雨がざんざか降っていたのは一昨日のことだ。
梅雨とも秋とも違う、涼しいのに湿気がたっぷりの変な天気だった。 こんなときは部屋の中が外気よりも気温が高くなる。 だからとエアコンの除湿を利かせると利き過ぎてしまって身体が冷えてしまう。 でも消すとやや不快。 だからまたエアコンを稼働させるけれども、やっぱり身体はだるくなる。 それにしても年々私の身体は冷えやすくなっているように思う。 デパートもスーパーもコンビニもすぐに出たくなってしまう。 仕事などでエアコンががんがんに利いたところに長時間いると、身体の中心部が冷え切っているのがよく分かる。 昔からこんなではなかったのではなかろうか。 あまりエアコンを使わない家庭に育ったので、たまにクーラーをつけていると、真っ先にその部屋に飛び込んで宿題をしたりした。 もう消しなさい、と言われてしぶしぶクーラーを切ってむわっとした空気に触れると残念な気持ちになったものだ。 ちなみに、実家は暖房機能のないクーラーのみのエアコンが各部屋に設置されている。 実家は新幹線からほど近く、新幹線が建築される前からあったものだから、当時線路沿い何メートルかに建っている家には、防音で窓を閉め切るということでJR東海がエアコンを無償で設置してくれたらしい。 その頃のエアコンは、エアーコンディショニング全般を担う機器ではなく、機能としては冷房だけのものが主流だったようだ。 しかし、祖父母の部屋など、おそらく4~50年間でただの一度もつけたことがないのではないだろうか。 実際にどうなのか知らないけれど、旧型クーラーは電気代がとても高いということで無駄につけるなと言われていた。 夜、エアコンを切って、フィリピン料理のアドボとシニガンスープの素でそれらを作ってビールと食べる。 青唐辛子を齧ると恐ろしく辛くて、さすがに私も火を噴いて汗がにじんだ。 カキ氷は外で食べるに限るのと同じように、暑い国の料理は暑いところで食べるのが良い。 私は汗をあまりかけないので、汗だくだくになれないわけだけれど、それでも血の巡りが良くなった感じがして爽快感を味わえる。 「社畜! 修羅コーサク」を貸してくださった方がいて、とても面白い。 ギャグ的漫画であるが、社会風刺に他なるまい。 楳図かずおさんと稲川淳二さんの対談を観ていたら、楳図さんの漫画をぜひ読んでみたいと思って「漂流教室」を大人買い。 ちなみに「ドグラ・マグラ」は遅々々々々とまだ読み進めていて、今スマホページ2000ページ中700ページを越えたところ。 なんだか最近やることとやりたいことがあり過ぎて、でもいつものように眠たかったり休みたかったりもして困る。
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画像加工アプリを新しく入れた。
本当にいとも簡単に、裸のものよりも2,3割増しに見える画像が出来上がる。 すっぴんに化粧をして盛っているようなものだろうか。 セピアやモノクロにできることはもちろん、彩度や輝度も自由に変えられるし、水彩画風にもフィルムネガ風にもエンボス加工も一瞬で出来上がってしまう。 複数の写真をレイヤーとして重ねることも出来る。 スマートフォンひとつで。 すっぴんを知ったとき、「こんなだったの?!」と驚愕してしまうような原形をとどめないくらいのものも瞬時に出来てしまう。 もうすっぴんなんて見せられたものではない。 でもやっぱり、すっぴんの方が素朴な温もりが感じられて良い、という場合だってある。 それに、すっぴんで勝負したいという気持ちさえある。 ちなみに、私の実際の化粧が年と共に薄々になっていくのは、すっぴんに近い状態で勝負したいという理由よりかは日常の面倒は省きたいという理由の方が大きい。 あとは、一度足すともう引くことができなくなるのではないかという怖さも若干ある。 よく、まつ毛エクステをするとそれが取れると物足りなくなってまたやってしまう、ということを聞くが、そのようなものである。 だいたい、スマートフォンはスマートフォンでその内蔵カメラの初期設定やクセがある。 また、液晶の関係で、このカメラとあのカメラでは同じ赤でも違う赤に見えることもあるだろう。 ここでいうすっぴんが被写体そのものなのか、最初に撮った写真であるのかということもあるが、実際我々ひとりひとりが見ている色や質感が他人と同じであるかどうかさえも、もうそもそも全然全く分からないのである。 