「秋の長雨」とは言葉としてはよく言うが、実際には秋は「秋晴れ」であることの印象の方が強い。
こうも雨雨続くと嫌になってしまう、本当に。 仕事からの帰り道、あまりにお腹が空いていたのでとんかつ屋さんに入った。 牛ステーキは食べたいと思う頻度が低いけれど、豚ステーキやとんかつは結構食べたいと思うことがある。 ロースとひれと迷ったが、お腹の空き具合に応じてロースを。 程なくして揚げたてのとんかつが5,6切れになって出てきた。 そして、真っ白いごはん。 最近もっぱら自宅では玄米なのでとても久しぶりに茶碗に盛られた白米を食べた気がした。 コンビニのおにぎりや寿司でなら多少食べているが。 日本昔話の象徴である茶碗に山盛りのほかほかつやつやの白飯。 とんかつを食べ食べ、白飯をぱくぱく。 旨い。 私は白飯の旨さを思い出した。 そうだ、玄米よりも白飯の方が、糖質を感じる味覚センサーへの距離が近いから脳の快感物質が出るスピード感は早く且つ強烈であろう。 玄米ばかり食べていた私の舌や脳は、このような鮮烈さを望んでいた。 以前友人が「米は娯楽」と言っていたことを思い出した。 その友人はあまり米を食べないらしく、玄米と白米の違いについて言っていたわけではない。 米、おそらく白米は、時々味わうエンターテイメントとも言える美味しさ、つまり楽しさや快感を含有しているという意味だろう。 わざわざ手間をかけて玄米から栄養素をはぎ取って精米するのが主流になったのも頷ける。 玄米は炊くのも面倒であるし、昔々の価値観ではくすんだ色の玄米よりも精白された白米の方が見た目にもその技術にも高揚したであろうし、そして何より白米の方が人間の快感を呼び起こすに近い、すなわち売れたということだろう。 そんなことを考えながらとんかつを食べ終えた。 ロースではなくひれにすれば良かった。 とにかくお腹がいっぱいで、私はあまり満幅の状態が好きではなくて。 次の日の午後までお腹が減らなかった。 ちなみに、家で常食として買うのはまた玄米を買うと思う。 久しぶりに迷走神経が迷走した。 本当にこれは辛い。 傾向と対策は何となくは分かっているから、謙虚に守らなくては。
0 コメント
やっと晴れた。
待望の青空。 曇天を好天と言ふ夏のあり という句を前に作って、その通りだと思っているけれど、これだけ雨に降られると青空が俄然恋しくもなる。 青空、やっぱり、好き。 台風の影響で延期になったレッスンがあって夕方まで時間があるので、シーツを洗ったり掃除をしたり、植物の世話をしたり。 段ボールを片づけ、瓶や缶を捨て。 また追加で少しの服と少しの靴もゴミに出す。 捨て癖づいている。 強風のおかげで、ベランダに出している木瓜が生気を取り戻していた。 灼熱の直射日光に弱いのかもしれない、夏の間にもう死んでしまったのだろうかと思うほどに枯れていた感じがしたのだけれど、今日見てみると新芽を吹いている。 古く焦げ付いたような葉っぱは強風にさらわれ、瑞々しく艶々した葉っぱだけが、赤ちゃんの可愛さで枝にくっついている。 私は寿司が好きではない。 好きではないだけで、特に問題なく食べられるけれど。 刺身もたくさんはいらないけれど、苦手としているのは酢飯の方だ。 お酢が好きではないので、マヨネーズも好まない。 けれど、ポン酢はあった方が良いときもある。 私は寿司が好きではない、というある種のレッテルを自分自身で強固に貼り付けて、それが自身と癒着しているだけなのかもしれないと、最近はそのレッテルを剥がしにごくたまに誘われればごくたまに寿司を食べることがある。 以前は、マヨネーズも大っ嫌いという体を取っていたというか自分でもそう思いこみ過ぎていたので、たこ焼きにもブロッコリーにもマヨネーズをつけることはなかった。 サンドイッチも食べなかった。 が、今はマヨネーズもいけるのかもしれない、と思っている。 もうすでに、マヨネーズ入りのサンドイッチはよく食べる。 私の「酢嫌い」は、言わばアイデンティティの一部を形成あるいは象徴してきたといっても過言ではない。 