ものすごい風が吹いている。
ウイルスもこの強風に乗っかって海に流れ、藻屑となって霧散するイメージをしてみるが、すでに人々の体に住み着いたものは人間ごと強風に飛ばされないとそうはならない。 これから20度ほども気温が下がるというのだから、新手のウイルスと稀有な気象現象で、地球が怒っているとでも言いたくなるものである。 まあでも、三月の大雪、これまで無いわけでもないだろう。 それに、私は地球が怒っているという言い回しは好まない。 この度のウイルス騒動で夫の会社はとりあえず昨日の金曜日が休みとなった。 私の仕事もレッスンキャンセル続きである。 もし私が会社員で独り身だったら、この急な暇をちょっと不謹慎な面持ちで楽しんでしまうかもしれないと思う。 無論、今回のことは台風のような一過性のものではないので独り身だろうと何であろうとそんなことを言っている場合ではないのだが、家から出てはならないという非日常的な他人からの命令に従いつつ、ほふほふと暇を過ごすことに余念がないかもしれない。 まずたっぷり寝て、掃除をして、本を開くもののまた昼寝をして、Amazonビデオでも観るだろう。 買い物などはあと後回し、ひとりで食べるものなどどうにだってなる。 がしかし、息子がいる状況ではそうは問屋が卸さない。 朝は7時前くらいには寝込みを襲ってくるところからはもう昼寝以外に目を離している隙は無い。 ごはんも三食しっかり食べさせねばならないし、できれば最低1回は散歩に出て外の空気を吸わせたい。 幸い夫がいればふたりで手分けすることができるので、そうして一日を過ごすと、日の終わり、寝る前の疲労感が全然違う。 子守りには目が要る、手が要る。 今自分の状況が以前のようにひとりではないことは、とても良いとも言えるし、たぶん一生もうひとりができないことを思うと「絶望的」にも思える。 もちろん何らかの事情で今後ひとりになってしまうのは嫌である。 「絶望的」とは言いすぎのように聞こえるかもしれないが、自分の時間を全部、自分のものとして使い倒すことができるのは紛れもない幸福であったと私は思う。 今後、息子や夫と思う存分関わりながら、ひとりでいること、を積極的に行っていく必要があるだろうと思っている。 その一段階目は保育園であるのだが、まだ手続きをしていないのと、コロナ騒動で足踏み状態である。 やりたいことをやれる人生を歩んでほしいと息子には願っているが、私のそれを息子に託すつもりは毛頭ないし、まずは自分がそうやっている姿を息子に見せねばならないだろう。 今は息子と仲良く過ごしながら日々の変化を見ていたい気持ちも本当だが、互いに別の人間として雲のような幸せを抱きしめられる人生を送るべきであると思う。 昨日の散歩中、花屋で花を買った。 以前は花の定期便で月二回買っていたのだが、何の理由だったかそれを止めてしまったので、家に華やかな色が乏しくなっていた。 スイートピーと蘭系の花を2種類、ピンクと薄紫と紫。 文字通り、部屋はたいそう華やいだ。 鉢植えの緑ももちろん良いけれど、花の明るさはまた別格だ。 部屋と心に電気が点いたようである。
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物々しい世の中であるが、私の頭をずっと支配していた息子の離乳食問題には一区切りがついた。
ミキサーでブイーンと全てを一緒くたにどろどろにしたものを1食で茶碗半分くらい食べるようになった。 水分不足の問題は残っているのだが、固めのうんちが毎日出る。 ひと段落を見て、散歩時に悶々と歩くこともほとんど無くなった。 久しぶりに晴れ晴れした気持ちである。 食べてくれる、生きながらえる、それが嬉しくて安心なのである。 まあ単に、昨夜息子があまり起きなかったというのもある。 さてこの件について親身に相談に乗ってくださった方がいらっしゃるのだが、私もこのようなことで悩んでいる人がいたらやはり前のめりにでも相談に乗らせていただきたい。 私も実際に相談に乗っていただいて、具体的な対策や原因の究明、気の持ち方など本当に参考になったし、明るい兆しが見えたのもこの方のおかげがあった。 