さて、新型コロナウイルスが恐ろしい昨今ではあるが、その後ろでは花粉がわんわんと飛び舞っているようである。
昨年、おそらく妊娠中だったために何らかの体質変化によって花粉症がほとんど出なかった。 それが妊娠期間中のみの限定の体質なのか、体質ごと変化を遂げたのは翌年にならないと分からないな、なんて呑気なことを思っていたのだが、それが前者であったことがここ最近判明している。 もう目も鼻も顔も痒い。 顔の粘膜が全体的にぐじゃっと崩壊しているような感じである。 夜間の授乳も含めて昨夜は何度目覚めたことか。 困ったことに、新型コロナウイルスはマスクでは防ぎきれないと言われているが、当然ながら花粉防止用のマスクも売り切れで入手できない。 昨年箱買いした残りのマスクを大事に使っているが、そろそろ供給量は戻ってくるのだろうか。 メディアが花粉飛散情報の特集をほとんどやらないのは、マスク切れの混乱をこれ以上煽らないようにするためなのかもしれない。 仕方が無いので、息子も連れて耳鼻咽喉科に行く。 事前にネット予約ができる病院で、予約時点では11人90分待ちと出ていたが、およそ予約時間に目掛けていくと10分も待たずに診てもらえ、薬も出していただけた。 昨日予防接種で別の病院に行ったところの息子は、病院の気配を察知してか終始怪訝な顔つきをし、時々不穏さに耐えきれず泣き出していた。 さて、息子を太ももが腹の上で寝かせたままブログを書くことが定着しつつあるが、書こうとすると特別に書くことが無いものである。 “卒意”について書きたいのは山々なのだが、今はそういう気分ではない。 そういえば先日けいこが来ていたのだが、都庁前あたりにあるアートギャラリーを3人で見に行った。 電車は身軽な方が良いと、その日はベビーカーではなく抱っこ紐で一万歩を越えることになったのだが、抱っこ紐もだいぶ慣れてきた。 初めの頃は、腰が割れそうでこの抱っこ紐が合っていないのかと思っていたものだ。 今は、もちろん重いは重いが、頭に重いバケツを乗せるようなイメージで体幹に荷重を集めることによって、体を痛めることなく重いものを運べるようになったようだ。 筋力がついてきたというのもあるだろうが、それよりも大切なことは体の使い方なのだろうと思う。 息子と病院から退院してきた時には手首は腱鞘炎のようだったし、背中の筋も痛くてたまらなかった。 妊娠時はこれまた割れそうに痛い腰でほとんど歩けなかった。 痛かったことというのは、痛くなくなるとそれをほとんど忘れてしまう。 渦中にいたときは、これ以上悪化したらどうしようとか何かもっと複雑な病気なのではないかとか悪い方向に沈んでいきがちであることも。 ちなみに帝王切開の傷は未だ違和感ありありである。 都庁前のあたりにいくといつもカフェ難民になるのだが、敷居の高そうな雰囲気を飛び越えて入ったパークハイアットのカフェが穴場であった。 空いていて、なんならスターバックスよりも安いくらいだ。 良い場所を見つけたとけいこも喜んでいた。 いつもより散漫に、書き終わることにする。
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久しぶりにジャズのライブに行く。
かつて数え切れないほどに飲んで喋った知人ギタリストのライブである。 今の私の在り方は、この知人がいなければ在り得なかっただろうと思っている。 物分りの悪い私にあの手この手で膨大な時間をかけて、それでも言葉にならないような輪郭のぼやけた、でも物凄く屈強で強固な何かを教えてもらった気がする。 私のロックンロールの体験はザ・ブルーハーツのロックミュージックだったわけだが、今私が書でやろうとしていることは限りなくジャズに近い、と思っている。 ロックンロールの精神を持ったジャズ、でありたい。 ちなみに、ロックというと、ノリが良くてうるさめでガチャガチャしていて青くて破壊的、そんなイメージがあるかもしれないが、私は今はそのような意味合いでロックという言葉を使うことはない。 