夏日が続くそうである。
夏日が続いたらもう夏である。 夏と言わなくても良いのである。 熱々の太陽がカッと照り付けて、気温が上がるのである。 セブンイレブンの「まるでキウイを冷凍したような食感のアイスバー」や「冷凍アップルマンゴー」を今年もたくさん食べるだろうか。 サウナのおかげか、こんな日には少し汗がにじむようになった。 水分は筋肉に保持されるらしく、筋肉量が多い人は汗をかきやすいという話を聞いた。 脂肪は脂だから水分を保持できないのだそうだ。 ということは、あまり汗をかかない私は著しく筋肉が少ないのかもしれない。 あるいは脂肪ばかりとも言える。 汗をかきたいのであれば、サウナではなくまずジムに行って筋トレすべきだったのか。 まあでも今やととのいたい目的の方が俄然上なので、ジムに行くこともしばらくはなさそうである。 出かけていた帰り道、近くの蕎麦屋に立ち寄る。 朝7時~15時までというスタイルの蕎麦屋が私は結構好きである。 味も雰囲気も接客も清潔さも、適度、な感じがする。 その場に居合わせる皆の合意がそこにはうっすらと、且つ凛と存在している。 客のほとんどはサラリーマンで、皆食べることに集中しているように見える。 厨房の中は分担がきちんとされていて、慌ただしい中にも整然さが見受けられる。 レジと盛り付け担当のおじさんはにこやかでも無愛想でもない適度な受け答えをしてくれて気持ちが良い。 心地の良い儀礼的無関心空間である。 食券販売機の前で後ろに客がいないことを確かめ、しばし悩むことにする。 お腹は空いている。 暑かったのでシンプルにざるそばにしようかと思ったが、小さなカレーライスなんか付けてしまおうか。 冷たい蕎麦に温かいかきあげなんてのも良い。 コロッケ蕎麦をいつか食べようと思って数年経つが、今はコロッケの気分ではない。 2分ほど経っただろうか、この後仕事だからあまりお腹いっぱいでやるのも嫌なので、めかぶとろろ蕎麦にしてみる。 めかぶなんて人生で5回ほどしか買ったことがないが、割と好きな気がすることを思い出した。 めかぶ、とろろ、紅ショウガ、葱、わさび、冷たいお蕎麦。 前に来たときに温かいかき揚げ蕎麦を食べたのだが、そのときは味がやや濃いめに感じた。 今日のめかぶとろろ蕎麦はクリアで薄めの味だった。 これが自分の味覚の問題なのか、店側の味付けの問題なのか、温蕎麦と冷蕎麦の違いなのかが判然としない。 女性の身体は周期によって水分量が随分変わるらしいので、塩味の感じ方にもブレが生じると聞いたことがある。 水風呂の温度も、温度計が指し示す同じ17度でも感じ方がとても異なることがある。 あれも温度計の位置などで変わることもあるだろうが、こんなとき、結構私は自分の身体のせいにしてしまいがちである。 塩辛いものは塩辛いし、薄いものは薄い、冷たいものは冷たいし、ぬるいものはぬるい。 それで良いのだけれど、困るのはあのときのあれをもう一度味わいたいと思ったときに自分のデータベースに信頼性が無いことにある。 だから私は特別に好きな店とかがないのかもしれない。 このことにちょっとした問題というか、切なさを感じるのはなぜなのだろう。
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渋谷で仕事があって少しだけ時間があったのでヒカリエのJO MALONEを久しぶりに見る。
私は香水は全般的に苦手だが、7,8年ほど前に行ったハワイ店でここの香りで向上機縁を得た。 因みに、「向上機縁」なんて一般的な四字熟語でもないと思うが昨日のレッスン中にそんなことを書いたものだから使ってみたかった。 以前のブログにも何度か書いたことがあると思うが、ここの香りは本当に透明度が高い。 澄み過ぎた水で満ちた湖底を覗いているかのような香りである。 深淵を覗いた気分になって少しドキドキしたりもする。 植物そのものからはこんなにクリアな香りはしない。 植物そのものはもっと野性的で雑で湿った匂いがするものだ。 だから人間の手による科学的なことがかかっているのだが、JO MALONEの香りにはそのいやらしさがほとんどない。 植物そのものが放つのは「匂い」という感じがするし、人間の手によって昇華されたものを「香り」というような感じがぴったりくるかもしれない。 「ライム バジル マンダリン」など様々な植物の掛け合わせは、さながら緻密な実験結果であろうし、そういうのは感動に値する。 