久しぶりにCDをレンタルしたので、恐る恐るiTunesが入っている方のPCを立ち上げてみる。
ACアダプタに繋いで電源を押しても、長押ししてもうんともすんとも言わない。 充電が完全になくなってしまった状態では、起動の力もなくて立ち上がることさえできなくなることがある、と何のきっかけで教えてくれたのかは忘れてしまったけれど、そんなことを思い出して「大丈夫」と言い聞かせながら歯医者に出かけた。 歯が痛いとか検診の予約が入れてあったとか、そういうことではない。 2か月ほど前、前に行った歯医者さんからそろそろまた検診とクリーニングにいらしてくださいね、というハガキをもらっていたことと、なんとなく暇で。 さて思い立って前に行った歯医者さんではなく近所の歯医者さんに電話をかけて、可能であれば今からお伺いできますかと連絡を入れた。 今すぐであれば大丈夫です、と言われて5分後に診察室へ。 歯は丈夫な方らしく、とりあえず現状では特に何にも問題がないとのことだった。 親知らずが顔を出しているのでもし痛みが出たり、気になるようであれば抜くのも一つでしょう、というのは前の歯医者さんでも同じことを言われた。 身体が比較的丈夫であることはとてもありがたいことで、そういう場合よく「健康に身体を持たせてくれた両親に感謝したい」というようなことを一般的に聞くけれど、それも確かにそういう面もあると言えばあるのだろうけれど、となると身体が弱い場合や病気になったときには両親を恨んでしまうのだろうか。 それはなんだかなあというか、現実にはあまり関係がないことの方が多い思うので、私は体が丈夫であることに対して特別に両親への感謝をしたことはない。 家に戻って電源ボタンを押すとPCはゴゴっという音を立てて起動した。 色んな更新ごとが滞り溜まっていたようで、私は自分の機械への苦手意識にいちいち少しの緊張をしながら、焦らず、焦らず、と操作の重たいPCのアプリケーションの更新を続けた。 もう一つの常用しているPCの方の熱烈に煩いWindows10へのアップデートはなぜか出てこなかった。 結果的に問題なく、借りたCD十数枚を取り込んで、アルバムのアートワークも入れて、iPhoneとの同期までが完了できた。 新しいPCを買おうかどうか検討していたけれど、いやたぶん寿命は近づいていることは言うまでもない、感触としてはまだいけそうだなという感じだったのでしばらく買わないだろう。 それよりも良さげなアンプかナイロン弦のアコギが欲しい、一過性のことかもしれないけれど。 「本日は、お日柄もよく」を読了。 感動を呼ぶスピーチライターの話なので、物語として最後は感涙拍手喝采の盛り上がりがあるのだろうか、と久しぶりに小説を読んで久しぶりに終わりが気になった小説だった。 最後はあっけなかったけれど、原田マハさんという作家の清々しさの余韻が長持ちするような終わり方だった。 先日も少し書いたけれど、やっぱり”上質”というよりは”良質”な感じがした。 言葉の定義の話は難しいところだけれども、おそらく“上質”には、先立って既にある「高級感というイメージ」や「高級であるとされている様式美」が必要なように思う。 ちなみに私は、先立って既にある「高級感というイメージ」はあまり好まないけれど、「高級であるとされている様式美」については往々に好きだ。 一方で“良質”には「ただ良い」ということが存在し得るように思っている。 そういう意味で“良質”な感じがした小説だったし、私は私にとって“良質”なものが好きだなあと思う。 20数巻のジョジョはまだ返していないけれど、これは借りて2週間ほどで返せそうである。
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隔月で一回行われている句会があった。
わらわらと以下の20句を作って、投句したのは上の3つ。 3つのうち上の2つは入選を果たした。 ひとつずつ豆らしくいるそら豆かな 見舞い後の拠り所無き夏蒲団 原色を探す鯔背な夏の蝶 そら豆の青き輪郭食べてをり 透きとほる止まりし時食ふ葛饅頭 缶切りはグシグシ進む墜栗花前 髪結わき相対峙する鰻かな 季語たわわ脳にしわしわ麦の秋 芍薬の重さドレスのごときかな 虫となり芍薬御殿で目覚めたし 文鎮の鉄の匂ひや梅雨湿り 緑陰に揺れるは靴やポニーテール 風薫るポニーテールをほどくなり 孑孑と書けば命が飛び立てり 塩粒と豆粒つまみ冷やし酒 麻雀に興ずれば尚明易し 鉛筆の粉が動きて蟻の列 石垣を登り帽子にさくらんぼ 夏の蝶ジャズピアノ舞う喫茶室 原因を持ち去りて舞う夏の蝶 句会はいつも緊張する。 やっぱり人に自分の創作物を見てもらうときはその評価は気になるものだ。 「ひとつずつ豆らしくいるそら豆かな」は選んでくださった方の評に、「切れ字の「かな」は無い方が良かったのではないか、そうしたらもしかしたら私は天(最高得点)を入れたかもしれない」と言われた。 