久しぶりに宛名書きのお仕事をいただいて細筆を取る。
宛名書きの仕事というのは、ちゃんと、きちんと、しなければいけない、ので大変な一方で、ひとたび乗ってしまえばたまらなく楽しい仕事である。 人の名前や会社名や部署名や肩書きや名刺のデザインなど、字だけでなくて、私にとっては嬉々としてしまうような要素がいっぱい詰まっている。 最近は細い筆を持つのはもっぱら筆ペンになってしまっているので、墨をつけて細筆で書くのはまた改めて慣れが必要になる。 よくレッスンのときに「まずは筆ペンと紙と仲良くなってくださいね」という話をするのだけれど、穂先の長さや筆の太さ、紙の質、インクの出方や墨の濃さ、あらゆることに自分をチューニングしなければならない。 このくらいの感じで左に払うとこのくらいの長さが出るのね、とか、墨はこのくらいつけると全体のメリハリにちょうど良く作用するのね、とか。 ついでに、今回は主に横書きの宛名書きをやっているけれど、やっぱり字は縦書きのために作られているというか、書としては縦の方が魅せやすいよなあと思ったり。 筆ペンはやっぱり毛が動物でないだけあって機械的なんだなあとか、筆において大切なのはやっぱり命毛なんだよなあとかも思ったり。 やっているうちにだんだんと書く字や空間バランス、私の心までも「宛名書きチューニング」に合ってきて上手く書けるようになってくる。 さらに良いときは悦に入ることさえできる。 一種のランナーズハイみたいなものだ。 こういうことをやっていると、結構どんなときも、電車に乗っていても漫画を読んでいても映画を観ていても、眠くなってしまう私が全然眠くならない。 さらに最中にいればあまりお腹も空かない。 用があったので朝8時前に起きて、レッスンをしつつプールにも行きつつ、その日寝たのは翌日の午前2時だった。 1日でトータル8時間、書き続けて、書き続けて、単なる筋肉痛でない痛みに身体が酷く軋んでいる。 別に起きている時間や頑張っている時間など一般的に大したことはないのだろうけれど、やりたいことがあっても怠惰でよく寝る私にとってはそんなに夢中になれる時間というのは心にとって、というか身体にとっても、とても嬉しいのである。 そんなことなら身体はもう軋みに行きたいわけだ。 もちろん毎日延々に、というのは困るけれども。 私は何か決まったゴールがあることへ向かうのは、結構な根性を見せることができるのだと思う。 一方でゴールがないことに向かって行くのは、下手でありひよるのであり怯むのである。 生きていることで、ゴールなんてないことの方が断然に多いのだけれども。 その翌日、書道のレッスンで「豪快」「豪傑」「豪放磊落」というような漢字を扱っていた。 身体の軋みは置いておいたとしても、どうにも「宛名書きチューニング」が続いていて、「豪放磊落」に書くことができない。 あまりにそこに合わせてしまっていたために、それから解かれるのも少々時間を要するのかもしれない。 宛名書き中、iPhoneに入っている音楽を総シャッフルして聴いていた。 手当たり次第漁りながら集めた音楽たちで真剣に聴いていないアルバムもとても数多く入っているけれど、ひとりイントロ当てクイズは案外当てることができた。 曲名についてはほとんど分からないけれど。 手触り、風合い、テクスチャー、というのは音楽でも書でも、それはたとえ消そうと思ってもなかなか消えないものである。 詞にもあるけれど、音で当てることができるのは創り手のそれらを感じ取っているからだ。 臨書も、己を消したいと思ってもなかなか叶わない。 総シャッフルしているにも関わらず、岡村靖幸とゆらゆら帝国と矢野顕子とロバートジョンソンが多かった気がするのは、私がそれに反応していただけのことか、本当に偏っていたのか。
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いつものユーカリをいただいて、その紙袋に私は帰りがてら何度も顔を突っ込んだ。
冬のユーカリの香気は、春や夏よりもひんやりと締まっていて、芳しさが凛としている。 ユーカリをくださったり、私を度々ご実家に泊めて至れり尽くせりしてくださったり、一緒に旅行にも行ってくださるその方の家は、ユーカリが庭に生えている。 先日、まるで自分のものかのように書いたプレクトランサス・アロマティカスもこの方からいただいた。 なんて敬語を使ってみるものの、普段は私はこの方に全く敬語を使わない。 元の会社の先輩で、もはや友人関係というようなことしかしていないのだれど、「先輩」と位置付けられてしまったその関係を、7つくらい年下の私が「友人」と表するのもいかがなものかと思って、こうして表記するには敬語になってしまう。 そんなことを言って、私はあまり自覚はないのだけれど、だいぶ早い段階から喋っているときには敬語など解かれていたらしい。 先輩は、萬田久子とセックスアンドザシティのシャーロットに似ている。 髪の毛がたくさんで、生え際がみっちりで、黒目がちで、太めのカチューシャが良く似合う。 私はなぜか中高生の頃、豊満なソバージュロングヘアの西洋の外国人にとても憧れていた。 