「基本的に子どもというのは手におえない」とその方の日記にあったが、私もそのことを知っているつもりだったのに、全然分かってなかったように思う。 育児というのは、こんなにも多くの人間が大きく大人になっているわけだから、さほど心配せずとも育つだろうとできる限りどんと構えようとしている、したいのだが、なかなかそんな悠長にもいかない。 いざ対面してみると本当にわからないことだらけで心配だらけなのである。 しかも、医者や助産師や区の育児担当の方々に相談しても、インターネットを漁れば出てくるような答えばかりで個別の回答はほぼ得られず、特段の症状のないことはほとんどが「様子見」となってしまう。 私の場合、この「様子見」がとても辛く思う。 確かに元気なら良いのだと思うけれども、何の手立てもなく「様子見」しているうちに取り返しのつかない事態になる可能性などを悪く考えてしまう。 しかしながら、基本的には確かに、「様子見」するしかないのであるが。 母は不安であり孤独であると友人が言っていたが、その意味も痛いほどに分かる。 大丈夫大丈夫、と周りに言われるほど腹が立つというか、やり場のない不安を煽られる。 大丈夫には根拠が欲しいし、その根拠は経験に基づくものであってほしい。 誰も自分ほどに子どもを見ている人物はおらず、この子の安寧を守れる一番の存在は自分であるということは孤独の素であり、しかしあながち行き過ぎた自意識でも無いと思う。 こんなにも俯瞰出来なくなるのだなあと、落ち着いた今の状況では思うし、いささか行き過ぎた自意識になりやすいのはいつものホルモン様のせいということだろうか。 痛くないときに痛みを正確に思い出せないのと同様に、辛いというのも今はあまり思い出せないというかどうしてそのように落ち込んでしまったのかさえ分からなくなる。 これが女性特有のものだとすると、女は馬鹿なのだろうか。 それとも私固有のものだろうか。 息子の食べる寝る動く排泄するなどの状況は2週間〜10日スパンで徐々にフェーズシフトしていくようである。 今は全面的にこちら側の寛解期なので、次の問題は何なのだろうか。 とりあえず、現時点で私が悩み終えて、同様の悩みを抱える方がいるのであれば参考にしてほしいのは、できるだけ新生児期から哺乳瓶で飲ませることを止めないことと離乳食はのど越しが大切なこと、すり鉢でごりごりやって食べなかったらもうごりごりはやめた方が良いこと、瓶詰めベビーフードやミキサーなどに潔く頼ること、である。 そしてやはり「様子見」の辛い時期を誰か経験者に相談することである。 多大な面倒と思っていた確定申告も夫に手伝ってもらい、当初の期日を少し過ぎたくらいには提出が完了した。 本当は、離乳食用に買ったミキサーの話を書きたかったのだが、良い文量になったことと、息子が目覚めたのでここで終わりにする。 息子が生まれてから8ヶ月が経とうとしていて、ここにきて随分疲れが溜まっていると感じるようになった。
息子は最近可愛さ増し増し、同時に明確な自我が芽生え、首も振れないし喋れないながらも以前よりもわかりやすい主張をするようになってきた。 心も成長しているのだろう、お母さんである私への好きぶりも加速度をつけている。 それは私以外の誰かほかの人に抱かれたりなどすることを拒否することを意味する。 今まで、でへでへと顔を弛めていた20代女子に対してもあまり反応が良くなくなってきた。 私は息子に好かれたくて、母だから当然とも思わずに息子を抱きしめまくっている。 全てとは行かないけど、息子が私を求める時にはできるだけ行ってやりたい。 何より息子にとって私は乳が出る存在だからというのもある、だから、乳以外の付加価値を持つべく、私は日や努力を重ねているのである。 息子は体の動きも次第にダイナミックになってきた。 相変わらず座るのはあまり好きではないようだけれど、随分と身体が起こせるようになり、猫がシャーッと威嚇しているときのようなお尻をあげたポーズをよくする。 そのうちつかまり立ちをするのではないか、今でも中腰から不意に後ろに倒れて泣く。 ひやひやと肝を冷やし続けねばならない日々はこちらが辛そうである。 