0 コメント
小松菜とシーチキンを炒め煮にして、冷凍してあったごはんを解凍して食べる。
今回でいつかに買ったお米5キロがようやく終わったけれど、一体いつ買ったお米だったのだろう。 新米だったような気がするけれど、既にれっきとした古米になっている。 さすがにかなり味が落ちている。 「マツコの知らない世界」をなんとなく観ていて、美味い店特集をやっている。 私はあまりこういう食番組にあまり惹かれることがない。 実際にその店に食べに行くこともない。 料理番組は好きだけれど。 やっぱりひとりでごはんについてわくわく森の中に入っていくことはできない。 古米と小松菜とシーチキンの炒め煮で十分なのである。 少なくとも多くの日は。 淋しいとも貧しいとも侘しいとも思わない、というのが強がりで言っているわけではないことをどうやって正しく説明できようか。 本当に、とか、間違いなく、とか強調用語を入れたところで余計に嘘っぽくなってしまう。 このような類の話は日常的にままあって、少しばかり悩ましいと思っている。 誰かに何かを「伝える」ということがものすごく困難であるということを私が自覚したのは、そんなに昔のことではない。 ロックンロールを知って、それからまたしばらく経ってからだ。 そもそも、伝え手の言うことが受け手に“正しく”「伝わった」ということは原理的に言ってない。 それは我々は皆別々の人間であり、別々の知覚認識をしているからだ。 このことについて考えると、心臓に冷たい水を注がれたようにヒッとなる。 これは孤独そのものなのだろう。 それでも伝えることを止めなかったり、伝えることに創意工夫を凝らしたり、そのために同じ時間を共有したり、それが本当に伝わった気になったり、本当に伝えられた気になったり、そんなことは美しいことだなと思う。 一生曖昧模糊としているだろうけれど、そんな捉えどころのないこの世界は、私の遊び場として何だか楽しい気がする。 最近ブログに載せている書のほとんどは、Facebookの書グループに提出しているものだ。 いつも同じではつまらないと大きく書いたり小さく書いたり、書体を変えてみたり、丸を書いてみたり、金墨汁を使ってみたり。 発想は乏しいけれど、毎日苦心しながら存分に楽しませていただいている。 上から二番目の「夏端月」というのは、機会があって画像加工に長けている方におめかしをしてもらった。 何だかすごくカッコイイではないか。 いいねやらコメントやらをいただくこともあって、「センスがありますね」なんて言われたりして。 もちろん嬉しいけれど、身の縮む思いもする。 これは私が“ヘンタイ”への憧れと尊敬と恐縮の気持ちを拭えないからである。 私なんか、全然“ヘンタイ”なんかではない。 私が憧れる字というのは、「その人がその時にしかできない、気負ってなくて自然で、ともすれば気持ち悪いくらいのアンバランスをモノにしている字」である。 アンバランスを目指しているなんて可笑しい感じもするけれど、結構本気でアンバランスを目指している節がある。 と言っても、アンバランスのち崩壊、ではなくて、アンバランス且つ絶妙なバランス、である。 私はあまり古典の臨書をしないのだけれど、古典をないがしろにしているわけでは毛頭ない。 古典に根差した字というのも当然ながら素晴らしい。 というかとても尊敬するし、憧れてもいる。 古典を死ぬほどやらないと威厳のある線が引けるようにならない、というのも何となく正しいような気がしているので、もっと臨書しなければなあという思いもある。 がしかし、臨書は書においての血肉、骨格になるものだろうけれど、それをやったからと言って創作物が光ることが担保されるわけではないとも思う。 それに、字は歴史であり、誰のものでもないし、みんなものである。 つべこべ言わずやれということだけだけれども。 語弊を恐れず言えば、もっと気持ち悪くなりたい。 コート2着とリアルファーをクリーニングに出し、メイク落としとアイライナーを買いにドラッグストアに行き、通販で買って届いた紙やら墨やらトイレットペーパーやらを荷ほどき、先方が間違えて送ってきた他人様の印を返信用封筒に入れてポストに投函、お金をおろして年金を一年分前納。
