人や店や広告などでごった返した繁華街が一息つく感じの道の角にそのラーメン屋はあった。
存在は知っていたけれど、この場所で新規のラーメンが食べたくなるというタイミングは年に二度ほどではないだろうか。 そのタイミングが巡ってきて、ラーメン屋の横開きのガラス扉をがらがらと開けた。 味噌ラーメンを主としているけれど、醤油ラーメンも券売機の下の方にひっそりとあった。 チャーシュー乗せ、ネギ乗せ、味玉乗せ、ピリ辛、つけめん、なども選べる。 こういうとき私はピリ辛を選んでしまいがちなのだけれど、ピリ辛は辛味の感覚が先に立ってしまってその店のラーメンの味が置いてけぼりになってしまうことがあるのでここはグッと我慢する。 最近肉不足だったので、普通の味噌ラーメンにチャーシューを乗せて、チャーシュー麺にした。 1,100円、豪華である。 鉢巻きなのか汗止めなのか、タオルを頭に巻いた店主はきびきびと私のラーメンを作り始めた。 厨房は席から高い位置にあってほとんど見えなかったけれど、フライパンで煽られたもやしが空中で顔をのぞかせた。 フランス人も日本のラーメンを絶賛している、というようなことを何度が耳にしたことがあるが、ラーメンとは“ラーメン道”ができるほどの奥深い料理なのだと思う。 スープだけでも、出汁や調味料の種類と量で無限の可能性を秘めている。 その上に麺やら具材やら盛り付けやら、もしかするとワインのグラスのように器の形による香りの立ち方まで計算されているなんてこともあるのかもしれない。 扱えるパラメータの数はかなり多いけれど、どこかしらに焦点を絞らないと全体の味がとっ散らかってしまうだろう。 突き詰めても突き詰めても、良くなる階段に終わりがない。 「味噌チャーシューです」と店主は両手でラーメンを差し出した。 黒いすり鉢型の器に入ったラーメンは、細切りの葱がこんもりと山を成して、ちらりと赤い油が光り、その山壁にチャーシューが重く4枚のしかかっていた。 スープは白濁よりも混濁した乳白黄土色とでもいうような色合い。 チャーシューを山から下ろし、葱の山を軽く崩すと、先ほど宙を舞っていたもやしが現れた。 スープは野菜や麺に絡みついてくる濃厚さ、ところどころ背脂らしき小さな丸い脂が浮いている。 れんげでスープを飲むことなく本体を食べる。 12月を前に東京は冷え冷えとしていて、ダウンコードを着たまま熱々濃厚な味噌ラーメンを食べる。 熱々すぎて麺を啜れないので、ふうふうと冷ましながら箸で太太とした麺を手繰り寄せるにして食べる。 コンタクトレンズを外して来ていて眼鏡だったので、曇る、曇る。 分厚いチャーシューはがっしりしているように見えて、実は豆腐ほどに柔らかかった。 旨い。 食べ進めるうちに、私の身体の塩分飽和量に達したのか、味が濃く感じられてきた。 そして少し量が多い。 でもこのラーメンのコンセプトは、お上品な味わいにすることでもお上品な量にすることでもないだろう。 だからこれで良いのだ。 一杯の旨いラーメンにより、色々な思いを馳せる。 ダウンコートを着ながら眼鏡を曇らせて熱々のラーメンを食べている何とも絵的な光景を俳句にでもならないかとも考えていたのだが、前の見えない眼鏡では考えはまとまらずに濁ったスープに溶けていった。
0 コメント
句会があった。
隔月に一度、かれこれ2年ほど参加しているであろうか。 今は日常的に作ることもなくなってしまったのだが、一日一句つくると良い筋トレになるだろうなあと思う。 今回の句作。 上三つを投句した。 缶蹴りで悪戯仕込む天高し 笑い皺桁数増える十一月 急くときに枯れ葉やはらりかすめたり 膝が触れ魂胆の色濁り酒 林檎パキリ紅潮する少女A 引越しの秋晴れの日の乾きたる 秋の陽を内ポケットに詰めた夕 (俳句置き場⇒「恵美子は行く」) 最近切実なものが作れないので、「桁数」とか「缶蹴り」とか、メモしてある面白そうな言葉から発想して作ることも多い。 ここ数か月句風が似通っている気がする。 同じような句を作ることが悪いわけでもないのに、何だかダメな気がしてしまう。 それは書においてもそうで、極めるよりは簡単な新しさを求めてしまう嫌いがある。 おそらく、自分に飽きられてしまうことは怖いのだと思う。 