だから私はとても長い間、高校生から24歳くらいまで、髪は腰くらいまである超ロングヘアにパーマをかけていた。 でも、おでこが広いことと、生え際が甘いことで、カチューシャでオールバックにすることが似合わなかった。 社会人になって、この先輩に会って、日本人でもこういうふうにカチューシャが似合う人がいるのか、と密かに憧れていたものだ。 先輩は目鼻立ちはくっきりしているけれど、特に西洋人風ではない。 思えばあの頃、私は先輩のファッションを割と参考にしていた節がある。 好みが似ている、ということもそうだったし、ピアスの大きさとかブーツの履きこなしとか、マニキュアのあり方とか、なるほどと思うことがたくさんあった。 ファッションだけでなくて、立ち居振る舞いもそうかもしれない。 おしとやかとかそういうことではなくて、奔放なのだけれども、最終的には品がある。 私にはそんな風に見えていて、もちろんそのままインストールしたわけでは全然ないし、こんなことを言ったらいいように思わないかもしれないけれど、ところどころは参考にしていた。 少し久しぶりにジャズのライブに行く。 ジャズという音楽が何者であるのか、1mmたりとも分かっていなかったし興味もなかった私だけど、ジャズの話を聞く機会がたくさんあって、私はジャズを楽しめるようになった。 ついでに、ファミレスやカフェやチェーンの居酒屋や洋服屋などでジャズがよく流れていることを知った。 今回行ったお店は3度目くらいだけれど、結構いろんなものが変だ。 コースターはCDだし、電球にはシェードとしてビニール袋がかかっているし、トイレのペーパーホルダーには破れかぶれの顔が張り付いているし、張りぼてのベースが吊るされているし、ウルトラマンやゴジラのフィギュアがたくさんあるし、マスターが密かに書いている小説がウェブ上にあったりする。 他にも数えきれないほどの、何かよく分からないものがある。 マスターの、俺の城、なのだ。 常連さんという近所のご家族もいらしていて、文ちゃんという4歳の男の子がいた。 文ちゃんは私のことを最初はとても警戒していたのだけれど、どこかのタイミングで存在を許してくれたらしく、私におっとっとを開けてと頼んできたり、おっとっとをひとつずつくれたり、私のテーブルにフィギュアを山盛り並べたりした。 姪や友人の子どものおかげで小さな女の子には比較的なじみのあるけれど、小さな男の子のことはよく知らない。 このくらいの年齢の、本人の素質ではないところの性別、というものにはとても興味がある。 文ちゃんは、怪獣が好き、とかはいいとして、男の子特有の何かを持っていた感じがした。 一体それは何なのだろう。 親が強くそう言わなかったとしても、「男の子なんだから」「男の子らしく」という暗黙のメッセージはどこに行っても存在する。 しかし、仮に外界からの暗黙のメッセージが全くなかったとしても、男の子は男の子で、女の子は女の子、なのだと当然ながら思う。 これは、生物学的な身体的性差を示す「セックス」の意味において。 しかし、生物学的な身体的性差としての区別以外の「セックス」も存在するのではないだろうかとも思う。 「自分らしさ」というものには、往々にして身体的性差でない純粋な意味での「男の子らしさ」「女の子らしさ」があるのではないだろうか。 もはやこれは「ジェンダー」なのだろうか。 何を以て、どこのあたりからが、「ジェンダー」なのだろう。 まあこれは、私のあることに対する言い訳として存在させたいがためにこねくり回したい節があるようにも思う。 ライブは、創り手の情感たっぷりで、良かった。 ライブを聴きながら、総合的な“強さ”について考えながら、未だきっと“私であること”の傍観者を止められない。 私は、羨ましくて、ずるい、と、やっぱり本気で思うのに。 大根は私の調理力如何ではなくて、その大根のポテンシャルに出来栄えが左右されやすい。
ような気がする、のはすなわち私の調理力が足りないのだろうか。 南瓜もそうだと思う。 白菜においてはそのポテンシャルではなくて、私によるところが大きい。 野菜を摂らないとなあとか、近くの八百屋さんが空いているときにちょうど荷物が少なかったとか、そんなときに色々と野菜を買い込む。 肉頼りなところもあるので、ついでにスーパーに寄って鶏肉か豚肉も買う。 買い物をするときに何を作ろうなんて考えていないというか、どうせごった煮しか作らないので、気が向いたら鍋にそのいろいろな野菜と肉を放り込んで煮る。 気まぐれにいつもはあまり買わない手羽先を買ってみたので、「大根と手羽先の煮物」という料理名がありそうでなさそうなものを作ってみる。 やっていることはいつもと同じで、手羽先を鍋にそのまま入れて焼き色を付けて、拍子切りにした大根を追って入れて鰹の出汁を入れてことこと。 「大根と手羽先の煮物」と言いながら、やっぱりいろんなものを一気に煮上げたいので、にんじんと油揚げと切り干し大根も適当に切って入れる。 生姜がなかったので、鷹の爪を二本。 鰹の出汁味が好きなので、出汁だけはちゃんと事前に取っておいた。 料理において何を避けているかというと、手や、たくさんの食器や、調理器具が汚れたり散らかったりすることで、鍋ひとつ、フライパンひとつでできることなら割とやる。 