きてしまうわけだけれど。 ひとつのイベントをその都度輪郭作りから始めて一から集客するのは骨が折れるので、やはり仕組化が必要だろう。 何だか過渡期と感じるこの頃だ。 さて、不意にMISIAのコンサートチケットが舞い込んできた。 というのは正しくないかもしれない。 夫の友人が1枚余ってしまったチケットがあると夫に連絡をしてきたのだが、その友人は私も顔見知りということもあって、「私が行きます!!!」とチケットを奪い取ったのだ。 MISIAに熱を上げたことがどのくらいあるか、おそらくだが、夫よりかはあると思う。 よく分からない熱意で夫を説得し、夫も納得した。と思う。 さいたまスーパーアリーナは行ったことが無かったけれど、結構遠いなと思った。 東京ドームのような雰囲気だけれど、ドームよりは狭い印象。 1,2,3階席があって、2階席の最も後ろのあたり。 広いコンサート会場は、本人を生で見るというよりは映し出された映像を見ることになる。 ごくごく単純な感想としては、彼女の歌唱力や体力に度肝を抜かれた。 デビュー曲を聞いていた高校生の頃よりも確実に声量は上がっていて、それを延々と出し続けられる体力がある。 歌がずば抜けて上手くてアスリートのようである、それが彼女を表する言葉として相応しい。 しかしその表し方では足りない何かがある。 最近はあまり行ってないが、私もこれまで数々の音楽ライブに行ってきた。 でも、MISIAのライブは初めての感覚があったのだ。 今あてられる言葉で言えば、彼女は”神様”のような存在だということだ。 これまで実物を生で観てきた有名人たちは私生活を何となく想像することができる。 ご飯を食べ、歯を磨いて、しょうもない話もする。 どんなにパフォーマンスが優れていても、ひとりの普通の人間で、間抜けな行動や誤った行動などもするイメージが付く。 彼らは魔法使いではなく、”人間”であることが垣間見え、想像することができる。 MISIAにはそれが無いのだ。 どこかのタワーマンションに住んでいる絵も、タクシーに乗っている絵も、歯を磨いている絵も、歌を練習している絵も、どうにも浮かばない。 歌以外に少しMCとして喋っていたけれど、それでも浮かばない。 話していた事柄も、浮き世に降りてきた神様のような話だった。 紅白歌合戦の取りを務めたり、いつかのオリンピックで国家を歌うなど、もはや仕事としても”神様”の偉業だ。 コンサートの帰り道、MISIAのWikipediaを見たけれど、難民支援などにも積極的であるということを読んで”神様”である思いはさらに高まった。 一切のスキャンダルも起こさず、精神を健康にし、身体を健康にし、一切の遅刻もせず、加齢を経て歌唱力は高まり。 考えれば考えるほどに”神様”の偉業だという気がした。 バズーカ砲のような彼女の歌唱は聞き手としてやや体力を使ったけれど、それでもこんな初めての気持ちにさせてくれてありがとうと思った。 「陽の当たる場所」も「Everything」も、20年以上前の懐メロで、私も年を取ったものだ。 しかし、MISIAの方が年上なので、もはや何が何やら、だ。 <YouTube> 【読める?】アジア、アフリカの数字!【世界の数字⑤最終回】-#053 誰でも応募可能!2024年夏、手書き文字で賞金30万円を狙え!【書道家うどよしインタビュー後編】 -#054 <note> 現役書道家プロファイルVol.5【うどよし】
0 コメント
月曜日は息子の療育の日で、えっちらおっちら、直線距離はさほど遠くもない交通の便の悪い療育教室へと向かう。
行き方は、電車を2回乗り換えていく方法と、バスの終着駅から10分歩く方法の2通りがある。 所要時間はどっちもどっちで、ならば安い方とバスに軍配を上げつつも、10分の徒歩時間を最悪は全部抱っこして歩くことになるので、やはりどちらが良いわけでもない。 私は療育を、無料で受けられる個別の専門家の手厚い習い事、と思っている。 と言うと、語弊がある気もするけれど、でもまあ、そんな感じだ。 コミュニケーションにおいては、待つこと、相手の言うことを聞くこと、相手に主張すること、集団で学ぶということ、などを主に訓練する。 個人的な能力の面では、簡単なパズルを行ったり、線路を組んでみたり、形のみで何かを想像してみたり、積み木を積んだり、ボーリングをしたり、工作をしたり。 