領収書用に、屋号と名前と住所と電話番号が入ったシャチハタ印を作った。
1000円ちょっとで作れてしまう。 嬉しくて無駄にポンポンと推してしまう。 自分の名刺は持っているけれど、このようなものを作ったのは初めてで、本当に店主か経営者かになった気分だ。 いや、そもそも本当に店主でもあれば、経営者でもあるのだけれど。 同時に営業部部長でもあり、雑用係でもある。 ひとりは孤独であり、ひとりは気楽である。 時々嬉しくて、時々少し怖い。 ひとりであることを自認するときいつも、桝野浩一さんの短歌を思い出す。 「誰からも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲け」 友達がいるとかいないとか、恋人がいるとかいないとか、兄弟がいるとかいないとか、そういう話ではない。 会社員だから安心ということもない。 誰しもがひとりであって良いのだし、そもそもひとりなのである。 絆(きずな)と呼ばれるものは絆し(ほだし)であり、絆しこそが絆だ。 時に素晴らしく時に鬱陶しい、そんな両面の性質を持つ。 私はこの取り扱いについて時々悩む。 このことは自分ひとりで決して成立せず、他人を必要とするからだ。 要はバランス、ということは何においても言えてしまうから、その言い方は最後に取っておくとして、そのバランスの在り処をずっと考えていかなければならないのだろう。 仲間とか、親友とか、身内とか、恋人とか、内輪とか、うちらとか、誰かに対して私はそのように言うことがあえてしない。 肉親、血縁、既婚、などはただ法律上の決まりごとなので使う。 他人との関係性を表す言葉において、前述のそれらは定義が曖昧なため、全くの共通認識を持っているかは全くもって分からないことだ。 お互いに合意の下、よく会っていたりよく連絡を取り合っていたりする、その事実があるだけで、その事実で十分なはずだ。 そうであるのに、私は何に驕っていて、何に悩んでいるのだろうか。 向日葵が届いた。 向日葵の切り花は水を浅くしなければいけない。 丈の長い向日葵の茎を少し切って重たい水差しに生ける。 重たい花瓶でないと、水が少ないから倒れてしまう。 いただいた高野のメロンケーキは美味しくて、夜になって蚊に刺されて、新商品の蚊よけスプレーを買いに出る。
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木瓜の鉢植えの隣りに生えた雑草が、ついに木瓜の木の高さを越した。
木瓜は今のところ元気だけれど、小さな鉢植えの世界でこの後も共生することができるのだろうか。 名も知らぬ雑草に、本当は名前が付いていることを思うと引っこ抜けずにいる。 雑草という名の雑草はない。 しかし雑草も固有の名前も全て人間の分別によるものだ。 しかし私はその雑草を買ったわけではなく、木瓜を買ったのだから抜けば良いようなものを、その目覚ましい成長をベランダに出る度に微笑ましく思っているのである。 木瓜もその雑草も水が好きで、夏は2日に1度ほどやらないと大げさなほどに、しゅん、となる。 雑草の方は木の幹のように固くないので、葉と一緒に背骨の茎が大きくうな垂れる。 そうなった状態から水遣りをすると、全身に力が漲ったようにその背骨をピンとさせる。 これは切り花の百合でも見られて、植物はいつだって動いているということを私に知らしめる。 花の定期便で届いた芍薬は、ひとつは早々にメキメキと音を鳴らすように咲き、バラバラと散っていた。 もうひとつは固い蕾をぎゅっとしたまま、今朝一番外側の花びらがふわっと蕾の丸から離れた。 グラスを洗うブラシのような植物は、ブラシの部分が次第に白い細かな花になってきた。 アロマティカスはまだまだ元気にその丈を伸ばしている。 年末から始めた一日一書のフェイスブックグループに投稿した作品を整理する。 ある種日記のような性質があって、この日にどんな感じでどんな場所で書いていたかが思い出せる。 始めた当初よりは、作品を創ることに自由度が増してきた気がする。 継続は力なりとはよく言ったもので、たぶんこんな私でもこのことで少しは上手くなっているのではないかと思う。 しかしながら、よくこんな作品で出したな・・・と思うものをいくつかあって、闇に葬りたい気分にもなるのだが、戒めのために取っておく。 あと、写真は画像加工しているので実際の見え方と大きく違うものも多い。 今はスマートフォンでいとも簡単に色合いや風合いや背景を変えられて、雰囲気そのものが変わってしまう。 書を書だけで魅せられるようになりたいと思う一方で、その加工も自分がやる表現の範囲だろうかとも思う。 いやしかし、どんなヘタレ作品でも画像加工でAGEAGEになってしまうのは何だか少しの恐怖を感じる。 AGEAGEは変換の一発目に出てきたのでそのままにしておく。 財布を新調した。
