もう腰を据えて待とう、気にせずに過ごそう、と思うのだが、好きなことを自由にやるには身体が重すぎるし、気にしないということも無理がある。
今のところ妊娠線らしきものはできていないのだが、お腹の皮膚はもうぱちんぱちんに伸びていて薄くなっていて痒い。 しかし薄くなった皮膚は何とも変な感じに敏感で、普通の皮膚のようにぼりぼりとは掻くと裂けて血がにじんでしまいそうである。 外界はべったりとした重たい梅雨曇りだけれど、かえるくんはお母さんの温かでいよいよ狭い胎内で何を思って過ごしているのだろうか。 しかしながら予定日はまだなのだから、かえるくんがのんびり屋なわけではなくてお母さんがせっかちなのである。 久しぶりに床拭き掃除をする。 これまでは、歩き回るのも重たいものを持つのも床拭き掃除をするのも控えていた。 単純に息切れして辛いというのもあるし、まだ出てきてもらっては困るというのが大きかった。 逆に今は少々辛くても身体に負荷をかけたほうが良いと医者にも言われるのだから、妊婦本人の自由意志など無いと言われているようで釈然としない。 要らないタオルを切って雑巾を作る。 暫く床拭き掃除ではなく掃除機のみだったので全体的に塵が積もって汚れている。 やはり床と向き合わないとダメである。 重たいお腹を四つん這いになって、何度も雑巾を洗い、時折眩暈を起こしそうになりながら床に這いつくばって拭く。 こんなことをして破水しないだろうかと思うのだが、しないものはしないのである。 ついでに掃除機に溜まったゴミパックの掃除もする。 粉塵を取り除くと掃除機はチャージ完了と言わんばかりに軽快に作動した。 掃除機はゴミを取り除いてきれいにしてくれる機器であるが、自分のことは自分できれいにはできない。 何だか少しの哲学の香りでもしそうであるが、今の私にはうまくまとめることができない。 家全体の半分ほどの掃除をやったところでどうにも息切れ体力切れ。 ぐったりと横になるとそのまま寝てしまった。 1時間ほど夕寝をして根性を出して続きをやる。 ひいひいぜいぜいと髪振り乱し、ひと通り終わったところで薄荷の精油をつけてもう一度軽く拭く。 薄荷の香りが一時部屋中に満ちて、私は満足した。 壁に立てかけてある作品や、床に直置き花瓶、窓辺の観葉植物、かえるくんがはいはいをしたり歩けるようになる頃には全て置き場所を変えるか撤去しなくてはならないだろう。 今は私の身体のたくさんのことが変化しているけれど、産まれてからは生活のたくさんのことが変化していくことになるだろう。 洗濯をしてファブリーズをかけてサーキュレーターを回す。 床はつるんとしたけれど、じめじめ、ぺたぺた、じめじめ。
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各種支払いやら各種支払いの名義変更やら借りたDVDを返送するやらお茶を沸かすやらご飯の準備をするやら簡単な掃除をするやら洗濯するやらブログを書くやら手紙を書くやら、そんなことをしていると夏至近くの太陽でさえも軽々と目の前を通り過ぎていく。
起きるのが昼前というのが私の一日が短く感じられる最大の要因であろうけれども。 色々な処理事片付け事を産まれる前に、と思っているのだが全てにひいひい言っているのでおそらく非妊時の3割程度のスピードでしか物事が終わっていかない。 平日日中に行った方が良い手続き系のことはやれるところまでやるのだが、口座振替手続きなどはそもそもその場で済むものではないので完遂した感じがしなくて残念である。 しかし雑事の一環として最も時間を取るのはドラマや映画を観ることである。 このあたりはamazonプライムビデオやdtvや借り物で最近観たものたちである。 その他にも録画しているいくつかのテレビ番組も観ている。 何だか忙しいわけである。 グレイズアナトミーシーズン13 木更津キャッツアイ さいはてにて 永い言い訳 DOCTORS~最強の名医~ 近くで仕事があったらしく、いもうとが急遽家まで来た。 大のお気に入りのパン屋に連れて行って一緒に昼食を食べる。 あれこれの近況を私たちは語ったが、特別に深いところまで掘ろうとしないのは暗黙の了解である。 