「セックスアンドザシティ」なんかがamazonプライムに上がっているものだから、ついつい見てしまう。
たぶん、観るのは4回目くらいだと思う。 アメリカ人の大仰に見える振る舞いや描かれる恋愛至上主義の女性たちの姿は、今の私には特別に何か参考になることがあるわけでも無いのだが、そのテンポは流れの早い川のようで流されざるを得ない。 それに、よく言われることだがこのドラマの一流の女優さんたちが着る高級な洋服やファッションセンスはとても興味深いし楽しい。 何年か前、このドラマの最後の映画が上映されたとき、女友達と二人で初回を観に行った。 後に最悪の映画だと評されるこの作を、私たちも上映後すぐに言い合ったことを思い出す。 主人公のキャリーは「セックスアンドザシティ」というコラムのライターで、パソコンに向かって恋愛についてカタカタとキーボードを叩いているシーンが毎度出てくる。 私は今はライターはやっていないけれど、こうしてカタカタ文章を書きたくなったのはキャリーのせいである。 この3日間、ART SHODO TOKYOという書における現代アートの展覧会のお手伝いに、また黒いスーツとけいこから奪った黒いパンプスを履いて出かける。 葬儀で少しばかり着慣れていたのは幸いだったように思う。 3日間、ほとんど立ちっぱなしで夜帰宅しても全身の火照りが消えないほどによく働いた。 STAFFの腕章をつけた私は、何でも知っている係の人のように見えていたようだが、実は仕事の内容を当日までほぼ知らされずに行って、行き当たりばったりのいい加減な係員だった。 作品のネットサイト登録を主に担当し、その使い方やら何やらの接客も行った。 別にそんなに難しいことではないのだが、やはり新しいことというのは骨が折れる。 「この仕事、あなた向いているね」と言われ、私は「はい、そうなんです」と答えた。 肉体的にも精神的にも、久しぶりにこんなに疲れたかもしれない。 良くも悪くもマンネリ化していた私の毎日に、浅くか深くかは分からないが一筋の切れ込みが入った感じはあった。 実はこの展覧会に私も一度応募をしたのだが落選をして、審査自体には何度もトライできたのだが、さっぱり息が続かなかった。 この一年ほど、私はあまり自発的な創作をしてこなかった。 忙しかったのもあるし、何だか気分が乗らなかったのもある。 ちょっとした技術やアイディアの引き出しを増やすことを主にしてやってきた。 それは、私の見る目や書くものが変わった自覚があってとても幸いなことであったが、逆に言えば殻の中で遊んでいたにすぎないのかもしれない。 私も書道をやる人からすると、あるいはやらない人からすると、比較的よく分からないものを書く方なのかもしれないけれど、それは全然そんなことはない。 元来芸術コンプレックスの私が最もよく分からないと思っているのが、現代アート、という分野だ。 こういうことがあるから芸術アレルギーが出てしまう、そんな風に思ってきた。 「よくわからない、人種が違う人たちがやっている」そんなレッテルを貼り続けてきた。 ぐちゃぐちゃっと絵の具を塗ったものは、もはや「誰でもできるじゃん」と言ってしまいたくなっていた。 今回それが目から鱗が落ちたように開眼したわけではないが、再び"モチーフ"ということの意味や、"わざわざ創作する"ことの意味などが少しばかり分かったような気がする。 それは多くの作家さんとお話しすることができたからというのも大きい。 また、8割ほどは記号としても文字を書いていない作品だから、タイトルの持つ機能は大きい。 どんな作品も、「誰でもできる」ということはやはりなくて、やっぱり「誰にもできない」のである。 しかしながら、原理的に「誰にもできない」のだから「誰にもできない」ということだけで「良い」なんてことにも全然なるはずもない。 この度、私は初めて、あるひとりの作家さんのアート作品を購入した。 このようなものの値段はあってないようなもので、今回私が買った作品はアート界からすれば格安なのだろうと思うけれど、私の体験としてはものすごく高価な買い物となった。 