この「かな」については、私は特に何も意図的なことはなくて、なんとなく「そら豆」では4文字なのでそんなときは「かな」が口をついて出てきてしまう、そんな感じだった。 それに、字余りであることはまあいいかと思っても、字足らずであることは、避けるも何も発想すらなかった。 字余りがあれば字足らずもあるわけだけれど、尾崎放哉の「咳をしても一人」というような自由律の句以外にあまり多くを見たことがないように思う。 ほう、字足らず!と思ったことが今回の句会で私の句においての最もはっとしたことだった。 当然と思うようなことに、前から知ってはいることに、全然無自覚で気付いていない、そんなことは日常的に広くあるものだと思うから、だからたとえその時に理解が及ばないようなことであったとしても人の指摘や人の発想は謙虚な気持ちで聴きたいものである。 他人の評価や自分の好き嫌いを置いておいても、知ってやること、知らずにやること、知って尚やらないこと、それらは全て意味が変わってくる。 まあ、自然に出たこと、が一番良いということも多々あろうし、その道を極めている人のそれ、が感動を呼ぶのだろうと結構強く思っているけれども。 俳句において、字余りや字足らずや句またぎや切れ字などの一般的な技法を使うには、それがその句において効果的である必要がある。 カッコ書きや句読点やアルファベットを用いることなどのあまり使われない手法においても然りである。 以前私は、句またぎの句に憧れてよくまたごうまたごうと句を作っていたことがある。 まあそれも、ギターでいうチョーキングチョーキングみたいなことで、初めはそれをすること自体が楽しくて、そこから分かることだってあるから、気が済むまでやれば良いのだけれど。 そして私はチョーキングは上手くできないけれど。 今回私が選んだうちの一つで、蚕豆さんの、 こどもの日「期間従業員募集」 という句があったけれど、この不気味さはカッコ書きも句またぎもよく利いている 私の、「ひとつずつ豆らしくいるそら豆かな」という句を、もし字足らずの技法に自覚的であったとして、「ひとつずつ豆らしくいるそら豆」という字足らずの状態で投句したかと言われればどうだろうと思う。 意図的に句の中で「豆」だけを漢字にすることでその「豆感」をより際立たせたかったわけだけれど、「そら豆」と字足らずで止めると、「豆」という言葉はより印象的になり、しかしながらとても不安定な音「豆」が余韻として残る。 「豆」という音だけが圧迫気味に主張を強めて、一粒ずつのそら豆に孤立感というか確固たる独立感が生まれて、そこに豆だけが存在してその豆を食べている私の存在が失われてしまう感さえある。 ここには一つひとつそら豆の輪郭をそら豆だなあと思っている私の存在があって、初夏のそら豆を愛でているちょっとかわいらしい雰囲気というのも持たせたかったので、「ひとつずつ豆らしくいるそら豆」と豆感にフォーカスした感じがする字足らずの状態ではおそらく出さなかったのではないかと思う。 まあ、それもこれも私の勝手な思いの込みの域を出ないし、「かな」と切れ字にしたところで「食べている私の存在」を匂わせることに成功しているかどうかはまた別の問題であるが。 バレーボールの試合をTVで観戦した。 スポーツは五郎丸という人物が未だ判然としないくらい全般的にどれもこれも見る習慣がないけれど、バレーボールは自分がやっていたのでタイミングが合えば観戦する。 私は自分がやらないスポーツの観戦の仕方がいまいちよくわからない。 長岡選手はスパイクの切れが男子的でカッコイイ。 前回美容院に行ったのは夏過ぎ頃だっただろうか。 半年を過ぎたあたりくらいから収拾が付きづらくなってくる。 まとまらないけれど無理やりまとめる髪型をし続けて、いよいよ限界であろう頃に美容院に行くと、年1回くらいのペースになる。 そろそろ染めたいしパーマもかけたいけれど、そうなると4時間くらいかかるだろう。 どこかに出掛けて、空き時間がたっぷりあって、座りたくなったタイミングがあれば美容院に行くことにしよう。 人生で初めて行きつけ、というかよく行く飲み屋はかろうじてできたけれど、行きつけのカフェは持ったことがない。
仕事で利用するファミレスやルノアールで十分であまり必要性を感じることもないのだけれど、こんな晴れた午後、仕事までの空き時間はたくさんで、さすがにもったいないと丸1日以上ぶりに外に出る。 締め切り間近の俳句が行き詰まった、ということもある。 句作はそのときにいる場所によって浮かぶ単語の範囲がとても変化するので、新しく行く場所では、句作をしないまでも単語をメモに留めておくことくらいはした方が良い。 前回の句会から、もっぱらそれもしてなかったのでネタ切れなのだ。 自転車で5分ほどのところに外見だけではカフェ系なのか喫茶室系なのか判然としないお店を発見した。 扉を開けると、喫茶室系のお店だった。 銅板で焼くホットケーキが売りのようで、私は出かける前にしけたごはん、昨日のごった煮に素麺を入れた、を食べたことをとても後悔した。 