ある方から不意にJO MALONEらしき香りが漂ったとき、「つかぬことをお聞きしますが、香水はJO MALONEですか?」と聞いて見事に当たったことがある。 私は香水については全くもって詳しくないので身体には香水データベースが乏しく、JO MALONEだけキャッチできるようになっているのかもしれない。 それにしても、かなり値段が上がっている気がする。 7,8年前にハワイ買った香水のミニボトルは確か日本円で5000円くらいだったと思うが、為替の影響もあるだろうが今は9000円ほどである。 たっぷりサイズのコロンなど20000円を超えている。 アロマキャンドルの大きなものはなんと66000円である。 一番安い小さな固形石鹸100gが3000円ほど。 精密で高潔な品質とイメージを保つのは容易ではないだろう。 それで成り立っているのだから所謂ハイブランドになり得る力があったのだろうと思う。 私はごく稀にルームフレグランス的に使うくらいなので、未だ7,8年前に買った2本のミニボトルが残っている。 あの子にプレゼントしたら喜ぶかなと、高価なものをあげたいわけではないけれど、思ったりする。 先日家に遊びに来た友人はマシンガンのように4時間喋って帰っていった。 彼女は2歳のお子さんがいるから、きっと大人との会話が足りていないのだと思う。 どどどどどーと雪崩のように喋るのを、私もこういう感じのときがあって人からはこのように見えているのだなと思った。・ 今日私は5時間の仕事のあとだったのでちょっと不完全だった気がする。 友人が帰っていったあと、私はぱたりと口を閉ざした。 心地よい酸欠状態、というのも変だがそんな感じだ。 子育て漫画を描いている彼女のススメでものすごく遅ればせながらインスタグラムを登録してみた。 SNSはほぼフェイスブックだけだが、新しい窓口を増やすのは何だかすごく抵抗感があった。 ツイッターもアカウントは持っているけれど、結局ほとんどアクセスしていない。 「○○があなたをフォローしました」という通知がと次々来るのだけれど、知らない人も多い。 まだ私は1投稿もしていないというのに、見知らぬ他人が何を持って私のフォロワーになるというのか。 アプリ自体に立ち向かう気が起きなくて、やはりあまり開けずにいる。 まあでもおそらくこういうのは習慣化されてしまえば何のことはないのだけれど。 友人の漫画をいくつか読んで、とても面白いので「♡」を押しておいたが私はインスタグラムでのお作法を守れているのだろうか。 何かしらの出来事が当然ながら毎日あって日々がごろごろと無限に回転していっている。
スパイスだったはずのものは身体に取り込まれ馴染んでいく。 ごろごろごろごろ、毎日は過ぎ去っていく。 この当然の流れに意味を見出そうなんてするものだから、振り返って情けなく思ったりする。 視点が"いま"にフォーカスできない、とひとり勝手に悩ましく思ったりもする。 それは日々の中にある"締め切り"のせいというのも大きい。 サウナはそれを優しく慰めてくれる役割もある。 私がサウナにハマった要因の小さなひとつかも知れない。 主にはやはり"ととのう"ためだけれど。 酷暑の中では私は鋭さを持って思考を巡らせることができないし、水風呂に入ってととのってしまえば脳は溶け気味なのでこれまたぼんやりとした思考しかできない。 ただ、ととのった状態は、ぽわんぽわんとぼんやりながらもクリアな言葉が見つかったりもするのが不思議だ。 しかもネガティブな方向ではなく、諦めではない受け入れ態勢の言葉が浮かんでくることが多い。 さすがにととのっているだけある。 私はそういった言葉をスマートフォンのメモ帳などに記録しておく習慣があるが、悔しいかな、ととのいの最中は夢見心地だから銭湯を出てスマートフォンを手にする頃にはほとんど忘れてしまうのである。 なんだか良いこと考えていたなあ、という雲のような塊とともに帰路を行く。 それは悪くない。 何でもととのっているせいだけれど。 風呂やサウナにスマートフォンを持ち込み可能になれば良い、というはずもない。 スマートフォンは本当に便利なものだけれど、己のみで耐え忍んで考えることを奪うものでもあるだろう。 ならばスマートフォンを手元に置かない時間を作れば良いのだけれど、あの道具はあまりにバラエティに富んだ楽しさがありすぎるものだから手放すのは辛い。 