「お酢がダメで。お寿司もマヨネーズも食べません」ということはちょっと特別な感じがしていたのだと思う。 特別なものがこれといってない自分について、「私は個性的な人間です」という自己アピールに他ならない。 虚栄だ。 そんな恥ずかしくちっぽけすぎる虚栄に、その上無自覚に支配されていたのだ。 歪曲した個性のアピールによって、誰も得をしないどころか迷惑すらかけ、自分だって美味しいものを取り逃がすという損をしていたかもしれない。 と思ってつい先日も寿司を食べに行ったわけだが、うーむ、やっぱりそんなに好きではない。 友人があまりにも美味しそうに食べるので、言えなかったけれど。 あと、一緒にいる人がそんなに美味しそうに食べるなら、私がそれをそこまで好まなくてもまた行きたいとさえ思うけれど。 まあでも、確かに美味しさは分かる。 美味しいものは糖と脂肪でできている、とはよく言ったもので、人間の快感物質を出す食べ物として非常に完成度の高いものだろう。 合わせて日本酒をきゅっと、なんてのも良い。 ただ、そのお店でねぎとろ軍艦がおそらく酢飯ではなく温かい普通のご飯だったように思うが、私はそれを食べたとき一番に興奮していた。 ねぎとろ海苔ごはん、酢飯である必要は私には感じられなかった。 あとやっぱり刺身は量が食べられない。 割と早い段階で、生の魚感が私の中で飽和してしまうのである。 こんなことを書いていたら、いや、こんなことを書いていながら、また寿司が食べたくなってきた。 ラーメンが食べたいときもある、パンケーキが食べたいときもある、リンゴが食べたいときもある、そんな私の欲求の当たり前の変化の中に、寿司が食べたいときもある、あるいは寿司が食べたい、そんなふうに明言できるようになることは、何だか涙が出そうなことである。 何らかのマインドブロックをぶち壊したことにもなりそうである。 マインドブロックとは、リベラルのように広まり過ぎてちんけな意味に成り下がりつつあるような気もするが、各人がマインドブロックを外していくことは大切なことだと思っている。 未だ模様替えと片づけ欲が衰えず、衣装ケースの服などを再度捨てたり移動させたりして丸一個分の衣装ケースを空けた。
最近一人暮らしを始めた例の年下の彼女に、要るかと聞いたが要らないと言われたので粗大ごみを予約。 10月31日までいっぱいとのこと、東京の粗大ごみは混雑している。 飽きたらず食器の片づけにまで手を伸ばす。 食器も割と好きで持っているのだが、使わないもの、使用頻度の低いものは捨てることにする。 最近一人暮らしを始めた例の年下の彼女に、要るかと聞こうかと思ったけれどおせっかいはこのあたりに留めておこうと聞き留まる。 もしかしたらこういうものに限って欲しかったと言われるのかもしれない。 私は何の衝動でこんなことばかりしているのだろうなあと考える。 時々人に、「そんな考え過ぎなくてもいいじゃん」と言われることがある。 考えなくする、ってどうやってやるのか。 あと、私は考えたくて考えている。 考えて何かしらの納得に至れれば安心もする。 というか、それは極上の安心であるとさえ思っている。 「感じるな考えろ」と気志團と歌っているが、感じることは”感じてしまう”のだから失われることはないだろう。 ならばそれは置いておけばよい、そんなふうに思っている。 しかしながら、考えることで余計な、あるいは勘違いの妄想や組み立てをしてしまって自縄自縛的な感じになってしまうことも確かにあると思う。 髪を短く切ってパーマをかけようと私としては異例の間隔で美容院に行く。 いつものように新規のところへ。 珍しく、「こんな髪型にしたいと思って」とスマートフォンで画像を見せた。 ぼさぼさの髪を整えながら美容師さんは「こんな感じで色も重たくしたら似合うんじゃないかと思うんですよ」と提案してきた。 最近の美容室は、タクシーと一緒で、客側の要望をかなり丁寧に扱うところが多いように思う。 「この道を通って、あそこを曲がる感じでいいですか?」