しかし、いかようにも今お腹が空いているとは思えないので、アイスコーヒーだけを注文した。 ホットケーキ、はふんわりパンケーキとは一線を画す、ただおやつにも留まらない憧れを含んだある種の郷愁的な幸せシンボル的な地位にいるように思う。 アメリカの家庭のパンケーキでもなく、日本の家庭のホットケーキとしての。 これは、だからと言ってホットケーキが頻繁に食べたいかとかそういうことではなくて。 現に私はホットケーキもパンケーキも少なくともここ1年の間に食べた記憶はない。 それでも、時代性や世代ということもあるかもしれないけれど、ホットケーキの何かしらのエピソードというのは比較的多くの人が持っているのではないだろうか。 例えばクッキーを焼いたことがない人よりも、ホットケーキを焼いたことがない人の方が断然に少ない気がする。 大した特別感もない、なんてことはない、そんな思い出を私は思い出したい、ということもある。 私はクッキーはほとんど焼いたことがないといっても良いけれど、ホットケーキはある。 小中学生の頃、狭い台所のテーブルの上でホットケーキミックスに牛乳や卵を入れて混ぜ、お玉一杯分をホットプレートに流し入れて、ふつふつと気泡ができるのを見つめていた。 その脇で、お玉に残ったホットケーキの素を数滴垂らしてカリカリに焼けるのも楽しみにしていた。 どちらかというとそのカスみたいなやつの方が楽しみにしていた気さえする。 バターでなくてマーガリンで、メープルシロップはあったかどうか、覚えていない。 あれはおやつだったのか、お昼ごはんだったのかは思い出せない。 家で作るホットケーキには、商品としてのホットケーキミックスが売り出したかった温かな家庭のイメージも根強くあるだろうし、それが個々の思い出のホットケーキの甘さや温かさとうまくマッチして記憶されているのだろう。 それに、キューブのバターとメープルシロップが何枚も積み上がったホットケーキの上から滴り流れる絵のイメージも強い。 たとえば3枚ホットケーキを積み上げて、バターもシロップも好きなだけ、というのは軽いランチくらいのカロリーがあるだろうし、ちょっとした”いけないこと”感があるのだろうと思う。 この“いけないこと”感はホットケーキの、おやつに留まらないちょっとした憧れのシンボル的存在であるための一つの大事な要素のような気がする。 と、そんなことをつらつらと書いていたら絵本の「しろくまちゃんのほっとけーき」が欲しくなって、アマゾンで注文した。 新しく行った喫茶店の話が、食べなかったホットケーキの話でひとり盛り上がってしまった。 古びているけれどこざっぱりきれいにされたスナックのような店内、 薄く錆びついた椅子と、破れてはいないソファ、 「厳選された焙煎豆のコーヒーの薫りをあなたに」という、一度水でもかぶったのだろうかという水染みのあるポスター、 「ホットケーキ アイスクリーム乗せ」や「ゆであげトマトパスタ」、「すべてのメニューにはコーヒーか紅茶が付きます」と潔い線質で書かれたメニューは他の物に比べると新しそうで、 少し開いた戸棚、その奥に店主にしか分からないであろう絶妙に配置されたワイングラスやコリンズグラス、でもお酒は見えるところには置いてなくて、 パイレーツオブカリビアンのジョニーデップが睨んでいて、 トイレはユニットバスの小さなタイプでえんじ色、 ポンプ式のハンドソープはこちらが正しいのだと言わんばかりにきちんと成分表示の方が表側に、 ターバンを巻いて眼鏡をかけた店主は”ママ”と呼びたくなる風貌で低いヒールをガツガツ鳴らし、 ホットケーキをパンケーキと呼んで、スマホを片手に黄色い声で笑っているホットパンツの若い女性が二人、 彼女らが帰ると、店主は間髪入れずにステレオのスイッチを入れてジャズが流れ出し、 彼女らの皿やグラスを、割れてしまわないかと心配になる音を立てて片づけ始め、 薄暗い店内から、暗闇からの出口、といった感じに開かれた扉の向こうで、バイクや車が何台も通り過ぎ、どこかの工事が元気よく行われ、鳥が鳴き、時折人の喋り声が聞こえて、 宅配便の人がやって来て、こぎれいな初老の婦人はアイスティーを5分で飲み干し席を立ち、長らく散歩してきたのかゼーハー言いながら入ってきた老夫婦を入れ違いに私は店を出た。 俳句を推敲しながらアイスコーヒーをゆっくり飲んでいると、確実に薄まっていくのを感じながら、でもずっとなくならないのではないかと思えた。 夜、投句をして、録画してあった「ゆとりですがなにか」を観る。 宮藤官九郎にあっぱれ。 雨降りの朝や人気のない夜には、何かを煮たくなる。
