ブランデーどら焼き、なるものをいただいて、それを食べて仰け反る。
皮にアルコールの揮発していないそのままのブランデーが、どら焼きの生地ひたひたに染み入っているのである。 「お酒に弱い方は注意」「運転をする方は注意」などとは書いていない。 生地を押すとじゅっとブランデーが滲むくらいに。 3口くらい食べたところでほんのりと喉のあたりが温かくなるのを感じるくらいに。 普通の栗どら焼きもあって、きちんとどら焼きの皮とあんこの味が当然したのだけれど、このブランデーどら焼きはほとんどブランデーの味である。 甘さは感じるけれどあんこの味が全然しない。 美味しい、かどうかは置いておくけれど、楽しい。 もう一度食べたい、かどうかは置いておくけれど、楽しかった。 ブランデーをそのまま飲み物として飲むとき、どら焼きがおつまみでも良いのかもしれない。 ブランデーとチョコレートなどはよくある組み合わせだし、強めの砂糖の甘さと炭水化物の甘み、そして油分、あとおそらく焼いた感じの香ばしさはブランデーに合う。 チョコレートは焼いているわけではないけれど、カカオの香りは黒く香ばしいのでそれに近いものがあるのだろう。 大福は合わないかもしれないけれど、月餅やマドレーヌなどの焼き菓子は全般的にいけるだろう。 他にも梅どら焼きもあって、梅酒に入っているような甘露煮の青梅が入っていて、こちらは白あん。 さわやかで、すっきりしていて、夜はまだまだ寒いけれど昼は晴れればぽかぽか陽気の今の時期にぴったりだ。 ふたりでまるまる大きなどら焼きを二つずつ食べて、ものすごくお腹がいっぱいになった。 何をやっているかってレッスン時の歓談の一幕であった。 さてまだ花粉症が終わらない。 毎年そうなのかもしれないけれど、3月も終わろうとしているのに全然暖かくならない。 マスクをして眼鏡をしていると自分の息で眼鏡が曇る。 寒いことも手伝って悲しい気持ちになるし、単純にそれで自転車など乗ると危険である。 気温が上がって、晴れの昼間はロングTシャツ一枚で過ごせるくらいの陽気になったとき、不意に花粉症は明ける。 急にゼロになるわけではないと思うのだけれど、目の前が開けたように、「あぁ終わった!」となる瞬間がある。 それを、待っているのに、待っているのに。
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時々、司法試験や税理士や一級建築士の試験のために字を直したい、という方がやってくる。
私は別に速記を教えるのが仕事というわけではないのだけれど、その人の字について何がどうなっているのかはまあまあ的確に言うことができるのでアドバイスはできる。 字が判読できない、というのは、人に何かを伝える記号である字にとって確かに致命的だ。 字そのものを把握している場合、字が判読できない、という理由は大まか二つの理由があると思っている。 一つは、速書きしているが故に線が飛んで自己流の省略になってしまうこと、もう一つは、線と線がつながる連綿が多く起きてしまうこと。 その他、字が小さい、字間がとても狭い、用紙の罫線と字の線がかぶっている、ということもあるが、私がいろいろと拝見したところでは先の二点が主な原因である。 しかし、回答は一字でできているわけではないので、前後の文脈やその内容を知っている人であれば類推できるものが多いと私は思っている。 いやでも、確かに読めない、という字があるにはあることも知っている。 彼らが言うには、字が下手だと採点を行う試験官の印象が悪くなって、そもそも答案を読んでもらえないかもしれない、読まれても試験官の気持ちが無意識に下がって良くない点数を付けられてしまうかもしれない、らしい。 判読不能、というのは確かにどうしようもないことだけれど、読めないこともない字がやや読みづらいからと言ってそんなことが起きるなんて悲しい、と私は思う。 しかしながら、そのようなことがなくもないだろう、ということは私にも想像がつく。 字がきれいなことで損をすることははっきり言ってないだろう。 そしてその逆であることで損をすることは、たぶん、おそらく、この社会においてあるだろうと思う。 事実、「採用試験で同じくらいの能力だったら、履歴書の字がきれいな方を採用してしまうかもしれない」と某会社の社長の発言は一社に止まらず聞いたことがある。 