とタクシーで聞かれるとき、「あなたは道のプロのはずなんだからあなたの思う最適で行ってください」と言ったり言わなかったりする。 私は道のことはわからないから全面的にお任せしたいと思っているのに、客側にそれを言わせることで運転手側が最適化できなかったときのトラブル回避をしているように聞こえる、ひよっているように思える。 もちろん、道がはっきり分かっていて、要望があればするけれど。 これと全く同じ構図のことが美容院でもよくあると思う。 病院とかでもあるのかもしれない。 客や患者側の批判を恐れて、専門家側の「こうしましょう!」という提案が減っているのではないだろうか。 一方で、居酒屋などでは更なる売上のためにこれは減っていない。 「この日本酒にはあん肝が良いですよ」と昨日も勧められた。 その提案でそのままそれを頂くことだって多い。 今回の美容師さんに私はとても好感を持った。 短くしてパーマをかけることは、そうしたかったような気もするけれど、別に特段の希望ではない。 「私に任せてください」、そんな美容師さんの自信と気分の盛り上がりを見た気がした。 もちろん「どうしますか?」と聞かれ最終判断は「お任せします。できるだけ手入れのいらない感じで」と私がしたけれど。 髪は黒くなって地毛のうねりを活かすようなスタイルに仕上がった。 私が髪を茶色に染めるのは、無難な色だからだ。 真っ黒や金髪というきつい色が私は似合わないと思っているからだ。 服も真っ黒や真っ白、黒や白ならいけるけれど、を着られない。 けれど今回、比較的真っ黒っぽい色で、私にはやや見慣れない色となった。 私の服で多い紺やベージュやカーキなど曇った色のものが合わなくなるのかもしれない。 その時に着ていた曇ったオレンジ色のカーディガンは合っていなかった。 とてもとても久しぶりに服でも物色しに行こうか。 こんなふうな新しい動きは、人の強い押しが無かったらなかったと思う。 その美容師さんの勇気ある行動に敬意を表したい。 それにしても、ざんざかざんざか、雨、降り過ぎじゃなかろうか。 いくらなんでも、寒すぎじゃなかろうか。 そして、「ドグラ・マグラ」を読了。 今さら、ゲームアプリ「ツムツム」に大はまり。 買った机が届いた。
私は家具の組み立てなど三次元系の問題がおしなべて苦手なので、家具の組み立てサービスなるものを一緒に頼んでみた。 しかし、このサービスが混雑していて1週間ほど先でないと予約が取れない、しかも前日にならないと訪問時間がお知らせができない、というとっても不便なものだった。 前日にならないと時間が分からないのではその日丸一日を開けておかねばならないではないか。 そんなものは土台無理な話である。 ややムッとして、ではそれ解除してください、と伝え、自分で組み立てることにした。 こういったものをやるとき、どうしても苦手意識が先に立って混乱してしまう。 だからたいてい家具を買うときは完成品を買うのだけれど、大きめの机だからそうもいかない。 大きな段ボールの梱包を解き、たくさんの発泡スチロールなどの緩衝材やビニールを外し、重い天板を取り上げる。 説明書はイケアのもののように直観的な絵だけではなく、きちんと手厚い文章の説明があってほっとする。 ねじやら六角レンチやらも取り出して、いざ。 天板も脚も重たかったけれど、ねじを8つ止めただけで易々と机は完成した。 机の脚を4つ取り付ければ良いというものではなく、昇降式なのでもっと煩雑なのかと思っていたけれど、昇降の仕組みはペダルをはめ込むだけという、ねじを止めるよりもあっさりした仕組みであった。 拍子抜けしたけれど、自分でできたことには満足感を覚えた。 人に頼ることが全然悪いとは思わないけれど、何にしても自分ひとりでできることを増やしておくことは単純に良いことだと思う。 机のついでにスツールを一脚、床に敷く分厚いシートクッションも二つ買った。 机に敷くランチョンマットも一枚買った。 床が基本の書道の作業を、半紙くらいの大きさであれば机でやることにしたいのもあり、机のサイズに合う下敷きも買った。 