双子であるし、顔や姿や仕草喋り方などは本当によく似ていると思うが、人生経験が違うので語ることも当然ながら違う。 興味の在り処や話の方向性というものが、大枠でずれている感じがする。 これで私が「母親」という役目を得て子持ちになると、それ界隈でお互いが興味を持って話すことは俄然増えるのかもしれない。 いや、いもうとからしてみれば下の子ももうすぐ4歳、既に新生児の悩みなどは良き思い出程度にしか興味はなさそうな気もする。 いもうとは今、自分自身の今後の人生についての基軸を無意識に求めているような気配がする。 まだまだ子育て真っ只中とは言え、がむしゃらにやるしか術がない時期は過ぎたのだろう。 がむしゃらな時期はやることが飽和状態で手いっぱいなので、何かに悩むということは逆に少ないのかもしれない。 目の前の嵐をどうくぐり抜けるか、それがあるうちは寧ろ安泰なのだろう。 互いに、今さら子どもを持つのか、今さら人生の基軸探しをするのか、と思っているのだろうけれど、どちらも状況が許すのならばいつだって今さらやっても良いことだ。 やりたいと思ったときにそれができるのであれば此れ幸いである。 風通しの良いこの部屋で、もうすぐ17時になろうとしている。 大きなお腹では机に思うように近づけない。 かえるくんは心の予定日には出てこなかった。
まだ出てきていない。 まあ、そんなものなのだろう。 もう少しお母さんの身体と同体でいたいのね、と都合よく考えてみる。 その世とこの世は圧倒的に異なるものね、と。 「この世あの世」という言葉はよく使うが、”その世”、というのは今しがた初めて使った。 ”この世”は現世の我々が生きている世界、“あの世”というのは死後の世界、そしてここで言う”その世”が母体の中で息づく胎児の世界。 “あの世”の有無は私には分からないけれど、“その世”は確実に存在するだろう。 胎外の人間世界では、“その世”を経て、“この世”に生き、“あの世”へ逝くということになっている。 稀に、“その世”から“あの世”にジャンプしてしまうこともあるだろう。 しかしながらやはり、この考え方も全て“この世”に生きうる誰か主体者が規定しているだけだから、そんなものは無い、とも言えるかもしれない。 また主体者しか考えを認識し得ないのだとすれば、胎児にとって今私が言う“その世”が“この世”でしかないという言い方もできる。 通常“この世”では、「この世に生を受ける」、と言ったりするが、それは精子と卵子が受精したタイミングでもなければ母体に着床して細胞分裂を始めたタイミングでもなく、空気に触れて肺呼吸を始めたときを指すだろう。 「生後」、なんて言い方もある。 しかしながら“この世”“その世”は生命活動が行われている世界で、“あの世”は生命活動は行われていないと線引きすると、“その世”から既に命は確実に始まっている。 にも関わらず、”その世”の胎児の世界は、何百倍何千倍にも大きくなって恐るべき変化を遂げる生命活動が日々怒涛の如く活発に行われているのに、“この世”の「人生」ではあまり重要視されることはない。 それは“この世”でいう記憶や意志を“この世”に持ち込めないからだろうか。 胎内記憶というものは各所で語られるが、誰一人それを“この世”で明確詳細に語ることはできない。 無論言語が“この世”のものである以上、“その世”では言語は存在しないのだからそれを新鮮に取り出すことは不可能である。 しかし“この世”の私も私自身の“その世”のことを全く憶えていないので、是非“この世”に生き始めて言語を得たかえるくんがもし生の胎内記憶のほんの僅かな欠片でも持つのならばなるべく新鮮に聞いてみたいものである。 “この世”の私が比較的近距離の“その世”のことを想像するのは楽しい。 “その世”は安全で居心地が良いとされているが、本当にそうなのだろうか。 “その世”の終わりは明確にはいつなのだろうか。 “この世”の空気に顔を出して肺呼吸を始めるときだろうか。 経膣で自然分娩の場合、“その世”の終わりは胎児が決めるのだろうか。 “この世”の終わりは自殺以外には自分では決められないことになっているけれど。 “その世”から“この世”への過渡、産道を通るときはどんな気持ちなのだろうか。 “その世”の世界は、我々人間がそれぞれ本人としてそれなりの期間全員経験したことであるにも関わらず、かなり摩訶不思議だらけである。 他でもない自分自身のことであるのに、全然さっぱり、なのである。 そもそも本来、自分自身など、そんなもの、なのかもしれない。 さて、まあ、かえるくんが“この世”へ無事に渡ってきてくれることを日がな一日祈っている。 “この世”の私と言えば、いくら産休とは言え、出歩くとすぐにひいひいと酸欠貧血を起こすので出かけることがままならない。 だからと言って一日中家の中にいるのも気分が滅入るものだ。 というよりは、私は元より家が大好きなので気が付けば一日中家にいることになってしまうのだが、それも身体に良くない気がして気分が滅入るのである。 ならば車で出かけてみようとカーシェアを使って外出を試みる。 車の助手席に乗っていると、産科の内診台のイメージがリンクする。 ちょうど一人分の椅子でリクライニングがきいて、横向きにはなれず仰向けでいなければならないところが。 このままお尻の方が持ち上がってくるのではなかろうか。 酒も飲めない、大きな公園も歩き回るので厳しい、銭湯施設も無理、そうだカフェに行こう。 いつかにやったように本を読みに行こう。 車なら座っているだけだからと高をくくっていると、次第に姿勢が辛くなってきてふうふうとなる。 運転手に無駄な心配をかけて運転に差支えが出ては困るので、ひとり静かに呼吸を整える。 妊婦にも大いなる個人差があると思うけれど、日ごとに辛みが増している。 カフェを二軒はしごして帰宅。 本も読み進んだ。 夫は私のわがままに全面的に付き合ってくれる。 産休一日目。
スマートフォンのアプリのスケジュール帳は、ぽっかりといやらしい空白ばかりが並んでいるように見えた。 とはいえ、とあるプロジェクトの書を書きあげたり、暑中お見舞いの依頼のやりとりなどをしていたため完全休日ではない。 しかしながら、好きなことと仕事がとても近しい位置にあって且つ個人事業主の私にとっては、特段完全休日が欲しいという風にも思わない。 あれよあれよという間に日が暮れていく。 このあたりに近くに良いカフェだけは見つけられずにいるのだが、駅を少し超えたところのタリーズコーヒーにでもいって読書をしようかと思っていたが、あえなく間に合わなかった。 クローゼットやキッチンや風呂場の収納の整理もしようと思っていたのだが、手が出なかった。 あれこれこまごま、出産前に片づけたい場所があるのだが果たしてやれるのだろうか。 身重を理由にしたいところだが、こうなったときの私の怠慢力というのは甚だしいことを私自身がよく自覚している。 夕飯だけは作ろうと準備をする。 凝ったものを作らないので準備が案外すぐに終わってしまう。 それにしてもよくご飯を作るようになったので、レパートリーも増えてきた。 キャベツとひき肉、にんにく生姜のスパイシー夏カレー。 セロリとジャコとおかかの醤油炒め。 鯖の味噌煮。 鯖の洋風ローズマリー焼き。 ブリの照り焼き。 ニラキムチちぢみ。 もやしとわかめの豆板醤ナムル。 出汁納豆オムレツ。 手羽元でハニーマスタードチキン。 鶏むね肉の味噌生姜焼き。 味噌漬け豚ステーキ。 ピーマンと赤ピーマンとひき肉の豆板醤炒め。 きゅうりと茄子のピリ辛和え。 切り干し大根とえのきとひじきと大豆の炒め煮。 このあたりは自分で何回か作っている、あるいは今後も作っても良いかなと思えたもの。 適宜内容を交換したり、材料を変えることで汎用性もあるメニューたちである。 忘れてしまうのでメモでもしておきたいのだが、お品書きの書でも日課にしようか。 是非やりたいところなのだが、それもそれで日々のルーティンワークを増やすのと、お品書きのためのごはんになる可能性があるので始めるのはまだ一考の余地がある。 写真を撮るという方法もあるが、これまた体裁を整えるのに多大な苦労を費やしそうなのでやめておこう。 今日のごはん何にしよう、というのは世の主婦の大きな重荷のひとつなのだと思うが、やはりごはん作りの一連の作業というのは実に合理的処理能力とクリエイティビティに富んでいるので、大変な作業である。 