これまでの物は、25の時にハワイで買った。 コンパクトで、長く持てる飽きの来ないデザインを主軸にアラモアナセンターを歩き回って探して、黒の二つ折りイヴサンローラン。 バッグの中でペットボトルの蓋が空いて紅茶の海に溺れたことや、京都のバスの中で降車でお金を払うタイミングでバッグに入れ損なって落とし後日京都の警察から郵送で届いたことや、無論日々のあれやこれや、この財布は乗り越えてきた。 しかしここ最近、小銭を入れるところのパチッと止めるボタンが緩くなってしまって、バッグの中で小銭が散らばってしまうということが度々起きていた。 不具合が起きなければ買えなかっただろうけれど、新しい財布、と思ったら途端に新しくしたくなる気持ちを押さえられなくなった。 空き時間に数回、伊勢丹や三越やマルイを物色。 バッグ同様、いつも手近にあるものだからピンと来るものを買いたい。 ぎゅん、と来たのは、柔らかいやぎ革の長財布だった。 求肥にも似た質感で、しっとりと手に落ちてくる。 色もデザインもいくつもあって悩んだ挙句、最も革が感じられて抱きしめたくなる、ということが決め手となった。 確かアコギを買ったときも、抱きしめたくなる、というのは決め手のひとつだった。 コートのポケットに入れて出られるようなコンパクトさは、長財布にはない。 これまでに比して邪魔にはなるだろうと思う。 しかし、全般的に長財布の方がかわいいものが多いことは前回の財布選びのときから思っていた。 ここで私が機能性よりもデザイン性を取ったことは、ここ最近さっぱりファッション関連の事柄に興味の持てないのだが、かつて少しはそれに興味があった私を呼び起こしてくれるきっかけになるだろうか。 この財布、物の割にはとても安いと思う。 私は革のものが結構好きで、前々から気になっていたブランドではあった。 ご存じだろうか、genten。 「竹内」と格闘すること最後にもうひと晩。
どんなに書いてもやっぱり新しさを持った「竹内」は生まれなかったけれど、今私が表札を書くにできることはやり尽くした気がする。 もうこれで兄に送ろう。 反故の山、やま、ヤマ。 書はお金のかからなくて一生できる良い趣味だ、といつかどこかで聞いたことがある。 場所も取らないし、音も出ないし、家の中でできるし、持ち運びもできるし、ひとりでやれる。 例えばバイクとかゴルフとかピアノなどに比べて。 確かに、音はあまりでないし、ひとりでやれる。 小さな紙と小さな筆と墨があれば、それはそれで一通りのことが事足りる。 もちろんそれだけでも無限の世界が広がっている。 しかし、大きな筆で書く大きな書にはそれなりの良さがある。 それでしかやれないことがある。 そうしたら、紙も筆も下敷きも墨汁も大きくてたくさん必要になる。 紙も墨も、一品を買って思うがままに使いまくっていたら例えばバイクよりもお金がかかることもあるだろうし、ピアノよりも場所を取る。 家ではなかなかびしゃっと墨をまき散らしてなんてできない。 制約は何だって生じるし、道具類やサイズを求めようとしたらキリはない。 どんな種類の芸事もそれぞれに、日常生活にそぐわない面があるだろう。 コントラバスの奏者が電車に乗っているのを見かけるとき、例えばそれがハーモニカ奏者だった方が格段に移動の悩みは少ないだろうなあと想像する。 でもハーモニカ奏者にはハーモニカ奏者の悩みがあるだろう。 電子ピアノやエレキギターのように音量が調節できないとか。 それでも自分はそれがいいと思って、どうにかこうにかやろうと日常生活にそれを食い込ませる。 というよりそれがその人の日常生活の一部なのだから仕方ない。 反故の山とゴミ袋の重さを感ずるたびに、自分がやっていることの物質的な無駄さを思う。 野菜や肉を喰らうことと同じようなことだけれど。 その面において言うと、音楽は作品が電子的に保存されるから、あるいは練習も音となって消えてしまうから、物質的無駄は少なそうで羨ましい。 まあそんなことを羨んで、だからと言って物質的無駄を減らすために私が今から書のように音楽をやるかと言われたらそうはしないのだろうけれど。 先日、井上有一の「書の解放」を読了、「天作会」という井上有一を敬愛する人たちのグループ展にも行ってきた。 帰ってきて、井上有一の本の一節を借りて書にする。 私が思っていた「字はみんなのもの」ということが書かれている。 書家が書を独占しているつもりでいること程、滑稽なことはない。 書は万人の芸術である。 日常使用している文字によって誰でも芸術家たり得るに於て、書は芸術の中でも特に勝れたものである。それは丁度原始人における土器のようなものであるのだ。 書程、生活の中に生かされ得る極めて簡素な、端的な、しかも深い芸術は、世界に類があるまい。 書は、万人のものである。書を、解放せよ。 書家よ、その看板を下せ。誰人もみな書家であらねばならぬ。 書家よ、裸(はだか)になれ。思い切って一切を棄てて、一個の人間として出直せ。私は、何よりも先ず、私自身に向って、こう叫ぶのである。 こっそりとブログのタイトルを変えてみた。
