ことはweb展が終わって、なんと私の作品は4点中3点が売れた。
3点目は夫が買ったのだが、私はぜひ買ってくれと頼んでいないので売れた数に入れておきたい。 他の2点はその筋の方、言うなれば同士の方が買ってくださった。 そして先日、展示会が終わった後、未出品でFacebook上にアップロードしていた作品を欲しいと言ってくださる方がいてまた売れた。 4点売れても生活なんて到底できやしないけれど、依頼作品ではないものが売れるということは、やはり特別感がある。 作品をつくるとき、誰か買ってくれるモデルや飾られるシチュエーションを想像して書いても良いのだが、今のところ私はあまりそういう想像をしていない。 本当は、戦略は当然ながらより緻密にあった方が売る際には良いというのは分かっているが。 この展示会関連の作品は、私が元よりやりたかったことと結構近いのだが、一般受けしづらいとは自分でも認識している。 教訓的な言葉でも、励ましの言葉でもないし、見た目に飾って映えるものでもないと思う。 だから買ってもらえるとしたら一風変わったその筋の人だろうし、しかしその筋の人は目も肥えているだろうから、売ることは難しいと思っていた。 けれど、売れた。 長年、ここまで本当にコツコツと日々やってきたことがひとつふたつと結実したというのは、ただの通過点に過ぎないとはいえ、まずは手放しに喜び、私が私に誇って良いことなのではないかと思う。 それで、買ってくれた方々がどのように作品を楽しむのか、そこはとても気になるところである。 以前に3点まとめて買ってくださった方は、書斎の本棚の脇にマクリ(裏打ち無しの書いた状態そのまま)のままメモ用紙のように貼り付けて、毎日眺めていると仰っていた。 また別の方は、自分の主催する書道教室の創作の時間に、生徒さん達にご覧いただく作品例として展示すると仰っていた。 変な話だが、自分の作品をそのように眺めていただき、嬉し恥ずかしなのであるが、私はその購入者の方々のことを「変わった人だなあ」と思ってしまう。 もちろん自分でも良いと思っている作品なのだが、私のテーマである違和感を手元で眺めたいとはやはり変わっている。 ぜひ直接お話を聞いてみたいものだ。 このWeb展が成功だったかどうかは、主催の山本氏の感想を聞いてみないと分からないが、こぼれ話を聞くには今一歩だったのだろうと思う。 まだまだ活動自体が黎明期すぎるので、私も引き続き探究していく次第である。 さて、いよいよ息子の保育園が始まる。 様々なものを買い揃え、私はひとつの準備の度に息子を抱きしめてしまう。
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とある休日のお昼を食べ終わった午後、散歩に出かけようと提案していた夫は気がつくと倒れるように寝ていた。
ここのところ連勤が続いていて疲れが溜まっているのは目に見えていた。 以前、休日に寝てしまって私が気分を損ねたことがあったが、寝るつもりもないのに身体が言うことを聞かず寝落ちてしまうことを責めようがない。 ましてや、私が思うに、夫はぐうたらなタイプではない。 しかしながら、そうは言っても、目の離せない息子を休日には見ていて欲しい気持ちが勝って怒れてしまうことが度々あった。 おそらく、このことに共感してくれるお母さんは沢山いるのではないかと思う。 今回は怒らないようにと、そして寝ている夫を起こさないように、息子を抱っこ紐に素早く入れて外に出た。 散歩中に起きて連絡してくるかしらと思っていたが、私が疲れてしまうのが先で、家に戻ると夫はまだ倒れ込んだままだった。 息子の相手をしながら「逃げるは恥だが役に立つ」の再放送を見てやっぱり面白いなあと舌を巻いていると、夫が今更だが慌てた様子で起きた。 私は少しだけ自分の中の火消しができておらず、燻っていたので何となく黙っていた訳だが、今度は夫が息子を抱っこ紐に入れて出かけていった。 久しぶりにひとりになって、「逃げるは恥だが役に立つ」を見終わって起き上がれそうもないので私もこのまま寝ることにした。 地面に、というか、床に、全体重を手放しに預けたのが随分久しぶりな気がした。 