その手順さえ間違わなければ良いだけだ。 ここにセロリを入れるとか、大葉を入れるとか、そういう冒険心はあまりないのだけれど、一応この時点では出来上がり予想図は描いているので、入ってもおかしくないものを私としては入れているつもりだ。 こういった煮物の甘みについて、もっぱらみりんを使うことを良しとしていたのだけれど、あるときに作ってもらった鍋料理が透き通る甘さで雑味がしなかったので、そのわけを探ってみると、みりんではなく砂糖を使っているとのことだった。 みりんは味に奥行きが出る代わりに、味が曇る。 そういうわけで、みりんを使わずに砂糖で甘みを入れる。 もらった鰹粉も追いがつお的に入れる。 全体に火が通ったところで、鍋に蓋をして出かける。 今回買った大根のポテンシャルが高そうなことは切っているうちに分かっていた。 小ぶりだったそれは、瑞々しさとしなやかさを兼ね備えていて、出かけているうちに様々な具材の出汁をたっぷりと煮含んでくれた。 白菜のごった煮は盛り付けを頑張っても見栄えはしないけれど、大根とにんじんと手羽先と油揚げと切り干し大根なら、盛り付け様によっては小料理屋さん風になるだろう。 木の芽とかカイワレが1,2本でもあれば尚立派だ。 飾る緑もなければ、それ風に盛り付けもしなかったけれど、味は上出来だった。 みりんではなく砂糖だったことが、今回においては功を奏して、クリアな感じとなった。 ぴたり、自分の好みができるというのはやっぱり美味しくて嬉しい。 手羽先が食べづらいと思ったので、下処理の方法を見てみると、「関節を折る」とか「切りこみを入れる」とか書いてあった。 もちろん食べやすい方がいいに決まっているけれど、味に影響しないならば、関節を折ったり切りこみを入れたりはしたくない。 最近、フェイスブックを見ていると高速の料理動画広告がとてもたくさん出てきて、こういうのが今流行りなのかと思っていた。 肉に切りこみを入れて、チーズとドライパセリとオリーブオイルを混ぜて乗せ、溶き卵を塗って、粉をふるって、メレンゲを作って乗せて、オーブンで25分、みたいな感じで、料理というのは本来とても手間がかかるものなのだと思いながら、すごく見入ってしまう。 私のタイムラインに出るのは、あまりに私がその動画をよく見るからで、何なら「いいね!」をしているからで、他の人のタイムラインにはそんなに出てこないらしい。 一度アクセスしたネット広告に追いかけまわされるのは、自分の興味の範囲を絞ってくれるありがたいことの反面、どんどんと自縛していってしまうことにもなる。 まあ見てしまうのだけれど。 ちなみに、今はレコードプレーヤーにも追いかけまわされているし、ちょっと前まではダイニングテーブルに追いかけまわされていた。 近所の飲み屋さんの常連さんに教わった、あの駅までの最も上り坂が少ない道、を7,8回目にしてようやく迷わずに行けるようになった。 でもまだプールへの道のりはだめで、ひとり紆余曲折してしまう。 目的地に向かっているつもり、が全然違う方向に進んで、見慣れぬ景色の中に取り残されるのはちょっとした恐怖を感じることがある。 タイムリミットがあるときはそれに拍車がかかってとても焦る。 素質がなくても練習は物を言う。 これは信じているので、せめて決まりきった目的地へは迷わずに着けるように練習を重ねたい。 ブルーデイジーの花が綿毛になった。 木瓜の花がまた咲いて、新緑が芽吹いてきた。 プールに行って、レッスンして、資料作って、「天」読んで、ブログ書いて。 さて。 RECORD RUNNERというものをなぜかいただいて、家で突如レコードが聴けるようになった。
レコードは、叔父さんのものやバーなどで触ったことがあっても、自分の手でまじまじと見ることは初めてだ。 レコードと言えば、ヒロトやマーシーもとても熱くいろんなところで語っているし、私の頭の中では「ベートーベンをぶっとばせ」や「十四才」や「団地の子供」などが否応なくリンクする。 まあでも、私はレコードしか存在しない時代に生きているわけでもないし、音質よりも射抜かれていることが先に立ってしまっているので、レコードそのものに虜にされてしまうことはなかった。 RECORD RUNNERは、私は見たことも聞いたこともなくて、一般的なミニカーの5倍くらいの大きさをしたフォルクスワーゲンのマークが入ったとても黄緑色のかわいいやつで、それをレコードの上に置いて走らせるとレコードが聴けるという、とても不思議なもの。 直置きするのが正しいわけではないのだろうけれど、置く場所がないので床にレコードを直置きして、その車を走らせると音楽が鳴り始める。 床に直置きのレコードに、ミニカーを走らせると、音楽が鳴る。 その上それは、私のおぼろげなイメージ上のレコードの音質感がとてもするもので。 何がどうなってレコードから音楽が流れているのか、もう全然仕組みが分からなくて、それなのに、そんな楽しい感じでLP盤を車が走って回って音楽が鳴る。 もうこんなのは、わぁー、だ。 レコードに刻まれた凹凸を針が感知して・・・などと説明されれば分かる気もするし、それでも不思議な気がする。 