机とスツール以外はまだ届いていない。 引っ越し熱からの模様替え熱を収めるための一連のことなので、諸々の紙を整理して位置を変えてみたり、本棚の本を整理してみたり、ここ1週間ほどそんなことばかりしている。 まだそれぞれの定位置を決められず、いろんなものをあっちにやったりこっちにやったり。 シートクッションが届かないと何とも言えないだろう。 あと10日間ほど、やってくる生徒さんにはやや落ち着かない気分を味わわせてしまうかもしれない。 物を増やすことが好きではないので、座椅子と椅子と机2つを処分することにしたのだけれど、何とすべてに貰い手が付いた。 メルカリではない。 捨てるにもお金がかかるわけで、引き取ってもらえて使ってもらえるのであればありがたい。 残念なことに、色々と模様替えしているのは楽しいけれど、今のところ、やっぱり寝室とレッスン・作業場を別にできることろに住みたい願望は消えることはなさそうである。 次の更新は2年後、その時までに余裕があれば考えたいものである。 創立10周年の記念に会社の企業理念を書いてほしいというご依頼をいただき、ご依頼者のご自宅まで出向く。 不思議なご縁で、既にとっても知っていたし、けれども一度も顔を合わせたことがない。 そしてとっても偶然、ご依頼をくださった奥さまのご主人の会社は、私の前職と同業であり私はご主人も知っていた。 方向音痴の私にとって、高円寺や阿佐ヶ谷や中野あたりの住宅街というのは、袋小路に迷い込んだような恐ろしさがある。 住宅が密集しているところなど東京には無数にあるけれど、あのあたりの平坦な土地に低層階の家々が並び、それでいて建売の狭小住宅ばかりでない感じは独特である。 ご訪問前日に、地図でない文章の細やかなご案内をいただいたにも関わらず漏れなく迷い込んだ。 かなり早く着いてしまって困るな、という時間に駅にいたのだけれど結果3分ほど遅刻してしまった。 でも、グーグルマップの方向指示の機能のおかげで目的地にたどり着けないということはなくなってきた。 立派なお宅で、これまた既にとっても知っていたけれどもちろん顔を合わせたことがない2歳の男の子が元気に迎えてくれた。 同じ2歳の姪っ子と比べると、保育園に行っていないせいか、言葉が社会化されておらず生々しくてかわいい。 安心できる場所で元気いっぱい、心身健康とはこういうことだなと思わせられる。 奥さまは小説に出てくる会話文のような話し方をする人だった。 私がファンである奥さまのブログとはまた一風違った印象である。 少なくとも私の周りにはいない話し方だったし、それはおそらく個人的なものだと思う。 言葉の選択や話し方は、周りにいる人たちに影響を受けて似通ってしまうのは自然なことだけれど、それでも何かしらその人なりの言葉で話す人が私は好きだ。 言葉だけが表現でもコミュニケーションでもないけれども。 そして、実際に独自と感じられるほど独自の言葉の世界を持っている人というのは稀有である。 お仕事の打ち合わせはそこそこに、色んなお話をすることができた。 私がそろそろお暇すると言うと、男の子はちょっと落ち込んだふうに「淋しくなっちゃった」と言ってくれて、心がきゅっとした。 「ありがとう、また来るね」 帰り道は迷わず駅まで着いた。 かと思ったら、乗る電車を間違える。 やれやれ。 でも遅れることなく、友人と奇妙礼太郎さんのライブへ。 金髪パーマになった奇妙さんの髪は、本人があんなに邪魔そうにしているのにどうしてあぁなっているのかが不思議だ。 前回のビルボードよりも俄然奇妙さんらしさが出ているライブで、バックの演奏も良かった。 お腹空いたね、と「子どもがいるとなかなか食べられないもの」という友人の希望でタイ料理屋に行く。 たくさん話す。 二人とも奇しくも本質的に同じようなことで悩んでいて、二人とも解決の糸口をつかめなかったけれど、タイ料理の美味しさはやっぱり体に合うなと思った。 茹で秋刀魚、をいもうとに出されて初めて食べる。