大きめの画用紙にボンド墨で書かれた花の絵の作品。 私は自分のも他人のも、リビングや寝室にいわゆる書を飾ろうとは思わない。 いわゆる書は言葉なわけで読めてしまうのでその意味合いが怖いし、何よりあの独特の東洋の雰囲気がインテリアに合わないのである。 買ったのは、 私よりも少しおそらく年上くらいの男性の方の作品。 インテリアの主役となってくれる、且つ、くどくない筆路がとても印象的な作品だ。 大きさは一般的な画用紙のひと周り大きな作品。 数ある同じシリーズの中からひとつを選んだ。 もうひと回り小さいのも一緒に欲しかったのだが、安いものではない。 ひとつ飾ってみて、どうしても欲しくなったらまたお金を溜めて買おう。 そのときには、そのそれはもう売れてしまっているのかもしれないけれど。 「すぐに額装して送ります!」とメッセージをいただく。 一週間ほどで届くだろうか。 作品が買われていくことをよく「お嫁に行く」とか「嫁ぎ先が決まった」とか言うのだが、その作家さんはその表現よりも「僕の恋人がどこかへ行ってしまう」という方が近いと仰っていた。 その一抹の切なさは分からなくもない。 自分の作品がお金に変わった、評価が得られた嬉しさもさることながら。 私は彼の恋人を、まもなく家に引き入れるのである。
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数日前、電子レンジを使っている最中に「しゅぅん」と言って電気がいきなり切れた。
最初はブレーカーが飛んだのかと思ったけれど、冷蔵庫は点いているし、明らかに電子レンジだけがパタリと動かなくなった感じがあった。 まだ買って1ヶ月半である。 カスタマーセンターに連絡すると、「電源コンセントを抜き差ししてみてください」と言うので、「それはもうやりましたので」と答え、修理に来てもらう手配を行った。 翌日、使えるかなと思ってあたためスイッチを押してみたけれどやはりうんともすんとも言わなかった。 冷凍してあるごはんを温めて食べようかと思ったけれど、そうかそれはできないのかと気づく。 私は平日に在宅していることが多いから良いものの、一人暮らしで会社勤めしていたら修理日程が合わず最悪1週間程度電子レンジがない状況が生まれてしまう。 無論電子レンジがなければ暮らせないわけでもないのだが、事実夏場に冷蔵庫が壊れるよりマシだろう、いつもあるものが無いとなると余計に不便感を募らせてしまう。 買ってきた弁当だって温められず、冷たいごはんを塊のまま口に放り込むことになる。 まあでもそれが新鮮で美味しいといったこともなくはないだろうけれど。 葬儀等で少し延びてしまったが早々に修理の方がいらしてくれた。 15分ほど作業したところで、ピッ、という電子音が戻ってきた。 試験運転も成功しているようだったので、「何が原因だったのですか?」と聞くと、内部の線が1本抜けてしまっていたとのこと。 おそらく工場の組み立て時に差し込みが甘かったことによるものでしょう、と。 保証対象期間であるし料金はかからなかったけれど、謝罪の気配は全くなかった。 まあでも、この修理の方は修理という使命を完遂しただけなのだから、本社工場のミスは自分の仕事には関係ないということだろう。 確かに、それもそうだ。 しかし、この社会では謝って済むことばかりではないかもしれないけれど、誠実に謝って済むことは案外多いと思うので、こちらに何の落ち度もないのなら謝っておいた方が修理の方でも無難なのではないかなとも思った。 いやでも、謝ったことに付け込んでさらに煽ってしまうことも考えられるだろうか。 電化製品のハズレはきっと1万台分の1程度なのではないかと思うけれど、過去にはPCの初期不良や暖房器具の故障などにも出くわしたことがある。 現状、2年ほど使ったコピー機の印刷が全くされないという事態も起きている。 2年使って壊れるのがどれほどの確率のことなのか分からないけれど。 