別にレコードだけが不思議なのではなくて、カセットテープもCDもMDも何だって目でよく見えないものはその仕組みに不思議さを覚えるけれど、レコードは針と盤が目の前に見えるだけに不思議さは煽られる。 単純なのに、すごいことが起きている!と、まるで男子中学生のように単純な私が思うのである。 BluetoothだのWi-FIだのも、おそらく仕組み自体はそんなに難しいことではないと思うし、きっとレコードの仕組みよりは複雑なのだろうけれど、見えない電気信号については私の思考の範囲外に位置付けられているらしく、そんなに不思議に感じない。 でも、レコードは見える範囲に仕組みがあるものだから、不思議でたまらない。 まあとにかく、車が走ってレコード的にレコードが鳴っている。 ポリスとスティングがつながって、ジョンコルトレーンの聞き覚えがあって、長渕は今の風体からは想像もつかないくらいの華奢で、レコードの紙の入れ物は、もちろんCDジャケットよりもずっと拡大版のデザイン面積があって、なんだか抱きしめたくなるような重みがある。 RECORD RUNNERをいただいた翌日、空き時間を見計らって私は爛々とレコードショップに行く。 何となくレコードで聴きたかったセックスピストルズとチャックベリーはどちらもとても高かったので、エアロスミスとかザフーとかビートルズとかユーミンとかのレコードを7,8枚買った。 レコードって案外重たい。 家に帰ってまた車を走らせる。 ワゴン型なので小回りが利きづらくて、LP盤の内側に行くとスピードが落ちて、当然音楽も遅くなる。 そして燃費がとっても悪いので、単4電池2本はレコード2枚くらいでガス欠になる。 その早々に疲れ果ててガス欠になっている様に笑ってしまう。 既に電池が8本終わってしまった。 このかわいいやつはかわいいやつとして、レコードプレーヤーを買おうか。 BOSEのミニスピーカーを初めて鳴らしたときも私はこんなふうに興奮していた。 今まで家で聞いてきたどの音よりも、豊かで重厚でふくよかで繊細で拡がりがあって。 そのときも、わぁー、となった。 レコードの音質も、高機能スピーカーから流れる音質も、ライブの生音も、どれもそれぞれ好きだ。 本当にどれでも好きだ。 それぞれのその感じが楽しくてたまらない。 愛用しているとても暖かいブーツが破れてしまった。 右足の爪先から靴下の足が覗くというなんとも無様な感じで、それでも、右足から冷たい空気が足先に入ってくるのを騙しながら3,4日はそのまま履いていた。 近所の靴修理屋さんに持っていくと「正直これは買った方が安いですね」と言われて、とても残念に思いながら、ちょうどゴミの日だったようでその辺のゴミ置き場に捨てる。 次の冬、あれがないと困るだろうことは想像がつくので似たようなものを買おうかと思ったけれど、代わりにアディダスのスニーカーを買った。 数年前までヒールのない靴は全体バランスが取れないと、スニーカーなど一足も持っていなかった私が、アディダスのスニーカーとはスタイルとスタンスの変化を感じざるを得ない。 次の冬、寒さに困ったらあれと同じようなブーツを探そうと思う。 今のところ私のファッション性は、好きなフォルムや柄や色以外には合理性にしか変化が向かわない。 でもいつか、日よけでない帽子や度の入っていない伊達眼鏡をするようなそんなスタイルとスタンスの変化が起こるのかもしれない。 が、今のところはそのような種類の変化はどうやったら起こるのかは想像がつかない。 ピアスは良くて、マニキュアは良くて、ブログは良くて、書道は良くて、日よけでない帽子と伊達眼鏡はだめなんてことは、そもそもおかしいけれど。 異様な空気の朝だ。
寒いのは嫌いだけれど、春は苦手である。 花粉と、始まりと初々しさを迫られる感じが。 いもうと家族にいちご狩りに連れて行ってもらう。 「いちご“狩り”」って獣偏で合っているのか、とふと思ったけれど、goo辞書によると「花や草木を、観賞するために尋ね探す」というのもあるらしく、確かに「紅葉狩り」とも言う。 それにまあいちごもある意味ハンティングしていると言えなくもない。 いちご狩りなんて実に20年ぶりくらいで、もぎたてのいちごの味をいもうとが熱弁するのでそれは是非にと、いもうと宅に前泊までして行く。 昔、愛知県の御津というところに毎年春になるといちごを摘みに行っていた。 東京近郊は1500円~2000円で30分食べ放題というところが多いらしく、多くのところが予約制で予約もいっぱいなのだそうだけれど、御津のいちごはお金を払っていたのだろうか。 大方出荷用のいちごの刈取りが終わって、小さないちごや形の悪いいちごがもったいないからどうぞご自由にという形式だったような気がする。 摘みながら、食べながら、小さないちごを箱いっぱいにして持ち帰り、けいこはそれを煮ていちごジャムにした。 フレッシュないちごジャムを食パンにつけたり、ヨーグルトに入れて食べるのが好きだった。 いやしかし、話は戻るが、こういう場合は「いちごを狩る」とは言わずに、「いちごを摘む」という方が自然な感じがする。 「摘む」はその場の行為であり、「~~狩り」」というのは、「花や草木を、観賞するために尋ね探す」わけで、それをするために出かける、という行為も含まれるということになる。 