強制的に、風呂やサウナは本当に我が身ひとつになれる。 何かを検索したり誰かと話したりすることなく、我が身ひとつで自分の身体を感じたり、考え事をしたりすることができる。 そう言えば以前は、強制的にひとりになれる場所としてまつげパーマをしに行っていた節があるのかもしれない。 いや、まつげにパーマをかけに行っていたのだけれど、強制的に目を閉じなければならず、ほぼ喋らない施術師さんだったので1時間ほどの間にふわりと言葉を浮かべていた気がする。 まあ寝てしまっていることの方が多かったけれど。 3回目、自宅から最寄りの銭湯に行った。 男湯と女湯が日替わりということで、初めて違う方に当たった。 随分と印象が違って、サウナ室も広いし露天風呂からはかろうじて空も臨める。 新しい場所にも行きたいけれど、同じ場所に何度も行くことは大切なことである。 一回では分かりかねることも余裕が出て分かってくるし、だんだんと平均値も見えてくる。 そこに寄り添ったり、向かって行ったりもできるようになる。 昼サウナは夜サウナよりもサウナ上がりが気持ちが良いことが多いけれど、女湯は昼サウナの方が混んでいる。 サウナ室では世間話など聞きたくないので、やはりほぼ貸切状態の夜サウナも捨てがたい。 最近あまりたんぱく質というか食事そのものをきちんと摂っていなくて、とても肉を欲した。 近所の八百屋さんにお惣菜も置いていて、タンドリーチキンがあったのでそれを買って一気に食べたら、肉が身体に満ちた気がして良い気分だった。 「飲茶の「最強! 」のニーチェ」を読了。
飲茶さんの本は、「史上最強の哲学入門」の東洋版西洋版、「哲学的な何か、あと数学とか 」「哲学的な何か、あと科学とか」「14歳からの哲学入門 「今」を生きるためのテキスト」「てつがくフレンズ」このあたりをすべて読んでいる。 内容はすべて覚えているとか理解しているとは到底言い難いが。 私は哲学には全然明るくないが、哲学は好きである。 そんな哲学の大枠を教えてくれたのが友人から借りた飲茶さんの本だった。 借りた本を読んで返し、自分でも買った。 その後、ある人にそれを貸したまま東洋版の方がもう3,4年ほど返ってきていない。 また買おうかと思っているくらいである。 哲学とは難解で、およそ暇な人が行う思考遊びであるイメージが漏れなく私にもあったのだが、とてもとても日常に直結している「わたし」のことであることは飲茶さんの本を読めば誰もが感じられるところだろう。 学問としての哲学を、その学問を志していない人にも十分に分かるように懇切丁寧に且つ平易に説明してくれる。 それに、飲茶さんの文章や話の展開はとても熱い。 哲学は曖昧模糊としたこの世の現象を言語や論理によって伝えるはたらきがあると思うが、その言語や論理を超えた"何か"を伝えようとしているということを本当にひしひしと感じ取ることができる。 今回読んだ本の締めくくりには何だか涙が出そうなほどに、胸が熱くなった。 書かれている内容はタイトルの通り偉大なる哲学者ニーチェを現代社会に照らし合わせた内容なのであるが、巻末に初めて飲茶さんの生い立ちが書かれていた。 それもあって、少しの同情心があったのかもしれないが、それだけではない。 彼はきっと冷静で厳しく、とても温かく優しくてフラットな人なのではないかと思う。 飲茶さんの体験した個人的な体験は、おそらくだけれど、私のロックンロールの体験と酷似している、どころか、おこがましいのをさておき、たぶん全く同じような体験だったのではないかと思っている。 それはニーチェのいうところの「大いなる正午」なのだろうし、仏教がいうところの「梵我一如」と言っても良いのだと思う。 随分と大きな口を叩くのは承知しているのだが、今のところそんな感じがしている。 だから何だというわけではない。 私が今暮らしに何の迷いもないということも毛頭ないのだから、私にはまだ理解が足りないのかもしれないし、皆そんなものなのかもしれない。 色んなニーチェ語録が出てきたが、私は「力への意志」が足りないから「生の高揚」に乏しいのだと、知ってはいたが再度思い知らされることになった。 ざっくり言ってニーチェは、人生に意味など無い、と言っているわけだが、意味など無いと腹の底から納得したところで何かしらが止まってしまっているのだと思う。 