ここ一週間の荒波で私は疲弊していたので、そんなことをおぼろげに考えながら、修理の方の作業中、PCで作品画像の整理をしていた。 ただ、こんなときほどなぜか取り留めのない文章が書きたくなる。 おばあちゃんの葬儀も滞りなく行われた。 叔母さんからおばあちゃんの過去のエピソードを聞いたりして、なんだかもう本当に泣けて泣けて仕方がなかった。 前日に書いた浄土真宗のお経を棺桶のおばあちゃんの足元に入れた。 90×240㎝というかなり大きいものをたためるだけたたんで入れたので、火葬後に白い大きな灰の塊として残っていた。 お坊さんのお説法の中に、「立て続けにこういったことがあると、私だけ辛い、良くないと思ってしまいがちですが、本来そもそも人間は皆平等であると考えられています」という話が印象的だった。 おばあちゃんの亡骸を前にストロングゼロを飲みながらこれを書いている。
一昨日は上の孫が、昨日は下の孫が、今日は私たち双子が最期におばあちゃんと一緒に寝る。 おじいちゃんは、死に顔、という感じだったけれど、おばあちゃんは本当にただ寝ているようだ。 ふとした瞬間に起き出すとは思わない。 永遠の安らかな眠りについたのだと、そんな感じで穏やかな顔で眠っている。 94年間病気という病気もせず、最後は少し苦しかったみたいだけれど、心臓を、身体を、使い切っで死んでいった。 おじいちゃんを追って逝ったとしか思えないタイミングでおばあちゃんは生涯の幕を閉じた。 あの世にはふたりの息子とおじいちゃんがいる。 私は死後の世界を信じないけれど、おばあちゃんは信心深い人だった。 だから、きっと、今ふたりの息子とおじいちゃんに再会しているのだろうと思う。 幸せになってね、と心から思う。 私が泣きながら酒を飲んでいるのを、眠れない姪が不審そうに見ている。 私はおじいちゃんよりもおばあちゃんと関わる時間の方が多かった。 おばあちゃんが好きだった。 私が大学に推薦で受かったとき、一番喜んでくれたのはおばあちゃんだった。 「あんたなら何にも心配いらん」と言ってくれた。 私にとっておばあちゃんは希望だった。 すごく、お世話になった。 綺麗事ばかり言うつもりもないけれど、涙が止まらない。 全くもって義務ではない毎日の書の提出物を、私は急で大事な用事の際にも忘れずに欠かさずに出し続けている。
海外旅行のときも、葬式のときも。 出先では筆ペンのことがほとんどだけれど、泊まりグッズよりも筆箱と紙の容積の方が場所を取っているくらいだ。 これは泊まりグッズを全然持っていかないというのもあるけれど。 何かを始めるとき、それを終えることまで考えた方が良い、ということを聞いたことがあるが、それは本当だろうか。 何かを始めるとき、そのような冷静な気持ちはない方が飛び込んでいきやすい。 終えることを考えていたら何も始められないような気もする。 しかしながら、私はこの毎日の修行をいつ止めるのか、ほんの少しだけ気を揉んでいる。 例えばSNSとか、例えば何かしらのサークルとか、習い事とか、自分ひとりで完結しないことは様々な人間関係を生むものだから、それを終えたいと思っても終えがたいという状況が出てくるだろう。 しかしながら、何が面白いかって、とても多くのケースで他人とのコミュニケーションという部分があるだろうから 誰かが見ていてくれるから頑張れたり、誰かが批判するから燃えたりするわけである。 つまり、私たちはかなり広域のシチュエーションにおいて、自分の感情の結構大きな部分を、他人を通して計っているといっても過言ではないだろう。 もちろん、たったひとりでとても満足するということもできる。 ただやはり、それを例えば後日に誰かに話したくなったりもする。 コミュニケーション欲求というのは、往々にして「自分の思い通りの」コミュニケーションがしたい、ということである。 それは単純に自分に同意賛同賞賛承認してくれる人とのコミュニケーションということではなく、複数人でその何か感覚を分かち合ったり増幅させたり、あるいは一見逆なで合うようなことについてさえも一種の「自分の思い通りの」コミュニケーションといっても成り立つ場合は多々あるだろう。 