たぶん、おそらく、十中八九、「赤」という色の範囲を認識している場合、多くの人がそれを「赤」というだろう。 その中にも、「深紅」だとか「透明度のある赤」だとか「ピンクに近い赤」だとか、いろんな「赤」があって、人と人との間で共通していると想像する、ということ以外にはできない。 それに表現の方法ということも含めたらもう何がなんだか、という感じである。 全てのことに謙虚さを持たねばと思う一方で、そのことばかりを考えていると「もう何でもいいや」と思考は詰んでしまうしまう。 それを踏まえて、で、何なのだ、というところがきっとやっていくべきことなのだろうと思っている。 結局、その時、そのタイミングで、その技量で、その感性でしか何かを創ることはできない。 だから、少なくともその時点では、一番良い、と自分自身で判断し得るようなものが出来たら良い、ということを追う以外にやることはないのである。 久しぶりにいただきものの花の写真を撮って、エンボス加工の凄味に目を圧倒されてこれを選ばないわけにはいかず、更に色味と明るさを調整して、枠を付けて保存した。 書の写真だったらこうはできまい。 ある生徒さんが暑中見舞いを書いていて、100円ショップのはがきに先日行ったボラボラ島の海の写真を印刷して持ってきた。 私は全然コピー機などをうまく扱えないのだけれど、そして家のコピー機ははがきに対応していないのだけれど、これは良いものが出来そうである。 インクジェットのように艶感がないところが良い。 写真もプリントも裏打ちも書も印も、全部自分でできたらそりゃあ良い。 それはとっても大変なことである。 変な夢を見た。
句会に出るのに、句が完成していない状態で会場に行き、皆がもう投句し終わっているのに私だけ「待ってください待ってください」とどきどき焦りながら句をひねっている。 出すならちゃんとしたものを出したい、でも時間が、もっと早くからやっておけばよかった、そんな風に思うなら何でやっているんだ、あぁ全然思いつかない、こっちよりこの方がいいかも、あぁ、あぁ・・・という感じに。 実際に投句は句会の数日前が締め切りである。 だから当日にそんなシチュエーションになることはないのだけれど、締切日によくある光景ではある。 またこんな夢も見た。 東洋大学の書道学科、実際にこの名前ではないと思うけど書道を教える学科がある、に様々な軋轢を蹴って志望することに決めた、という夢。 軋轢とは、鮮明に夢なので覚えていないけれど、早稲田大学の方が良いだのなんだということがあった気がする。 これは何度も書いたことがあると思うが、私は大学を卒業していない夢をたまにみることがある。 入学はしたがいろいろがうやむやになって結果卒業できなかったとか、受験しても受からずに最終学歴が高卒であるとか。 夢というものはなんだか深層心理、どこか私自身が腑に落ちず引っ掛かっていることが無意識に現れてくるのだろうと思っているので、私はまだこんなことが引っ掛かっているのだなと辟易とする。 夢占いなんてものがあるけれど、またそれ自体にはあまり興味もなければよく知らないけれど、それが占い理論として系統立てて何かが言えそうだとすることは分かる気がする。 現に私は父が死んでから数年間、父が生きているのか死んでいるのか分からない状態で生きながらえていた夢を頻繁に見ていた。 しかし、私はあるとき不意にあるひとつのことが分かって以来、その夢を一度も見ていない。 私は20代前半くらいまで、それが自分の決断だと思い込んでいることも、何か大きなものの考えに自分自身の思考が癒着して決断を下してきたように思っている。 戦うことが怖くて、負けるのが嫌で、自分の情けなさや弱さを認められなくて、きっとそんなようなことをそれさえもなかったかのように振る舞ってきたのだと思う。 それは見事なまで私のアイデンティティと同化していて、矛盾さえも自覚が無かった。 過去を思い返してみて、私が高校生のとき、さして書道には興味がなかったので大学から書道を専攻するような道は発想にもなかった。 だから選択のしようはなかったわけで、それ自体は後悔という言葉は充てられもしないのだけれども、若い頃に私もそれをやっていられたら良かったなというふうには切に思ったりもする。 だから今は少しでも人前に私が考えていることや良いと思うものをちゃんと考えてちゃんと晒していきたいと、そんなふうに思っている。 