私が大学生の頃に初めてブログを作ったときのタイトルと同じ「勿忘草」。 大学生のゼミでサブカルチャーとしての「ブログ」がテーマで、自分もやってみないことには、と思ってそのときは半ば嫌々初めて公開日記を始めた。 あのとき、なぜ「勿忘草」というタイトルにしたのかすっかり覚えていないのだが、我ながらなかなか広く遍くな意味を持ちながらの気の利いたタイトルだなと思い再度戻してみることにした。 サブタイトルとして~ただの日々の雑記~と添える。 ついでに一筆書いて、トップの画像も変える。 書を写真に撮るときに既に乾いて紙に皺が寄ってしまっていたので、その自己撮影感を紛らすためにちょうどドライフラワーになっていたスターチスを添えて。 自分で作っているHPなのでやりたい放題できるから、また変えたくなったら変えようと思う。 兄に新居の表札の字を書いてくれと依頼を受ける。 「竹内」がどんなに様になりづらい字であるかは私だって「竹内」だからとうの昔から知っている。 「藤木」とか「晴山」とかそんな様になるカッコ良い苗字なら良かった。 だいたい、字形に差があるか、画数に差がないと格好も付けづらければ遊びも持たせづらい、というのは私のただの技術不足とも言えるのかもしれないが。 「竹内」は、私の中では「田中」と同じくらい様にならない。 全国の「田中」を敵に回したいわけではない、むしろ逆だ。 でも「田中」の方が「中」の最終画の縦画がびしっと決まればなかなか良くなるので「竹内」の方が様にならないと思う。 幼い頃から名前そのものと名前の字面に興味があった私は、苗字のみならず名前もまた無難なものだから、他の名前への憧れが強かった。 後に考えてみると、私は長らく、言ってみればつい最近まで、自分の名前と己が酷く乖離していたように思う。 しかも表札となると、石に刻印するわけなので、 ・濃い墨で、滲みはダメ ・あまり細くない線で ・連綿線はあまり出さないで ・かすれもあまり出さないで ・誰もがひと目で読めるように という制約がどうしても付きまとう。 本当に難しい。 今回、アルファベットの「TAKEUCHI」も書いてくれと言われているが、アルファベットの方が数段書きやすいほどだ。 それなりに苦心して幾つか書いて、画像で兄に送ると、「もう何パターンか見たい」とのこと。 兄が頑固で案外こだわり者であることは知っている。 私は自分の腕の無さと、「竹内」って何なんだとやや気を重くした。 しかし、表札だ。 家の看板だ。 そんなに大きくないにしても、そこに居住する家族だけでなく、お客さんや郵便屋さんも見る。 雨の日も風の日も雪の日も日照りの日も、いつもそこにあるものだ。 いつも自然に、威厳を持って、そこにあらねばならない。 もう少し書いてみるとするか。 6月初め、明け方、雷鳴轟く。
梅雨の始まりを太鼓が告げているようだった。 雷鳴とともに眠る。 起きると蒸し暑い。 顔がぺたりとしたものに覆われている。 でもエアコンは身体の芯が冷えるから、あまりつけたくはない。 夜、雨は止んで、肉が食べたいとひとりラーメン屋に入る。 肉が食べたくても、そんなにたくさん食べたいわけではないので、ラーメン屋くらいでちょうど良い。 初めて入るラーメン屋さんでは、たいてい一番オーソドックスなものを選ぶけれど、値段の高い「特製鶏そば つけめん」にした。 鶏肉と味玉と海苔とメンマ、ネギ、鶏団子が麺の上に乗っかっている。 時折ラーメン屋には行くけれど、味が濃いと思うことがほとんどで、ここのラーメンもやっまり濃いめだった。 松本隆さんの歌詞は本当に巧い。 「赤いスイートピー」「Sweet Memories」「硝子の少年」「君は天然色」「カナリア諸島にて」「永遠のもっと果てまでも」「惑星になりたい」などなど。 ボキャブラリーもその組み合わせや発想も、そして物語の作り方も。 曲の方も良いから歌詞はするりと抜けて行ってしまうこともあるけれど、松本隆さんの詞は舌を巻くものばかりだ。 巧みな言い回しを用いながら、よくロック歌手がいうところの「歌詞なんてあんまり意味はない」みたいなことがなくて、詩としての骨格がとても強固である。 表面上はさらりとしてラブソングの顔をしているものも多いのだが、ロックの精神を核に持っているのだと私が確信したくなるような。 マシンガンで撃つのではなく、世界観で迫ってくる。 メロディーとともに歌詞が下りてきた、お風呂に入っていたらフレーズごとぬるっと思いついた、なんてふうには思えない。 村上春樹が何かの本で、炭鉱を掘るような地道さで光るものを掘り当てている、というようなことを言っていたような気がするけれど、彼もそのような感じで書いているのではないだろうかと思う。 もともとはっぴーえんどのドラマーだけれど、作詞家に転向して2000曲以上の作詞をしている。 だから全然一部しか知らないのだけれど。 しかし、松田聖子の「永遠のもっと果てまで」の中に「帆を上げて旅立とう」という歌詞があるのだが、私は今の今まで「頬上げて旅立とう」だと思っていた。 「頬上げて」だなんて「前向いて」とか「顔上げて」などとするより俄然良いなあと思っていた。 聞き間違いは、いろんな曲でこれまでにもたくさんしてきた気がする。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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