意識的に目の力も抜いて脱力した。 息子を目でも追わず、気を張らず、天井を見上げた。 そして、窓からはそよそよと風が吹き込んできて、間もなく寝入った。 そう、とっても、とっても、ひとりになりたかった。 息子は愛おしくて堪らないけれど、そして2時間の昼寝の後もう息子に会いたくなるわけだけれど、それでも、とっても、とっても、ひとりになりたかったのだ。 だから、嬉しかった。 来週には、保育園の入園面談がある。 認可保育園の希望園では空きがなかったが、小さな認可外保育園に入れることになりそうだ。 大量の書類を記入していると、いよいよだなと感じる。 たくさん、ひとりになれる。 気を遣わず、仕事もできる。 けれど、悲しいだろう、寂しいだろう。 共依存関係から、少しずつ、私はひとりを取り戻し、息子はひとりを楽しめるように。 お母さんやお父さんや、お家以外も良いものだと、世界は広いものだと、少しずつ知って欲しい。 来月でもう一歳の誕生日で、一年間も無事に生きたことに涙が滲みそうになる。 一年間、私は思う存分、私の身体が求めるだけ、息子を愛でてきた。 息子が生まれて初めて知ったのは、私の中に愛でたい本能があるという事だった。 愛でるべき、可愛がるべき対象が目の前にあって、こんなに愛でたかったのだ、可愛がりたかったのだと自分自身に感心している。 それが自分の子どもだからなのか、息子そのものだからなのか、はたまた小さきものだからなのか、おそらく小さきものだからなのではないかという感じさえする。 かといって蟻やハムスターをそういうふうに可愛がることは無さそうなので、犬や猫くらいの大きさからのような気がするが。 犬や猫も特段好きでもないし、ペットを買おうと思ったことは大人になってから自覚的には皆無だが、もしこの先10何年か子どもを持つことがなかったのなら、ひょんなきっかけから犬か猫くらい買っていた可能性も無くはないのかもしれない。 そのくらい、愛でたい本能が私の中に出番を待つかのごとく眠っていたのである。 飼い犬も子どもも、完全なる自分の所有物ではないが、筆頭株主くらいの権利を握っている身としては、自分の飼い犬や子どもには、頬ずりしたりキスをしたり抱きしめたり、し放題である。 他人の飼い犬や他人の子どもを思うがままに可愛がることはほとんど出来ないだろう。 だから、思うがままに愛でる対象が手元にあるのはとても幸せなことである。 しかし、子どもは犬ではないので、相手の都合で思うがままに愛でることが徐々に出来なくなっていくだろう。 もちろん、そうなってくれないのも困る。 だが、寂しい気持ちにもなる。 あまりに当たり前のセンチメンタルの背景には、しとしと梅雨空がある。 10万円の給付金を当てにして、高めの画集を4冊買った。 寝ている隙に眺めよう。 さてさて、暑い。
ベビーカーに乗せた息子が寝るとベビーカーの幌を下ろす。 足だけがベビーカーからぴょこんと出て、道行く人がそれを見て、「可愛いあんよが出てる」と立ち止まって何度微笑まれ、話しかけられたことか。 中身はもっと可愛いのだけど。 しかし、足だけがまあ見事にこんがり日焼けしてしまっている。 日焼け止めを塗るべきか、いつも少しだけ迷うのだが、今のところ使っていない。 私も日焼け止めは好きでは無いので、家に大人用の日焼け止めもない。 私は長袖にキャップ、さらに今はマスクをして防備している。 私は夏好きだが太陽が好きではなく、紫外線が苦手である。 日焼けをすると痒くなったり湿疹が出たりもする。 また、1時間でも直射日光下にいると異様に疲れる。 息子がどのような体質か分からないが、今のところ日焼けで黒くなった足を痒がることも無いし、とりあえずは良いだろう。 開催中のことはWeb展やアート書道系のWeb展示会を見ていて色々と思うことがあった。 ものすごく単純に言うが、最も大きな発見は、余白が潔い方が良いものが多い、ということである。 潔い、とは、ほとんど、広い、多い、と同義である。 白がよく出来ていて、良くない作品はない、とよく言うものなのだが、それは裏を返せば当然ながら黒がよく出来ているということにほかならない。 