歩いている、たくさん、たくさん。
足が痛くなったり、痛くなくなったり。 ウォーキングのアプリも入れた。 こういったアプリのユーザーの悩みがよく分かっていそうな省エネのアプリで人気の高いものを選択。 私の一日の目標歩数設定は、ややハードモードの一万五千歩。 高齢者が一日一万歩というのを聞いたことがあるからならば30代前半の私は一万五千歩でも良かろう、と思って設定した。 あと、ただ歩きたいのだから。 しかしながら、こういう数値化される継続ものはむきになってしまう方だ。 一万七、八千歩くらいをもって余裕のクリアを心がけたいと思う方だ。 何なら明日の分の貯金まで作ってしまいたいと思う方だ。 一度でもその習慣にヒビを入れてしまったらもう止めてしまうかもしれないのが怖いのだ。 せっかく、自分に多少の負荷をかける"良いこと"と思ってやっていることを途切れさせてしまうのが怖いのだ。 ここ二週間ほど、もちろん一万五千歩は達成できない日もあるのだが、時に三万歩を越えて距離にすると24kmなどを歩いている日があるから驚きである。 たくさん歩いた、というのは肉体的疲労感とともに精神的満足感が伴う。 私の歩幅と歩くスピードはおよそ時速5km、十分一千歩、一時間六千歩程度。 目標の一万七、八千歩を達成するにはおよそ三時間歩かないといけない。 一日二十四時間のうち、八分の一の三時間を歩くことに費やす日々。 希望としては一日八時間くらい眠りたいので、残りは十一時間。 仕事や目的があって移動手段としての歩きのトータルが三時間ほどになれば、電車移動などの時間が相殺されるので効率が良く、心が楽である。 私が重視しているのは、身体に良さそうなことの継続と効率なのか。 何だか出来の良いサラリーマンのようである。 ちなみに、一日一万歩、というのも決して楽ではないと思う。 毎日欠かさずに一日一万歩を一年間やりました、というのは時々耳にするが本当に大したものである。 半ば執念である。 一日一万歩、合計一時間半以上、雨の日も雪の日も風の日も風邪の日も遅くないスピードで歩くのは頭が下がる。 私がこのように俄かに歩き始めてまだ雨のときが一度しかない。 それに秋の気候はお散歩には最適である、こんなに良い季節はない。 とても寒くなってきたら着衣の重量が増えて動きづらくなるし、傘をさすのも歩きづらいし、夏の炎天下も辛いし、雪なんてもってのほかだ。 私のこの歩くムーブメントは、秋以外にも成立しうるのだろうか。 ある日には、とある銭湯までサウナに入りに一時間半ほどかけて歩いて行った。 なのに女性用サウナが故障中だと言う。 フロントのおばちゃんは、「ごめんねえ。でも今日は月二回のラベンダー風呂だから許して。うちのラベンダーは本物を束で入れているから香りが良いわよ」と慰めてくれた。 ある日には、東山魁夷展を新国立美術館まで一時間ほどかけて歩いて行った。 なのに東山魁夷展は明後日からだと言われる。 せっかく来たのでショップを見て、「マティスの絵本」という本が気に入ってその場でamazonで注文した。 ある日には、ずっと見たかった熊谷守一さんの美術館まで一時間ほどかけて歩いて行った。 少し雨にも降られたけれど、素晴らしい美術館と展示物だった。 絵や書や陶器などの展示も、調度品や併設カフェも、一つひとつが本当に嫌みのない品の高さを醸していた。 階段やトイレットペーパーホルダーさえも品が良い。 そう言えば歩き始める前に行った出光美術館の仙厓展も素晴らしかった。 合計でポストカードを20枚買った。 どちらも是非ともまた行きたいが、仙厓展は会期が昨日で終わってしまった。 歩き始めて、私の頭の中の東京の地図に塗り絵をしているような感覚がしている。 少しずつ自分で色を付けていくのだ。
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俄かに歩くのにはまっている。