後に振りかえればきっと赤面してしまうような無知で馬鹿馬鹿しいことであったとしても。 そのときにはそんなことは分かりようもないのだから。 句会の夢は、それを分かっていながら怠惰にやられてしまうことの折り合いが悪いということかしらと思う。 怠惰の小心者ということが自分を表するのに丁度良いのかと思うけれど、そんなの最悪である。 こんな個人的で大したことがない話は、例えば大自然を目の前にすれば、宇宙を夢想すれば、文字通り大したことではなくなるのかもしれない。 しかしこれは経験上、本当に腑に落ちることがなければ、大自然も宇宙も全然効き目がない。 その場しのぎも大切で、何がヒットするのかが分からないけれど、たぶん何かしらと「向き合う」ということはとっても面倒ながらもしなければならないのではないかと思っている。 自分で何かやること、やれたと思うこと、それだけが私がこのような類の夢を見なくなるひとつの方法なのではないかと思う。 つまるところ、自信がないのである。 去年、東京書作展で東京新聞賞を受賞したことは大学受験を推薦でスイっと通り抜けてしまったことを払しょくするひとつの自信になったかと思ったけれど、それではまだだめらしいのだ。 久しぶりの休日、卓球をしに出かける。 私は結構卓球が好きで、素人ながらにまあまあ得意である。 そんなことでも互いの戦略と勝負心みたいなものが見えて楽しいのである。 そして、筋肉痛なのです。 そして、6月のカレンダーをようやく捲ったら8月に捲りすぎたことに気づいたのです。 未来日を生きているのか。 初めて「いきなりステーキ」に行った。
私はあまり牛肉が得意ではないので普段焼肉ステーキなどと言っても全然喜べないのだが、二日酔いの午後3時、何か重量のあるものを食べたいと思い立って、店の近くにいたので満を持して入ってみることにした。 ちなみに私が牛肉が得意ではないと思っているのは、味が苦手なわけではなくて、消化が良くできないというところにある。 牛肉を食べてパワーアップ!というようなキャッチコピーがまさに「いきなりステーキ」にあるわけだが、私は牛肉を食べると消化に体力を奪われて逆に疲れてしまう感じがするのである。 牛の締まった肉質と野性味に、私が叶わない感じがするのである。 では食べなければ良いのだけれど、年に一度くらい、ステーキ感を味わいたい気分だったのである。 それに、二日酔いの日は、炭水化物とたんぱく質、脂質のしっかりとしたものが食べたくなることはよくあることである。 店内は一見きれいなのだが、中華料理屋によくあるような油気で全面が覆われていて、ぬるっとつるっとじっとりとした感じがある。 今日が猛暑であるのと同様に先日のこの日も猛暑で、店内のエアコンからは白い水蒸気が見えたような気がした。 優しそうなハンバーグもあったけれど、また、ステーキ肉とハンバーグのハーフ&ハーフというのもあったけれど、せっかくだからステーキにすることにした。 今日は年に一度の牛肉デーなのだから。 自分が肉をどのくらい食べられるのかがいまいち分からないので、一番少ない200グラム、ごはんは大中小あると言われて中にした。 店の壁面のポスターに後で気付いたけれど、デフォルトの付け合わせはコーンで、玉ねぎ・もやし・じゃがいもに無料に変更できるということだった。 玉ねぎにすれば良かった。 隣りの40代後半くらいの女性はすでに後半戦に差し掛かっていた。 フライドチキンのような骨付き肉を食べている人を見ると、「肉を喰らう」という姿にやや感動を覚えるのだが、ステーキ肉もそれに匹敵するものがある。 私たちは、肉を食べているときに動物の肉を食べていることを半ば忘れているのだと思う。 命をいただいているというある種の恐ろしさを紛らわすためにされるひとつのことが「名付け」ということであると言ったのは金田一秀穂さんだ。 「死んだ魚の生の肉」と言わずに「刺身」とすることは、命を食べているということや何かの死の上に自分の命が成り立っているという事実を一旦遠ざけて、美味しいものを味わう、ということに重きを置いている。 「はつ」を美味しそうに食べる私たちは、生きて動いていたものの「心臓」を噛み拉いていると同じことである。 自分が認識する外界のあらゆる物質を、私たちは「分別」した上で「名付け」をしている。 