幼稚園・保育園で行うのとほとんど同じ内容を、個別の特性をよく理解してもらった上で繰り返し行ってもらう。 先生方は決して怒ったりしないどころか、大きな声を出すことも一切ない。 刺激に敏感な子たちが多いので、なるべくローテンションで、注意するときも大きくない声で話す。 先生方は皆、臨床心理士又は公認心理士の資格、あるいはそのどちらも所有している。 大学院を修了しないと得られない資格のはずなので、時間と労力とお金をかけてその仕事に就いているということだ。 何事も基本的には、専門分野は専門家にお任せするのが吉だと思う。 学力や資格のみが全てを決めるとは思わないけれど、あらゆる専門という知識の厚みをなめてはいけない。 だから、私は時々意見は言うものの、療育の方針は先生方にお任せしている。 それは、療育へ通う当初より、私自身が息子に対して限度を超えて困っているという思いを持っていないからだとも言える。 今日、いつも月曜日に来ている男の子の親御さんと不意に話をした。 お子さんと全くのペアルックをされていたので、私が「かわいいですね」と言ったところから会話が始まった。 療育に通っているくらいなので、お互いの悩みはある程度想像がつく。 療育に通っていない人と話をするよりも随分話が早いだろうという感触はお互いに持っている。 集団で話が聞けない、多動で困っている、そんな話をそのお母さんは滔々と話し始めた。 お母さんと生き物はいつだって、子育てに関する会話に飢えている。 たぶんそれは多かれ少なかれどのお母さんもそうだろうと思う。 漏れず私もそうだ。 発達障害において、次のようなことはよく言われることだ。 集団で話が聞けない、じっとしていられない、言うことをきかない、思い通りにならないと癇癪を起こす、急に走り出す・・・ 私はいつも思うのだが、これは子どもという生き物全体の特徴なのではないのか。 元気な子どもの成長の証なのではないのだろうか。 もちろんその度合について問題視しているということはあろうけど、それでも。 しかしながら、親当事者にとってみれば、そういったことが毎日こちらの都合の一切を鑑みずに起こると、疲弊してしまうことがあるだろう。 多動のお子さんを見ているのは、24時間命を守ることに徹するガードマンを行うということだ。 四六時中肝を冷やし、瞬時に動ける体制を取り、いざとなったら力づくで制止する。 ただの一度も、車とぶつかるようなことがあっては決してならない。 誇張ではなく、本気でそれをしないと子どもは本当に死んでしまうかもしれない。 あるとき、そのお母さんは、子どもに手をあげてしまったと言う。 それで、もうだめだと思って福祉課に連絡を取ったそうだ。 思わず、泣きそうになった。 私は息子にかろうじて手をあげたことはないが、それは比較的慎重な息子の元々の性質によるものだし、そんな息子に対してもカッとなったことはこれまで100回以上ある。 他人のことだがそのお母さんに対し、さぞ辛かったろう、と思った。 少子化の昨今、行政の子ども支援は手厚くなっているとは思うが、それでも孤独なお母さんは沢山たくさんいると思う。 それは発達障害というような括りが無い場合にも、だ。 なんだかんだと時は過ぎ、なんだかんだと子どもは大きくなるものだとも思う一方で、日々の、現場の、その辛さが軽減していくと良いのになあと思う。 <YouTube> 【読める?】アジア、アフリカの数字!【世界の数字⑤最終回】-#053 誰でも応募可能!2024年夏、手書き文字で賞金30万円を狙え!【書道家うどよしインタビュー後編】 -#054 <note> 2023年12月2日(土)13~15時@池袋にて「書道のはなし」 手書き年賀状の書き方【表面(宛名書き編)】 私の読書難については何度も書いたことがあるが、私は読書が苦手である。