ただおそらく、広い意味で反骨や反発ということは含まれる。 ロックンロールの精神が何か創作物に入ることが出来るとすれば、おそらく社会通念などに捕らわれない自分が地球上の一人の人間がいる、ただそのことを伝えるための要素であろうと思う。 その前に私のイメージでは、ロックンロールは、自分の中をまざまざと見せつけられること、という語釈をしているので、ロックンロールの瞬間というのはあくまで受動的なものなのではないかと今のところは考えている。 ジャズ、のことは細かいことがわかっている訳では全然ないのだけれど、「分解再構築」というところが似ているように思っている。 物凄くざっくりだが、ジャズはメロディとコードがあるだけで、あとは基本的に自由に分解再構築して進めて良いらしい。 楽譜なしでの即興自由演奏で前衛とかインプロヴィゼーションとかフリースタイルというのもあるが、限定されたメロディとコードを借りた表現においても、もう大変な多種多様の論理やテクニックによる表現が可能となる。 一方で私がやっているジャズ的な書も、言葉と文字というものがあるだけで、あとは基本的に自由に進めて良いものである。 ジャズ同様に、滅茶苦茶に見えるような形でやってコンテンポラリーなものもできるが、言葉と文字を借りることによって枠を限定し、分解再構築を試みるのである。 また枠があることによって枠からはみ出すことの意味も出てくる。 また、始まりと終わりがあること、大人の所業であること、自由な中にも善し悪しがあること、“卒意”が大切であること、これらの点も似ている。 特に、ジャズもジャズ的な書も少なくとも大まかな基礎技術はクリアしている必要があり、その中に意思や童心や勇気を入れていくところなど、やはり大人の所業であるところが私は好きである。 大きく異なるのは、ジャズは基本的に複数人での会話であるが、書は単独での独壇場であること。 これは物凄く大きな違いであると思うが、ここでは触れない。 息子を置いて出かけるのは忍びない気持ちもあるのだが、それでもライブに行って本当に良かったと思う。 初めて素面で聞いたジャズは、一音一音がクリアに聞こえたのだが、それは私が素面だったからなのか、演奏方法の違いによるものなのかは判別がつかなかった。 ただ、音楽って良いなあと思えることはまた振り出しに戻ったようでもあるが、そのようなことは表現物において大事な事なのではないかと思う。 書で言えば、理由はよくわからないけれども、何度も、日が経っても眺めていたくなるようなもの。 骨董についての書と卒意という点まで書き進めたかったのだが、息子はとっくに起きてしまっているのでここまでにする。 私が息子と離れて一人になる時間を作ろうと、夫はいつも気をつかってくれる。
私は息子が生まれてからずっと、たかだか数時間息子と離れるのが寂しいような、いつだって一人になりたいような、天秤が絶妙にゆらゆら釣り合っている状況が続いている。 でもまあお言葉に甘えて、午後から外出をする。 あえて帰宅の時間は言わずに出た。 いくつか行きたい美術館があるのだが、今日は日曜日、日曜休みのギャラリーに行くことが出来ない。 息子がいてはできないこと、散歩はいつもしているけれど近所をぐるぐるではなくてやっぱり遠くまで歩きたい、今日生徒さんに聞いた食パン屋にでも行ってみよう。 私はとても食パンが好きである。 その食パン屋への道のりはかつて何度も何度も歩いたことがある道の少し先にある。 片道90分、遅ればせながらの冷たい冬風を感じながら揚々と歩いていった。 食パン屋に着いてみると、30分待ちの行列。 寒いけれどここまで90分歩いてきて身体はホカホカなので待てないこともないだろうと、整理券をもらう。 夫は行列が嫌いなので、夫がいたら買わなかったと思う。 行列は決して好きではないけれど、皆が並んでまで欲しい食パンは並んでみたい、という行列増長心理を私も漏れなく持っている。 