これだけするのに小一時間。 諸々のイレギュラーな雑用ごとは行うまで至極面倒だけれど、一気にやってしまえば達成感すら味わえる。 最近あまり野菜を食べていないとスーパーに行き、安売りしていたニラと大葉、牛豚合いびき肉とずっと切らしっぱなしになっていた料理酒を買う。 料理酒といっても大きめのパックに入った清酒で、いつかに、料理酒たる料理酒ではなく、清酒を料理に使った方が美味しいと思ったことがあるのである。 ニラと大葉と牛豚合いびき肉。 私は一体これで何を作ると言うのだろう。 まあでも、肉が入っていて美味しくないものはできない、というのが私の肉への信頼である。 ごった煮ならぬごった炒め。 ひき肉を軽い塩胡椒とにんにくで炒めて、5センチくらいにざく切りしたニラを投入、酒と豆鼓醤を入れて炒めたら味見、塩分が少し足りないと醤油を回しかけ、太目の千切り大葉を火からおろす直前に入れた。 適当に作って美味しい料理が作れると”料理ができる人”のように思えるかもしれないけれど、私の場合、別にそういうことではない。 良い感じのものができることもあれば、決して得した気分になれないものができることもある。 料理だって何だって、練習している頻度が高ければ上手くできる確率が高まる。 平均値を高めていく作業、というのが練習というものだ。 ごった炒めを料理と呼ぶかどうかは置いておいて、特に最近はほとんど調理をしていなかったにも関わらず、肉さまのおかげでこの炒め物は成功の方向にあった。 ニラと大葉の艶々青々とした葉っぱを肉と豆鼓醤の旨味で食べる。 ともすればニラの甘味と大葉が喧嘩するだろうかと思ったが、ニラの主張は大きなもので、大葉はふんわりと香るのみにとどまった。 大葉は最後に乗せるだけでも良かったのだが、少しだけ火を通したことで風味が飛んだのだろう。 二種類の緑を食んでいる、そんな気分が嬉しかった。 野菜を摂りたいという一抹の健康への不安の払拭できた。 これは連続して行わなければならないものだと思うけれど、とりあえず。 疲れていてまた座椅子で5時間ほど寝てしまう。 あー、と思いながら、目が覚めたので明日の提出物を書く。 5時半になる。 6月の展覧会の締め切りが近いのだけれど、全然書けていない、というか書いていない。
毎日のお題をこなすのはそれなりに骨が折れ、それなりに満足感もあるものであるため、創作欲をそこに集約して持っていけないという感じ。 意を決して、紙を切る。 これがまた、骨が折れる。 90×240という大きな紙を縦三つ割にする。 30センチを物差しで測って紙を傷つけないように折り、ペーパーナイフでシャッシャッと。 紙を切らない構成にすれば良いのだけれど、そういう構成を考えてしまったので仕方がない。 今回は自作俳句集を書くことにした。 言葉は全て借り物だとしても、何とかかんとか自分で紡いだ言葉を書にしたい、ずっとそう思ってきた。 もちろん、他人が創った素晴らしい言葉はいっぱいあって、感化された過去からするとそちらの言葉の方が書くに値するような気がしてしまう。 しかしながら、私は私のことをやることに覚悟と敬意を払いたい。 それがあまり上手くいかなかったとしても。 春夏秋冬、俳句を選り分けてつらつらつらつら書いていく。 各1枚ずつ、タイトルを入れて縦30センチを5枚。 どうにかこうにか1セットを試し書き、2セット目を一応仕立てるところまで。 午前4時半、ベッドマットに体を全部預けて、いつ眠りに落ちたのかを覚えていない。 こうやって眠るのは、私にとってとっても幸せなことのひとつである。 面倒ならばやらなければ良い。 別に頼まれてもいないし、まあほとんど義務だけれど国民の義務と比べたら今すぐにでも放棄して良いことだ。 それで、面倒だとか、疲れるとか、時間がないとか、焦るとか、私は一体何をやっているのだろうと疑問に思ってしまうこともなくはない。 気乗りしない、などと言うのは、自分のことを一体何様だと思っているのか。 これに関して、己の気合いと根性は全然発揮しなくたって誰も困らないのである。 