しかし、鑑賞時には、白を中心に語られる場合が多いのは何故だろうか。 その方が専門ぽいからだろうか。 この展示会に出す際、実に様々なものを書いたのだが、文字を紙面全体に広げるような書き方を何度もしていた。 あまり理想を掲げていない私にも憧れの書というものがあって、それらはどかんと飄々と堂々としているものだ。 しかし、成功する確率が低いことと、やはり何かがしっくり来ていない感じはしていた。 ところが、穂先を立ててこそこそとちまちまと書くと、少ない枚数で「これは良いかな」というものが出てくるのである。 主催の山本氏に、「どうして当たりそうなところを掘って洗練させないのか」と言われ、一抹の悔しさを持ちながら、大半の納得をたずさえて私はちまちまと書くことにした。 ちまちま書くのは、余白を沢山入れるのには適しているのだが、深層で紙面を埋めたくなってしまう。 要は、沢山喋りたくなってしまう。 そこで何を書くか、それも削ぎ落とすようにしてみる。 沢山喋りたい欲求を抑えておさえて、文言そのものにも余白を持たせる。 沢山喋るのはきっと自己保身のような節があるので、それを捨てて。 自分としては足りなさすぎるだろうか、と思ったものが、後で見ると、後ろ髪を引かれるような気になる作品であることも多い。 またやはり当然だが、何を書くのか、というのは悩ましいものである。 私はシンガーソングライター的なものでありたいと思っているので、なるべく自分の言葉を喋りたいと思っている。 しかも一般的に書で書きそうなことを書きたくない。 何なら、とても一般的な事柄、例えば格言や金言などについても書きたくない。 至極個人的で、恐らく多くの人が未知で、その上でできれば汎用性があること、を書きたい。 しかしこれは、下手をすれば、上手く汎用性の部分に消化出来なければ、鑑賞者が全く意味がわからないということにもなりかねない。 やはり書は言葉を扱うだけに鑑賞者が言葉に重きを置くのは当然である。 墨跡が読み取れない場合には、釈文や解説を見たくなるものであろう。 言葉は個人的で汎用性があって未知で紙面的余韻もちょうど良い、というのは本当に至難である。 今回の展示会は、骨董市のように、作品の売り出しをしている。 書を売る、というのはもう大変である。 書作品を買う、というのは、たいていの場合おそらく飾って眺める、ということであろうから、インテリア映えするものでなければならない。 そういう意味では私の一連の作品はほとんど向いていない。 インテリア映えするという点において言えば、禅語のように尊そうな言葉か、アート書道のようにもうさっぱり読めないどころか、文字を書いているのかさえ分からないものの方が飾りやすいのでは無かろうか。 しかしそれでも奇しくも、私の作品を買ってくださった方がいた。 同じく書をやっている方である。 文字通り、有難いことである。 芸術はコミュニケーションであると、私はそんなふうに思うことが近年固まってきた。 コミュニケーションには相手がいる、相手を慮る必要がある。 けれど、制作はひとりである。 何をどういう風に書くか、バランス、と言ってしまえばそういうことだ。 作品制作へのパラメータがとっちらかってしまった感じもある。 ここからはメモだが、パッと見の紙面構成の型、個性的な字面、鮮烈な文言、最終的に醸す謎感と違和感、これらが私の課題であるのだが、そこに例えば売れる軸や鑑賞者軸をどう入れていくか、も考えないといけないのかもしれない。 売れることが最大の喜びかと言われればそうでは無いが、売れることは良いことであるとは思っている。 このようなご時世だから、Web展示会なるものが開催されることとなった。