ディズニーランドのようなうねうねと、でも秩序ある細かく区切られた長蛇の列を待つ。 白い紙袋に入れられた食パンが次々次々、飛ぶように売れていく。 若いテキパキとした女性スタッフばかりで、店員も客もパンも全部がベルトコンベアに乗っかってオートメーションで動いているようだった。 30分待ちと言われていたけれど、あれよあれよと進んでいき、キャンセルもあったようで10分ほどで買うことができた。 2斤分の食パン、900円也。 重い。 さて、食パンが手に入ってやることはなくなった訳だが、借りっぱなしになっている小説を読もうとカフェを探す。 カフェは探すとなかなか見つからないもので、とうとう二駅分くらいをまた歩いてしまう。 雰囲気の良い広めのところで、なんて思っていたがもう疲れたし、仕方が無いので上島珈琲に入る。 ウインナーコーヒーを頼んで、久しぶりに読書をする。 読書をあまりしない私の読書。 中国人作家の短編小説で、意外と読めると一話読み終わったところで、隣席に女性二人が座って、よくある会社の愚痴のような会話を始めた。 内容がもろに聞こえてしまうのでもう読めない。 嗚呼。 書くことならできるかと、試しにこれを書いているが、やはり散漫になる。 私はあまりカフェに長居することは無いが、カフェというのはこういったはずれの状況が辛い。 しかし、カフェは談話するところでもあるのだから仕方がない。 読書をするなら図書館のほうが良さそうである。 たぶん夫は、私が早く帰りたくなってしまうから息子の写真を送ってこない。 息子はどうしているだろうか、しかし、離れていれば離れているのもそれはそれで良い。 最近息子は私がいないとき、嘘寝をするようだ。 以前初めて夫一人で息子を見たときも、実家に預けたときも、一昨日一時保育をしたときも、思い返せば私と再会する頃にほとんど寝ていて、でもどことなく本当に寝入っている風ではないのである。 当然、寝たふりするほど演技力もないから寝ているは寝ているのだが、ぼくのいちばんあんしんのおかあさん、がいない現実から目を逸らしてシャットダウンしているような。 今朝偶然、あるお母さんがインフルエンザにかかって、父子と別室で寝ていたら夜中に子どもが起きて泣くことが無くなったという記事を読んだ。 おそらくこれも息子の嘘寝と似た状況だろうと思う。 赤ちゃんでも、色々な状況を把握して一種の諦めという最善の方法を取っているのだろうか。 赤ちゃんもなかなか思い通りにならないことばかりで大変だろうなあと思ったりする。 散漫なこの文章を書き上げて、さてそろそろ帰るとするか。 ウインナーコーヒーももうとっくにない。 育児ブログなのか、と問われれば、そうでは無い、と答えたい。
書道ブログなのか、と問われれば、そうでは無い、と答えざるを得ない。 答えは、私ブログです、となるのだがそれも何だか卑怯な答え方というか、取り付く島もない感じが出てしまう。 昨日、ブログを書く新しい方法を編み出した。 座った状態で息子を寝かし付け、そのまま太ももに置いたままスマートフォンで書く方法である。 背中スイッチとはよく言ったもので、布団に下ろすのはやや難儀であり、起こさずに布団に下ろせたとしても20-30分で起きてしまうのでその短時間ではほとんど何にもできない。 しかし太ももに置いて寝ると、うにゃうにゃと起きそうになったときに頭を撫でたりなどするともう少し長く寝てくれるのである。 やはり人肌に触れて寝るのと、一人で寝るのとでは、前者の方が絶対的な安心感があるらしい。 編み出したと言うほど大層な方法でも全然ないのだが、ブログくらいは書ける。 欲を言えば、パソコンのキーボードを威勢よく叩きたいのだか、まあそれは良いとしよう。 そこまでしてこんな文章が書きたいのかと言われれば、書きたいのである。 駄文でも、うだうだ連ねておきたいのである。 区の運営している一時保育に2時間だけ、初めて預けてみた。 本当は2時間半の予定だったのだが、出かける前に息子が寝てしまい30分削られてしまった。 