何せ、自らの総合的なプライドを立てた上で、手の抜きどころまで選択しなければならないのである。 「今日の夕飯いらないなら早く言ってよ!」と怒る妻や母の図はどこにでもあると思うが、その自らの選択の嵐を日々乗り切っていることを露知らず、「外で済ませるから」と軽々しく言われたのなら怒りも仕方ないものだとも思える。 しかも脈々と続いていく連続的な毎日であり、ほとんどゴールなどないと言って良い。 休日ともなれば朝昼晩3食分に追われることになる。 手抜きしてお惣菜や弁当を買ってくるにしても、その選択責任を負っているわけである。 このあたりの昔のけいこの汲々とした姿は私の中にはあまり良くは映っていなかった。 まあでも、やりたくなければやらないという選択に自分が納得さえできていれば特に問題が起こるということもないだろう。 いつだって宥めるのが一番大変なのは自分自身なのだ。 今のところは、楽しめる程度にやれているので良い。 時折、軽い生理痛のような腹痛がある。 かえるくんに会えるのはもう少しだ。 完全産休まであと3日。
先日の一泊入院やら貧血による体調不良やらで、レッスン業4,5件は突然のキャンセルとなってしまって多大な迷惑をかけてしまった。 みなさん「体調を最優先してください」と言ってくださるのは最もなことなのだが、私としては決めたことをやれない不甲斐なさばかりが残ってしまう。 正期産に入っても仕事を入れているということもいけなかっただろう。 それからというものの仕事の入り具合と自分の体調と体力とを鑑み、一日いちにちを慎重に過ごしてきた。 ようやくあと少しのところまで来ている。 大きなお腹が机に閊えてしまうままレッスンを行うのももう何コマかである。 妊娠は病気ではないとよく言うが、身体の不調や制約といった点ではほとんど同じである。 病気という病気はしたことがないが、病気もやはり大層大変なことだ。 かえるくんは現在2500グラム程。 やや小さめと言われているが、超音波で計る推定体重は誤差も大きいらしい。 病院で映し出された超音波画像を見たって、湾曲した白黒のもごもごの映像からだいたいの部位に印をつけて計測しているだけのようだ。 先生も、「大丈夫だと思いますよ」「これくらい見えてればだいたい問題ないことが多いです」と推測の域を出ない発言しかしようがないらしい。 妊婦健診に超音波検査ができたのはそんなに古い話ではないと思うけれど、その頃からあまり進歩はないようである。 それでも運が良ければかえるくんがあくびをしているところを白黒もごもごの画像で見られたりもする。 それにしても、羊水の中であくびをしているなんて、やはり胎児は生まれてからの何もできな子どもとは間違いなく一線を画す能力を持っている。 頭を下にしてずっと逆立ちのような格好で入っている時点で既に空気の中に過ごす我々とは全く異なる仕組みの動物である。 妊娠した当初、私はこんなにも妊娠についての記事を書くとは自分で思ってなかった。 妊娠していても変わらぬ日常や変わらぬ考え事を書くのだろうと、薄く考えていた。 しかし、いざそうなってみると妊娠から派生した考え事にも及ばず、妊娠そのものを取り出して書いていくしかないほどに私の暮らしは妊娠に支配された。 私の場合、時が満ちていくのと比例して、妊娠の重みは増していったように思う。 あと少し。 かえるくんと同体でいられるのもあと少し。 かえるくん、と呼べるのもあと少し。 サウナに行けるのはいつだろうか。 勢いをつけて起き上がれるのはいつだろうか。 1日15000歩歩けるのはいつだろうか。 とりあえず、かえるくんと私が健やかに出産を終えることを祈るばかりである。 ペンフレンドが出来た。