サウナに引き続き、私は何かにはまりやすい体質なのかもしれない。 とはいえ、何のことはない、歩くこと、に今さら、はまっているだけだ。 歩くのにはまってまだ日が浅すぎる、10日間ほどなのでどうなるかは分からないのだが、この10日ほど9日は毎日1時間以上連続して歩いている。 例えば池袋から有楽町、例えば下北沢から渋谷、例えば新宿から六本木、例えば夜道を心のゆくままに。 わざわざ歩くために遠い駅で降車して帰ったりもしている。 サウナに行きたい衝動が、歩きたい衝動の方に流れているほどである。 てくてくてくてく、東京の街を歩く。 かつて私の移動方法は基本が自転車であったのだが、いつしかチェーンが絡まって動かなくなってしまって直すのが面倒で乗らなくなってしまった。 あの頃自転車にはまったのは、自転車という乗り物に乗っかって座っていられることと、かなりの距離もかなりの短時間で移動できることを知ったことと、風を切るのがあまりに心地よかったからだろう。 要は色んな意味で「楽」だったのだと思う。 歩くのはそういう意味では「楽」ではない。 ただし、圧倒的に「気楽」なのである。 自転車は、自動車などに比べて極めて等身大の乗り物であると思うが、やはり自分とは切り離された主に大きな鉄の塊である。 東京の街ではその主に大きな鉄の塊を置いておくところさえままならない。 もちろん主に大きな鉄の塊なのだから、重い、そうすると厄介なのは坂道である。 我が身だけでも坂道は重たいのに、それを引き連れて行かなければならない。 だから上り坂をなるべく避けた道を通っていたこともあるが、上り坂を避けることは下り坂を避けることとほとんど同じことなので、意外に起伏に富んだ東京の街を縦横無尽に進むことなどは全くできたものではない。 もうひとつ、遠くまで来て来たは良いが帰路の体力が持ちそうにないとき、そこに愛車を置いていくわけにも行かない。 つまり往復の体力気力を計算しておかねばならない。 これらのことが歩くということにおいては全てクリアーであり気楽なのである。 おまけとしては、自転車に乗っているとスピードが速いので景色や建物を確認することが難しいのだが、歩いていれば荘厳な国会議事堂や最高裁判所やかわいいマンションや肝の冷える崖などを見つけることも美味しそうなパン屋やがらくたのような食器屋に入ることだってできる。 国会議事堂なんてほぼ駅名でしか把握していないのだが、それが眼前に今聳え立っているのを見ると国会議事堂が実際のものとして息づいていることを気付かされる。 しかし皇居周りのあの辺りは巨大すぎる四角い建物が多すぎてやや眩暈もするものだが。 ちなみに、私は地図がとても苦手であるが、グーグルマップ様さえあればあまり迷うこともない。 グーグルマップ様の完成度は日に日に上がっているなあと思う。 これまでまさか歩いて行くなんて発想を持たずに電車を乗り継いで来ていた場所に、時間をかけてでも身ひとつで歩を進めて辿り着けるということは少なくない達成感がある。 グーグルマップ上の歩いてきた線を眺めて、何か誰かの力を借りずにこんなにも私の身体のみで進むことが出来るのかとやや普遍的な意味を上乗せさせながら感心する、褒めてやりたい。 また、息も弾んで軽いサウナ後の血流良好のぼーっとした感じが訪れたりもする。 どうして自分が俄かに歩くのにはまっているのが、こうして書き連ねる理由以外の衝動はここにあるのかもしれない。 しかしながら、この歩くことの理由が、あと少し、言葉で言い尽くせていない肝心な理由があるように思っている。 それは一体なんなのだろうか。 まあ今後私はいつか自転車を直すかもしれないし新調するかもしれないし、またその心地よさを再発見することもあるだろうとは思うけれども。 さて国立新美術館の東山魁夷展まで歩いて行ってこようか。 早く寝て早く起きた。
と言っても、1時に寝て9時に起きた、というくらい。 書作を済ませ、ブログを書き、部屋中の掃除をし、クリーニングを取りに行き、午後からはレッスン。 書作は済んだ、ブログも今書いている。 問題は部屋中の掃除とクリーニングの引き取りに行けるかどうか。 時間的問題ではなく、ただのやる気の問題で。 朝は気持ちが良い。 でも、昼も気持ちが良い。 夜も気持ちが良い。 良いときは良い。 朝ならではの気持ち良さとは何だろうか。 日光、特に朝日はおそらく多くの場合で人を快活にする。 それに単純に、明るいのは物が良く見えて良い。 朝の、これから日が高くなるという安心感は、初夏の頃の夏への希望と似ている。 これから、というのは、その最中、よりも好ましいのかもしれない。 