意味は無いから、日々何となく楽しいことをしたい、良いことがあれば良いな、と受け身になってしまっている。 意味も無いし価値も無いことを自覚しながら、社会の与える意味や価値観を通して、私はまだ自分の物事を見ているのだと思う。 身の回りとわたし自身のことをざっと理解して、満足したような気分になる。 結果、全然フラットにいられない。 たぶん、その方が楽だからだと思う。 自分だけで自分の人生に価値を与えていくことを、刻々と流れていく時間の中でとめどなく変化する自分や周りのものたちの中で行うことは容易ではない。 次の瞬間にはその自分だけの意味や価値を失ってしまうからである。 次の瞬間にそれが消えてしまうのならば、それを追い求めることが億劫になる。 しかしながら、それを諦めてしまったら人生から降りたも同然だろう。 しかしながら、私はそれをまだ諦めたとは全く思っていない。 安心は点である、と友人と話したことがあるが、おそらくそのことへの覚悟ができていないということだろう。 安心が続くことを何もしないで願っている。 まあ、ニーチェや飲茶さんに言わせればブログなど書いている場合ではないと言うだろうが、これはこれで今楽しい。 何というか、ただキーボードを打ちたい。 でもぐちゃぐちゃにあ;うrgst@srh@ちsh:bと打っていれば良いかと言うと全然そんなことはなく、手が慣れた日本語を打ちたい。 ならば例えば何かの歌詞などを高速でタイプしても良いのだろうが、どうせなら考えていることをまとめておきたいのでこうしている。 こういうのが「末人」なのかもしれない。 ある生徒さんが書いてきた「貫」という字が何ともトルソーみたいで2人で大笑いしていた。 しんにょうがキックボードみたいだとか「無」が宇宙船みたいだとか、「き」が外人の横顔みたいだとか、「を」が知恵の輪みたいだとか、これまでにも幾つか言い得て妙なもののストックがある。 それそのものを書いているつもりは毛頭ないのに、そんな感じがするというどんぴしゃなワードを見つけたり、それが少なからず共有できたりするようなことは楽しいなと思う。 先月迎え入れたブラッサイアは新芽を次々に吹き出して1.2倍ほどの葉の量になった。
葉っぱはお日様の方を向いて偏っていくので2週間に一度ほど鉢を回してくださいと言われて一度90度ほど回転させたのだが、既にまたほどんどの葉の表面は窓の方に向いている。 植物が動いている、という様は私にとって確率高く悦ばしいことである。 元々天井まではあと30センチといったところであったが、5センチほど詰めただろうか。 金魚が水槽や池の大きさによって体長が変わるのと同様に、植物も周囲の距離感などは自分で計ってくるものなのだろうか。 そうでなければ葉を切ることになると思うが、元気よく上に向かっているものをちょん切るのはとても忍びない。 先日このブラッサイアの鉢の奥になんだかうごめいているものを発見して文字通り身の毛がよだった。 でもここで見て見ないふりもできないと目を凝らして覗き込むと小さなかたつむりだった。 私は全般的にああいったものが苦手である。 ナメクジやムカデの方がより嫌なのでそうでなくて良かったが、かたつむりも十分に嫌である。 この季節に出たということはこれからもっと増えるのか。 1匹いると50匹くらいいるのか。 卵があったのか。 他の虫も出てくるのか。 恐怖感に心臓がドキドキして、頭を抱えた。 かたつむりがまだ下の方にいて上がってこないだろうことを確認しつつ、部屋の中をうろうろした。 対処法を問おうと、植物の業者さんとは連絡が取れるけれど、発見したのは深夜0時頃。 普段は21時くらいに寝て2,3時に起きると聞いていたので今は連絡できない。 「かたつむり 駆除」と検索すると今そこにいる見えづらい本物よりも鮮明でリアルな画像が出てきて、ぎゃあ、となる。 とりあえずアマゾンで明日届く置き型の駆除剤を購入。 いやしかし、目の前の現象については何の解決もされてはいない。 その場の対処法でビールをかけて溺れ死にさせる方法などが書いてあったが、ビールで溺れた死骸も嫌だし、ビールの糖分でアリとかカビとかわきそうだし、全然善い策とは思えない。 あと検索してまたリアルな画像が出てきても困るのでこれ以上できない。 胃がぎゅうっとなる感覚を押し込めながら再度本物がいる鉢を除くと、かたつむりはこんなに早く動くのか、と思うほど活発に動いていた。 