ペンフレンド、死語だろうか。 ペンフレンドではなく、筆友達、か。 御年90歳を超えるお方。 参加しているフェイスブックの書グループの主催者のお父様。 静岡の三島にお住まいで、たぶん80年ほどは筆を持ち続けている方なのではないだろうか。 この方はフェイスブックのアカウントは持っていないのだが、主催者である息子さんに参加者の書を見せてもらうのだろう、気になった書を書く人にお手紙を送るのが楽しみらしい。 私の書も目に留めていただけたことがあったようで、息子さんから私に差し支えなければお手紙の送付先住所を教えてくださいと連絡があった。 是非とも、と、文通が始まったのである。 数日後、書家らしく、堂々でかでかと宛名が書かれた豪快な封書が届いた。 巻物のような細長い紙に、つらつらと草書体やらカタカナ混じりの筆文字のお手紙が届いた。 古文書のようである。 まず、パッと見は私も読めない。 書家と言えども、草書を読むことというのは簡単なものではない。 草書は様々な書き方があるし、前後の連綿などや書き手の癖、まして手紙文のようにラフに書かれたものはたまたまそうなったややいびつな文字というのもある、を含めると、前後文脈から類推するしかない部分も多くあるものだ。 もちろん、私の不勉強という面も大いにあるが。 しかもこの方、「拝復」「老耄し」「被下度」など手紙文独特の言い回しを多用されることに加え、文末や助詞が「デス」「ニ」だったり「升」だったり、時に変体仮名が使われていたりと、実に自由に書かれるので、最初の手紙は恥ずかしながら困惑してしまった。 どうしても解読できないところを写真に撮って、書仲間に送って一緒に読んでいただいた。 2通目3通目は、言葉づかいや筆致にも慣れてきて少しずつ解読スピードも上がってきた。 そうなると、私も同じような風合いのお手紙文を書かなければならないだろうか、と一瞬気に揉んだが、それでお返事をお待たせするのはペンフレンドとしては失格である。 ペンフレンドで重要なのは、手紙文の書的な出来栄えでも文章の巧さでもない。 たわいもないことを手書き文字で郵送し合う、というところにある。 普段通りで良いのだ。 元より、私は文通が好きである。 私が小学校だった頃はまだ雑誌の終わりの方のページにペンフレンド募集の住所名前が載っていたものだ。 実際にそこから文通していたこともあるし、母の友達のお子さんやらとも文通していたことがある。 何を書いていたのか思い出せないが、相手からの返信をまだかまだかと待ちわびて、手紙を受け取るや否や嬉々として返信を書いて投函していた。 今思うと、私の文通に対する熱量が大きすぎて釣り合わなくなり、次第にやり取りされなくなっていったのだろうと思う。 おそらく、文通が好きというのはかなり特異なことなのではないかと思われる。 話好きということを前提に、しかし対面や電話でそうするでもなく、文字を書くこと、文章を紡ぐこと、即時的でないコミュニケーションを好むことを要する。 実際に会ったことのある知り合いと文通するのも良いが、全く見知らぬ人とやり取りに高揚することも文通好きの特徴ではないだろうか。 また、書を愛する人が文通好きとも限らない。 所謂筆まめと、紙面に文字の美を求めることは必ずしも一致しないものである。 文通で起こるコミュニケーションは、郵送という性質上、非常に緩慢なものである。 しかし、緩慢さにかまけて返信までに間を開けてしまうとそこで文通は途絶えてしまうことが多い。 郵送以外の伝達手段がある以上、そもそもはなから文通など全くもって必要のない、人生的余剰で行うことだからだ。 だからこそ、楽しいのだけれど。 また互いに伝えられる事項は、事細かなことではなく断片的なものだ。 日々のほんのひと匙を掬い取って、あくまで気軽に時間をかけ過ぎずにその時その場の言葉を書く。 俳句を吟ずるようにひねりすぎるのはだめだ。 文通的リズム感から外れてしまうと、文通は続かない。 この方のお手紙の中に、「暇を持て餘し用も無い手紙を差し出しご迷惑をかけ嫌われるかもしれません」といったことが書かれていて、何だか昔の私を思い出すようだった。 相手を困らせたいわけではないのだが、熱量の投下先を欲し、出来ればその熱量と同量ほどの熱量が返ってきて欲しいのである。 コミュニケーションの手段や質は好みがある。 酒を飲んで酔いながら長時間をかけて話をする、カフェや散歩などの居心地背景を含めて話をする、毎夜電話で話す、美術や小説などを介在させて話す、煙草を吸いながら手短に頻度高く話す、電子メールで長文を交わす、文通する、一緒にただ楽器を演奏する、など。 どれもコミュニケーションであり皆複数のコミュニケーションを行うものだが、それに投下する熱量は様々で、また好みの形態というものもあるだろう。 