何の処理もなく、秋刀魚をそのまま湯の中に入れて茹でるだけ。 におわない、油飛び散らない、焦げ付かない、簡単楽ちん。 今まで思いついたことも、何かで見たこともなくて、やや衝撃的だった。 これがまた、美味しい。 火を使った香ばしさは出ないから、焼き秋刀魚とは少し趣の違うものではあるけれど、その代わり秋刀魚の身がふっくらしっとりする。 私の家にはグリルもなければ、IHだし、そもそも家で秋刀魚を焼こうなんて思うこともない。 しかし、これならやっても良いかもしれない。 見た目は、ぐったりした湯上がり秋刀魚、といった様相で、焦げて色が変わらない分少し生々しいけれども。 いもうとも私も、料理はそんなに好きではない。 いもうとは子どもを養っている手前、私よりは断然に料理は作っているけれど。 他に、手羽先に塩胡椒をして、そのまま電子レンジの唐揚げモードに15分かけるだけで非常に簡単に美味しいフライドチキンができるのだという、時短レシピも力説された。 生憎、私の家にはそんな高度な電子レンジはなく、温めモードしかないのでそれはできない。 下の姪は、再び私のことをとても警戒していた。 誰かいつもと違う人がいる、という目で見ている。 おばさんとしては、ちょっと悲しいのですけど。 上の姪がY字バランスができるようになったと披露する傍ら、下の姪はそれを完璧な出来損ないで真似をする。 二人とも、たまらなくかわいい。 ワインの仕事をしている義弟、といってもかなり年上40歳、のおかげで良いお酒をたくさん飲ませてもらう。 あー飲み過ぎた・・と思うほど飲み過ぎてしまって、彼らはみんな早くに寝てしまって、帰り道に500mlの水を飲み干し、最寄駅近くのコンビニで海苔のみそ汁を買ってコンビニでお湯を入れて歩きながらカップみそ汁を啜った。 飲み過ぎたときにはお味噌汁、というのはどこかで言われることだと思うが、本当に滲みる。 夜遅く、今度はアサリのカップみそ汁を飲んだ。 その日、よく見る類の悲しい夢を見た。 アロマティカスがまたぐんぐんと成長していて、本当に自らの重みで鉢を倒すほどだ。 重いところを切ってまた水差しにする。 根が出てきたら土に引っ越しをしよう。 差し上げますよ、と方々で言うのだが、皆さん「欲しい」と言う。 それぞれに育て方と愛で方を解説して、現時点でかれこれ7,8つは里子に出している。 愛で方なんて教わらなくても愛でられれば良いのだけれど、愛で方や面白味を教えてもらうというのも何かを愉しむ一つの方法である。 教わってそして自分でやる、自分でやって初めてそれを愛でられるようになる。 最近引っ越しをした人のせいでものすごくインターネットで物件を見ている。
amazonプライムで見つけてしまった「グレイズ・アナトミー」の続きもものすごく見ているけれど、それよりも見ている。 引っ越しの予定はないし、更新料を払ったばかりだ。 引っ越しの予定はないのだ。 ならばと模様替え熱が高まってきてしまった。 と言っても、模様替えするほど家には家具はない。 どうしても書をやるスペースが必要なので極力物を置かないようにしている。 折り畳みだったベッドも、マットレスに変えて毎日畳んで脱衣スペースにしまっている。 それなのに、模様替えをしたい。 少し大きめの机を買おうかと考えている。 現状、書道を教えるときは床に大きな下敷きを出しているけれど、そもそも大きなものを書くときは床でしかできないわけだけれど、半紙程度のものや小品は机の方が書きやすい。 マンツーマンとは言え、机でのレッスンができるほどの机を置いたら、大きなものを書くときに邪魔になってしまうかもしれない。 でもやってみたい。 今ある大きめの座椅子とパソコン机と椅子を捨てるかあげるかして、玄関に置いてあるベンチを中に引き入れて・・・昇降テーブルにしたらどうだろうか。 書を机でやるときは、普通に物書きをするときよりも机は低め、椅子は高めが良い。 でも物書きもパソコンもするから、低いだけの机は使い勝手が悪い。 インテリア的に見た目を阻害するようなものも置きたくない。 