ぬるっとした薄皮で覆われている新玉ねぎを剥いて、ザクザク切って。 一個だけしぼみかけていたピーマンを細切りにして。 刻んで冷凍してあった油揚げをコーヒードリッパーで油抜きして。 見たことがなかった缶詰のシールの蓋を剥がして。 生姜を皮をむかずにそのまますりおろして。 全部フライパンに入れて、煮る。 酒と出し粉と塩を入れて、最後に醤油を回しかける。 水分を飛ばしながら火を入れて、味見をしてみると醤油は要らないくらいだったので、最後に卵でとじる。 卵とじにする構想などなかったわけだけれど、これはこれで。 この翌日、小松菜一把をざざっと洗って、ザクザク切って。 前日入れ残したらしいジップロックの隅に1つだけ残っていた油揚げを取り出して。 前日と同じシーチキンのシールの蓋を剥がして。 しめじとえのきの石づきを切ってほぐしながら、半分を冷凍用にジップロックに入れて。 生姜は皮をむいて小さく刻んで。 高野豆腐を水で戻して、ぐぐぐと切り分けて。 全部鍋に入れて、煮る。 酒と出し粉とみりんと塩を入れて、最後に醤油を回しかける。 味見する気がしなかったので、とりあえず煮込むまで。 雨降りで寒いので、緑茶を淹れる。 急須に入ったお茶の濃さが変化していくから、緑茶はマグカップに一気に入れてしまうよりも小さな湯呑みで飲んだ方が楽しめるし美味しい。 いただきものの神戸プリンや夏みかんのどら焼きとともに。 俳句に苦心しつつ、お借りした原田マハさんの「本日は、お日柄もよく」を読む。 小説を読むのは随分と久しぶりだ。 小説は文章のテイストの相性で読めるもの読めないものがある。 それに、文章のテイスト以上に私はSF的な内容だったり、時間が行ったり来たりするものだと脳が付いていけないので読めないというか頭に入ってこない場合が多い。 推理小説もたいてい何がキーになっているのか、どう伏線が張られているのか、ということをそもそも観点として考えていないし、そういったことへの理解力が乏しくて分からない場合も多い。 この「本日は、お日柄もよく」は、私にとって、とても親しみやすく読みやすい。 言葉が丁寧な文章というのは、丁寧なつくりの和食を食べているような気分になって、ほっともするし少し身を正される思いもする。 原田マハさんの文章は、高級懐石的な感じではなく、中野あたりの小さな定食屋の丁寧につくられた小鉢の肉じゃが、メインの金目鯛の煮付けとかでもなく、そんな感じがする。 散歩ならぬ散輪途中に通りかかって一度通り過ぎたパン屋に逆戻りして入ってみる。
私は最近パンの話をよくしている気がする。 パンが好きなのは女性が多いような気がするけれどそれはなぜなのだろう。 一般的なイメージとして、かつ丼を喰らうのが男子的であり、パンケーキを頬張るのが女子的だろう。 女性一人できれいとは言えない定食屋でかつ丼を喰らっていたら”男性的”と言われるだろうし、男性一人でトイレの小物にまでこだわりのあるオシャレなカフェでパンケーキを頬張っていたら”女性的”と言われるだろう。 男性がパンケーキを、女性がかつ丼を、それぞれがその食べ物が好きなのに一人店内で食べづらいのだとすると自意識過剰だなと思う一方で、男性がかつ丼を、女性がパンケーキを好みがちな傾向というのはどこまで本来の性別の嗜好性が関係しているのだろうか。 オシャレが好きとか、洋物への憧れとか、甘いものが好きとか、それら自体の定義と傾向も謎であるが。 もちろん、男性の中にもパンケーキの方が圧倒的に好き、女性の中でもかつ丼の方が圧倒的に好き、ということはあるだろう。 もちろん、時と場合にもよるだろう。 私はかつ丼もパンケーキも好きだし、どちらかというと6対4くらいでかつ丼が食べたいときの方が多い気がするけれど、少なくとも一人でいる場合には、その時の個人の嗜好性を瞬時に選び取れるようになりたいものである。 悩ましいのは、誰かといるときに例えばその時の私がフルーツと生クリームがたっぷり乗ったタワーのようなふんわりパンケーキを食べたかったとして、パンケーキと希望することを一人押し問答で結果憚られて、かつ丼、と言ってしまいがちなことである。 しかもその時のタイミングでは自分でもあたかもかつ丼が食べたかったような心持ちでのかなり無自覚な選択であることが多い。 男子的であることも女子的であることもどちらだって良くて、自分的あることを望んでいるのだけれど、自分における女子的な性質を他人に対して言うときに生じるレッテルを拒否しているからそうなるのだろうと思う。 まあ、かつ丼とパンケーキは一例に過ぎないけれど、こういったことはとてもよくあるものだ。 話は戻って、そのパン屋さんに入った途端、チャコール色をしたゴールデンレトリバーのような大きな犬に吠えられた。 店主に嗜められた犬はすぐに吠えるのを止めたけれど、私は犬を飼ったことがないし特別に好きでもないので、特に怯えるでもなく近寄らないようにしようとパンを物色した。 「ごめんなさいね、すごく甘えん坊なんですよ」と店主が言うので、少し近寄ってみると、いきなりその大きな図体をこてんと横にして腹を見せてきた。 「あらら、もう見せちゃうの」と私はその犬のお腹を撫でまわした。 犬は私の手を舐めまわした。 当たり前だけれど、犬には毛がいっぱい生えていて、その毛の下はお腹は内臓が感じられる薄ピンク色をしていた。 背中側はしっかりと硬い毛が生えていて、温かなハラコを撫でている感触だった。 見つめる目は、眼球もまつ毛までがチャコール色をしていて美しかった。 随分と久しぶりに動物に触れた気がして、その重量感と質感と温かみは何だか記憶に残りそうな気がした。 「犬好きと分かるとこれなんですよ。犬嫌いの人には知らんぷりするんですけどね」という店主の言葉に私は嬉しくなった。 自分のことを「犬好き」と称したことはこれまで生きてきた中でたぶん一度もない。 警戒心がなかったから良かったのだろうと思うけれど、初対面の犬から存在を許してもらえるのは、私にしてみれば大げさでもなくちょっとした自信にもつながりそうなことだ。 日当たりが良過ぎる私の部屋は、夏好きな私に少しの夏の不安を抱かせた。