名付けとはこの世の中を合理的に生きていくために、我々がそれを認識したり覚えたりする以前から用意されている。 しかしおそらくこの世界にはまだ分別されていないもの、あるいはそれが多くの人に認識されていないもの、そして名付けれられていないものだってたくさんあるだろうと思う。 と、そんなことを考えながら、それでも私は運ばれてきた「ステーキ」という名の牛のどこかの肉をもりもりと愉しんだ。 久しぶりの塊肉は牛肉にしか出せない旨味をぎゅうぎゅうに湛えながら、私の胃に落ちていった。 紙エプロンには鉄板からぴちぴちと油がはねた。 案の定、身体は重くなったけれど、牛肉デーの私の心は満たされたのであった。 「小さな命名書」と題して、HPのコンテンツを増やしてみた。
これは、出産をした友人に出産祝いでプレゼントしていたものなのだが、思いの外好評で、「売ったらいいよ」と言ってくれる人も何人もいて、ならばと一応商品化をしてみた。 私がプレゼントした友人がそのまた友人にプレゼントするということで、早速2つご注文をいただいた。 「小さな命名書」は実は私自身がとても気に入っている。 見る度にあぁ可愛い、と思ってしまう。 色紙サイズに命名書を書かせていただくこともあるのだが、肉筆というのは案外存在感と圧迫感があるので、長く飾るのであれば手のひらサイズほどの小さなものの方がなじみやすいと思う。 あと、豆本もドールハウスも「ちびめし」も、実際に存在するものが精巧にミニチュアになっているものがなぜかたまらなく好きというのもある。 HPの商品画像は全て架空の名前のサンプルなのだけれど、私は人の名前を考えるのが本当に好きなので、それだけでも十分に楽しめた。 ある書道の生徒さんと名前の話をしていて、その生徒さんが考えた「博広」という名前を私はいたく気に入っている。 一見字面は普通に見えるのだけれど、でんとした斬新さを兼ね備えていて、そして音は「ひろびろ」なのである。 音は雄大なのだ。 「絵」くんもそうだけど、「咲寧」ちゃんなんてのもかわいい、こんな家族の名前ありそう、なんて考えながらひとりにやにやしながらサンプルを作った。 ただ、万一に私が子どもを持つことがあったとしたら、それらを名づけるかはまた別の話である。 「小さな命名書」のHPの説明がやや分かりづらいので、適当にお問い合わせいただけると助かります。 産まれた赤ちゃんだけでなく、自分の兄弟や家族の名前をずらっとしてみても面白いと思います。 好きな言葉や俳句や短歌などを書くのも面白いと思います。 植物たちに水をあげると、じじじじ、と水を飲んでいく。 今年は旱梅雨ということなのだろうか。 バナナの黒点は数えていない。 夜タイマー2時間でかけたクーラーを、朝つけずにはいられない。 「ドグラ・マグラ」を遅々と少しずつ読み進めている。 スマートフォンページで、1日100ページくらい読み進められれば20日で読み終わると思いつつ、私のペースではそうもいかなくて1ヶ月とか2ヶ月くらいで読めるだろうか。 文章そのものも面白いけれど、内容も興味深い。 精神病を主題とした哲学的な話であると捉えている。 飲茶さんの「史上最強の哲学入門」などを読んで発想の概要を知っていなければ、私は「ドグラ・マグラ」に書かれていることも思想的迷子になってしまって到底面白いと思えなかったように思う。 全然詳しくないけれど、哲学的なことを知ることはや哲学することは、全ての生きる人間にとって有意義なことなのではないかと思う。 まだ350ページほど。 あと2650ページ、どんな展開で、どんなフィナーレを迎えるのだろうか。 今のところ、内容的に特段奇書、狂書であるということを思わないので、おそらく結論のようなもの無しに大きな哲学的命題を投げかけたまま終わるのではなかろうかと思っている。 夢野久作の「ドグラ・マグラ」を読んでいる。