「字がきれいだとできる人に見える」「良い人のように思える」ということも度々耳にするものだ。 本人がそれを気にするか否かでそれが悩みになるかどうかは変わってくるとは思うけれど、他人本位の目で見てきっと何らかの印象は付けられてしまうものだと思う。 実際のところは、試験官の本音や無意識の意識を知ることなど不可能なので、字のきれいさが点数にどの程度反映されているかは未知数である。 加えて、論文は数学の回答のように一つではないだろうから、試験官との考え方の相性ということも多少はあるであろうし、もういろんなパラメータがありすぎる。 それに、確かに彼らの字には読みづらいという点が散見されるということも事実ある。 それにしても、本当に優秀な能力があるならばそれが字のきれいさによって淘汰されていくなんて、試験方法を見直した方が良いとしか思えない。 公平性を期さなければならない国家試験でどうしてそれが問題になってしまうのだろう。 こんなにIT化が進んだ世の中で、どうして国家試験が腱鞘炎になるほどアナログに字を書かなければならないのだろう。 確かに字は焦ると乱れる方向に進むので、誰もが時間に追われる試験の中で、余裕のある回答をできるほど優秀な人材をふるいにかけているのかもしれないし、焦っても乱れない精神までもが問われているということなのかも知れないけれど。 ん、ということは手や体に何らかの字を書く障害を持っている人は弁護士にも税理士にもなれないということだろうか。 速記ができなくとも、弁護能力や会計能力が長けていれば十分に、自分に、他人に、社会に、有益な仕事になるのではないのだろうか。 まあ私がこんなところでその制度について文句を言っても仕方がないので、その人の字の癖をまずは把握してもらうことと少しでもよく見える方法をさまざまな側面からアドバイスするしかない。 「E」の最後が罫線とかぶってしまって「F」と間違えられてしまうかもしれない、もう一回り字を大きくした方が良い、「義」の10~11画目を自己流に省略しない、この箇所に書くときは細心の注意を払って真っすぐ書くように、文末の「す」「た」は大きめに書くと自信があるように見える、あと1センチくらいペンを立てた方が良い、シャーペンの芯が平らになると太くなるのでペンを回すと良い、「1」は字間を少し広めにとらないと読みづらい、などなどなどなど。 実際の模擬試験の回答用紙そのものに沿って、考えうることを細かく取り出す。 結局、無意識で改善されるということはないので、練習も必要だし、時間のない試験の中で少しだけでも字のことを気にしてもらう必要はある。 そしてそれである程度は皆良くなる。 そこから先、「きれいな答案づくり」なんてものにはたとえ書家であってもキリがないので、できるところまでを試験勉強とともにやっていくしかない。 字を気にしすぎて内容が疎かになっては本末転倒であるし、バランスを探るしかない。 今日は精神面にまで話が及んで熱くなってしまった。 というか、結局のところ、緊張と焦りで読めなくなっていることも多いわけで、別のところが原因になっていることも多いものである。 人生がかかった試験を経験したことがない私が偉そうなことを言うのもなんだけれど、やっぱりその人の願いは叶うといいなと思う。 何だか身を乗り出して応援している自分がいる。 「カルテット」は総じてとても面白かった。 最終話よりも前回の方が良かったけれど。 社会風刺もあり、あれが所謂家族という枠組みでない現代の人間関係の理想なのかもしれない。 確かに私の感覚としても、家族の絆や、家族の柵というものよりも何か他のつながりに重きが置かれているような気もする、というのは私の願望が混じってしまっているだろうか。 ついでにアマゾンプライムで「LOVE理論」を観た。 理論尽くしの恋愛理論で面白く軽快に話を運び、結局最後はつまるところ「正解は誰も知らない、お前の気持ちだ!」となる決まりきったようなエンドに感動してしまった。 今田くんの眼鏡と私のおニューの眼鏡がそっくりである。 「フリースタイルダンジョン」の般若の回はやはりさすがだった。 思わずテレビの前で一人拍手してしまった。 ラスボスと位置付けられて、ある種崇められて、彼は今どこでどうやってフリースタイルを練習しているのだろう。 いとうせいこうのバトル解説も毎度とても感心する。 あとDOTAMAの歌も初めて聞いたけれど、もうすごく良い。 敬称略。 ケミカルボリュームさんというバンドのアルバム曲のミュージックビデオの撮影があった。