それでも、予約時間の2時間半ではなく、実預かり時間の2時間分だけの料金になるのが大変有難く、なんだか申し訳ない気分にもなる。 申請書やら着替え・オムツセットやら、随分と準備が必要で面倒だなあと思ったが、初めて夫やけいこではない他人様に預かってもらうことで私の気持ちは非常に浮き足立っていたため、そのように感じてしまったのではないかと思う。 今落ち着いて振り返るに、もちろん準備はいるけれど、さほど煩雑でもなければ時間を取られるものでもない。 息子は大丈夫なのだろうか、泣き止まなくて過呼吸になったりしないだろうか、トラウマになったりしないだろうか。 ものすごく落ち着かなくて、実際に心臓がドキドキしていた。 手続きを済ませ、預けて去るときは潔くお願いします、と言われていたので、荷物を保育士さんに預けたら消えるように私はその場を去った。 抱っこ紐も置いて、私の身体は身軽になって、息子の体温がなくなってとても寒くなった。 美術館か表具屋に行くつもりだったのだが、時間も短くなってしまったし、初めてなので自宅待機にしようと直ぐに帰宅。 2時間弱、ひとりの時間、さて何をするか!!!と気負いまくって始めたのは溜まった書類の整理と確定申告。 何か簡単で単純明快な成果物が欲しいと思い、まずは前年度の収入を計算し、領収書の数字をひたすら電卓で足していった。 どうにも気が急くので、美術館などに行っても何も得られなかったであろう。 キリの良いところで、息子を迎えに行く。 今季一番の凍てつく寒さの中、私は余裕の時間をほとんど走って駆け抜けた。 息子はお昼寝をしていたらしく、寝起きでいつもと違う場所にいることに泣いていた。 保育士さんの話では、最初10-15分くらい泣いて、抱っこで外に連れていったら機嫌が直り、少し遊んで寝たらしい。 所謂お利口さんというやつか。 私を見つけて安堵の涙に変わっただろうか。 帰り道は、どことなくいつもと様子が違ってややそっぽ向いてにやにやして喃語を喋り続けていた。 この方法なら、骨董の書について思うことがようやく書けるだろうか。 息子はひと記事書くまで、何度か起きかけるのを宥めながらまだ寝ていてくれる。 しかし、尾てい骨が痛いのと、足が痺れ始めている。 卒乳が近い、と思う。
私の母乳があまり出なくなって数ヶ月、哺乳瓶を嫌がってミルクを飲む量が増えず、生後5ヶ月と6ヶ月の体重が目減りしたという母的に危機的状況だった。 ここ2週間ほどでようやく哺乳瓶からミルクを飲んでくれるようになって、少し安心をしている。 ちなみにまだ全体の3分の1くらいの量は母乳であげている。 「体重はあんまり気にしなくて大丈夫、目の前の子が元気で機嫌が良ければ大丈夫。体重計らなくて良し!」と友人は力を込めて言ってくれて、私は大いに勇気づけられて心を撫で下ろしていた。 たぶん大丈夫なのだろうとは思っても、体のことはなかなか腑に落ちる地点まで至るのは難しいものなのである。 離乳食も始まり、哺乳瓶でミルクも飲むようになると、いよいよ母乳の方を卒業することが見えてくる。 こうなって初めて、本当に驚いたことなのだが、この卒乳のことを考えるだけでも涙が滲む、のである。 その理由を考えればいろいろと言葉や文章で挙げられると思うのだが、その前に、切なさに似た母性と呼ぶ他ない自我がぶわーと湧き上がってきて泣かせるのである。 生まれた直後に想像していためくるめく感動というのは、私には正直なところさほど無かったのだが、こんなところで不意打ちを食らうとは思っていなかった。 先の記事に紹介した「ぐっちゃんが卒乳した」という漫画の回を読んだことで大いに感情が煽られているのもありそうだが、母乳が出なくなり始めた頃に止めても良い母乳を私が止められなかったのは、母乳による息子とのつながりを断ちたくなかったということもあると思う。 