長編で奇書だと言われているあの作品である。 と言ってもまだ2000ページの100ページほど。 2000ページというのはスマートフォンの青空文庫でのページ数である。 電車で音楽を聞いているのにやや飽きているので、本でも読んでみようかと思った次第だ。 文学部出身の発言ではないが私はあまり本を読まない。 本の虫なのではないのかと言われることもあるくらいだが、本当にあまり読まない。 言葉の世界は好きだけれど、読書には実際に苦手意識があるほどである。 ではなぜ「ドグラ・マグラ」を読んでいるのか。 長すぎてよく分からない、との評をよく耳にする気がする「ドグラ・マグラ」だ。 よくもそんなものに手を付けたものだが、青空文庫はたまに覗いていて、種田山頭火や太宰治の短編を読むことがある。 これは、書作として書きたい言葉を探しているということもある。 著作権が切れた青空文庫内の本は無料で読み放題だから、ダウンロードして読まなくても損はしない。 だからかの有名作を読んでみたい、と興味本位でダウンロードしてみたら案外文体は読みやすく、スマートフォン100ページくらいは簡単に読み進められた。 と言っても、大抵電車の中くらいしか読まないので100ページなのだけれど。 どの作家の描写が好きだと言うほど私は多くの作家を知らないけれど、あと、大抵の作家の文章はどれもやはり上手いと思う、「ドグラ・マグラ」の細かな情景描写や文章全体がなんだがとても気に入った。 勝手に作った造語でない限り、言葉は全て誰もが“在る”ことから借りて喋ったり書いたり思考したりするわけだけれど、無論その言葉の組み合わせやその順序などによって無限の世界が生まれる。 ある事象を的確な言葉でズバリと言うのが上手い作家、小説そのもののプロットが上手い作家、文体そのものが醸す雰囲気を作るのが上手い作家、などいろいろいると思う。 もちろん作家たるものはその複合的な上手さで作家たり得ているのだと思う。 中でも、私は独特な個人的な言葉の組み合わせや言い回しをする作家に心を惹かれるような気している。 文章だけに限らず、音楽も絵や書もその独特さがあるものに惹かれているように思う。 全て“在る”ものを借りている謙虚さをしっかりと胸に抱き、それでも必死で己の感覚に従ったものに。 皆自分のやり方でやっていると言えばそれまでだけれど、案外それが表現として叶っているという場合は少ないのではないだろうか。 どのこともほとんどがこれまでに誰かがやってきたことで、それをまるで我が物かのようにまるで同化させてさせてやってしまっていることばかりなのではないかと思う。 それが別に悪いことではないのだけれど、自分のことさえも盲目になってしまうのは、作家としては好ましいとは言えまい。 「ドグラ・マグラ」には、そんな作者の言葉への敬意が感じられるような気がした。 まだ、スマートフォンで100ページなのだけれど。 「ゆとりですがなにか」のその後をやっていた。 ライトな社会風刺もさることながら、宮藤官九郎のウィット感というのはたまらない。 今は、矢野あきこをシャッフルしながら、新しい仕事をしている途中でこれを書いている。 夏の句会。
このところ2番手続きだった気がするけれど、今回は特選が獲れた。 指をパチンと鳴らしたい気分であった。 下記、今作のうち、上の三句を投句した。 一番上のバナナの句が今回の特選に選ばれた。 旱梅雨バナナの黒点数へけり (ひでりづゆ) 曇天を好天と言ふ夏のあり 波しぶく麦酒にライム落としけり (ばくしゅ) 店長は夏の語調のいらっしゃい 朝曇り珈琲落つる三角錐 透明人間になれるサングラス 太陽を頬張っている温き枇杷 虹立ちて現し身くぐり彼逝きぬ 別に解説しなくても良いのだけれど、いくつか解説というかネタばらししてみようと思う。 <旱梅雨バナナの黒点数へけり> (ひでりづゆ) これは、最近時間がないときの食べるものとしてバナナを買ったら思いの外食べる機会がなくてあれよあれよと黒ずんで匂い立っているバナナを目の当たりにして作った句だ。 俳句を作ろう、という気になってから、こういった日常の1シーンを拾い上げるのはよくすることである。 しかし、最初のその光景からはかけ離れた句ができることも多い。 現実のシーンはトリガーでしかない。 以前NHKの俳句番組を見ていたとき、連想される言葉をとにかく書き出してみる、という手法をやっていて、私もよくそれを採用している。 バナナ、黄色、黄緑、熟れる、黒ずむ、黒い点、太陽、明るい、皮、持ちやすい、栄養がある、美味しい、甘い、腐る、匂い・・・ そのそれぞれの言葉からまた派生していくこともある。 最初は皮に着目していて、食べ終わった後のくたんとした感じと夏の無気力を合わせようと思って試行錯誤していたが上手くいかなかった。 「熟れる」の古語である「熟るる」という言葉の語感が気に入って、そちら方向に傾いた時間帯もあった。 匂いについても触れたかったが、黒点を入れれば匂うだろうと省く。 