5月のゴールデンウィークに三鷹で開かれるはずだったリアル展示会の Web版である。 しかし、リアル展示会に出品すべく軸装した作品ではなく、他のマクリ4点である。 マクリ、とは、書いたそのままの裏打ちもしていない紙ペラ一枚の状態の作品のこと。 この展示会は、山本尚志という現代アーティストがキュレーターとなって行っているもので、流派などは無いので出品者の作品が似ているということは偶然以外では無い。 目指した手本も無い。 書く言葉も、紙も墨も、サイズも自由(サイズ制限は縦横合計1m以内)である。 この場合、まず何を書くか、肝はそこである。 またここでは、基本はたとえ著作権が切れていても人の詩や俳句を書くことは良しとはされない。 テーマは「現代の骨董、侘び寂び」なので、それに沿っていればなんでも良い。 私としては、こんな展示会があるなんて、本当にラッキーだと思った。 好きな言葉を書けば良いのはいつだってそうなのだけれど、また、ひとりで書いてひとりで露出していけば良いのだが、私にはその度量や器量が足りない。 当然ながら影響力は雀の涙だ。 だから、ある程度名の売れた方のキュレーションで発表の場が持てるのは本当に有難い事なのである。 作品を書くことよりも、その場を作ることの方がよほど難しいことだと思う。 主催者の山本氏は、書の歴史を変えたい、歴史を作りたい、と彼はよく言っているが、決してその発言が誇張ではないことを日々示す行動をされているのが凄いことである。 私は今回の出品のために数ヶ月で数百点の作品を書いてきた。 「現代の骨董、侘び寂び」のほかに、私のテーマは「記憶」「違和感」である。 展示の4点は完全に山本氏の選なので、私としては、他に気に入っていたものもあった。 まあでも、そこはそれこそがキュレーターの仕事である。 ことはウェブ展 https://kotohaweb.base.ec/ やはり個人的には生がいいと思わざるを得ませんが、なるべく大きなパソコンディスプレイで見ると良いと思います。 私は「竹内恵美子」の名で出ています。 サーキュレーターを出した。
うちには扇風機はない。 サーキュレーターを首振りで回すと、部屋の空気が明らかに攪拌されて気持ちよくなった。 空気が澱んでいる、というのがどうやら私は苦手なようで、だから私は窓や扉をしっかり閉められないのだと思う。 部屋が綺麗とか汚いとかではなく、むわ、とした密室は疲労が倍速でやってきて具合が悪くなるような気がする。 まあ埃は、むわ、を助長するものではあるけれど。 外でも、土地の低いところは空気が溜まりやすい。 渋谷は街並みもさることながら、谷底だから好きではないのだと思う。 散歩をしているととてもよく分かるが、東京は起伏が激しく、思いもよらない急坂がたくさんある。 ウロウロしていると、少しずつ空気の色合いが変わっていくのも散歩の楽しみのひとつである。 台地上の抜け感がある住宅街に行くと、あぁこんなところに住みたい、と思うのだが、一方で毎日まいにちこの急坂の上り下りをすると考えるとそれは出来ないなと思い至る。 しかしやはり、いつかこんなところで初夏の目覚めを味わってみたいものである。 ところで、扇風機というと3年ほど前に亡くなったおばあちゃんのことをよく思い出す。 エアコンは調子が狂うから嫌い、扇風機も自然の風ではないからできるだけ使いたくない、と言っていた。 ある時、私が扇風機を首振り微風に設定して、おばあちゃんと一緒に昼寝をしていると、おばあちゃんは目を閉じたまま「庭からいい風が入ってくる」と呟いた。 これが文明の利器だよ、と思いつつ、私も何も言わず昼寝を続けた。 何事も過剰は良くないが、人間は適温適風は、それが機械で起こされようとも気持ちが良いと感じるものである。 所謂“自然”信者を私はあまり信じていない。 “自然”の定義については、人間を含む、と言いたい方である。 深くないのであまり言及しないで欲しいが。 ここに住み始めて食パンを累計100斤ほど買ったのではないかと思われる近所のパン屋さんが店じまいしてしまってから、食パンを探し回っていた。 朝食を食べるようになって、朝は必ず食パンが食べたい。 徒歩30分以内のパン屋には全て行ったではないか。 幸い、住んでいる地域はパン屋が多いのだが、なかなか理想の食パンが見つからなかった。 理想の食パンとは、バターや生クリームが極力少なくて、重ためで小麦の甘さが感じられるシンプルな味わいのもの。 トーストすると、外はカリッと中はもちっとするもの。 山型ではなく、四角型のもの。 二斤型の直方体ではなく立方体の一斤で買えて、5枚切りにお店でカットしてくれるもの。 値段は300円前後。 