ちなみに、「林檎パキリ紅潮する少女A」というのは、破調だし何が何やらという感じだと思うが、自分ではこの不思議さが気に入っている。 私自身も何のイメージを思って作ったのかが分からない。 秋の句会は、きんと冷えた秋晴れだった。 その夜、あれなんだか風邪をひいたかしらと珍しく思って、うーむと考えたのち夜な夜なお味噌汁を作ってたくさん飲んでたくさん寝た。 一味唐辛子を振ったえのきのお味噌汁はカアッと温まってあぁーとなって、身体の細胞が活性化して良くなりそうな気がした。 ついでにビタミンCもいつもの3倍を飲む。 翌朝、身体がすかっとした感じがあって、見事に全快。 よく寝たことが最も効いたのではないかと思うが、風邪のときは「自作のお味噌汁に一味唐辛子を入れて飲む」ということが私の中のジンクスにでもなりそうである。 冬だから、久しぶりにごった煮を作る。
必殺、ごった煮。 必殺されるのは、私。 定番の白菜と豚バラとえのきのシンプルなごった煮。 白菜4分の1に、大きめのえのき一株を成功の素となった。 えのきは多い方が美味しいみたいだ。 いつもは生姜を入れるけれど、冷蔵庫のポケットに生姜が干からびて何かの死骸か化石のようになっていたので思いとどまる。 いつもは唐辛子も入れるけれど、一味唐辛子の粉末を買ったので後追いでそれをかけることにする。 白菜がとにかくぐだぐだになるまで煮る。 塩を酒を適量入れて、あとは、いつからあるのか冷凍庫の中の鰹粉をざざざっと。 だいたい煮えたら軽く味見をして醤油を回し入れ、塩も少し追加。 白菜とえのきと豚バラ、それぞれの良さを持ち寄った出汁はえも言われぬ滋味深い味わいがある。 匂いは実家のお雑煮のようだ。 実家のお雑煮にえのきは入っておらず、大抵鶏肉だったように思うが、魚のだし粉に白菜と豚か鶏の肉が混じると、お雑煮を思い出すように私の脳には記憶されているらしい。 とろみまでが似ている。 お雑煮の餅が付けているとろみだと思っていたがそうではないのか。 ぐだぐだに煮上がったごった煮に一味唐辛子を5振りほどして食する。 久しぶりだ。 私の味。 本当に、大好き。 タイミングよく、「100分で名著」という番組で伊集院さんが、「今日俺、すげー美味いものが食いたいわけではなくて、美味いかどうかわからないようなどうでも良いものが食べたいときもある」という話をしていた。 「すげー美味いもの」というのは、高級な牛ステーキかもしれないし、有名ラーメンかもしれないし、ジューシー唐揚げ定食かもしれないし、鮮度の良い刺身なのかもしれない。 それらは要するに、うま味成分に満ちていて、糖質と脂質がたっぷりで、直に脳天を射抜いて興奮するような刺激物ということだろう。 以前、「食べたいものは毎日変わる」と言った伊集院さんの言葉で私は救われたような気分になったことがある。 好きな食べ物と言われてもなかなか決めることができなかったからだ。 あと、美味しいものを食べないと人生を損しているというような脅しが蔓延っているように思っていて、私自身も美味しい物だけを体に入れたい、というふうに最近思ってきた気がするけれど、実際には全然そんなことはなくて、不味くはないただのカロリー摂取のような食事をすることも多い。 その度に私は薄い罪悪感に似た感情を抱いていたのだが、伊集院さんの今日の話でまた一つねじれが解けそうな気がしている。 美味しいものは正義、と確かに思う反面、美味しいにそこまでの労力を割けないことも多々ある。 今回の場合、その状況下において、私は心底残念だと思っていなかったのであるが、残念あるいは損しているだと思うように脳の奥で思考を書き換えてしまっていた、そんなところだ。 大切なことは、得体の知れない脅しに屈しない、ということか。 思考、思念というのは実にややこしい。 圧倒的に刺激度の低いものの方がしっくりくることもある。 しかし私は自分で作るごった煮が大好きだけれど、あえて人に勧めようとは思わない。 このぐだぐだな感じは、他人様に食べてもらうには一抹の勇気を要する。 それは私という人間性までもが、まさにごった煮として煮込まれているように思うからなのかもしれない。 いや、本当は食べてもらいたい。 