そして、未だ哺乳瓶の粉ミルクを全力で拒否し続けている。 スプーンでミルクをあげてもおえっとなるか怒るかなので、哺乳瓶の乳首が嫌というよりは味が嫌なのではないかと思う。 粉ミルクはこれまでに4種類くらい試しているけれど、「粉ミルク」というものの味がダメになってしまったのだろう。 離乳食については教わった瓶詰め離乳食と、新しく購入したブレンダーによって比較的進み始めた。 しかし、まだ十分なカロリーも栄養素も離乳食では補えないので、ミルクを飲むことが必要である。 母乳はもう母子の戯れ程度にしか出ないのだ。 幾分痩せたように思うことが最大の悩みであり、そのことで私の行動も思考も日夜奔走していることが、疲れの大きな原因のひとつだろうことは確かである。 子育ては一筋縄にいかない、まあそうよねと思いながらも、痩せないで欲しい、赤ちゃんなのだから。 ミルクの問題があるので、一般的なペースだと1日に離乳食を2回のところ3回あげている。 これがまた大変である。 さくっと済ませる、レトルトや出来合いもので済ませる、どこかで食べてくる、仕事しながら食べる、友人と食事を楽しむ、1食抜いてしまう、それら全てが全くできない。 ブレンダーや瓶詰め離乳食に頼っても、準備の時間から片付けまで小一時間ほどかかる。 息子は好きそうなものでもあまりばくばくとは食べないし、ものすごく遅遅と食べているうちに食事に飽きてしまって、スプーンなどで遊び始めるか期限を損ねる。 それでも何とか、自分が映った動画等で気を引きながら、何とか食べさせていく。 最後はビチビチと飛んだどろどろのお粥などを、息子の口周りやら手やら机やら床やらを拭いて、その上酷ければ着替えまでさせる。 これが日に3回。 時折おやつの赤ちゃんせんべいもあげている。 私自身、食べるということについては未だにあまり深く行動することができず、食べる難しさを知っているつもりだから、息子には食べることを好きになってもらいたいとは思っている。 しかしながら、親の私がどうやっていいか分かりかねることを息子がやるのは難儀なことであるとも思う。 とにかく育児に対して必死さが出てきた今日この頃である。 夫がバレンタインデーのお返しに、花束を買って帰ってきた。 ホワイトデーなので、白い花束。 植物が好きな私に、事ある事に花束を買ってきてくれる。 ひと月前のバレンタインデーは、当日に最寄りのスーパーでウイスキーボンボンを買った。 そもそもチョコレートがあまり好きではない夫なので、そのウイスキーボンボンの半分以上は私が食べた。 私は誕生日やバレンタインデーやクリスマスや結婚記念日や、そんな様々なアニバーサリーについて、昔はものすごく大切に思っていた。 0時から始まるその日が大切で、何か特別でなければならない、輝かなければいけない、なんて思っていた。 人の誕生日を忘れてしまうような人のことを信じられないと思っていた。 その一方で、各種アニバーサリーを覚えられない、あっけらかんとした無頓着な人に憧れている節もあった。 そして、おみくじを引いてもその内容をすっかりさっぱり覚えていないのと同様に、いつしか、そのようなアニバーサリーの名前がついた日に、ごく普通の気持ちで過ごせるようになった。 ついには、その当日を忘れて後日思い出す、なんてこともまま起こるようになった。 息子の月齢誕生日も毎月毎月、気付くと過ぎてしまっている。 何かお祝いなどできたら良いという気持ちは無くはないのだけれども。 無頓着になったというよりは、地球や宇宙からしたら何でもない普通の日をただ普通に過ごせるようになったということである。 外的な規定ではなく、内的な動向に注視できるようになったのかもしれない。 私はこれを大変良しとしている。 花束を貰えるのは単純に嬉しい。 夫の労いも単純に嬉しい。 そしてアニバーサリーとは、何か思いを伝える照れ隠しの口実ということなら、なかなか良いものではないか。 白い花束の中に私の好きなゼラニウムが入っていた。 葉っぱをこすって嗅ぐと良い匂いがする。 息子に嗅がせてみると、顔を背けてしまった。 引き続き、離乳食が悩ましい、というよりかはまた哺乳瓶でミルクを飲まなくなってしまって本当に悩ましい。
