ブロッコリーはどこまで食べられるのだろう。
調べてみると、あのもくもくとしている一般的に食べている部分はブロッコリーの花蕾と言ってつぼみらしいが、周りににょきにょきと花蕾を囲むようにある細い茎と、木の幹のような太い茎も食べられるらしい。 しかし、花蕾以外は皮が固く筋があるので、それを剥いて食べるとのこと。 面倒だなと思いつつ、いつもブロッコリーを食べるときにどさっと重たい量を捨てていたのをとてももったいなく思っていたので、茎も食べるべく皮を剥いてみることにした。 どのくらい剥けばよいのかよくわからないので、分厚く剥くと食べられる部分が少し取れたが、ゴミの量はどさっとしてさほど変わらないように思えた。 ところで先日、息子が人生で初めての風邪をひいた。 このご時世、なんとも風邪をひきづらいが、息子の風邪についてはなんだか少しだけほっとした気持ちがあった。 風邪による発熱は、悪い細胞を一掃する浄化システムである、というようなややオカルトめいたことを耳にしたことがある。 私もめったに風邪をひかないのだが、自分が発熱したときには「今は身体が浄化されているからがんばろう」という自らへのおまじないのような励ましをかけてきた。 一種のリフレッシュのように思うことで、体調不良の気の滅入りを紛らわせていたのである。 まあ、だからというのか分からないが、風邪くらいひかないと免疫機能がうまく働いていないのでは?という根拠なき不安がほんの少しだけあったのである。 1年3か月を経て、息子の身体は風邪の菌やウイルスと戦えることが分かってちょっと安堵したということである。 とはいえ、初めての発熱は私も身構えるものがあって、けいれんを起こしたらどうしようとか、このまま熱がどのくらい続くのだろうと不安にもなる。 何せ、1年3か月の間、便秘と肌荒れくらいで、その他の体調不良を起こしたことが無かったのである。 熱々の息子を抱っこして小児科を受診すると、発熱者は病院の中に入れてもらえず、青空受診となった。 防護服を着た先生が出てきて、主な症状である鼻水と発熱伝え、聴診器と口の中を診てもらう。 喉が赤くないから突発性発疹の可能性も低く、ただの鼻風邪でしょうとのことだった。 解熱剤の座薬と去痰剤のシロップを薬局でもらって、息子が食べられそうなプリンやヨーグルトを買って足早に帰宅。 息子の顔はいつもよりもむくんでいて、ぼうっと動きが鈍く、明らかなかぜっぴきの様子である。 思ったほど機嫌は悪くはない。 いつもならドアを開けたりキッチンの引き出しを漁りにいったりなど大変だが、手元で遊んでくれてちょっと助かるなと思った。 解熱剤は38.5度以上で機嫌が悪く寝れないときだけ使ってくださいということだったが、丸一日ほど38度以上熱はあったが、結局使わずに済んでしまった。 仕事もキャンセルさせていただいて、つきっきりで息子の看病にあたったわけだが、なんだかいろんな気持ちになったなあと思う。 仕事を休まなければならない歯がゆさや、世の働くお母さんの気持ちの想像、病気のときに甘えたい気持ち、しんどそうな人を見る辛さ、看病といっても基本的には暇なのでテレビドラマでも観たいのだがなかなかそうもさせてもらえないやり場のない気持ち、私や夫にこの風邪が移ったらどうしようという不安、いろんな思いがないまぜになって浮かんでは消えていった。 それもこれも、息子の風邪が軽度であったからだと思うので、もっと酷ければこんなに悠長でもいられなかったと思うけれど。 夫は仕事を半日でも休もうとしてくれたが、結局はお母さんが対応した方がスムーズなことが多いし、俄然私の方が調整しやすい仕事をしているので、このようなことがあったら基本的には私が看病にあたることになるだろう。 幸い土日を挟んでいたので、保育園は一日だけしか休むことなく、息子は少しだけ鼻水を残して復活した。 やっぱり、元気が一番。
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最近、毎日の書を書くときにYoutubeを聞いていることが多い。
今更だが、YouTubeには膨大な数の動画がアップロードされていて、音楽系の動画は昔よく漁っていたが、それ以降は幼児向けの動画以外あまり自分で見ることはなくなっていた。 それは、この頃のコロナの影響で各有名人の方が動画を始めたなどという話もよく聞くし、身近でも書道のYouTubeをアップしている人もいるし、それより何年も前からユーチューバーだった人もいるわけで、何やらもう視聴者としても参入できないほどの興味深い動画がたくさんあるので逆に手がつかなかったからである。 きっかけは、ふと、おすすめ動画に上がっていたキングコングの西野さんの動画を見たことである。 彼は、お笑い芸人であり、絵本作家であり、国内最大のオンラインサロンのオーナーであり、会社の社長である。 