あと、当たり前だが、コミュニケーションはひとりでするものではないから「自分の思い通りの」ということが叶わないことも起こり得る。 奇しくも今日の書の画像の一番目のものが「人の喜ぶことを心がけよう」なのだが、それを自分で実践したつもりでも相手は喜んでくれるとは限らない。 もっと言えば、喜んでくれたそ素振りをされてそれに気づかない場合だってあるだろう。 もうこうなってくると、どうして良いかが分からなくなる。 誰かを傷つけたいわけでも毛頭ないし、他人の気持ちを推し量り過ぎて自分を殺すことにも何の意味もない。 全てはバランスというところに尽きてしまう。 大事なことは、「自分の思い通りの」コミュニケーションを諦めないことなのかなと思う。 それは独りよがりということとも全然違って、各々がきちんとそれを携えて誰かと接すると言うことである。 展覧会の締切が間近である。 何にもやってなくて慌て始めたときにおじいちゃんが死んで、さらに慌てている。 題材探しに窮していて、ふと目に止まったのが浄土真宗のお経だった。 おじいちゃんとおばあちゃんが、施設に入るまでほとんど一日も欠かさずに毎日読経していたものだ。 私の耳にも残っている。 そしてたった今、おばあちゃんも死んだといもうとから連絡がある。 おじいちゃんを追って逝ったのだ。 また帰るのだ。 肉親が死ぬと悲しいのは何故だろう。
おじいちゃんの死に顔を見て、どうしてもどうしても涙が止められなかった。 最期の一週間ほどで人が変わるほど痩せてしまったらしい。 棺桶の中のおじいちゃんはきれいに死に化粧され、黄疸の黄色さを健やかそうに、というのもかなり変だが、カバーされていた。 そもそも看取るつもりは私はなかったが、おじいちゃんは誰にも看取られずにそっと逝ってしまったそうだ。 兄と兄の奥さんがおじいちゃんを見舞いに行った際に、既に息を引き取っていたとのこと。 施設でひっそりと、こっそりと。 おばあちゃんだけは同室の少し離れたベッドにいたけれど、ほぼ寝たきりなので気づかなかっただろう。 おじいちゃんはどんな気持ちだっただろうか、どんな気持ちも無かっただろうか。 おばあちゃんはおじいちゃんが運び出されていった後、70年以上も連れ添った人の死をベッドに横たわったまま辛うじて認識して「そうか」と言って涙を流したそうだ。 お通夜の日、私は21時前に式場に着いた。 姪っ子と甥っ子がいつものようにバカ騒ぎと言っても良いほどの騒ぎ方で、畳の部屋を駆け回っていた。 私が堪えきれない涙をぽたぽたとやっていると、姪っ子は「おばさんなんでないてるの?」と聞く。 「はは、どうしてだろね」と精一杯に答える。 人は死ぬと動かなくなる。 人は死ぬと冷たくなる。 人は死ぬと静かになる。 人は死ぬと魂が抜けたようになる。 魂なんてものはあるのだろうか。 あるとしたら、魂はどのタイミングでどこに行くのだろうか。 遺体はとても丁寧に扱われて、父が死んだときよりもとても綺麗に改装された火葬場で、物の見事に骨になった。 肉体を見ていると止まらなかった涙が、骨になった瞬間に私はとても冷静になった。 火葬場の係員さんが、ここは膝の関節、ここは足の指の骨、という詳細の説明をしてくれたときは博物館にいるような気分にもなった。 子どもたちはこの瞬間が最も衝撃を受けた様子で固まっていた。 「骨がしっかりしとるねえ」と口々に言っていたのは父のときと同じだ。 父の父だから、肉体を剥いだ骨まで似ていたのだろう。 終始2歳から5歳の姪甥たちが騒ぎ立てる中、初七日のごはんまでを終える。 デザートについていたメロンがとっても甘くてジューシーだった。 「この中で一番美味しい!」と全部の料理を差し置いて私がそう言うと、「俺もそう思う」と兄が言った。 58になる叔父と少し話をして、「会社行きたくないなら早期退職すればいいじゃん!」と言ったら「そう言ってくれる人はあんまりおらんだ」と言っていた。 色々な事情はあれど、経済面だけクリアならばしたいようにすれば良いと私は思う。 みんな年をとっていく。 私も年をとっていく。 涙は止んで、眠たくなった。 東京駅。