まだまだやれる、という半ば言い訳のような希望であるようにも思える。 今は気温的快適度はとても高いが、秋も深まるばかりで気温は落ちていき、焦燥を煽るばかりだ。 だから秋の朝は、明から暗へ落ちるばかりの束の間の希望を、より刹那的心地よさとして際立たせるのかもしれない。 午前はあっという間に過ぎ去って、正午を超えると今の時期なんかは特に暗くなってしまうことにもう焦り始めることになる。 都心と言えども社会は日中を中心に動いているし、夕方までしか営業していない店や施設も多い。 ただ、焦ることはない。 どうせまた朝はやってくるのだ。 こんなにも心地よい秋の朝をコーヒーを飲みながら味わおうではないか。 と言っているうちに掃除もせずクリーニング店は閉まってしまうのかもしれない。 無になる、ということはとても難しいことである。 無であるということは、無になろうと思ってもなれないし、無であることを自覚することも論理上不可能である。 100回くらいサウナに通い詰めて、最近はあまり「ととのう」という言葉も使わなくなってきた。 そして瞬間的にふと、「今さっき私は無であったのではないか」と感じることがここ何回か続いている。 それまでは水風呂の後の休憩中にあぁとても気持ちが良い、ということを自覚的に自覚していた。 身体に平常時よりも血が巡っていることを確認し、楽しくもないし悲しくもないという状態を確認していた。 その状態では本当の意味で、ととのってなかったのかもしれない。 その無のような状態では私の脳は微塵の何かも考えておらず、ただ心臓が動いている我が身体のみがそこに存在している、というような感覚になる。 おそらく、大方の身体的信号を止め、芯からリラックスしていると言い換えても良いだろう。 就寝中もそれに近い状態は起こるのだろうが、夢を見ていたり身体を掻いていたりいびきをかいていたりするときっと身体は休まっていないことになるだろうから、私たちの身体が本当に無になれるときというのはかなり少ないのではないかと思う。 無論、その「今さっき私は無であったのではないか」と考えた瞬間にもう無ではなくなっているのだが。 この状態に陥った自分のことを、私はなぜだかいつも「あぁ良かった」と思う。 あなたも何にも気にすることもなく自然に任せて力が抜けるのね、と特別なイメージのない女神さまに言われているような気分になる。 ただ、このことを今話題に出して考えてしまったから、次にサウナに言っても私は無になることから遠ざかってしまうのかもしれない。 さて、掃除でもしたい。 私は部屋が散らかっているのを好まない。
たぶん誰だってそうかと思うけれど、たぶん人と比較しても散らかっているのを好まない方なのではないかと思う。 事実、これから物を買い揃えるのですか?と問われたこともしばしばある。 できるだけシンプルでいられるように部屋にはあまり物を置いていないし、物を捨てるのも好きである。 しかしながら、机の端っこやソファの脇にどうしても積み上がっていってしまうものがある。 書きかけの書に筆、読み止しの本、新明解国語辞典、銭湯お遍路26か所達成の認定証、然るべき場所にファイリング前の領収書、いただいたレモンの香りの石鹸とメモ帳、この前遊んだ絵の具に絵筆、いつでも眺めたいサウナのムック本、年賀状のサンプル集、度々使う四角くて小さな和紙、不意に何か書けるかもしれないお菓子の箱・・・。 ちなみにこの話と全く関係ないが、差し挟んでおきたいが銭湯お遍路は現在45か所のスタンプを取得している。 明日また使いそうなもの、行き場の定まらないものが雑然と不安げにいくつかの小山を成している。 食事をするときはそれらをもう少しだけ面積が小さく高くなるように積み上げ直す。 いつだってすっきりと物のない状態を保ち眺めたいのだが、小山を4個から2個にすることはできても小山を0個にすることができない。 必要か不必要か本人しか分からなそうなごちゃごちゃさは作家ぽくて良いではないか、と自分自身に言ってみる。 確かに、炬燵から一歩も出ずに手を伸ばせばお茶とみかんと本と紙と筆があるような状態は便利であるし合理的でもある。 しかしこの見た目がやはり何となしに気に食わないのである。 