私の言葉が分かっているのではと推測される息子に懇々と哺乳瓶でミルクを飲んでくださいと話をするのだが、全く目を見て聞いてくれないどころか、おそらく話を理解しているから私の顔が行く方向からぷいぷいとそっぽを向く。 仮にこちらの言い分は伝わっているとしても、息子の言い分を分かりきれないのが不甲斐なく思う。 「あなたのことを思って」やっているのだけれど、息子からしてみれば「ぼくはそれを飲みたくないのに」に他ならない。 だから「あなたのことを思って」ではなくて、「あなたが飲んでくれたら、お母さんは嬉しい」と主語は自分にするようにしている。 水をスプーンで飲ませるついでにミルクをスプーンで飲ませるとおえっとやるので、哺乳瓶の乳首を嫌だし、粉ミルクの味もダメになってしまったのかもしれない。 母乳は大好きだけれど、もう本当に無けなしの量しか出ない。 カロリーや栄養摂取が少なすぎるのではないかととても心配している。 胸の奥深くに何かがつっかえているようで、酸素不足を起こしているような気がして、度々深呼吸をしている。 息子が産まれてここまで、それ程には苦労をしてこなかったように思うが、初めて子育ての大変さを思い知っているような気がする。 あの手この手、粉ミルクの種類や哺乳瓶の乳首、コップやスプーンで飲ませる、ストローマグを使う、温度、体勢、明るさ、色々いろいろ、やってみるけれどだめである。 全く別方向から息子の気分や調子を変えるために、昨日はいもうとの家まで遊びに行っていとこのおねえちゃんたちから刺激を受けてきたけれどそこの効果はあまり得られなかった。 ここまで来たらこの際実験的に楽しくやりたいのだけれど、なかなかそうはできず、結果的に息子を泣かせてしまうし、飲んでくれない精神ダメージを負ってしまう。 先日離乳食についてこのブログに書いたら、ある方から丁寧なアドバイスというかメッセージをいただいた。 ブログは書き手が基本的に王様だけれども、当然ながらコミュニケーションツールでもある。 しかしながら実際に行動に起こして連絡をくれるというのは少しだけハードルがあると思うので、そのハードルを越えて行動してくださったことにまず感謝する。 教えてもらった少々値の張る離乳食の瓶詰めを購入してみて、さっそく食べさせてみると、なんと、食べる。 ミルクが足りてないと思われるので、そこそこがっついた様子も見せる。 いもうとの家では、おかゆは足さなかったけれど、ひと瓶全てを1回で食べてしまった。 と言っても、45キロカロリーなので、カロリー的にはミルク100mlもないが、それでも大快挙である。 「食べない子は食べない」「食べないときは食べない」、その方も、保育士をしていた友人も、同じことを言っていた。 他の方も、飼っている犬やトカゲの話で同じようなことを言っていた。 皆同様に、心を痛ませて心配である、と。 人間のみならず、ペットも同じことであろうし、皆食べるというとてつもなく大きな事柄には何かしら難しさを孕んでいるのではないかと思う。 子育ての話というのは、他人からすれば、人生的に見れば短期的で狭小の課題を極めて声高に言っているように聞こえるであろう。 これは私がかつてそうだった。 そんなこと放っておいても解決するでしょう、それってこういうことでしょう、そんなことでぎゃんぎゃん騒ぎ立てなくても・・そんなふうに思っていたような気がする。 結果的にたぶんじたばたとあがいているうちに、たいていは当人たちにとっても過去の笑い話になるだろう。 しかし、日常その最中に絶えず身を置くとなかなかおおらかに考えることができないものである。 その上、息子の食べる寝る排泄するのパターンは、10日から2週間ほどのサイクルで様々細々と変化していく感じなのでこちらの行動や心がやっと追いついた頃には次のフェーズに移ってしまう。 「大変だったけれど大変だったという記憶だけあってあとはあまり覚えていない」と子育てにおいてよく耳にするが、これは対処対処に追われるが、その対処の内容が短期間だけで目まぐるしく変化していくからなのかもしれない。 ひと月伸びた確定申告と、出そう出そうと思っている保育園の認定手続きの書類作成と、眼前の極めて面倒な事項を片付けたら、息子のミルク離乳食問題にも春が来るだろうか。 不穏な世の中である。