日曜日の18時半、下り新幹線はとても混雑している。 品川から乗らなくて本当に良かった。 私は何かのプレゼンターのような黒服に身を包んでいる。 おじいちゃんが死んだ。 不意に、と言うべきか。 ついに、と言うべきか。 93歳、たぶん。 おばあちゃんが危篤だと聞かされた後復活したと聞き、今度はおじいちゃんの調子が良くない、と聞いていた。 兄の上京が結局取りやめになったのもおじいちゃんの具合が良くないからという理由だった。 人はいつか絶対に死ぬし、一般的に言って死ぬ確率は経年ごとにどんどんと上がっていく。 不老不死の薬を求めていた昔々の中国人だって、誰一人残ってはいない。 死ぬのがいつなのかは誰も分からない。 93歳だって、今日かもしれないし明日かもしれないし10年後かもしれない。 20年後の確率は極めて極めて低いことは言えるだろう。 それが昨日だっただけである。 93年、長いだろうか、短いだろうか。 大往生ですねと言われれば間違いなくそうだろう。 おじいちゃんは、若い頃を戦争で過ごし、シベリアに行って捕虜となり、命からがら日本に戻って、高度経済成長期に車の部品を作る鉄工場を立ち上げ、鉄筋コンクリートの自慢の家を建てた。 子供が生まれ、子供を亡くし、孫が生まれ。 私はおじいちゃんの生い立ちについて、ざっくりとこのくらいしか知らない。 シベリア時代に覚えたほんの少しのロシア語を話せることや、食べるものがなくてベルトの革を削って食べてみたことや、伊勢湾台風のときに迫りくる水から機械を守ったことや、盲腸の手術で麻酔が効かなくて麻酔無しで手術を受けたことなど、ばらばらとしたエピソードは聞いたことがある。 そういえば肉親の人生の物語というのは、詳しく知っている人の方が少ないのではないだろうか。 家族のひとりとしてではなく、個人の、独立した、ひとつの人生を辿ってみるのは興味深いかもしれない。 しかしなかなかタブー感のあることなのかもしれない。 おじいちゃんが死んだと聞かされたのはいもうとからの電話だった。 普段電話をかけてくるような人ではないので胸騒ぎがして、レッスン中ではあったが電話を取った。 「仕事中?じいちゃんが亡くなったって」と、姪っ子たちが騒いでいるのをバックにいもうとは言った。 一瞬、私の世界から音が消えた。 父が死んだときは、3秒くらい音が消えた。 あぁ、この世界からいなくなっちゃったのか、と思った。 心の奥深くがぼわんと空洞になったような感覚があって、私はそのまま仕事を続けた。 私は昨日、ちゃんと喋れていただろうか。 今日のレッスンは後ろのお二人に断りを入れて、今新幹線に乗っている。 泣きたいような、泣けないような。 棺桶の中のおじいちゃんはどんな顔をしているだろう。 ありがとう、お疲れさま、と言おうかしら。 その前に泣いてしまうだろうか。 明日火葬したら、肉体は骨と化す。 地面にかかる重さが、おじいちゃんの分だけ減る。 そんなことを考えている。 マグカップを買った。
なんと5000円。 正確には4860円。 時間が空いたので、ここ1週間ほどの間に思い立って欲しくなったマグカップを、伊勢丹なんかに1年ぶりくらいに足を踏み入れて探してみた。 これまでメインで使ってきた山吹色の大きめのマグカップも気に入って買ったものだ。 嫌いになったわけではないけれど飽きてきた、というのが膨らみ始めていた。 それに少し重たいので、焼き物の薄手のカップが良いかななんて考え始めたのがきっかけだった。 量産ものではなく一点ものが良いななんてぼんやりと考えて、ネットサイトも見ていたが、この類のものはやはり手に取らないとだめだ。 手に取って私に馴染むかを見極めることが最も重要であり、良い買い物をするための欠かせないプロセスである。 