ついに最近探し当てた。 パティシエをしている、近所に住んでいる生徒さんに教わったパン屋である。 上記の全てを満たす。 食パンは売り切れていることが多いので毎度電話して取り置いてもらっている。 ひとつ難点があるとすれば、片道20分ほどかかることである。 散歩がてら、良いのだが、雨の日は辛い。 が、食パンは、食べ物のこだわりがかなり無い方である私の大切なこだわりのひとつなのでお気に入りが見つけられただけで嬉しい話である。 息子は、ふるふるゆらゆらと自立を始めている。 ぱちぱち、手を叩くこともできるようになった。 けいこに頼まれた書のお礼に、息子の蟹と白熊のTシャツなどが届いた。 大変な状況にいる友人に贈りたいと、ある歌の巻物を作った。 書のお代はと聞かれたけれど、さすがにけいこからはもらえない。 納豆をミキサーにかけると、ぼぼぼぼ、と鈍く回って数秒でピーナッツペーストのような物ができた。
息子は納豆がお好きなようで、納豆粥や納豆短素麺をよく食べる。 おかげで食事が終わって数時間経っても息子は納豆臭いことがよくある。 納豆は安いし栄養もあるし結構なことであるが、毎回包丁で叩いて刻むのが地味に疲れる作業だった。 ちなみに市販のひきわり納豆でもまだ少し粒が飲み込みづらいようだ。 そうだミキサー!と思い立って数日経つのだが、いつもまな板に納豆を置いてから思い出すのでそのまま刻んでしまっていたのだが、ようやくやってみた。 洗うのが面倒かとも思っていたが、それはおそらく大丈夫だろうという確信もあった。 納豆の粘りは流水に弱い。 いつも納豆を食べるときは、入れ物を流水にしばらく当ててねばねばを洗い流してから捨てている。 そうすると、ゴミ箱も匂わない。 しかしながら、いつからか息子がミキサーの轟音に恐れ慄くようになってしまい、ミキサーをかけようとする仕草だけで泣き始めてしまう。 もちろんミキサーにかけるのは納豆だけではないのでとても困る。 寝ている間にもできない。 ご飯は、最近は玄米の普通炊きに水を入れてミキサーにかけていたのだけれど、仕方が無いので炊飯器でお粥を炊いた。 鳥肉とじゃがいもとにんじんと粉ミルクのどろどろも作りたく、既に泣きわめいている息子を抱き上げてミキサーの前で一部始終を見せながらミキサーを回す。 「おいしくなあれおいしくなあれ」と言ってしまうのは、幼児番組の影響だろうか。 見えない台所から得体の知れない轟音が聞こえるより息子はやや落ち着いていた。 どろどろ納豆ごはんとバナナを食べさせて、食器を洗ったりトイレを掃除したり。 「いないいないばあっ」を連続再生しつつ少し遊んで、おっぱいをあげると息子は寝入った。 確か今日は6時過ぎくらいには起きていただろう。 現在10時だから、眠いはずだ。 私も眠いが、そんなに急には眠れないし、吸い付くおっぱいもない。 頭が回らないので、新しい作品ファイルの下紙を入れるなど誕生作業を。 昨日、漁りたい放題の本棚や書道具などが危険で、部屋の模様替えを行った。 夫にメジャーで測ってからよくイメージして始めてと言われたが、メジャーで測るのは面倒だし、やはり動かしてみないことにはその体感は計り知れない。 最初の変更レイアウトは恐ろしく使い勝手が悪く、再度ひとりで部屋を作りかえる。 こちらはやや不便になったが、息子のスペースは広くなって野放しの安心感も増した。 しばらくこれで行こう。 そういえば、保育園の資料を区に提出してきた。 空きがあれば7月から保育園かもしれない。 いよいよである。 しかしまだ私の認定も下りていなければ、個人事業主なので就労証明の認定を別途取らねばならない、ひとつ足りない書類の提出待ちでもあるので、あまり息子と離れる実感がわかない。 7月。 まだまだ雨降りの日が続いているだろうか。 コロナのせいで春の2ヶ月ほどをワープしてしまったような心持ちなので、7月という夏の響きには戸惑いもある。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
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