強い直射日光が好きそうな多肉植物をベランダに出す。 私はこの日射しに当たっていたら湿疹ができてしまうと思いながら、多肉植物の緑はつやつやに輝いていた。 こんな洗濯日和な日に洗濯をしないわけにはいかない。 久しぶりにベランダに洗濯ものを干すと、タオルやらTシャツやらが風に揺れた。 「揺れる洗濯物を眺めるのが一番の幸せ。そうやって暮らしていきたい」と私は大学生の頃、声を大にして言っていた。 そんな類のことを、実際に文字通り喚いていたわけではないにせよ、勢いとしては本当に喚いていた。 ついでにそんな午後に香り高い紅茶でも飲みたい、とも言っていた気がするけれど、私はあまり香り高い紅茶が好きではないと気づいたのはここ最近のことだ。 「晴れの日に洗濯物を干して、それが風に揺れているのを見ると100%の確率で幸せになれる」とでも思っていたことは、自己暗示が過ぎるし、あまりにも自分のことを見くびり過ぎである。 無論今だって、こんな晴れの日に洗濯をして、洗濯物が揺れるのを眺めるのは結構高確率で気持ちが良い。 それは今の私がブルーハーツを聴いて結構高確率で楽しいということとほとんど同じだ。 ただそれさえあればオールオッケーというふうには思えない自分の存在を今は認識している。 まあでも、もちろん機会とタイミングが合えば、晴れの日に洗濯物も干すし、ブルーハーツも喜んで聴く。 5~13巻しかない「まんが道」を借りて、全巻にして返す、という約束だったので、不足巻を買い足して、ついでにぱらぱらともう一度読む。 バラで買うのに都合よく安価で買えそうになかったので、全巻を買った。 全巻にして返したら、5~13巻が私の手元に残る。 奇妙なことだけれど、借りなかったら読むこともなかったかもしれないから、借りた意味は、ある。 「まんが道」は藤子不二雄Ⓐによる、藤子不二雄として活動していた藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐの2人の自叙伝的漫画だ。 満賀道雄と才野茂が、ただただまんがという道に純粋な気持ちで進んでいく。 しかし彼らは仙人のように俗世から距離を置いているわけではなく、狂ったような天才であるわけでもなく、当然ながら色んな日常のストーリーをもって進んでいく。 普通に家族があって普通に会社勤めをしたりして、俗的な世界に限りなく普通に身を置いているにも関わらず、本人たちはその俗っぽさとはかけ離れているように思えた。 彼らの我を真っ向から通し押し進んでいくということや社会や周囲の人間に対して反抗するようなことは全然なく、日々の出来事に素直に無垢に相対している。 それはおそらく、まんがという道にとてつもなく謙虚に、そして少しの疑いなく進んでいるからなのだろうと思う。 ただ周りの見えない馬鹿ということもなく、あまりにも、透明なのである。 夢を追いかける熱い物語ではあるものの、「キーチ!!」や「宮本から君へ」のような燃え盛る火の玉みたいな様相ではなく、熱せられた鉄球のような感じのする漫画である。 また、とても透明な感じが先に立つ感じがして、何だか心が洗われたような気分になった。 そして、改めて、2人で漫画を描くというのはどういうことなのか、とても不思議に思う。 「北斗の拳」のように共著でもストーリーと作画の担当が分かれているのではなく、ストーリーのアイディア出しを2人でして、ページを区分けして一つの作品を描いていたこともあるようで、どうして絵の統一感と一貫性が何の違和感もなく在れるのか本当に驚きである。 一人の人間が筆致を使い分けることは可能であると思うけれど、別々の人間がそのトーンを同じくすることというのは何だか想像しがたい。 彼らの漫画は、この感じ、あの感じ、ということの記号的(絵的)表現がとても鮮やかだと思うけれど、それは2人で生み出しているのだろうか。 絵を描く人であれば、何となくでもこっちはAさんのほうでここはFさんの方かな、などと分かったりするのだろうか。 例年4月も後半になれば花粉が終わってすっきり爽快となるのだけれど、そして今年もスギ花粉の終わりを何とはなしに一時感じたのだけれど、今年は5月に入っても身体がすっきりしなくて目や鼻の不調が残った。 「ヒノキは違う」と常々言い聞かせてきたのだけれど、ヒノキ花粉にも反応している気がしてならない。 それもようやく明けてきたように思うのだけれど、それがホルモンによるものなのかが時期的に判別がつかない。 とても今さらだけれども、アレルギー検査でも受けてこようか。 フェイスブックのタイムラインによく出てくる「Tasty」や「Tastemode」や「DelishKitchen」などの料理動画メディアがあって、私はしばしば見入っている。