しかし机は、やってみてダメならすぐに処分できるようなものでも処分に躊躇わないような価格でもない。 でもいくら採寸してイメージしたって、実際に置いてやって暮らしてみる以外には方法がない、それがしたいのなら。 あれこれあれこれ考えて、良さそうな昇降テーブルまでたどり着いているのだが、どうなるだろう。 自分の創作がはかどって、レッスンがしやすくなければ意味がない。 やるなら便利さと合理性を上げたいし、居心地を下げたくはない。 しかし無論すべてを満たすことは難しいから、くつろぐという部分での居心地をやや下げることになるだろう。 座椅子を失くしたらぐでっとする場所がなくなるわけだから。 あと、テーブルと椅子でテレビを見るのなら、テレビの高さが少し低いだろうから見づらくもなるかもしれない。 無駄に広いトイレと玄関を利用方法も見直すべきか。 必要なくなった机椅子はしばらく共用部に出しておいても怒られないだろうか。 どうしよう、どうしよう。 どうしよう。 さらさらしした秋の朝。
清少納言的に言えば秋は夕暮れなのだが、私は秋は朝が良いと思う。 できれば遅く起きるときの秋の朝。 今年初めて冬布団にした昨日が明けて今日の朝、開けっ放しの窓からはひんやりと冷たい風がさらさらと流れ込んでくる。 羽毛布団の中は体温で温かく、まだ出たくない。 かと言って、凍てつく冬とは全然違って、布団から起き抜けても凍えなくて良い。 相対的に言って夏が好きだけれど、ちょうど良い気候、というのはやっぱり身体に優しい。 そう言えば、常夏ならぬ常春という気候を持ったアメリカのどこかの地域があると先日耳にした。 サンタフェ、とかいうところだっただろうか。 赤道近くで本来ならば熱帯性の一定の気候なのだが標高が高いとか良い風が吹いてくるとかで常春になると聞いたような気がする。 四季があるから楽しさがあるとも言える一方で、常春というのも羨ましい。 ただし花粉は抜きで。 常春生まれ常春育ちの人は、雪国生まれ雪国育ちの人が知っている雪の美しさや楽しさ、また恐ろしさや煩わしさを知らないわけだけれど、それは酷く羨むということにはならないのではないだろうか。 まあ私も雪国のことは知らないけれど。 そもそもお金持ち生まれの人がお金の苦労を何一つせず、というか、お金に対する良し悪しの発想すらあまり持ち合わせてないのと同じように、快適さがそもそも当たり前のベースにある人はただそのまますくすくと暮らしていけるのではないだろうか。 もちろん、人間が快適に暮らせるのは気候やお金だけの問題ではないにしても。 気温が上がったり下がったりして惑わされなくても、気分や人生は上がったり下がったりするわけだから、気温くらい安定していてくれても良いのかもしれないと思う。 冬布団に変えるにあたり、羽毛布団を近くのコインランドリーで初めて丸洗いした。 10年くらい使っているけれど、洗ったのは初めてである。 カバーは家の洗濯機でよく洗うけれど本体が洗えるとは。 洗いと乾燥で1000円。 コインランドリーの洗濯機いっぱいの羽毛布団は上手く回転しておらず、果たしてこれできれいになっているのかどうなのかはさっぱり疑問だったけれど、乾燥から上がってきた羽毛布団はほこほことして気持ちが良かった。 布団カバーをつけるのは面倒極まりないので好きではないが、がんばってつけて、気持ち良く眠った。 またまたご依頼いただいた命名書各種をせっせと書く。 字についても調整調整で何枚も書くけれど、額に上手く収めて完成させるというくだりにも結構気を使う。 紙のサイズが合っていても額に入れてみると縁にかぶって字がやや見えづらくなってしまったりもするし、上下左右をみながら額の真ん中にびしっと決めなければいけない。 がしかし、この豆命名書シリーズはやっぱり自分が一番気に入っているかもしれない。 里子に出すような気持ちで封筒に入れて送付する。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|