食べてもらって、すごく心の底から共感してもらいたい。 ごった煮は作るときによって結構具材や味を変えるのだけれど、“私らしさ”にはおそらく一貫性があるような気がするので、そこを見つけてほめてもらいたい。 そうしてもらえるのなら、ぜひ、食べてほしい。 ということがとても難しいということが分かっているから、あまりしないのかもしれない。 実際のところ、二度や三度ほど、私は私のごった煮を人に食べさせたことがある。 「何かよく分からないけれど旨い」と言ってもらえたこともあって、私にはその人がまあまあ本気で言っているであろうと思えたことは、良き思い出である。 「シン・ゴジラ」がテレビ放送していたので録画して観た。 最後15分で眠たくなって寝てしまったが、とっても面白かった。 あんな生物が上陸してくると言うのに政府も人々も怯えなさすぎだと思うのだが、それも含め人間模様の描写があまりないところが良い。 あの手の映画は苦手だと思っていたが、東京住まいとしてはやはり見慣れた東京が破壊されていく姿には思うところがあるものだ。 ある生徒さんが、「分かっていてもできない」ということを体感してほしい、という理由などなどで、一緒にゴルフの打ちっぱなしに行く。
私は、ゴルフと言えばパターゴルフの経験しかないので、全くもってド素人どころか初体験と言っても良い。 まあきっと難しいんだろうなあと思うくらいの軽々しい気持ちだけを携えて、都内のとある打ちっぱなし場に。 結果、ビックリするくらいに難しかった。 巷の話で、接待でゴルフに行くとか、ちょっと趣味で初めてみた、とかいう話をよく耳にするものだが、皆どんなにがんばって練習したのだろうと思うほどに難しかった。 あの人もあの子も、生来のゴルフセンスを持ち合わせているのだろうか、と思うほどに。 いや、たぶんそうではないのだろうけれども。 字を書くことや歌を歌うことや俳句を作ることや泳ぐことなどは、下手なりに義務教育と日常生活に組み込まれているので、出来る、という意味では誰だってそれなりには出来る。 しかしギターを弾いたりゴルフをしたりすることは、大人になってから初めてそれに触るという場合も多いだろうから、まったくのゼロから始める場合も多くあるだろう。 仕事で使うとかよんどころない理由でもない限り、初体験の圧倒的な不甲斐なさを乗り越えられる人というのは、実際のところ何事においてもおそらくそんなに多くはないと思う。 しかしながら、その圧倒的な不甲斐なさを乗り越えなければ、それをプレーすることさえままならなくて楽しむなんて領域には到底辿り着けない。 ある程度の技術獲得までの基礎練習に耐えるだけのそれへの敬意と、地道な努力を重ねた者だけがプレーの権利を得ることができるし、その楽しみの甘さを噛みしめることができる。 プレーにおける前提条件が、字を書くこと歌うこと俳句を吟じることなどと違って、ギターやゴルフは参入障壁がとても高いのだ。 と思うのだが、ゴルフは多くの人が気軽にやっているように私には聞こえているし、挫折したという経験談をあまり耳にしたことがないのはなぜなのだろうか。 無論、基礎練習でゴルフボールが飛ぶようになったところで話が終わりなわけでもなく、カップにめがけていかなければならないし、最終的にカップにインさせなければならない。 道のりが遠すぎる。 「分かっていてもできない」ということもしかと体験させていただいた。 左ひじをピンと伸ばしたまま、胸を寄せて脇を締めて、あまり振り上げずに、膝は軽く脱力して曲げて、左足が上がらないように。 分かっている、さっき聞いた。 これがなかなか出来ないのだ。 やっているつもりでもなっていない。 60分2000円、打ち放題、打ちっぱなし。 空振ったり、かすったり、だふったり。 隣りも隣りもまた隣りも皆、球をカキっと射抜いて放物線を描いた球を飛ばしている。 羨ましい。 今のはここがダメだった、と分析をしながら心を落ち着けて振ってみるけれど全然ダメで。 コーチをしてくれていた生徒さんにやや申し訳ない気分も抱きながら。 結局、鳴かず飛ばずの球はいくつかあったくらいで60分が経った。 私はゴルフが好きになれるのか、私はラウンドしたいのか、そんなことさえも分からないくらいゴルフに対して何かものを思うところまでも至れなかったもやもやだけが残った。 