あとは、季語は何にしようかなと、遠からずなイメージの季語を季語辞典から拾う。 「旱」という感じは「干す」という漢字が入っていて、音的にも印象が強く、太陽のカッと強い光とバナナの陽気さと熟れていく黒点と、言葉のイメージのマッチングを図っていった。 そこに、「数へけり」という人間の動きが入ると、その行動の無意味さによって奇妙感が演出される。 黒点見つめたり、とも悩んだが、数えた方が動きが面白い、とこの句が完成した。 ある季節感を、少し種類の異なる意外性ある言葉と合わせてイメージやニュアンスを醸し出すマッチングの妙が、俳句のひとつの大きな醍醐味であろうと思っている。 「灼岩に想像の目玉焼きを焼け」「エチレンと嘘で朽葉が匂ひけり」という過去作もだいたいこんな方法で作ったような気がする。 <曇天を好天と言ふ夏のあり> これは、「我が絆し横一列に祝箸」という過去作と私の中では同じカテゴリーに属している。 家族、絆(きずな)、という言葉はこの世の中で大きく幅を利かせていることであるけれど、それはセーフティーネットであると同時に、自分の枷にもなり得る。 絆という漢字は「きずな」とも読むし、「し」の送り仮名が付けば「ほだし」とも読む。 きずなである反面、ほだしでもあるわけだ。 私たちは「晴天」のことを「好天」と言うことがほとんどだと思うし、天気予報で「明日は良い天気になるでしょう」と言われたら「晴れる」と思うと思う。 しかし「良い天気」がどういう天気のことを言うのかは、本来的には個人や個人の気分によって異なるものだと思う。 外での作業をする夏の日が、ぴーかんに晴れて太陽がじりじりと照りつけるよりも、曇り空で気温が上がらず日焼けもしない方が「良い」と思うのではないだろうか。 また、梅雨時期であれば、毎日雨ばかりならば曇天でも「良い」と思えるということもあるだろう。 つまり、「良い」「好い」というのは、決まっていることではなく、その瞬間瞬間で個人が判断することである。 多くの人にとって「良い」ということを「良い」と決まりごとのように言うのは違和感がある。 ちなみに私が、絆が嫌いとか、晴天が嫌い、とか言っているわけでは全然ないのでそのあたりだけはご留意いただきたい。 「ありふれた日常に不吉な感じを匂わせるのが上手い」と言ってくれた人がいたけれど、確かに私はそのような嫌いがあると思う。 「日常の染み」みたいなものを見つめたくて、描きたいのかもしれない、またそれを染みであると思いたいのかもしれない。 遠回しに常識に侵食して、物事をフラットに考えましょう共に、というようなことは自分自身にも他人にも問いたいことである。 <透明人間になれるサングラス> これは投句はしなかった。 おそらく意味が分からないだろうと思ったからだ。 以前投句した「三百五十日分の梅の色」と同じような構成になっていて、自由律で作っているように見えるが、実は五七五の合計音数は守っている。 「透明人間」というような言葉が使いたい場合、既に8字なので、真ん中で字余りにするか句またぎにするかしかない。 季節に関係ない長い言葉を入れると、どうしても説明不足になってしまって破綻してしまうことが多い。 私は眼鏡をしていると思考が鈍く世界が遠くなったように感じるのだけれど、サングラスだとそれが輪をかけてそうなる。 サングラスは他人がしていても、目が確認できないので、こちらのことが分かっていないのではないだろうかと感じることもある。 サングラスをすると、私だけ透明人間になって世界を見て楽しんでいる、という単純な句だ。 さらに服が透けて見えるサングラスで、夏の海辺のビキニ女子たちを見たら鼻血が出てしまったというような漫画チックなところまで想像してもらえたら僥倖である。 が、皆の認識では、そもそも透明人間とサングラス自体が遠すぎる言葉だろうとは思っていたので出さなかった。 久しぶりに長々と解説してしまった。 これまでの句を集めて、大きな句集作品を出品した、「同人書作展」が六本木新国立美術館で9日まで開催中です。 ご興味とお時間がある方は、ぜひ会場まで足を運んでご高覧くださいませ。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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