母乳で胸がぎゅうっと張るあの感じ、乳首をくわえる可愛らしい顔、一生懸命吸い取って乳房が軽くなる心地良さ、母乳でむせてけほけほしたり、不意に口を離してぽたぽた垂れたり、時に飲み終わって満足気な顔で顔をすり寄せてきたり、時に乳首に吸い付いたまま眠りに落ちていくその様・・・、私と息子だけのものとしてとてつもなく愛おしく思っていたのだろう。 このまま抱き潰してしまいそうなほどに、愛おしい気持ちが湧く。 夫はこの経験を出来ないのだなあと何だか急に不憫に思っていたりもした。 しかしながら母乳をあげていると、何より不自由なのは、直飲みさせるとなると私がいないと食事をあげられないということである。 それに加え、お酒も飲めないし、薬も自由に飲めないし、前開きの服しか着られないようなものだ。 しかしながら、ぐっちゃんの卒乳でも言っていたが、「お酒も薬もワンピースもいらないから、最後に一度だけ飲んでほしかったなあ」というセリフはあまりにも共感を呼んでしまう。 今これを書いていても再びの涙を堪えきれずにいる一方で、やはり文章にしているとどうしても冷静な思考も働いてきて考えると、「この子は私によって生かされている。私がいないとだめなのだ。」というところの小さくて頑強な一種の執着心があるようにも思う。 どうやら私は私の存在意義の確認を、息子を通してしようとしていて、今のところそれに成功しているようなのである。 私は他人に執着することはあまり良しとしていないが、息子とのことはその執着を積極的に排除することはやめようと思っている。 息子に必要とされることは大変な喜びであるので、それは十分に享受しておきたい。 ただ、子が母に執着しがちなのは生命維持的な働きもあるだろうし、心身の発達とともにその執着のあり方も変化していくだろう。 だから息子との関係性で生まれる色々な感情は、母性やホルモンのジャンプ力も手伝った飛躍的ボーナスポイントとしていただいておく感じにしておこうと思う。 そしてまた、もちろん誰かに必要とされることは嬉しいことであるが、それは度合いの問題もある。 四六時中一緒にいるのはやはりお互いに飽きる瞬間が生まれ、ここで再び保育園について逡巡することになる。 保育園に預けるかどうかをずっと悩んでいるのは、飽きたときに誰かに見ていて欲しい気持ちと、息子の瞬間瞬間を見届けておきたい気持ちが交錯しているからだ。 また息子にとって私が一番大切な存在でありたいという独占的な執着心から来るものも大きいようにも思う。 子どもの変化は大人に比べて目まぐるしいほどのスピードなので、もう二度とやることはない、見ることは出来ない、そんな出来事の連続である。 あんなに嬉しい瞬間がもう戻らない、それは毎日毎時覚悟のサヨナラを言い続けることだ。 置き去りになるその感情に対する未練が、卒乳にも保育園にもありそうである。 本当は、毎日毎時がサヨナラなのは、子どもに対してのみがそうであるわけでは毛頭ない。 当然ながら我々はいつ何時も全ての事柄はもう絶対に戻らない時間の突端にしかいられない。 まあでも、自分の外的に変化のわかりやすい子どもという対象では、その一つひとつの出来事に感傷的になりやすいのは仕方あるまい。 あれもそれもこれも、ずっと変わらず同じであることがない、ということが分かっているからとも言える。 無論この先生きる限り息子におっぱいを差し出し続けるなんてことがあるのなら、もうそれは自由を無くした檻の中にいるようなものである。 絶対に嫌である。 明日は初めて、実験的に区の一時保育を利用してみることにしている。 さて、骨董のような書、というテーマの展示会が5月2、3日に決まりそうである。 所属団体に顔を出さなくなって久しく、展覧会は久しぶりである。 傍から見ると変わった風合いの作品が多いと思うが、私が元来やりたいことに結構近い感じであるので面白そうではある。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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