全く読めないというわけではないし、うっすらとなら人と本の話ができなくもないのだが、本当に本を読むという行為が下手なのである。 本は、嫌い、とも、好きではない、とも言いたくない、だって私は本好きになりたい、でも限りなく程遠い。 色々と試してきたが、もはや私は本好きの人生は諦めようと思っていた矢先、人からオーディブルを勧められた。 Amazonの聞く読書、オーディブル。 「読む」のではなく、「聞く」。 「聞く読書」とは言え、もはや「読書」という行為の範囲を超えているかもしれない。 2,3週間ほど前に30日間無料トライアルを始めて、平日はほとんど聞かない日はない。 と言っても、1日に聞く時間は平均して1時間もないくらいだと思う。 それでも、私にとって本という存在はいつもハードカバーよりも分厚い皮が被っているわけで、どういう形であれ”読み”進められるのは有難い。 手始めに、村上春樹「職業としての小説家」、続いてオーディブルを勧めた知人のおすすめ「営業の魔法」、続いて「サピエンス全史」を読んでいる(聞いている)。 皮切りに村上春樹のエッセイを選んだのは、彼のエッセイに私は結構信頼を持っているからだ。 「走ることについて語るときに僕の語ること」というエッセイは文字通り読んだことがあって、とても感心した記憶がある。 彼の小説も3,4冊くらいは読んだことがあるのだが、小説よりも読みやすい。 村上春樹に限らず、もとより、私は小説というものが苦手なのかもしれない。 エッセイにおける彼のものの見方や言い方は、過不足が無いように思える。 的確に物事を捉え、できるだけ誇張したり謙遜したりせずに、事実にちょっと格好つけておしゃれに伝えている、そんな感じがする。 オーディブル一番最初に聞く本は肝心だ。 もし最初に聞いた本が最後まで聞き通せなかったら、私はオーディブルという期待の星を深く知る前にいとも容易く手放してしまうことになるだろう。 期待通り、「職業としての小説家」を楽しく面白く、8、9時間かけて聞き通すことができた。 出だし好調!!と「サピエンス全史」の上巻も全部聞いた。 ところが。 そこから、もはや2週間ほど経つのだが、ぱったりと聞いていない。 イヤホンを持って出るのを忘れたり、何だか慌ただしくてそんな気分になれなかったり。 一度聞かなくなると、何だか手出しするのさえ億劫になってくる。 もう無料期間が過ぎてきっと課金されてしまっているだろうに。 オーディブルは聞くものなので、本を持つ必要もなく、何か作業をしながらということが可能だ。 しかし、片手間で聞いていて理解できるほど本の内容は容易いものではない。 大抵歩いているときに聞いているが、買い物も電車でさえも、意識が外界に持っていかれるとすぐに話が飛んでいっていまう。 調子よく聞いているときは止まらない一定の流れが有難いが、集中が途切れるとどんどんと濁流が目の前を通り過ぎていくだけになってしまう。 音声のみで漢字を見ていないので分からない単語も出てくるが、都度止めるのもリズムが狂う。 一方で、YouTubeなどでラジオ形式のものを聞くのは、私の至福の時間のひとつである。 面白そうな対談などを聞きながら、書の臨書をする。 創作は考えることも多いので、臨書が良い。 その対談の内容はまばらに頭に入ってくる程度だ。 この時間にオーディブルを聞こうとは思えない。 本には余白がないからだと思う。 まず、そもそも「聞かせる」ためにできていないからだと思う。 それでも、読まないよりも良いと思う。 私の本への取り組みは、その根が枯れかけているのに根深い。 「サピエンス全史」の下巻から再度始めようか。 <YouTube> ⇒【数字シリーズ③】江戸時代頃の数字あれこれ。「アレ」の聖地甲子園の語源-#051 ⇒【世界の数字】ローマ数字/ギリシャ数字/アラビア数字/インド数字【パイ株?/数字④】#052 ⇒アジア、アフリカの数字!【世界の数字⑤】-#053 <note> 【漢字創成の神話】蒼頡(推定紀元前2510年~紀元前2448年) 手書き年賀状の書き方【表面(宛名書き編)】 とある企業の施設で、講話?ワークショップ?のようなものをやらせてもらえることになりました。