自分でやる料理は似通ったものしか作らないくせに、料理番組や料理動画を見ることがとても好きだ。 それを実際に作りたいとか、どこかに食べに行きたいとか、そういうことは特にはなくて。 食べ物が手を加えられて調理されて変化していくさま、そのさま自体が好きらしい。 肉や野菜に火が加わって縮んでいったり、卵と生クリームが乳化していったり、パイシートが焼かれてパイになったり。 音を出してみているわけではないし音は要らないので、やっぱり、そのさま、が好きなのだと思う。 料理の手順は極めて超早送り状態で進められる。 超早送り、というのも良い。 ああしてこうしてああしてこうして、ハイできあがり、といった感じで、変化のさまをとんとんとんとコンパクトに楽しむことができる。 中でも「Tasty」は作っている料理も、料理工程の手際も、見せ方も抜群に洗練されている。 ピンクペッパーの潰し方も、モツァレラチーズの伸ばし方も、タイムのしごき方も、ちぎりパンを乗せるスクエアプレートも、調理台の大理石も、手だけ映っている爪先の真っ赤なマニキュアも、その一つひとつのタイミングを含めて本当に良くできている。 これは同じ料理映像でも、「きょうの料理」とは違った楽しみである。 「きょうの料理」で面白いのは、人間同士の掛け合いのライブ感にあって、おそらくリハーサルはあれど一発撮りなのではないかと思う、講師の料理人のメディア慣れの度合いや、アシスタントであるNHKアナウンサーとの相性に左右されながら番組は進んでいく。 アナウンサーのフォローの発言が料理人の余裕のなさでスルーされたり、20分で4品を作るというタイム制の回ではどう考えてもまだ固い状態のビーフンを引き上げて完成にしてしまったり、炒め途中に勢い余ってズッキーニがフライパンから飛んでしまったり、いろんなことが起こる。 特に平野レミさんと後藤繁栄さんの回は、アクシデントをものともせず、よくできたコントのように面白い。 平野レミさんはハチャメチャなようで、本当に料理がおいしくなること、を目指していることが端々に見えてとても尊敬する。 ついでに、ヘアアレンジの動画メディアも見てしまう。 料理とは違って、ごく簡単なものなら私もよく参考にして採用している。 いつからこんなにも「くるりんぱ」という手法がメジャーになったのか知らないけれど、くるりんぱのアレンジが圧倒的に多い。 「くるりんぱ」は髪を一度結んで、結んだゴムの上の髪を分けて、結ばれた下の髪をそこに通すやり方だ。 何と言ったらいいのか、文章上は上手く表現ができないけども、とても簡易なアレンジだ。 そして、誰が「くるりんぱ」と名付けたのか分からないけれど、確かに「くるりん」までは良いのだけれど「ぱ」という感じがしないなあと思いながらいつもくるりんぱしている。 そろそろを俳句を作ろうと、しかし最近めっきり日々の俳句的筋トレを怠っていたので作り方さえ感覚が鈍ってしまった。 何にせよ、筋トレは物を言う。 俳句のために行ったある日常の出来事を、句会仲間でもある友人につい言ってしまった。 句会は無記名で行われるので、それについて話すことは句会の面白さを一部削いでしまうことにもなる。 俳句も個人的創作物なので、「この句はあの人だよな」と、他人が読んでその人らしさの傾向の滲みを感じ取ることができる。 それを評の段階で、答え合わせのようにするのも句会の一つの楽しみであったりもする。 違っていたら違っていたで、それはまた面白い。 友人は、「私が俳句的筋トレを最近やってなくて全然できない」と言うと、「私も」と嬉しそうだった。 てんやわんやしていた4月を終えて、せっかくの指定席の新幹線ひかりに乗り遅れて東京に戻った日はもう5月で、冬用の布団をファブリーズして乾燥し圧縮して、扇風機を棚から落として割って、毛皮のマフラーをクリーニングから引き取り、ようやく、玄関に置いてあった飲茶さんの新刊『14歳からの哲学入門』を読んだ。