それに、「いちご摘み」では摘んでいるだけで食べている感じが出ない。 やはり、出かけていってハンティングして食す、には「いちご狩り」なのだろう。 横須賀のいちごハウスは大粒のいちごがごろごろと生っていた。 持ち帰りは厳禁で、ハウスの外で食べることも禁じられている。 おそらく出荷用のハウスといちご狩り用のハウスと分けられているだろうけれど、出荷できるくらいの品質のいちごがいちご狩り用ハウスでも食べられる。 大きい方が美味しい、日陰にあるものの方が美味しい、練乳は絶対最初につけてはダメ、といもうとが言うので、そんないちごをぷちんともぎ取ってそのままがぶり。 つい先ほどまでつるに繋がっていたいちごは溢れんばかりにジューシーで甘かった。 おおー、と言うしかなかった。 30分で1700円分のいちごを食べるのには気合いが必要だったけれど、私は何にしても食べ放題という形式が全然好きではない。 でも、スイーツ食べ放題とか焼肉食べ放題よりは、もぎたていちご食べ放題の方が断然嬉しい。 それに、スーパーのパック売りのいちごとはさすがに瑞々しさが全然違う。 いちごに追熟は必要なくて、フレッシュであることが絶頂の果物なのだ。 はちが怖いだのわんわんが怖いだのと言っている姪をそっちのけにひとしきりいちごを食べる。 時間は実質計測はされていないので、何分経っていたのか分からないけれど、いもうとと姪を置いて一足先にハウスから出た。 私のいちご欲は満タンに満たされた。 結局一番最後まで粘って食べていたのは、底なし食いしん坊の姪だった。 穂村弘さんも桝野浩一さんも一風変わった面白い短歌を作るけれど、斎藤斎藤さんの短歌を見てみると一風どころではない変わりように全然意味がつかめない。 その掴みどころのなさが醸す雰囲気そのものが味わいなのだろうけれど、にしてもよく分からない。 分からない、けれど気になる、書いてみた、けれどやっぱり、よく分からない、短歌調で。 雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 自動販売機とばあさんのたばこ屋が自動販売機と自動販売機とばあさんに このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい おまえの世界に存在しない俺の世界のほぼど真ん中ガムを噛んでいる シースルーエレベーターを借り切って心ゆくまで土下座がしたい いや、今並べてみて思ったけれど、全然分からないのは一番上の歌だけだ。 他のは心象が想像できる。 ある人に、これどうすれば良いか分かりますか?と一番上の歌を送ってみると、全然分からない!と返ってきた。 代わりに、三代目魚武濱田成夫という詩人のことを教えてくれた。 「SWITCHインタビュー 達人達」に出ていた金田一秀穂さんの話が面白すぎて、彼の著書である「オツな日本語」を買った。
中身をよく確かめずに買ったけれど、季語を含む季節の言葉についてのものだった。 これはまだ春のパートしか読んでないけれど、私はそういった類の言葉の話が大好物である。 番組の中で扱っていた、「存在」を表す「ある」「いる」。 これは英語にはない表現のようで、とても興味深かった。 人、が、いる 馬、が、いる 花、が、ある 魚、が、いる 魚の干物、が、ある クマのぬいぐるみ、が、ある ぬいぐるみのクマ、が、いる 駅前にタクシー、が、いる 駐車場に(停車している)タクシー、が、ある 金田一秀穂さん曰く、「ある」「いる」の違いは、気持ちのあるなし、共感できるかどうかで決まる、自分と同じように考えられるかどうか、という区別らしい。 ここまでは番組の内容なのだけれど、私がちょっと気になったのは「遺体」とか「魂」とか「霊」という言葉だ。 遺体、が、ある。 魂、が、ある。 霊、が、いる。 「遺体」というのは人やペットなど、愛着があった生き物に対して使われ、死んでから埋葬されるまでの比較的短い時間しか存在しない。 「死体」でも「死骸」でも意味的には同じなのだけれど、とりあえず、気持ちのあるなし、愛着心という観点からは「遺体」にしておこう。 気持ちのあるなし、共感できるか否か、という区別で「ある」「いる」が分けられるのであれば、死んでから間もない「遺体」は「いる」でも良さそうなものだ。 「さっき死んだお父さん」が「いる」、「お墓の中に骨になったお父さん」が「いる」、であれば「お父さん」に係るわけだから「いる」となる。 「お父さんの遺体」は「ある」となる。 同じ時間経過をたどり、全く同一の物を指す「死んだお父さん」であってもそこに区別が起こる。 「遺体」は肉体そのもののみを指す言葉であって、そこに気持ちを共有できる「お父さん」はいない、つまり観念的なところの「魂」はない、ということなのだと思うけれど、では「お父さん」が死んで体から抜け出た「魂」に「お父さん」が存在するとして、その「お父さんの魂」は「ある」となる。 また後日「霊」となった「お父さん」は「いる」となって、再び「お父さん」は気持ちを持って自分と同じように考えられる存在に戻る。 「お父さんの遺体」と「お父さんの魂」には気持ちがなくて、「お父さんの霊」には気持ちがあって自分と同じように考えられる、ということになる。 