でも、また近いうちに続きを書くかもしれない書き止しの書を片付けて終わりにしたくもないし、実際にそこにあるからまた続きを書くことも時々はあるのである。 しかし、すっきりとしていないのは嫌なのである。 毎日何かを食べたり飲んだりして排せつするように、部屋も代謝をしている。 新しいものを入れずに古いものを全く出さずに生活することはできない。 それに、捨てる、ということを重視していないと基本的に物は増える一方ということになってしまう。 部屋は身体のように我が身を増大させていくこともできず、我が身の置き場を圧迫することにしかならない。 小山が0個ならば気持ちは晴れやかになるだろうか。 そう思って時折小山を崩してみるのだが、そもそも行き場がないからそうなっているのであって、下手に触って安易に小棚でも買おうものなら、それは小山を新小山にすることに他ならない。 そして小棚による新小山が成立した後、私はまだ息づいていて再び新しい小山を作ることになるだろう。 これを何と呼ぼう。 こうなるともう、小山を0個にするということは不可能のようにも思える。 小山は私の生きる証で、延長自我なのではないかとも思えてくる。 外界に行き場ない自我を雑然と置いておいて良いものだろうか。 切り花は枯れるから良い。 私のせいではなく、捨てられる。 切り花は、私ではない。 辞書を買った。
「新明解国語辞典 第四版」。 ちなみに最新版は第七版らしい。 語句の意味や類語などは日常的にまあまあ調べるのだが、それはネット検索で十分事足りるし、無論だいたいの意味や連想ワードが知れれば良い。 小学生頃には国語辞典も漢和辞典も英和和英辞典も冊子で持っていたが、分厚い辞書を引くという作業が酷く面倒なので、程なくして発売された電子辞書には随分と恩恵に与った覚えがある。 言葉好きの子どもが、辞書で1語句を調べた語釈に載っているまた別の語句を調べてどんどんと言葉を覚えていく、というような話があると思うが無論そんなことをした記憶もない。 それに、現在の私の生活に分厚い本なんて質量の塊でしかないから全然欲しくないのだけれど、その辞書の語釈が絶妙に面白いという話を聞きつけて、ネット上でそれを少々齧ってぜひ蔵書にしたい!と思ってアマゾンで古本を13円、送料込でも400円弱ほどで購入。 ついでにこの辞書にまつわる更なる解釈本「新解さんの謎」という赤瀬川原平さんの本も購入。 「新解さん」というのは赤瀬川さんが付けた相性らしく、ファンは親しみを込めてこう呼ぶらしい。 ラジオやテレビ番組の内容としても取り上げられ、各方面からこの辞書を愛読書として楽しんでいる人々が大勢いることを知る。 辞書、というと漠然と、それがとても権威があって間違いなど疑いようもない完璧に近しいものであるという印象がある。 そういった意味で、法律、というものと印象は似ているような気がする。 どちらも、その道に精通した超人的能力を持っている精鋭たちが、論理や言葉に対する検証・推敲を積み重ね、智慧を凝縮し煮詰め、淘汰に淘汰し洗練された、言わば日本国民皆の模範文書であると言っても良い。 そういうイメージを、特段の意図もなく考えもせずに抱いている場合が多いのではないだろうか。 しかしその固定概念を外して見れば、全ては分からないだらけのこの世界で必死で編み出したもので、所詮はただの人間が作り出したものだ。 当然ながら、時代も変われば語句の意味も法律も変わっていく。 それに、書き手の主観が全く入らない、ということは原理的に不可能である。 「"先生"の言うことは正しい」と言うことよりかは大分信頼性を持てるかもしれないが、それでも抜けや穴が全く無いなんてことは無いだろうということは容易に分かる。 とまあそれもそうなのだが、辞書への完全崇拝なんてものが薄い意識下にあったとしたら、この辞書は本当に完全崇拝なんてしてはなりません、と全体の分厚さと膨大な文字列を持って教えてくれるような書物である。 小説や啓発本でもなく、「辞書」という言葉の持つ曖昧さや不安定さを何とか保とうとするはずの指標の塊であるべき存在でそれをやってのけた、あるいはやろうとしているのが凄い。 