私にしてはハイペースに、丸一日ほど、寝る前、起き抜け、レッスンの合間、一本の缶ビールの後などに読み進めた。 14歳と言えば、私の中の哲学的リンクは池田晶子さんの著書『14歳の君へ』へ飛んでしまうわけだが、事実、著者は『14歳の君へ―どう考えどう生きるか』へのオマージュを表して名付けたらしい。 飲茶さんの本は、『史上最強の哲学入門』の西洋版と東洋版を貸してもらって読んで、これは欲しいと自分の蔵書にすべく改めて購入し、『哲学的な何か、あと数学とか』も貸してもらって読んだ。 特に東洋版の方の『史上最強の哲学入門』は、過去に私に起きた現象にある程度の解釈を与えてくれた気がした。 本を人に貸すと返ってこない可能性は低くない、というのは世の常ということを知りつつ大事な東洋版の方を私はある人に貸した。 それは是非読んでもらって、あわよくば何か話したかったからだ。 たぶんもう返ってこないだろう、と思われるけれど、私も人に借りている『ジョジョの奇妙な冒険』の第七部全巻を2年ほど借りっぱなしなので何とも言えまい。 『14歳からの哲学入門』を読んだらまた前著を読みたくなったので、この際買い直そうかとも思う。 そして『ジョジョの奇妙の冒険』もそろそろ本当に読もうと思う。 私は学生の頃に哲学を勉強していたわけではないし、哲学と言えばこの飲茶さんの本で得た知識くらいしかない。 哲学というものを毛嫌いしたことさえなく、それについて思い巡らせたことがほとんどなかったけれど、哲学というのは決して難解過ぎて凡人には分からないもの、ではないようだし、私たちの日常や社会、認識、思考、「わたし」の存在や「わたし」が存在する「世界」の有無、過去・現在・未来などすべてを含みうる、まさしく身近なものというよりはすべては哲学が呑み込みうるもので、ただの一時の思考ゲームに留まらず、今この「わたし」にも関係が大アリだと思っているので読んでいて楽しいし、考えるのも楽しい。 もちろん学問的には、その深淵たるや・・・というものだろうけれども。 別にそんな面倒なことが考えなくたっていい、というのはそうなのかもしれない。 ただ何となく自分自身において、「何かに対する納得が欲しい」とか「自分について腑に落ちたい」という傾向があって、それについて哲学的な回答や説明を与えられた気がするので、面倒は時に買ってでもする。 何かが自分の中で腑に落ちることによって、初めてコンタクトレンズを付けた日のようにそれまでと同じ世界がワントーン明るく違って見えたり、凍っていたものが解けてすうっと胸が軽くなったり、そんなことが実際に私の体感としてあったのだ。 私の場合、14歳、の頃にはそれを自覚するほど頭は回らず、何かに疑問を持つということがなく、ただただ全然良い感じのしない日々を送っていた。 私にとってそれは好ましくなかった。 それに、哲学が、飲茶さん曰く「誰もが納得せざるを得ない強い説明(原理)を探すこと。考えること、そのすべてが哲学であり、また、『価値』について考えることである。今までにない新しい『価値』を生み出したり、既存の『価値』の正体を解き明かしたりすることである」とのことなので、「価値」あるものは欲しい、つまり「良いことあるかも!」とか「今より良くなりたい」とか、当然ながら私ももれなくそれは欲しいわけである。 ただ、私の場合、「くれたら欲しい」というくらいのスタンスの感じが否めないと自分で思っていて、それを良しとしたいわけではないのだけれど、いまいちその新しい「価値」についての貪欲さが自分の中に見出せないのである。 だからとても怠慢で、つい記号消費社会に自ら合意して甘えに、そして消費されに行ってしまいがちで、それこそ私はニーチェがいうところの「末人」なのではないか、と思うと恐怖を覚える。 私は常識を打ち破るような新しい「価値」にとても憧れを抱きつつ、欲しつつ、その反面で、何か絶対的な「価値」が無いことを現時点で納得している。 おそらく、絶対的な何かが無い、というところで思考を止めることが私にとって都合が良いからであって、そんな「価値」が無い方が安心なのだろうと思う。 しかしこれはつまり、「無い、としていることを有る」「無い、とすることに価値が有る」ということと同じことであるということは、飲茶さんを私に教えてくれた人と先日話しているときに気がついた。 で、私はどうするのだ、私はどうしたいのだ。 それにしても、飲茶さんの本は、全般的にとてもハートウォーミングである。 語調は漫画的だし、時折「カイジ」やら何やらの象徴的な言葉が引用されていて、とても読みやすいし面白い。 しかしこの本について一言で感想を述べるとすれば、ハートウォーミング、だなと思う。 人間が作り上げてきた学問そのものへの敬意や、それに携わってきた先人たちへの愛情が満ち満ちている。 こういうのに私は胸がきゅっとなる。 ちょっとまた、たくさん出てきた哲学用語についておさらいしたい。 Yakitoriが食べたいというウィニーを連れて深夜、私たちはロングタイムを経て再会した。