となると、物質としての「遺体」もある種生きている人の願いである「霊」も「ある」「いる」はわかるような気がするけれど、では一体「魂」とは何なのだろうか。 一応断っておくけれど、これは言葉について考えているだけで、実際に死んでいる私の父について悩んでいるとかそういうことではなく、私の死生観について話しているわけでもない。 ただ、父が死んだとき、火葬場で父の肉体が焼かれて骨になったとき、「無くなった!」と驚いたし、仏間にあった父の遺体は近寄るのが怖かったのに、骨になった父は「父ではなくてこれは骨だ」というようなことを思ったことから派生してはいる。 “「名前が変わるというのは、例えば「刺身」も「死んだ魚の生の肉」も言ってることは同じなんだけど、ちょっと違うように感じられるということなんです。「死んだ魚の生の肉」は食べたいとは思わないけど、「刺身」だと食べれます。 でも実際は全く変わらない。 つまり僕達は「意味」とか「言葉の希望」を食べているのであって、「実体」そのものを食べているわけではないんです」” これも番組の内容で、とても興味深い。 つまり生死の間にはもう圧倒的断絶があり、誰もが死ぬことを受け入れがたかったり、自分と同じ生物を殺して食べている事実を日常的に直視しないで済むように、そのような名付けがなされてきたのだろう。 しかし実際に身近なものが死んだときにはそれから逃れることはできないから、その直後には絶対に「いない」ことや気持ちはそこにないことを認識するための「遺体が“ある”」という言葉と言い回しなのかもしれないし、またそれでは生きている人間の収まりがつかないから、気持ちが存在するものとして「霊が“いる”」というふうになったのかもしれない。 言葉は何かに対して良いように充てられて存在し、それを私たちは無意識的に、あるいは意識的に選択して使っている。 私が父が死んだことを「亡くなった」とは言わないのはとても自覚的だ。 「亡くなった」では他人事みたいで実感として遠い気がしたからで、「死ぬ」という言葉の「意味」を捉えたかったし考えたかったからなのだと思う。 それで、「魂」が何なのかは置き去りだけれど。 言葉がどこかで時点でなんらかの意味を付与されて生まれたとしても、それは自然発生的なものでほとんどの場合はその命名者などわからない。 おそらくその言葉が生まれた時点の人々の生活に根差した合理的なもの、という感じで生まれていったのだろうけれど、それにしてはあまりにも言葉というものは無数にありすぎる。 言葉というのは人智を超えてそこに“在る”ものであり、全員がそれにいつでも触れることができる、”山”、“海”などのいわゆる“自然”、また“猿”、“鳥”、“人間”などの“動物”と名付けられた“自然”と同じように、言葉は“自然”なのである、と言っていた哲学者の池田晶子さんを思い出す。 ただ“在る”ものを共有する、それがコミュニケーションであるということは、私はいつかにとても腹落ちしたことのひとつである。 金田一秀穂さん曰く、「人と人とかコミュニケーションするのはセックスが最高の方法。でも全員とセックスするわけにはいかないから、その他のコミュニケーション手段として発生していったのが鳴き声であり、言語である」だそうだ。 これもそれぞれの人が持っている、“在る”ものを共有する、つまり人は存続や生活のためにコミュニケーションが必要ということに加え、私たちはいつだって人と何かしらのコミュニケーションをしたいという根源的な欲求なのだろうと思う。 まあ言語の起源などについては、言語学の分野でも哲学の分野でもとめどなき議論がなされているだろうし、その深淵たるや・・という感じだと思うし、掘るにはとても骨が折れるので、とりあえず置いておく。 しかし言葉の話というのは本当に楽しい。 洒落た言い回しとか、あまり使わないような難しい熟語も好きだけれど、そもそもの意味や成り立ちや発生源などの原理的なところもとても興味深い。 誰のものでもない言葉を意のままに扱えるのは憧れだ。 また一方で、言葉など戯言に過ぎない、という面も然りだとも思っている。 そんなことを誰か教えてくれるとか付き合って話してくれる人がいるならぜひしてみたいものだ。 途中で今のように収集が付かなくなって疲れてしまうとは思うけれども。 陽だまりの中で、過去の作品を紐解いていた。
太陽の光は、冬だって遠いだけで十分な力を蓄えている。 展覧会の出品作品は展示が終わると分厚い筒の中に入れられて返ってくる。 長いのから短いのまでその筒のサイズはいろいろあって、もう10本くらいあるのだけれど、私はそれらを一度も開封したことがなかった。 馬鹿でかい作品を家で広げる気にはならないし、過去の生臭い思い出の日記のようなものを見るのは何とも言えない気持ちになる。 今回は、お仕事の関係でそれを参考としてお見せするために封を開けた。 丸められた作品には保護紙やら出品内容が書かれた紙などが表に巻きついていて、私はこういう包装紙を取るのは何だっていつも雑だけれど、中の作品を破らないようにすることと、日記を見返す気恥ずかしさとで、手がうまく定まらなくて酷くびりびりにしかそれを剥がすことができなかった。 