ずっしりと重い紙束から人間の血の流れる音が聞こえてきそうな本である、あるいは「俺様が辞書である」と生真面目な内心のドキドキを抱えながら闊歩しているような本である、それでいて社会体制に謙虚に斜めに切れ込みを入れているような紛れもない切実ささえ感じられる表現物である。 語釈のみならず、用例も編者たちの極めて個人的な美観や嗜好や主義主張を書いているような節があって、言葉を定義しているはずなのに大いなる余白や反対意見の余地が残されている感じがとても面白い。 あと、腹が捩れるほど笑える。 私はこの類の斜めな真面目さが大好物で。 笑えるというのは、本当に有り難い。 「恋愛」「動物園」「実社会」「世の中」などが有名な語釈らしいが、内容を私が書くのも無粋なので、このあたりのウェブサイトが取っ掛かりとしては分かりやすいだろうか。 昨日見つけた面白いのは、「よほど」や「ねばねば」。 「よほど」・・・②「主体の決意が十中七、八発動に向かいつつも尚決定的ではないことを表す」。用例「よほど名乗って出ようかと思った」。 「ねばねば」・・・「ねばりついて容易には離れないもの。除くことが出来ないことを表す」。用例「ねばねばした暑熱と、たえまない靴音と、汗ばむ倦怠にひたって、すれちがうイタリア娘の腰と足を鑑賞していると・・・」。 十中八九という慣用句を七、八と言っているあたりにとても主観が感じられる。 この意味で「よほど」と使う主体の決意を揶揄しているようにも取れる。 「ねばねば」については用例がもう唐突すぎて何のことやら分からな過ぎて面白すぎる。 「ねばねば」で多くの人が連想するような「納豆」などを使いたくないのは良いが、あまりにも日常的ではない用例である。 さて、日々ごった煮の季節がやって来た。 トマトともつのごった煮は少しの新しさといつもの安心感があって上出来。 やるべきことが山積している。 10月となる。
ころころくるくる、月は転がり進んでいく。 また来年10月は来るのだけれど、同じ10月は当たり前に二度と来ない。 そのうちに新しいお正月もやってくる。 去年とは違うお正月がやってくる。 来年もまた、これまでのどのお正月とも違うお正月がやってくる。 だから、なんだ。 台風が過ぎて、台風がやってくる。 ブルーハーツの「台風」が頭の中に鳴る。 彼らが言う「台風」は「台風」そのものではない。 同じように例えば誰かが「あなたが恋しくて」と歌ったその「あなた」は「あなた」そのものではない可能性がある。 そもそも、人ではないかもしれない。 というか、人ではないと捉える視点が存在するということを知ったことは私の人生を充実させたひとつの大きなことのように思う。 だから、なんだ。 とは思わない。 少し早いが、年賀状のレッスンを始めている。 生徒さんが書くついでに私もサンプルを書いている。 私は喪中なのだが、皆さんの書いたものが見たいので是非喪中の私にも年賀状を頂きたいものである。 最近たまに絵の具を使って簡易的な絵というかモチーフや線を書いている。 色というパラメータは恐ろしいほどに無限である。 字や絵を何かをひとつのそれなりの形にしたいと思うとき、どんな取っ掛かりでどんな出だしでも良いからまずは始めてみることである。 まずは紙に筆を下ろしてみることである。 生徒さんの中には字も絵も吐き気がするほど嫌いという方もいる。 でも、字も絵も全く書けないという人はひとりもいない。 数年前までは私が絵のようなものを描くなんて思ってもみなかったし、その前に創作の世界に身を置くなんて人生など想像もできなかった。 でも恐々、本当にこわごわ、まず紙に筆を下ろしてみたのである。 ただそこから今に至るまで、紙に筆を下ろし続けているだけである。 創作をするのがおこがましいと思ったり、怖いと思ったり、できるわけないと思ったりしている人を勇気づけるのは私は案外得意かもしれない。 それはまさに私がそうであったからで、同じような気持ちが分かるからだ。 誰だってそのときに最高の年賀状が書けるのである。 このようなことは汎用性が非常に高く、物事の道理はみなほとんど似通っている。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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