程なくして私は涙をこらえて、見過ごせないつまみ出す、と決断した。 割り箸では鉢の奥に届かない。 菜箸なら届く。 もう本当に恐る恐る、息まで止めて、長い菜箸を鉢に突っ込んで、箸先がかたつむりに触れた。 その瞬間当然ながらかたつむりは殻の中にしゅんと入りこんだ、と同時に鉢の側面に己の身体をへばりつかせているのが感じられた。 あなたが生きていることは何ひとつ悪くない。 でも私はあなたをここにこうしておくのは嫌なのだ。 だから、悪いけれど私はあなたの命への必死さに屈しない。 それに、あなたを殺したいわけじゃない。 落ち着いて落ち着いて、と自分を宥めながらやっとの思いでかたつむりを鉢の側面から剥がし、箸先でつまみながら引き上げ、窓から放り投げた。 マンションの敷地内だしたぶん誰もいはしないだろう。 飛べないかたつむりは地面に落下しただろうが、殻があるから死ななかったのではないだろうか。 もし仮にそうだとしてもその後生きられるか分からないけれど。 菜箸もゴミ箱に捨てて、とりあえず私は戦いを終えた。 翌日業者さんに連絡すると、「ナメクジやダンゴ虫は植物にとって良くないですが、かたつむりはおそらく一過性なものでしょう、また出るようなら対策をお伝えします。」と返信があった。 あれから毎日鉢の中を覗いているが今のところ大丈夫そうだ。 ご依頼のあった命名書を仕上げ、毎月生徒さんの課題として書いている手本を仕上げ、翌日の課題もこなし。 久しぶりに友人と会う約束をした。 自分の言葉やボディランゲージを気兼ねなく駆使して伝え合おうとすることができるような気がするお喋りは、昔から私にとって悦楽のひとつである。 早いもので、おじいちゃんとおばあちゃんが死んで、もう四十九日の法要が行われた。
5日差で死んだから法要は一緒に行える。 親族皆にとって、行事がひとまとめになっているのは大変助かるし、おじいちゃんとおばあちゃんは一緒にいられるような気持ちにもなれるので良かったのだと思う。 ただし、やはり、5日差で死んだことを良かったと思っているのは、他ならぬ私や他の生きている人間であるということも忘れてはならない。 既に誰も住んでいない私の生まれ育った家は、1階の仏間と台所と応接間以外はいよいよ廃墟と化してきている。 2階の子ども部屋と父の部屋はもう10年ほどほとんど誰も足を踏み入れてないのではなかろうか。 私は、自分の部屋の引き出しにある中学校3年のときの競書会で書いた、初めて金賞を獲った硬筆の作品をいつか取り戻したいと数年間思ってきた。 実家に戻るたびにそのことを忘れるか、2階に足を踏み入れる勇気が生まれなかった。 この家の行く末を相続人である私たちきょうだいや叔母と話さなければいけない時期ももう近くに来ているから、ならばと恐る恐る私は2階に上った。 私が行くからと言って姪たちに見つからないようにそうっと。 泥棒が入って物をひっくり返したのかと思うほど各部屋が恐ろしく散らかっていた。 見覚えのないハンガーラックや段ボールに入った父の本の山、勉強机に置かれた古い服など。 埃がさんさんと積もっていて埃臭く、まるでビデオの一時停止ボタンを押しっぱなしにしたような情景が現在の私の目にぼうっと映った。 私はねずみなどの動物がいないかを恐れていたが、あのような食べ物も水もない廃墟には動物も住めまい。 一番奥の自分の部屋に行き、引き出しを開ける。 引き出しの中は日焼けしていない二の腕の裏側みたいにすべすべと白かった。 目当てのものは2段目の引き出しの一番上にあった。 懐かしい。 そして今はもっと上手く書けるけれど、私の字だ。 書について特別に優れた生徒だったわけでは全くないけれど、初めて金賞を獲ったこのときの気持ちはよく覚えている。 相変わらずものすごくうるさい姪や甥は元気に走り回っていた。 かわいい子どもたちの顔を見るのはとても嬉しいのだけれど、絶え間なく本当にうるさいので、一泊しようと思っていたところをその日の夜最終のひかりで私は東京に豪速で戻ってきた。 帰ってきて久しぶりに床の拭き掃除をする。 毎日クイックルワイパーで掃除してはいたけれど、やはり床は拭き掃除に限る。 黒くなった雑巾でさらに窓の桟まで拭いて捨てて満足。 いよいよ本当にサウナづいている。