中身がクッキーの缶だったら、もう少し手際よくびりびりにできたと思う。 どの筒にどの作品が入っているのか判別できなかったけれど、開けたものは「月の爆撃機」だった。 それは、技術云々は置いておいて、私のやりたいことのひとつが最も滲んでいると思っている作品だ。 最近あまり大きな文字を書くことがあまりないけれど、このときは当時の引っ越し先の広さを使ってできるだけ大きいのを書きたかった。 今よりもずっと思いの方が先行していて、書きながらよく泣きそうになっていたものだ。 今でも似たような何か、を表現したくてやっていることにはあまり変わりはなかったりするけれど、あの頃に恐ろしく陶酔していた自分に、3年後の今の私はもう心の回収ができなくなってしまった。 何の言い訳なのか分からないけれど、その陶酔先は甲本ヒロトそのものというわけでは全然ない。 全然ない、というかもちろん大好きし尊敬してやまないけれど、核心的なところで言えばそういうことでは全然ない。 お前自身なんだよ、と、言葉にすればするほど陳腐になるような、それを分からせてくれたきっかけが甲本ヒロトだった。 見てきた物や聞いたこと 今まで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう(「情熱の薔薇」より) とまあ、そんな感じだった。 とか言って、ヒロトから未だ卒業できていない私がいることも重々承知で、だからこんなに揺らいでしまったりするのだろうと思う。 そう言えば、先日もとても久しぶりに彼らのライブDVDを見て、酔った勢いで泣いていた。 私は全然進んでいないのかもしれない。 などと仕事の話をしながら私は私の心を抱きしめるしかなかったわけで、翌日となって申し訳ない気分になっている。 「話半分に聞いているわけではないですから」と浮足立って言ったことはよく覚えている。 さて今日は仕事が夜からだからプールにでも行こう。 自分の体を使って稼ぎたい、仕事は夜から、などと言っていると水商売みたいだ。 なんとなく喉がいがいがしていたり、目がしぱしぱしたり鼻や顔が痒いのは、たぶん気のせいではない。
あいつが舞っているのだ。 そんなことは露も忘れていたけれど、体はちゃんと反応する。 目がやられてコンタクトが入らないというような話を確か1年ほど前に生徒さんとしていて、1年も通っていてくれることに少しハッとする。 長い方だと私が講師業を始めたそのときから続けてくれている人もいて、もう2年近くにもなる。 LTV、なんて言葉が浮かんで、確かにそういう側面は大切だけれども、商品が広義に私ということを考えるとやはり嬉しいものである。 最近そんなことを仕事にしているという話をその辺で知り合った人にすると、所謂パフォーマンス書道はやらないのか、ということをよく言われる。 私は実際にはあまり見たことがないけれど、案外方々でパフォーマンス書道は行われているようだ。 私が大勢の前に出るのがとても苦手、ということを除いても、これについては今のところ全然そそられない。 パフォーマンス書道にはパフォーマンス書道のやり方があるだろうし、それをする練習が普段の書の練習以外に別途必要だ。 書以外についてのパフォーマンスを練習をするほど、書におけるパフォーマンス自体には興味がない。 私にとって書は、できあがった紙面の良さ、がすべてだと思っているので、そこに私という生身の人間のフォルムも見た目の醸す風合いも必要ない。 どんなへんてこな格好で書いていても、現に這うように書いていたり胡座をかいて書いていたりする、正座などは滅多にしない、できあがりが良いのであれば良いのだと思う。 ただ一点、時間軸に乗った“今”という表現はできあがったものでは真空パックしようとしてもどうしても薄れる。 これにはとても興味がある。 かと言ってパフォーマンス書道は今のところしない気がするけれど、とか言ってやったらハマるのかも知れないとも思う。 いやしかし、過去にあるロックバンドのプロモーションビデオに出演させていただいたときに手が震えて2時間撮影を止めた自分のことを情けなく思い出すと単純にかなり向いていないと思う。 まあそういうのは慣れというのも大いにあるだろうけれど。 いもうとから、引っ越しを検討しているがどのようにしたら良いと思う?と相談を受ける。 子どもがふたり、マンションが手狭になった、地元に帰ることも検討したいけれど云々、という内容。 あまりに事柄が大きすぎて強いアドバイスはしかねたけれど、結局は大人が最も良い風に暮らせることが重要なのでは、と答えておく。 いもうとの家庭は、無論子どもが経済的に家庭を支援できないどころか、住環境やお友達や学校がどうこうという明確な意志を発する年齢でもない。 例えば子どものために何かを犠牲にして、親が何かをとても我慢しながら暮らしているのは結果子どものためにならない、親の鬱憤が子どもに与える影響の方が断然良くない、というのが私の意見である。 大人が嬉しくしてくれていたら子どもはどうれあれ嬉しい、と思うのだけれどそれは一般的ではないだろうか。 子どもは結局どんな環境であっても育つし、一方で思い通りになど育たない、と思っている。 