これはその告知です。 お字書き道TALKSの活動が功を奏して、私もそれなりに知識が増え、お話スキルも付いてきた?のでお声がけいただいた企画です。 書道に興味が無い方でも大歓迎、どなたでもご参加いただけます。 基本的には書道の話をしますが、歴史雑学的な話から、書道における現代アートの立ち位置という比較的ポップなお話まで持っていきます。 ※お話の内容自体は去年私の生徒さん向けに懇親会込みで行ったものとほぼ同じです。 二部は年賀状のサンプルを見ながら、みんなであれこれお話をしたいと思っています。 筆ペン1本プレゼントですが、書きたくない方はまったく書かなくて大丈夫です。 十数人程度の小規模なものなので、ぜひお気軽なお気持ちで話を聞きに来てくださったら嬉しいです。 お申し込みは上のQRコードからも出来ますが、私へのダイレクトメッセージでも構いません。 普段はあまり耳にすることのない、それなりに面白い内容をお話ができると思いますので、お申込みお待ちしております! 夫がとても珍しくヨーロッパへ1週間出張へと出て行き、同じころ自宅マンションの配管工事が始まった。
専有部分の3か所、風呂、台所、トイレに通っている建管を物理的に新調するというかなり大掛かりな工事。 住んでいるマンションはかなり古く、各所で水漏れ等が起きており、満を持してマンション全体で工事へと舵を切った。 と言っても、全戸に承諾を取り、全戸に入室する工事なので、管理組合の理事会や管理会社はさぞかし大変だっただろうと思う。 建管の通っている箇所の壁をぶち壊し、パイプを切り、新しいパイプに接続し、壁を閉め、壁紙を貼る、という一連の工程を部屋の三か所で行った。 トイレを外し、洗面台を外し、クローゼットのものを全部出し・・・うちは相当物の少ない家だと思うが、物の多い家では倍以上に大変な作業量だろう。 もちろん、工事期間中は日中は排水制限となり、水が使えない。 マンションの敷地内に仮設トイレが設置された。 私は仮設トイレというものに良いイメージがなく、昔のいわゆるぼっとん便所のようなものを想像していた。 できるだけ行きたくないと思っていたが、そういうわけにもいかず恐る恐るトイレに向かってみると、なんと普通の温水シャワー付きの温かい便座のトイレであった。 掘っ立て小屋のような仮造りで薄暗くはあるけれど、快適なトイレだ。 今は地方の道の駅などの公衆トイレも随分ときれいで立派なものが多い。 子どもの頃、臭くて汚くて暗くて震え上がるようなトイレが多かった。 トイレもひと世代前進して、完全に時代が進んだようだ。 1週間も夫がいないので、けいこを助っ人として前々から予約していた。 けいこには孫が何人もいてひっぱりだこであることに加え、彼女は多趣味なので日ごろから何かと忙しく予約が必要だ。 今回も随分と世話になった。 今日、私は本当は前橋に行く予定だったのだが、雨でその予定が流れたため、けいこが観たいと言った「ゴジラ-1.0」を観に行くことにした。 なんでもけいこの故郷の海が映像で使われているらしい。 私は基本的に映画館に行く習慣はなく、臨場感が必要そうなアクションもので、人から誘われれば行く程度だ。 決して、今上映している「月」などを大スクリーンで見たいとは思わない。 日常はスマホにイヤホンで映画を観ている。 私はゴジラについて、どでかい怪物が街を襲う、というくらいのイメージしか持ち合わせていなかった。 「シンゴジラ」は観たが、痛快な映画だったような気がするというくらいの印象である。 今回、「ゴジラ-1.0」を観て、完全なる戦争映画であることがよく分かった。 ゴジラ70周年の今作は、1954年の特撮怪獣映画『ゴジラ』のリバイバル版である。 映画ならではの現実味のない作戦や行動はさておき、単純にとても面白く観た。 人間の根源的な戦いへの欲望や敬意、憎悪の連鎖、逃げた者や奇しくも生き延びた者の個人的な苦悩、そして決して終わらない戦争。 ゴジラは人間の感情を持たないが、あらゆる人間の憎悪の権化、象徴なのだろう。 原作の『ゴジラ』とほぼ同じ内容であるかは知らないが、あの映画が戦後10年も経たない間に作られたと言うのは興味深い。 復興の最中、反戦を大きく掲げながらも、描いているものは決してそれだけではないように思えた。 映画では、終戦を迎えても多大な苦悩を持ち続けている人たちの「俺の戦争」も主題のうちのひとつだ。 私の世代は、戦争を実際の体験者から生の声を聴くことができた最後の世代だと思う。 しかしながら、その話を聞いた頃は幼すぎて、少なくとも私はあまり実感をもって聞けていなかった。 けいこの世代は、親が戦争体験者なので、私よりもずっと戦争というものが体感としてあるようで、けいこは映画の最後のあたりは少し泣いていた。 映画は誰かと一緒に行って鑑賞後の感想を言い合いのも良いのだが、隣で泣かれるのはなんだか困る。 ぜひ、映画館へとおすすめしたい映画だ。 <YouTube> 【数字シリーズ③】江戸時代頃の数字あれこれ。「アレ」の聖地甲子園の語源 【数字シリーズ②】日本の数字の歴史。古代~平安時代まで! 【書道家対談シリーズ「うどよし」さん】テレビ出演多数、ユニクロコラボ!読める書道の追求 <note> ⇒「八万三千八」なんて読む?漢数字、和歌の世界。 ⇒【漢字創成の神話】蒼頡(推定紀元前2510年~紀元前2448年) 兄が来ている。