24曲分も書を交えてミュージックビデオを撮るというのは監督さんもさぞ大変であろうと思う。 ほとんど練習なしで撮るので、普段の私のアベレージの力がもろに出る。 新聞紙に書いたり、竹ペンで書いたり、フォントを変えたり、豆本にしたり。 日々やっていることがアイディアとしても書としても少しくらいは血肉になっているだろう。 もう慣れた監督さんとアシスタントさんの前では書くのもあまり緊張しなくはなったけれど、やっぱり人前一発というのは後悔はいくつも残ってしまうものである。 だからといってこれからの日々何をするかは、ただ自分が上手くなるように、自分の思うように書けるように鍛錬していくものなのだろう。 また英語で話す機会があった。 4、5歳の子どもが大人の会話を止めて割り込んでくるのは、「私のわからない話してないで構ってよ」ということだと思うが、その気持ちがとてもよくわかる。 少なすぎるボキャブラリーと拙すぎる会話力では、その内容を聞いていようとしても、目が回る思いで埋め尽くされてドロップアウトしてしまう。 しかし、沈黙して笑顔だけ作りながらその場に座っているだけではつまらないので、「今何話してたの?」と日本語が分かる人に日本語で聞く。 日本語で聞いたことがあって理解している話であれば、想像力をプラスすれば何とかついていける。 けれども、もちろんのことそんな話ばかりでは会話はつまらないわけだし、四方八方に派生していく。 理解できる単語やフレーズをついばんで頭の中で翻訳しているうちに、会話はどんどんと進み練りあがっていく。 終始沈黙を貫くという手もなくはないけれど、そんな大人ならばその場にいない方がましだし、やっぱり子ども心には仲間に入れてほしい。 けれども、全然理解に及ばない。 ある程度の単語やフレーズを覚えて、英語に口周りの筋肉が慣れるように日常的に発音し、スピードについていけるように実践を積む。 これしかないとは、分かっている。 何か物事を教えている立場としては、非常に似通ったことを常に偉そうに言っているではないか。 基礎と勇気が大事である、と。 あと何が必要か、というのは、それに対する敬意と覚悟と意志だ。 そう、敬意と覚悟と意志が足りないのかもしれない。 そして今日、韓国の方に英語で道を聞かれた。 どうにかこうにか答える。 教えた道は合っていただろうか。 英語は日本にいるかぎり特に必要ではないと思って暮らしてきた。 こういうことが続くようであれば、子ども心に思い悩むよりも敬意と覚悟と意志を据えて勉強した方が良い。 さらさら字が書けて本当に気持ちよさそう、と言われることがあるけれど、そしてそれは確かに気持ちが良いものだけれど、英語だってすらすら話せたらどんなに気持ちが良いだろう。 物事を体得するとき、何だって同じだ。 敬意と覚悟と意志が必要なのだ。 句会があってそれを豆書にして書いたり、クロマニヨンズのライブに座間まで行って見知らぬ川柳詠みのおじいさんに話しかけられたり、お稽古ごとサイトのペン字・ボールペンレッスン部門で三年連続MVPを受賞したり、10か月ぶりくらいに美容院に行ったり、何だかいろんなことがあった気がする。
書こうと思えばそれをある程度細かな感じで記述することは可能だけれど、あまり気乗りしない。 ブログを書かないと落ち着かないということが10年くらいに渡ってずっとあった。 何か心に引っ掛かることがあれば何でも、とりあえず、ドラマ「カルテット」ですずめちゃんが言うところの”みぞみぞする”という状態になって、それを書き留めたい衝動に駆られてきた。 原因はなんだろうか、最近その感覚があまりなくなったことに薄々と感づいている。 文章を書きたい欲求が薄れてきたことは、何だか少し淋しくて切ない気がしている。 好きだったものが、情熱に燃えていた私の心が、その火を弱めていくのは怖い気すらする。 そんなとき、私はそれが好きだと自分である程度思い込ませることはおそらくできる。 やらないよりもやった方が、簡易的な安心感を得ることができる場合が多い。 