「そのもやもやが良いんですよ、もやもや最高です。もやもやしているうちにまたやりましょうよ」と言ってくださった。 またやりたいか、と問われても本当に何と答えていいのやら、やりたくないわけでは毛頭なくて、ならば一度くらい球を射抜いて放物線を描いてみたい。 けれどそれに対する鮮やかなイメージさえも持てないくらい、ゴルフが遠い。 私の気持ちのような鈍い筋肉痛が残り香のように私の身体に沈殿している。 弾いたり泳いだり書いたりすることは自分からそれに向かっていったから、それ自体が良いものであると本当にそう思ったり、やや誇張気味に美化してきた節があるのかもしれない。 今回は自発的でなかった分美化しなくても良いから、フラットに見ていると言っても良いだろう。 昨日から今日にかけて、ゴルフゴルフと、人生で初めてゴルフゴルフと口にしている。 ゴルフゴルフ。 ゴルフ。 飽きたらずまだ机を移動したり、植物をトレイに乗せてみたり、部屋いじりが止まらない。
広くなったようには感じているが、やはり座椅子がなくなったことでテレビをどこでどうやって見たら良いのか分からなくなってしまった。 分厚いシートクッションも買ったけれど、やや硬すぎるのと背もたれがないのとでくつろげない。 でも、布団を出していないときに眠たくなったらどこでも寝る。 床は痛いのだけれど寝る。 頸も腰もやられている気がするけれど寝る。 冷える日が増えてきたので電気ひざ掛けを引っ張り出した。 おひとりさま用の簡易こたつと言ったところだろうか。 とても暖かくて暖房要らず。 本物のこたつなら2週間、ホットカーペットなら1週間、電気ひざ掛けなら2,3日、私はたぶん床で連夜を明かせる。 身体は痛くなるわ干からびるわ、心底そうしたくない気持ちも満載にしながら、そうしてしまう甘美で些細な背徳感が良い。 しかしよく考えてみれば、例えばそれで体の不調を来して仕事などで誰かに迷惑をかけることがないのであれば、どこに対しての背徳感なのだかそもそもよく分からない。 そうしたくて、そうしています。と堂々と自分に納得して言ったら良いのだ。 いやでも、身体を痛めたいわけでも干からびたいわけでもない。 書のためでもあるが、冬場にこたつもホットカーペットも置かないのは床で寝ないためということもある。 電気ひざ掛けで夜を明かしてしまうかもしれない2,3日は今のところ目を瞑っている。 そう言えばとても久しぶりに服と靴を買った。 ネットショッピングと昔よく言っていた問屋のような雑多な洋服屋さんで。 そんなに高い服は買わないので合計も大した金額ではないが、複数着を新調した。 そしてまた複数着を捨てようと思ったが、2つくらいしか捨てられなかったのでクッションを一つ捨てることにした。 部屋の容量を物に占拠されるのがどうにも許せないのはどうしたものか。 買った服の中に、大きな花の刺繍が胴回りと袖にあるセーターがある。 毎日服を選ぶのは億劫だから、できるだけシンプルで着回しができるような服を買おうと思っていたのだが、ゴテゴテした刺繍やら柄が大好きなのだ。 襟元のビーズの刺繍が大のお気に入りだった服を、服としてはもう着ないから捨てようと思ったのだがビーズの部分だけがどうしても捨てられず、襟元のそこだけ切り取って今も持っていたりする。 色とりどりの宝石箱のようなものだったり、オリエンタルやエスニックな風合いの細かな作業が施されたものは何だか心を鷲掴みにされるのはずっと変わっていない。 デレクが死んだ。
デレクとはメレディスの夫。 メレディスとは、アメリカのドラマ「グレイズ・アナトミー」の主人公。 シーズン11までamazonプライムで観られる。 最新版はシーズン12だけれど、シーズン11はかなり完結感のある終わり方だったので、今すぐに課金してシーズン12を観ようとは思っていない。 何せ1シーズン40分×24話もある。 大変だ。 このドラマは、アメリカの一流病院の外科医の話。 かれこれ10年以上も続いており、私も10年前ほどから追っていた。 何シーズンだったか、数年前このドラマが最も熱かったときの最終話では、「全米の街から人が消えた」と言わしめたとか。 