こんなことになるとは齧り始めは想像していなかった。 なんと2日に1回ほどのペースで行っているのである。 しかもかなり出不精な私が1時間とかそんな小旅行のような距離の銭湯にまで足を伸ばしている。 昨日の夜も行って、今日の昼も行ってしまった。 私はお酒を昼から飲むことはあまり好みではなく、どうせなら夜の時間に安心して飲みたいが、サウナは時間を選ばずにどんなときも楽しむことができる。 必要なのは健康な身体だけだ。 今日行った場所は青空を望める場所に水風呂があってとても開放的で気持ちが良かったのだが、もし今日がどしゃ降りだったとしてもそれはとても良いものだろうと想像ができる。 夕暮れ時のマジックアワーでも、真っ暗な深夜でも、きいんと空気の張りつめた冬の朝でも、気怠い真夏の昼下がりでも、台風が来そうな心許ない日でも。 雷だけはちょっと怖いけども。 サウナで非常なほどに温めたり冷やしたりしているわけだから、あまり外気温は関係がないし、そもそも身体は濡れているわけで、晴れでも雨でもさほど関係はない。 お酒を飲むと身体は重くなる一方だが、サウナは軽くなるので時間も選ばない。 ただ、満腹時は嫌かもしれない。 何かにハマる、というのは人生において最上級に幸せなことである。 何もかも、意図して予定を立ててハマれるものではない。 お金と労力と時間と我が肉体と、それら非常に大切なものをつぎ込んでも良いものなんてなかなか現れるものではない。 且つそれはやらないならばやらないで全く問題が起こらないものである。 ハマるというのは、きっかけとなる体感を伴う体験が必要である。 私が数年前ロックンロールに落ちたときのように突然雷に打たれてそうなることもあるだろうし、今回のサウナのようにちょっとした練習やその界隈のことについての知識を得てみた後に体感を得られることもある。 何かにハマったとき、それは自分の中でとてつもない指針になり、それまでそれを知らなかった自分を悔いたりする。 まあでも分からないときには分からないのでそれは仕方がなかったわけで、それはさておきとことんハマってみる。 いろんな角度からいろんなことをして、そのことについて掘り下げてみる。 そうすると、気づくことがある。 最初にハマるきっかけとなっためくるめく体感を超えることがおそらく無い、ということである。 魔法は必ず解ける、いや最初から魔法などなかったのだと思い知る。 もしそれを薄々知っていながら、それでも自分を目くらましして、「いつだってサウナ最高!!!」という発言を私はしたくないしできない。 永遠に最高、なんてことは当然ながら無い、のである。 脳は初めての信号に大量のエンドルフィンを放出したのだろうし、その後同じことを繰り返してもエンドルフィンは出るのだけれど既に学習してしまった脳からはあのときのような量を放出することがなくなってしまうのだろう。 慣れる、飽きる、ということが否応なく起こってしまう。 ロックにハマったときにも同じ体験をした。 私の場合、ロックの効用は自分で意図的に目くらまししていたことも手伝ってかなり長かったが、それでもやはり反応はとても薄くなった。 この一連の流れは、多方面で言われているようなことだ。 あるサウナの漫画家さんが言っていたのは、「最初は宇宙と一体になれたような気がしてすべてに捧げたい気持ちになったけれど、最近は地球に感謝くらいですね」というようなことだった。 ロックもサウナも、梵我一如の体験だと言って良さそうである。 私のサウナ体験としても宇宙と一体になれた感覚は分かるような気がするし、そして私は早くも地球に感謝レベルまで落ちてきてしまっているといっても過言ではない。 でも、地球には大いに感謝しているし、そのくらいならば今後もそれなりに長く続きそうな気はしている。 ムッシュかまやつの「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」は全て物語っているような気がする。 まさしくそれ、という感じである。 ロックにもサウナにも、全霊の期待など捧げてはならない。 その刹那の切なさを胸に、また日々をうろうろと歩いて行く。 水風呂は20度を切っていて、幼い頃に唇を真っ青にしてプールに入ったときのことを思いだした。 この季節はどの街も、魔法がかけられたようにきらきらしている。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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