しかしながら、やったらやったでそれなりの達成感と充実感があるのであって、やらない方が良かったなんてなったことはかつて一度もない。 またキックボクシングを観に行った。 すっかり好きになってしまった。 声援やコール、どよめきが会場を埋め尽くす中、私はあまり応援のパフォーマンスが取れない。 ロックのライブと似ている。 鑑賞も観戦も同じようなもので、別に全員が頭を振る必要も、全員が拳突き上げて大声を張り上げなくなっていいではないか、と思う。 というか、人が真剣に殴り蹴り合って倒れそうになるのを必死で向かっている様を見て、私には他の人と合わせてコールをしている余裕がないのである。 ただ、観戦はおそらく選手の励みになるであろうとは思う。 応援していた選手は負けてしまった。 リングから降りて、応援席に向かって祈りを捧げるように、膝を地面に付けて礼をした。 負け試合を見たくなかったなんてことはなかった。 見て良かったと思った。 地元の書家を、ということで東三河にある肉屋さんから看板ロゴを書いてほしいと依頼があった。
地元の書家さんを、という言葉を見たとき、何だか胸がきゅっとした。 大学上京以来、私はただの一度も地元に帰って暮らそうと考えたことがない。 大病でもしたら地元に帰ることになるだろうかとそんなことまで危惧しているくらい。 東京が好きだ、とも言えるし、地元はあまり好きではない、とも言える。 それなのに、何だか胸がきゅっとした。 嫌悪ではない、嬉しかったのだ。 愛着などない、と表面から骨の髄まで思っていると思っていたのだけれど。 不意に大学が同じだと言われると「お!」と思う心が少しある。 でも、地元が同じだと言われても「ほう」としかならない。 帰りたくなった、ということでは全然ない。 けれど、ことり、と心が動いて、ん?と軽く振り返りたくなるような、そんなふうに思ったのかもしれない。 いろいろと四苦八苦して何パターン化かを仕上げる。 誰でも読みやすい字、男っぽくて力強い感じで、というのがご要望だった。 私からもいくつか確認して、滲みのある淡墨はNG、改行は適宜、印はなし、という条件の下書き始めた。 いつも創作をするときは、書を知らない人はおよそ読めないような字ばかりを書いているので「容易な可読性」ということがとても制約に感じる。 しかし、ロゴなのでパッと見で読めるということは極めて大切なことだ。 積み上がった反故と、がちがちになってしまう左半身。 ああダメだ、ああダメだ、もっとこうだったら、うまくいった!、がしかし最後の文字最悪!なんてことを繰り返し繰り返し。 スポットスポットで良いものが書けたとしても、こういう思いは書を続けている限りずっとずっと続いていくのだろうと思う。 展覧会の作品は、会期を終えると筒に入って戻ってくる。 その筒はほとんど開けたことがないのだけれど、それをひとつ紐解いてこの度の作品の発送準備をする。 好きなことを仕事にする、そんなふうに生活している、できている自分に改めて少し驚く。 この度の作品を書かせていただいたことは、誇りに思おう。 マスクをつけないで外出する。
何だか、大丈夫・・・いやまだ・・・あと少し・・・といった感じ。 眼鏡越しに世界を見ることには慣れたけれど、やっぱり眼鏡は邪魔である。 目と目の間にある、鼻当て、と俗に呼ぶらしい、が邪魔だし時々皮膚が痒い。 視界に眼鏡のフレームが入るのも鬱陶しい。 そのまま顔を横にして寝ることもずれてしまって鬱陶しい。 今コンタクトレンズを入れて大丈夫かどうかはわからないけれど、早く眼鏡を脱ぎたい。 いきなり暖かくなって暖房をつけなくなって、そうしたら部屋干しの洗濯物が乾かなくなった。 私は洗濯物は基本が部屋干しであるが、冬の間は部屋の加湿の機能もあった。 洗濯物がないときは、わざわざ濡らしたタオルをエアコンンの吹き出し口にかけていた。 暖房の乾燥力とはもの凄いものだ。 乾燥も辛いのだけれど、洗濯物が乾かないのも気持ちが悪い。 時間をかけてゆっくり乾いていくと、雑菌が発生しやすいとも聞いたことがある。 