あまり気にしていないというのも本当だし、少しは気になっているのも本当である。 普通に手洗いうがいをすること、普通に掃除をすること、普通に洗濯をすること、普通に食事をすること、普通に寝ること、普通にワイドショーをあまり見ないこと。 普通でないのは、街中に出るのを控えること、電車に乗らないようにすること。 外食も、なんとなく避けがちである。 マスク以外にも、いきなりティッシュやオムツが買えなくなるのは勘弁して欲しい。 マスクについては、花粉が飛んでいるので早く市販品が戻ってきて欲しい。 経済活動の低下によって立ち行かなくなる企業や人が出てくるだろうと思うが、災害など大規模な事態になって初めて社会は変革を遂げるのかもしれない。 インターネットによる情報社会においては、デマのような情報が流布しやすい一方で、それがデマであるという情報もまた然りである。 情報を精査し、見極める力が重要であるとはよく言ったものだが、実のところ私はそのような仕組みについてすっきりと系統だてて理解出来ているとは到底思っていない。 社会の仕組みなどを考えてみようとしたところで、思考が有耶無耶になってしまうのは、赤子がいてもいなくてもだ。 とりあえずティッシュもトイレットペーパーもまだ足りているので買ってはいないけれど。 ウイルスについては、生物と非生物の中間くらいの存在らしいが、ウイルスやその増殖の仕組みについて理解を深めると日常の対処法もより明確になるのではないかと思う。 手軽にそのようなインターネットサイトを検索してみるが、じっくり読む暇がない。 息子は見境なくべろべろと色んなものに触れては舐めるので、その点は気をつけたいと思う一方で、気をつけられる限界も早い。 外ではあまりものに触れさせない方が良いか。 さて離乳食を進めているのだが、相変わらず、さっぱり進まない。 ミルクもそうだが、かなり食が細いというのか、食に興味がないようで、母として私は心配だし悲しい思いをしている。 ごりごりごりごり、さつまいもやらブロッコリーやらかぼちゃやらほうれん草やらを、そのために買ったすり鉢とすりこぎで潰しているのが本当にこんなにも虚しくやるせないものだとは思わなかった。 ごりごりごりごり、時間も力もかかるのに、ぷいっと口を閉じてそっぽを向かれてしまう。 小分けにするために製氷皿に冷凍するのも面倒だし、そのキューブをひとつずつ解凍して間もなくまるごと捨てることになるなんて、あの、ごりごりごりごりはなんだったのか。 美味しくないのかと思ったが、出汁もわざわざ茅乃舎の出汁をとっているし、実際私が食べてみても悪くはない。 けれども、食べない。 しかし、キューピーのピン詰めのベビーフードのコーンと桃をあげるとくれくれと口を開ける。 自分でごりごりしたものではないが、食べてくれないよりよっぽど良い。 口を開けて寄ってくるのがこんなにも嬉しいものなのか。 また、赤ちゃんの初めてのお菓子である「ハイハイン」も比較的好きである。 そしてまた、食べてくれる喜びを見ながら、ごりごりごりごり、を思い出して曇った気持ちになる。 自分がやった苦労がまさしく水の泡なのである。 食べたいだけ、寝たいだけ、動きたいだけ、そうしたい分だけそうさせていたら良いのだろうか。 食べる量も寝る時間も動きの発達も、一般的な目安がある。 その一般目安と照らし合わせて比べるから、私は悲しくなるのだろうか。 人と比べなくて良い、と方方で言われる昨今であるが、比較や統計から医学やらあらゆる学問が存在するのではないか。 バランス、という言葉を使うと全てはそうなのだが、息子に対してのそのバランスの在処がよく分からなくて悲しくなるのだろう。 でも息子は元気だし、よく笑う。 それでいいではないか、と思ったり、また焦る気持ちが出たり。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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