食器コーナーで逡巡に逡巡を重ねて、うろうろうろうろ、1時間半ほどはいただろうか。 花粉症のため、マスクに眼鏡だし、物選び中にあまり話しかけられたくない私はできるだけそういうオーラを醸しているつもりなのでやや怪しげだっただろう。 でもたぶん、伊勢丹にはがっついた接客はしないようにというマニュアルでもあるのではなかろうかというくらい、客への積極性はないように感じられた。 毎朝コーヒーを飲む自分のカップ。 毎日使う物の質を上げることがいつからか嬉しくなった。 別に紙コップだって100円ショップの食器だってコーヒーは飲めるけれども。 ワインは飲むグラスによって味や香りが変わるように、日本酒はお猪口の口当たりも含めての味であるように、器によって味が上乗せされるという事象は何度も経験がある。 しかしワインも日本酒も毎日なんて全然飲まないので、家の食器としてこだわりたいと思ったことは今のところ一度もない。 日常の中で、見る度に、あぁかわいいあぁかわいい、と愛でられるものを側に置くことは日々の充実を感じることができるし、それを自分で買ったのだと思うのがもっと嬉しい。 物に限らずサービスなど何においてもそうだけれど、お金を出して良かった、と思えるものにお金を出す決断を下すことは、トライアンドエラーの世界観を大いに持っていて、日々鍛錬である。 いくつか持っているポーランド食器の柄違いのマグカップにも惹かれたけれど、あまりに有名になっているし、一点ものな感じも全然しない。 売り場をぐるぐるする中で、素敵だと思うカップが3,4つ目に留まった。 どれも作家さんの名前が書いてある一点物の焼き物のカップだった。 カップアンドソーサーもフォルムとしてはとてもかわいいし惹かれるけれど、やはりソーサーは邪魔になるだろう。 財布は折りたたみのものより長財布の方が俄然かわいいけれど、やや邪魔に思っている現状もある。 このマグカップが家にある全体像と、コーヒーを淹れたときの色合いと湯気の立ち方と、朝スマートフォンを眺めながらコーヒーを飲む手への馴染み方と。 想像しろ!と私はマスクと眼鏡の下で自分に強いた。 3800円と4860円と6000円と。 特に予算を決めて行ったわけではなくて目に留まったもの。 28000円とかいったものは自然と脳が除外していたのかもしれない。 どれもきゅんと来る。 ものすごい値段の違いなわけではないから、ここまで面倒を買って考えるなら値段による選択を全くもって外しても良い。 結果買ったのは値段としては4860円のものと日本人らしい中庸なものになってしまったわけだが、値段で買ったのではないと胸を張って言いたい。 今になって何が決め手だったか考えると、おそらく、二度と同じものが創れなさそう、という点なのかもしれない。 円錐のような下が窄まった形をしていて、上の方は柔らかで淡い淡い青緑のような色、下の方は焼き物そのもののベージュの色合いになっている。 何か色水のようなところにカップを逆さに浸して自然に垂れてきた模様なのだろうと思う。 カップのしたの方には作り手のサインが筆記体でそっと入っている。 作り手の我を主張しすぎることもなく、そっと、ほっと、でも存在を忘れさせない、そんな佇まい。 ついでに来客用の湯呑みが欲しくなって、それもさんざん考えたけれど買うのをやめた。 翌日、コーヒーを淹れてカップに注いだときの情景は、私が伊勢丹の売り場で頑張って想像したものと何の違和感もなかった。 よくやった。 コーヒーの味が違って思えたのはカップのせいもあるだろうけれど、おそらくドリッパーを変えたことによるところが大きいだろう。 ペーパーフィルターをやめてステンレス製のペーパーレスのドリッパーにしたのだ。 ペーパーフィルターはコーヒーのオイルがあまり落ちないのでクリアでさっぱりとした味わいに、一方ペーパーレスはオイルが落ちるのでコクのある味わいになる、と商品説明に書いてあった。 なるほど確かに、いつもよりこくっとしたコーヒーなのかもしれない。 「医学に専念するので次回で一旦最後にします」と言っていた医学部の学生の生徒さんが久しぶりに顔を見せた。