けれど、もう燃料が少なくなっているその火を絶やさないようにもう一度燃え上がるように、扇いだりしてもその時一瞬だけ大きくなってもすぐに勢いを失うだろう。 もし私がたとえばブログをあまり書く気がしなくなったことを自分自身に隠しつつ無理をして簡易的安心を得続けようとした場合、それに気付いた未来からすれば時間や時代を失ったようなやりきれなさを感じるだろう。 ついでに、特定の曲を聴きたい!と度々酸欠状態にまでなっていたのが、もうイヤホンがめちゃくちゃに絡まるほど焦ってしまうほどに、全然そんなこともなくなっていることはもう結構随分前からである。 素敵な音楽の生演奏に埋もれたい、というのは結構あるけれど実際にはなかなか足が向かない。 花や植物への情熱が下がったのはもっとずっと前だ。 もちろん今だって音楽や植物は大好きだし日常的身近にいつもある。 これを書いている今でこそ、私はやはりキーボードをタイプすることが好きだし、考え事をしながら書き物をすることはやっぱり好きである。 火は全然潰えているわけではない。 けれども。 私はいつだって何かの衝動に駆られたい。 それは私の心が暇なのは困るし、何だかそういったアウトプット方向の行動というのは、していると私が保たれているかのような事実かあるいは錯覚かに陥って安心につながるのだと思う。 しかしながら、仕事ではないアウトプットというのは超自発的以外にはやる意味がない。 書きたいから書く、やりたいからやる、残念ながらそれ以上の理由は他人はおろか自分にもないわけである。 ただ、最近の私がすべてに無気力になっているという話ではない。 ブログから少し離れているひとつの理由は、昨年末から参加している毎日一書を書いてアップするというフェイスブックのサークルに参加していることにあると思っている。 何かしらの創作欲求というものがわりとひたひたと満たされているのだ。 お題は毎日翌日のものが出され、一字から短歌ほどの長さまでさまざま。 それを各人はどのような紙にどのような書体でどのような物を使って書いてもよい。 時に私はファミレスのペーパーナプキンやもらい物の酒の箱にも書くし、気まぐれに買った木の板にも書く、筆でなくとも爪楊枝でもマウスで書いたって良い。 限りなく自由な中で、毎日一作品をその場しのぎの有り合わせで作る。 大変だと思う一方で、自分の発想力の限界を見る良い機会だとも思うし、それなりのものができると嬉しくもなる。 稀に「これは良い」と自分でも思えるものが書けたりして、その評価がいつもよりも高かったりすればもっと嬉しい。 そういうわけで、トイレに「雲外蒼天」という小さなはがきサイズの書を飾っている。 飽きてしまうことは怖い。 でも、飽きてしまうことはどうしようもない。 今のところ、字を書くことは飽きてはいない。 くるりの「ジュビリー」という曲を思い出す。 久しぶりに所属団体以外のところで書を教わった。
昔から、私は師に恵まれてこなかったなあと、そんなことを思った。 人に新しいことを教わるのはとても新鮮で興味深く楽しいと思う一方で今や、もはや私は猛烈に誰かに師事するということは、たぶんできないだろうとも思った。 今の所属団体でも、私が好きで憧れる先生はもちろんいるが、講師が何人がいるような学校のような形態を取っているため、私だけに手取り足取り教えてくれることは全然ないし、実際目をかけられることもほとんどない。 どうしても、と、こちらから特別に教えを請うこともない。 思えば、小学校の頃から部活でも私には恩師と呼べる存在はいない。 バレーボールはそれなりに真剣にやっていたつもりだし、真剣にやりたかった。 中学校の頃には、バレーボールが未経験の先生が就いて、皆でボイコットさえしたことがあった。 もちろん、教師の仕事とは、それが部活などという教師からすれば残業的なことを指導するならば尚、それそのものの技術を教えることが全てではない。 しかしながら、てめえらの生き様、みたいなことを教えてもくれなかったし、ただバレーボールの技術がないだけだった。 私は技術でも采配でも、バレーボールを教えてもらいたかった。 隣の中学校はとても強くて、先生は鬼のようだと有名だった。 手を上げることは日常茶飯事、椅子が飛ぶこともあるそうで、私はそれで強いチームが羨ましかったことをよく覚えている。 