親になったことはないけれども、子どもだったことはある。 案外子どもの面倒が必要であるコアな時間帯に忙しくしている私は、なかなか姪たちに会いに行けないので、おばさんとしては、是非都内にしよう!と提案してみるものの、高いから無理、と一蹴された。 私はいもうとのことがなんだかんだ結構好きなので、近くにいてくれたらそれは嬉しい。 ただ、子どものいる家庭にとって助っ人が重要であることは分かる。 しかし今の私には姪たちの保育園のお迎えやらなんやらにはほとんど行けなさそうな気がするので、私のことは期待しないでと言っておく。 なにやらとても不思議な場所に出かけた。 上手く飛べたら良かったけれど、疲労していたからか好みが違ったからなのか、上手く飛べなかった。 サービスやエンターテインメントと分かっていてもできないというか、したくないことってあるのだなと思う。 駅の自動販売機で缶入りの蜆のみそ汁を買う。 みそ汁というよりかは、具がゼロで缶入りであることも手伝って、温味噌ジュースとでも言いたいようなものだった。 別に全然美味しくなかったけど、温かさは美味しかった。 自転車で坂道を下ると、おでこが凍りそうだった。 飲み明かした朝に食べる蕎麦は美味しい、ということをやってみたくて、時間的には昼過ぎになってしまったけれど、ふらふらと自転車で帰りがてら近所の蕎麦屋さんに入ってみる。
かけ、もり、たぬき、力うどん、鴨せいろ、かつ丼、親子丼、きつねとミニカレーセットなどなど、よくありそうな蕎麦屋の筆文字フォントで書かれたメニューがずらり。 グランドメニュー外の限定メニューは、鍋焼きうどんと油そば。 小さなテレビをサラリーマン風の人たちが見ていて、円筒型のストーブの上には大きな金色のやかんが湯気を吹いている。 厨房から、なかなか注文を決められずにいる常連客に、「早く決めてくれよ、忙しいんだから」と笑い声が飛ぶ。 店主らしき人は、別の常連客と麻雀の約束をしながら煙草に火をつけた。 月見うどんを注文する。 なぜ蕎麦にしなかったのかにはほとんど理由がなくて、どんぶりを目の前にして蕎麦にすれば良かったといささか後悔した。 少し甘くて、出汁の濃い、ぐたぐたのうどん。 温かいうどんや蕎麦はぐだぐだな方がいい。 なるとと海苔と刻み葱が少しずつ乗って、真ん中に小さなSサイズと思われるたまご。 たまごは余熱だけで白身が3分の1ほど固まっていた。 しかしながら、これはこの店に限らずだけれど、私はいつも外で食べるうどんや蕎麦はどうしても塩気が強いと思ってしまう。 チーズとかカレーとかパスタとか、決して塩気が強い食べ物全般が苦手というわけではないのだれど、こういう出汁系のツユものは塩気が強いのを好まない。 食べ終わって、私も煙草を吸う。 世間的によくありがちなことを実際に自分の体に入れてみて、あぁ、とやっとその意味を体得する。 煙草は10本に1本くらい、とてつもなく美味しいときがある。 そのまた帰り道、焼きたてのパンの匂いがした。 私はパンが好きなのだけれど、この辺りにはパン屋がないなと思っていた。 一見居酒屋かラーメン屋とも思える風体の店構えで、黒い木の柵に覆われているので中は見えない。 なのに看板には「和風の居酒屋のように見えますが、パン屋です。どうぞお立ち寄りください」というようなことが書いてある。 店内は、ケーキ屋さんのような装いでショーケースにお行儀よく各種パンが並んでいた。 白肌の美しい食パン半斤と、小さなクリームパンをひとつ。 私は上京して今まで、排他的な感じのする街に住みたいと思ってきた。 ただそこに仮住まいとして街に身を置かせていただく。 だから私のことはどうぞ放っておいてください、何もしませんから、という体を取り続けてきた。 私は今住んでいる街に根付くことはないだろうし、どこまで行っても結果的には、我関せず、というのは双方にとって最終地点として変わりはないであろうけれど、この街に暮らす、ということをせっかくなので体験したいと思っている。 私が私として世界を歩くのは、ただこの日常にさえもごく当たり前にできることであるし、しかしやってこなかったことだ。 ただ、上手くできるようになるには時間がかかりそうな気もする。 鶏のむね肉がとてもうまく茹だった。 肉質如何ではなく、しっとりジューシーに、みっちりとした肉感と、旨味を保ったままに。 生肉をめったにまな板に乗せないので、鶏肉はいつもまるのまま茹でる。 塩をもみ込んだり、ハチミツとかヨーグルトとかに漬けこんだりとかせずに、それはその方が美味しいからではなく単に面倒くさいから、水から低温で茹でる。 塩を水に溶けないように鶏肉に張り付くようにふりかけ、思い出せば酒を少々入れて。 粗方熱が行きわたったところで火を消して、余熱からその茹で汁が冷えるまで放っておく。 水から、というのは「きょうの料理」でいつかに学んだ。 食べ物の話ばかりになってしまったけれど、プールに行きたい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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