三浪だか四浪だかして医学部に入ったのだそうで、そういう意味では苦学生なのかもしれない。 一般的に言えば全くもって苦学生ではないだろうけれど。 生徒さんとの人間関係は無論すぐに構築できるわけではない。 私はこんな感じです、私の方はこんな感じです、とお互い探り合いのようなところから始まる。 回数を重ねていくと、話してくれることも増えて、お互いに安心したり少し知り合ったような気分になるものだ。 医学の話や将来についての悩みをブツブツと話すようになってくれたことを私は嬉しく思っていた。 今日は、自分自身の資質についてと社会での立ち振る舞いというようなことを私たちは話しながら字を書いた。 常々社会のいろんなものに塗れていると、自分自身の資質について見誤ってしまうことがおそらく多々ある。 私もそうであったように思うし、今もこれからもそれについては危機感を持っていなければと思う。 自分自身の資質、傾向を正しく知ることは、社会というものから逃れられない私たち全員に思いのほか大切なことであると思う。 知らなければ対策も練りようがないし、諦めた方が良いことや諦めずにいたいことも分からなくなってしまう。 俗に言う「辛い」ということの半分くらいは、自分の資質や傾向について理解していなかったり覚悟できていなかったりすることから起こるのではないかと思うくらいだ。 あまりに社会軸に寄せる必要ももちろんないが、それを乗りこなすくらいの気概はあって然るべきであろう。 私がこのことを自分のこととして認識したのはごく最近ではあるけれど。 話というだけでなく、書というものを通すだけ、コミュニケーションは多様性を帯びて潤滑になることも多い。 言葉だけがコミュニケーションではないこと体感することは、私がこういうことをしていて良かったと思う大きなひとつのことなのかもしれない。 字を書くことが好きで、とりあえずなんかやりたいんです、と彼は言っていた。 そもそも、他に理由など要らない。 マズローに言わせれば書をやることは極めて高次元の欲求を満たすことに他ならない。 彼は古典を少しかじっていたけれど、試験の結果が思わしくなくて落ち込んでいると言うことろから、最後のレッスンは何の脈絡のないことをただ書いてもらうことにした。 「鶏」「仏蘭西」「つゆ」。 昨日焼肉を食べに行ったことや、フランスに行ったことがないことや、「露」なのか「汁」なのか書のニュアンスによって立ち上る何かがあることや、その場の書において関係があるようでないような、書はその紙面一枚で独立できるものである。 ただ字を書くことは楽しいと思うから家で時間があればやってみてね、と私は伝え、試験に合格してまた遊びに来ます、と彼は3回言って帰っていった。 後のメッセージでもまた、試験に合格してまた伺います、と言っていた。 ついでに、先生の作品は上手くていつもいいなあと思っていました、とも言っていた。 私は私でまだまだだけれども、単純にありがとうございます、と思う。 私は受け身でしかないけれども、いつかまた来てくれるといいなと思う。 是非とも、立派なお医者様になってもらいたい。 区役所の本庁に転居届を出しに行くと、なんと90人待ちと言われる。 なんと90人待ち、およそ3時間待ち、何たることか。 出張所は空いていると思いますと案内され、30分弱ほど歩いて出張所に行ったら誰一人おらずすぐに手続きは終了した。 しかしながら、マスクをしていたとは言え、30分弱も歩いて花粉を浴びてしまった弊害が数時間後にやって来た。 ヒノキ花粉はこんなに酷かっけと思い、少しインターネットで検索してみると今年はヒノキ花粉の飛散量が異例であると出ていた。 身体は正直である。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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