私も、会社員だった頃ツタヤが会社の程近くにあって、当時の最新版が出るや否や当日レンタルで2枚借りてツタヤの小さなバッグをルンルン振って帰宅して、部屋の電気を落として観るのが本当に楽しみだった。 寝不足なんて問題ではなく、1シーズンが終わるまで毎日ルンルンでDVDを借りていったものだ。 シーズン1で研修医だったメレディスたちも、すでにそれぞれの外科の専門分野を牽引するような存在に成長している。 そんな彼女たちの成長物語や、多くの珍しい症例や最新医療やその問題が出てくる反面、院内では人をとっかえひっかえ皆が休憩室で乱交と言っていいほど乱交している。 恋愛して浮気して、結婚して離婚して、略奪して逃避行して、子どもが産まれ養子をもらい・・・生死を分けるような過酷な仕事と恋愛及び家族、それにおける各々の人生、それがこのドラマのネタの尽きないところである。 これまでもとてもたくさんの主要な登場人物が様々な理由で死んできた、非常事態の尽きないドラマだけれど、いくらなんでもデレクを死なせるとは驚いた。 交通事故による脳死、妻メレディスが延命装置を外させるという最期。 多くの医師たちが乗った飛行機が墜落事故を起こしたときも、そんなことってまあなくはないけど・・・と思ったりもした。 そもそも外科の医療現場の話だから生死の話はあっても良いのだが、当人たちに非常事態が起き過ぎなのである。 これだけ長期間のドラマだと役者本人たちの事情や契約事情などでの降板で、物語が構成されていくこともあるだろうけれど。 さすがに多くの意味で食傷気味、と思いながらも観てしまう、非常にテンポが良いドラマである。 それにまあ、私はデレクが死ぬのを止められない涙とともに観ていた。 このドラマを観ていると、随分と日本人的感覚と違いがあることを毎回思わされる。 私は外国で生活したことはないのでこのドラマがアメリカ文化と鵜呑みにするのは良くないと思うが、端々に文化や暮らしや思想の違いが見てとれる。 「I love you」という言葉をパートナーに発することが特別な意味があることは、他のアメリカ映画などを観ていてもそうだからそうなのだろう。 言い手も受け手も共通の認識がある。 また何か同意を求めるとき、相手がYesとかOKとかを言うことも、たとえ言わされたに近い形でも「私が同意しました」という受け手側の責任と意志が日本の場合よりもかなり強固なように思う。 その他にも、やはり「I」が大文字名だけに、「私」を主体としていて、あるいは「私」を主体としていることを自覚していると言った方が良いか、自分の言いたいことをはっきりと言う。 日本人というのは、比較的「私の人生」などといった言葉を、こそばゆいように感じたり、言いたくても言えないような風潮があるのではないだろうか。 「大切なのは私の人生だ」、ということは誰にとっても、どこの国の人にとってもYesであろうに、それを「まあまあ、そんな熱い話しなくても」といなされてしまうことも多いだろう。 医師たちが手術中に身の上話、パートナー、同棲、結婚、セックス、家族、子ども、キャリア、過去、トラウマなどなど、をべらべらべらべらとしているのは、実際の現場がどうなのかは分からないが、「誰かに話を聞いてもらう」「大切な話をきちんと話す」ということは相手にとっての誠意であり、信頼の証のようだ。 それは相手がきちんと「Yes or No」を言えるということを信頼しているということもあるのかもしれない。 受け手の方は「私には何にも話してくれない」と悲しむどころか激怒したりもする。 アメリカを賛美するわけではないが、「私の人生」というテーマこそ話したいのは私だけではないのではないだろうか。 大それたことでない日常を含む大それた「私の人生」だ。 まあ私は大学でライフコース論なるものをやっていたくらいだから、自分のそれも他人のそれも興味ありありなのだけれど。 個人の人生に対する考えを痛快に聞けるのは、このドラマの大いなる見どころのひとつだと思う。 晴れの日が続いている。 天気の話はみんなの話題。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|