ウィニーはよく喋る子で、私は英語だとよく喋る子にはなり得ず、なんとかかんとか会話をした。 日本が大好きで、年に1度くらいのペースで来ているらしい。 これまでにも何度かフェイスブックで私を探したけれど見つからなかったようだ。 16年ぶりなのね。すごく長い時間だわ。 そうね、でもあのときとまったく変わってないわ。 そう?あなたもよ。 お母さんは元気?お兄さんは元気?妹さんは元気? 元気元気、妹は今2人の子どものお母さんよ。 日本の焼き鳥にセブンペッパーをかけて食べるの最高だわ。でもネギは要らないわ。マレーシアの焼き鳥は小さいの。 卵かけごはんを食べたことないならぜひ食べてもらいたいわ。 生卵は苦手よ。あと納豆もね。 マレーシアのファイアフライ、もう一回見たい。 今は手漕ぎでなくてモーターボートよ。 訳すとなぜか海外ドラマ調の言葉づかいになってしまう。 きっとまた、東京か愛知かマレーシアかシンガポールかどこかで会うだろう。 外人さんとするハグは、向こうはナチュラルだろうけれど、やっぱり私の文化には通常ではないので、お、ハグ、とふっと構えてしまう。 ゴールデンウィークの初日、懸念していた新幹線は随分と空いていた。 乗車率7割程度と行ったところだろうか。 上の姪は私の膝に座って、飲むヨーグルトを開け、そして私のスカートにこぼす。 まったくもう、と思いながらお母さんであるいもうとが怒っているので私は、わざとじゃないもんね、いいよ、と言う。 最寄り駅に降り立つと、日差しは紫外線の強さを感じさせるものだったけれど、冷ための風が猛烈に吹いていた。 飛ばされそうな姪の手を握って風に向かって、きゃー、とわざと言いながら走る。 けいこのマンションに着くと、珍しくつるりと部屋が片付いていた。 ごはんの準備もそこそこにしてあって、モンラパンのケーキまであった。 茹でただけのホタテや、切っただけのきゅうりとトマト、焼いただけの鮭、片栗粉をまぶして焼いただけの鶏肉。 さすがに海が近いだけあって茹でただけのホタテも焼いただけの鮭もとても美味しいし、醤油やらドレッシングもあるからいいのだけれど、下味の役割を認識していないのは少し前までの私と一緒だ。 関東煮と里芋の煮物は味がきちんとついていた。 関東煮、とは愛知や静岡あたりでは「かんとに」と呼んでいるが、関西では「かんとだき」と呼ぶらしい。 かんとには、関東風、と中部・関西地方の人が認識しているおでんであって、関東おでんよりも少し味が薄く甘めのようだ。 ちなみにその名を広めている出汁粉をかけて食べる静岡おでんとも違う。 愛知と言うと、味噌味噌と言われるが私は味噌おでんはそんなに好きではない。 関東煮の方が断然好きだ。 昆布がたくさん入っていて、大根がくたくたになるまで煮込まれた関東煮はとても旨い。 美味しい!というより、旨い!という感じ。 ちなみに今回、お昼ごはんにうなぎを食べにも言ったけれど、ひつまぶしではなくてうな重だった。 このあたりは本当に名古屋の文化と違うし、私は名古屋のことが全然さっぱりわからない。 それにしてもうな重はとっても立派で、とっても美味しかった。 甥とか姪とかは相変わらず有り余るエネルギーを放散させに走り回っていた。 朝7時くらいから本当にうるさい。 まあおそらく私たちもそうだったのだろうけども。 お外で遊びたい、のは当然のことで、私は久しぶりにたくさん日を浴びたけれど、やはり陽射しが苦手でとても疲れてしまった。 昔からそうだけれど、暑いのは平気でも直射日光がダメなのだ。 軽い日光アレルギーで発疹ができることもあれば、異様に体力消耗をしてしまう。 冬生まれ、日光嫌いの夏好き。 92歳になる祖父と3歳の姪は芝生の禿げた庭で仲良くしていた。 祖父は腹に力も入らないし、耳も遠いし、軽い脳梗塞をしてから言葉が出づらい。 92歳と3歳児は、なんだか会話のレベルがちょうど良いようで、傍目からは普通のように会話していた。 いもうとが下の子を連れて同窓会に出掛けたので、けいこと上の姪と一緒にレストランに出かける。 この時期、低い山々に囲まれているこの辺りのドライブは爽快で、山が笑っていて新緑が萌えている。 藤の花が八分咲きで、緑や黄緑の中に淡い紫がたわわになって美しい。 食いしん坊の姪は、いつもはいもうとにもう食べちゃダメと制限を食らって、もっといっぱい食べる!という押し問答を繰り返すのだが、今日はおばあちゃんとおばさんだけだから好きな分だけ食べて良いよ!と言ったら、張合いのなさなのかなんなのか、いつもと同じくらいしか食べなかった。 勉強しなさい、と言われれば言われるほどそのやる気を失くすというようなものだろうか。 となるとおそらく、姪が欲しいものは食べ物ではないという面もあるだろうと思う。 あるいは大人と同じものを頼んだので、味付けがさほど好みではなかったということも大いに考えられるけれど。 そしてまあいつもと同じくらいの量は食べたのだけども。 さて滞在丸2日を過ぎて、彼らは親戚の家に出かけていった。 時間的に行っても良かったけれど行かなかった。 ピアノを触って、テレビのフォーク番組で小室等さんと谷村新司さんの対談やらデュオやらを聴きながら、寝転がってスマートフォンでブログを書いて、実家に群生していたノースポールの写真をロック画面の待ち受けに替えて、帰りの新幹線の時間をを待っている。 夏みかんでも食べよう。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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