自分が好むコミュニケーションの形態を、誰かが同じように好んでいるとしたら、それはとても稀有で嬉しいことなのではないだろうか。 相対的にコミュニケーションの熱量の高い方は、いつだって何となく淋しさを感じているもののようにも思う。 そしてどこかでコミュニケーションについて良い意味で諦め、折り合いを付けているのではないだろうか。 そうしてまた自分好みのコミュニケーションを交わすとき、きっと有難き嬉しさを感じるのではないだろうか。 最近になって、キュウリに塩を振って水気をぎゅっと搾るということの意味がようやく分かってきた。
板摺りなんて手法もあるが、これはやったことはないが、今ならその作業の意味が感じられることだろう。 これまで、キュウリにはあまり栄養が無いらしいの食べなくてもいいとさえ思ってきた。 キュウリに塩を振って待って少しずつ力いっぱい水気を搾る手間暇なんて、何なら積極的に損するくらいだというふうに思っていた。 また、私は食材にべたべたと触ることが好きではない。 生肉はだいたい素手では触れないし、ひき肉もこねない。 野菜などは必要最低限に切るだけで、飾り切りなどで手の熱を移すこともない。 食材の多くは水分の塊のようなものなので、あまり触っていると手が荒れてしまうというのもある。 塩など振ったものを搾るなんて、キュウリの水分と一緒に私の皮膚からも水分が抜けてしまうではないか。 それに、キュウリはせっかく水分を満ち満ちと蓄えているのに、どうしてそこから瑞々しさを奪ってしまうのかが理解できない。 キュウリの水分がもったいないではないか。 畑から採ったキュウリを氷水に浸けて、そのまま塩か味噌をつけて食べる、これが最も美味しい食べ方なのではないのか。 もうひとつ、「ちびまる子ちゃん」で、給食の塩もみキュウリが不味くて食べられず、こっそり見つからないように給食袋に入れて帰って、給食袋をビタビタにして怒られるというエピソードが印象に残っていることもある。 というわけでキュウリを買うことがあまり無かったのだが、中華料理屋や居酒屋で出てくる夏のキュウリはやはり旨いと思うようになった。 キュウリ独特の青臭さや瑞々しさやパリッとした食感は、清々しくて潔い。 そしてなんとなく、今年はキュウリを買う頻度が増えた。 スティック状に切って味噌をつけて食べるだけでやっぱり美味しい。 しかし何にせよ選択肢やバリエーションがあることは豊かなことだと思っているので、毎回切りっぱなしの味噌乗せでは芸がない。 そこで、塩昆布やらゴマやら生姜やら醤油やらにんにくやら唐辛子やら豆板醤やらナンプラーやらレモンやら砂糖やらごま油やらを適宜混ぜ合わせたドレッシングに数時間浸けてみることも何度か試してみた。 不味くはないけれど水っぽくて味がぼけてしまうのが気になった。 軽くインターネットできゅうりの漬物の作り方を調べると、やはり最初の塩もみが肝要と書いてある。 仕方がないので、キュウリに塩を振って数分おいて水気を搾ってみる。 最初の頃は面倒くさくて軟な搾り方しかしていなかったが、それでも漬け物にすると味の浸透が変わってパキッと締まった。 これがキュウリ料理の肝だったかと合点がいって、それからは少しずつぎゅうぎゅうに絞ってついでにキッチンペーパーで水気を取ってみたりをした。 キュウリの水分が滴り落ちてしんなりしていくのを、やはりなんだか申し訳ないことをしているような気分で行うのだが、やっぱり出来上がりが美味しいということにはかなわない。 ドレッシングの出来栄えにもよるのでまだどんぴしゃりというものが出来ないが、キュウリの漬物は奥深いものだ、と思う。 そして、それなりに丁寧な手間をかけると美味しくなる、ということは料理においては正解であることが多い。 「手ごねハンバーグ」に惹かれてしまうのも仕方ない。 料理でなくても、「手びねりのぐい飲み」なんかも魅力的である。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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