今は椅子が飛ぶなどとはニュースになりかねないし、その鬼教師がトラウマで未だに根に持っているという話も、後に同じ高校になった友人から聞いたけれども。 高校の頃にも、女子バレー部には本当にポンコツと言っても良いほどの化学の先生が顧問をしていた。 男子バレー部は、昔国体の選手だったというバリバリの先生が就いていて、恨めしく思った。 ごくたまに教えてくださったことがあったけれど、先生はあくまで男子バレー部のものだった。 途中で、ある部員の中学生の頃のコーチが教えてくれることにもなったことがあったけれど、とても短い間でそれは終わってしまった。 その後、男子バレー部の顧問のような先生が我が女子バレー部に赴任してきたのは受験を控えた3年生の4月。 もう5月には部活は引退しなければならない時だった。 その後、一年下の後輩は、その顧問の先生が功を奏し県大会でも良い勝負をしていたと聞いた。 何かを真剣にやったり、志すのに、必ずしもべったり張り付いた師が必要なのではない。 師がいなければそれを大成できないというのも違うだろう。 だけれども、何にも知らない頃に、親身になって、食らいついて、正しいとされるスタンダードな基礎を教えてくれるような師弟関係というものに何だか小さくない憧れを私は持っていたのだということを思い出した。 今、一応私は少なくない方々に字を教えている。 師弟という関係をむしろ排除するようなスタンスでやっている。 こんなことをつらつらと言っておきながら私が大切だと考えることは、寝食を共にするように蜜に手取り足取り一方的に基礎を教えることでは全くない。 そしていつまでも自分の方が生徒や子どもでありたいと思っているのかもしれない。 私は吉田羊さんに似ていると言われることが度々というか結構よくあるのだけれど、あまり自分でその認識がない。
ドラマなどテレビで彼女を見るにつけてとても不思議に思っている。 あんなにつんとした顔ではないし、あんなにしゃんとしていないし、あんなにほっそりしていない。 でも自分の顔は、よく顔を合わせる人ならば他人の方がよく知っているとも言えるだろうから、雰囲気的にそうなのかとも思う。 まあ”似ている”というのは単純な顔の造形のみを指していうことではないだろう。 そしてある日ある人に「Kitchie Nadal」に似ている!と言われた。 「Kitchie Nadal」とは、日本では全然有名ではないけれど、フィリピンでは有名なシンガーソングライターらしい。 早速私は彼女を検索してみて、ずらっと並んだ彼女の画像を見て「あぁ、これだ!」と思った。 自分的にとてもシンパシーを感じるというか、私は自分像をこのように見ているようだ。 よく分からないけれど、この人を見てなんだか安心すら覚えた。 昔からフィリピン人ぽいとかベトナム人ぽいとか、東南アジア系であることを言われることはよくあった。 私は両親と似ていない方だと思うし、家系に東南アジア系の人は誰もいない生粋の日本人であるけれども。 しかし、誰かに”似ている”ということを言われるのは少し楽しいような、少し切ないような気持ちがする。 私は双子だから自分とよく似た存在が幼い頃からかなり身近にいたし、否応なく当然に比較されてきた。 だから”似ている”と言われると、単純な容姿のことを言っていても、“違う”と盾を突いてしまう癖があるのだ。 家族でない赤の他人に似ているということは、それとは全然意味が異なる。 その癖がほんの少し顔を出してしまいもするけれど、醸している雰囲気全てひっくるめて”似ている”人がこの世に存在するということはやっぱりちょっと楽しげだ。 もしKitchie Nadalさんと話すことがあるのなら、私はきっと勝手になれなれしくしてしまうかもしれない。 まあ、英語が全然できないから会話にならないけれど。 花粉の季節がやってきた。 辛い。 目が痒くて起きたり、朝には目が真っ赤である。 毎年春は苦手で、特に去年の春は得体の知れない愁いに満ち満ちていて、作った春の俳句が全ておどろおどろしくなってしまった。 今年はそんなでもない。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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