生乾きの匂いは、例えば黒板を爪で引っ掻いて出る音の嫌さと似ている。 朝は雨が降っていて、自転車で出かけられなかった。 雨も上がったことだし、時間もあることだし、一駅分歩いて帰ろうといつもは通らない道を適当にてくてく歩く。 家の近所とは言え、知らない道はまだまだたくさんある。 そうしたら、いきなり広めの見晴らしの良い公園に出た。 都会は高い建物が多く周りを見渡せないので、こういった何かいきなりの出現によく出くわす。 この東京のいきなり感が私は結構好きである。 都会の真ん中に、こんなに広く、こんなに穏やかな場所があったなんて、と都会の秘密を知ったような気になって嬉しくなる。 東京に住んでもうだいぶ長いけれど、東京の方が居住年数が愛知よりも多くなってもたぶん一生、私は都会に憧れと借り物感を持ち続けるだろうと思う。 雨上がりの曇り空、シロツメクサの上で、子どもと犬が走り回って遊んでいた。 桜は満開からはらはらと花びらを優雅に散らしていた。 夏の草いきれには程遠いけれど、啓蟄の湿った植物の匂いがふわりと香って。 東京は、同じ区でも場所によってさまざまな街の顔を見せる。 大きなマンションがスーパーや歯医者などを兼ね備えてひとつの小さな集落を作っているところがあったり、深みのある木の表札にフルネームが書いてあるような大きなお屋敷、車一台10センチも余裕がないくらいの駐車スペースを持つ狭小だけれどおとぎの国に出てきそうなアメリカンカントリー調な家、いろいろある。 この辺住みたい、このマンション中見てみたい、と、私は結構物件というものが好きだ。 amazonプライムで、「パンとスープとネコ日和」を観る。 ああいう感じ、好きだ。 四月になった。
早いですね、早いですね、早いですね、とみんなも私も口々に言う。 時が過ぎることも年をとることも悪いことではないと言い聞かせているような節が私にはあるけれど、そうではないのかもしれない。 月並みだけれど、人は年をとるほど死ぬ確率は高まるのであって、今まさに減っていっている生きている時間をどう過ごすか、と考えると本当は焦らなければいけないのかもしれない。 取りこぼしそうなもっと良いことはないだろうか、生きたいように生きられているだろうか。 ならばのんびりしているわけにいかないではないか!と思ってしまうのだけど、のんびりすることがこの上なく心地よいことだってあるわけで、全てはバランスという言葉に集約されてしまう。 もっと一生懸命のんびりしたり、もっと一生懸命寝たり、もっと一生懸命書いたり、もっと一生懸命息をしたり、もっと一生懸命走ったり。 自分の心の合意の下、一生懸命何かをしたい。 そんなところだろうか。 久しぶりに大好きな小石川植物園に行った。 木枯らしで紅葉が舞う秋の日、年明けのザーザー降りの雨の日、日傘をさした昼下がりの夏の日、新緑がきらきらしている初夏の日。 これまでいろんなときに何度も行っている。 大きくてとても良い場所なのに比較的知られていない。 都会の住宅街に突如現れる森であり、オアシスだ。 これと言って何があるわけではないのだが、広々とした敷地にさまざまな種類の木が生えていて、きちんと土の匂いのする場所である。 どうやら私は桜の季節には訪れたことがないようで桜のイメージはなかったけれど、桜もたくさんの種類が植えられていて全体七分咲きといったところであった。 花や木の写真を久しぶりにたくさん撮った。 花を接写したり、青空を木の枝が描くのを切り取るのが好きなのは昔からである。 何年前とほとんど同じ類の写真を毎度撮っていることに気づき、私は植物の写真をあまり撮らなくなった。 これ以上の発想だっていくらでもあるだろうけれど、そこを追求していく気持ちがなかったのだろう。 これは悲しく切ないことだけれど、仕方のないことだ。 今回、久しぶりに、やっぱり同じような写真ばかりだったけれど、思い出のページをめくるような気持ちで写真を撮って楽しかった。 でも、再燃はしない、そんな気もした。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|