私には兄がふたりいて、私は双子の姉妹で、4人きょうだいである。 今回来ているのは下の兄、親からすれば次男。 彼は独身なのだが、子どもが好きで、息子とよく遊んでくれる。 自分が子どもを持ってみてわかるのは、こどもはとっても大変だということ。 色んな子がいるとして、それでも皆、大変だ。 子どもの心の面でも、学力的な面でも、大きくなってからの仕事の面でも、そして家族皆の経済的な面でも、親は心配をしている。 そんなのが4人もいるだなんて、恐ろしいことだ。 たぶん、どんな家庭にも、一時は誰にも言えないようなことがあるのではないかと思う。 時を経て、悩みとして打ち明けたり、事が済んでから思い出話として話すことはあるだろうけれど、渦中にいるときは決して人に言えないようなことが。 どんな類の話だろうと、あるのではないだろうか。 子どもの数だけ、幸せも増えるのかもしれないし、困難も増えるのかもしれない。 子どもはひとりの人間であり、総じてコントロールできるものでは毛頭ない。 最近観た動画で、哲学者の東浩紀さんが「子どもはコミュニティの異物、突然入ってきたよそ者」というようなことを言っていたが、それにはとても納得した。 大人が、夫婦が、物事を進めるに際し、ある程度秩序だった人間同士が下す決断において少なからず「同意」が存在する一方で、子どもは全く同意なしに入ってきて、さらに確たる同意などを本人が下せる状況にもない。 人間のコミュニティは常に、同意のない他者の存在によって、突き動かされたりするものだ。 家族は大切、家族は一番、そういった社会通念の中で、家族構成の重要な一要素である子どもだけは、その家族になることを本人が同意して入ってくるわけではない。 もちろん親側にとってもそれは言えるかもしれない。 親ガチャ、子ガチャ、なんて言葉はそういった意味合いだろう。 私は家族というものを盲目には見ていないつもりで、家族だから大切、家族だから一番、とは思っていない。 だからと言って、家族は大切ではない、というわけでは毛頭ない。 しかしながら、家族が一番ではない、というのはそうかもしれない。 子どもがいる家族、きょうだいがいる家族、という不意の産物コミュニティと、多くの人は最も幼い時期を最も近く過ごす。 当然ながら愛着が生まれたり、憎悪が生まれたりするだろう。 この不意の産物コミュニティが時間を経て、構成員の皆がその不意であることさえも忘れて、寄り添ったり寄りかかったり寄りかかられたりする。 いつだって、良かったり、悪かったりするだろう。 子どもがいない家族関係、きょうだいのいない家族関係、というのは単純な個々人の”同意”だけで成り立つことが多いと思う。 例えば、子どもがいない夫婦、の関係は見ていて落ち着きが感じられることが多い。 その関係において「不意」であることがほとんどないからだと思う。 互いの同意がそこにあるからだと思う。 私が敬愛寵愛する「きのう何食べた?」というドラマが非常に愛おしいのは、二人の同意によってのみ成り立っている関係であり、加えていわゆる普通の男女愛でない稀有さを二人がとてもよく分かっているからだろう。 いつだって、良かったり、悪かったりする。 子どもがいても、良かったり、悪かったりする。 きょうだいがいても、良かったり、悪かったりする。 家族的な不意、の良さももちろんある。 <YouTube> 【数字シリーズ②】日本の数字の歴史。古代~平安時代まで!#049 【書道家対談シリーズ「うどよし」さん】テレビ出演多数、ユニクロコラボ!読める書道の追求-#050 <note> 【閲覧注意】書道用紙に住む小さな虫の話 「八万三千八」なんて読む?漢数字、和歌の世界。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|