テレビに出なくなったことや絵本を書いていることやビジネスマンとして注目されていることは以前から知っていた。 あとはもう芋づる式に関連動画が出てくるので、メンタリストのDaigoさんとか堀江さんとかオリエンタルラジオの中田さんや藤森さんや、カジサックや落合陽一さんや。 私は本を読むのが苦手なので、耳学問的に面白そうな話を聞けるのはとても楽しい。 しかし、Youtubeはテレビなどに比べるとかなり小さな人数単位で作られていて、主演者の意図や主張をとても強固に押し出してくる。 出演者の映像だけではなく、テロップもバズーカ砲のように連射されてくる。 まあ今上に挙げた人たちは、このような傾向がより強い人たちばかりかもしれないが。 身構えてしまうほどに圧が強いと感じるのは、私が聞いているその内容への素養などが少ないからだろうと思う。 しかしながら、自分の意見や見解を持たずして、「あるひとつの考えや主張」ではなく、「これが世の中の最先端の考えや主張」というふうに無自覚的に聞いてしまうと、聞く側にかなり偏りが生じてしまうのではないだろうか。 人気の高い動画というのは往々にして、端的であり、テンポが速く、刺激的なものである。 まあ私の場合片手間で聞いていることもあって、内容を詳細に思い出せないことも多いのだが・・・。 また一方で、内容よりも、その人のYoutubeの動画におけるスタンスのようなものがすごく頭にこびりついて、私の中でのその人の人間性を印象付けている。 発声の仕方や間の取り方、スピード感、誰かと対談するときに役割分担など、もちろんいろんな工夫の結果なのだと思うけれど、かなり人物イメージが固まってしまい、好き嫌いというか苦手に感じてしまうことも出てきてしまう。 まあ、私が彼ら本人にお会いすることはないと思うからいいのだが、残念に思ってしまうこともあるものだ。 今日は現代アートの解説動画などを聞いている。 このあたりのことは、最近少しずつ勉強をしているので、解説者が異なる場合にも言っていることが分かるようになってきた。 いかなる分野のことを知るときも、まずはその分野の歴史・文脈の大枠を知っておいた方が良い。 というか知らないと、歯牙にもかけないということになりかねない。 アートは感じれば良い、というのは最終地点であり、その前の素養を身につけることは、アートをより楽しむための下地になる。 重要人物、年代、主要作品、歴史的意味、そんなことがようやく少しずつ私に入り始めてきた。 ダダ、シミュレーショニズム、ポップ、ネオポップ、シュルレアリスム・・・ 私が現在のところ作品のテーマとしているものはあるのだが、果たしてどういう位置づけになるのかはよくわからない。 しかしながら、自分の作品について美術的に何か語れることがあった方が良いのかもしれないので、もう少し勉強を続けてみることにする。 あれよあれよあれよあれよ。
ものすごいスピードで日々が転がっていく。 一体全体、なにが起きているのだろうか。 こどもの頃、授業と授業の合間の10分間にドッジボールなどをしていた記憶がある。 25分の休みには、大掛かりに皆で遊ぶドロケイなどをやっていたかもしれない。 そのような内容のツイートをどこかで目にしたが、本当に本当に気が知れないことである。 ついでに授業中に眺める時計の針はとんでもなく遅々と進んでいたことも思い出せる。 今、私の感覚において、10分なんて時間はひと呼吸かふた呼吸しているうちに過ぎてしまう。 さっき11時だったのを確認したが、もう一度時計の方を一瞥するとすでに11時半を過ぎている。 この間に子どもはドッジボールもドロケイも両方できてしまうかもしれない。 すべての物事はどうにも主観でしか捉えようがないとすると、年を取れば取るほど、時間というのは絶対量も少なくなっていき、何かやろうとすると重要性や希少性が高まっていくことになる。 反対に、子どもにとっては、その潤沢豊富な時間にやることがないとすると、まさに時間の牢獄とも言えるような体験にもなりうるのかもしれない。 事実、確かに私の子ども時代には退屈という言葉であふれかえっていたし、特に休日の昼下がりに大人が皆昼寝をしてしまうような時間が嫌いだった。 かといって、大人になった今、今子どもである子どものあふれんばかりの潤沢豊富な時間すべてを満たしてあげることはできまい。 無論、親や友達だけでもうまくはいかないだろう。 ということは、自分だけで楽しめる、奥深い何か、できれば目に見える創作物がある何か、を手に入れることを子ども時代から身につけることは人生が豊かになりそうである。 好きなこと、熱中できることがありません、という悩みはおそらく思いの外多くの大人が持っているだろう。 私は息子のことは本当に大好きなのだが、所謂子どもが好きなように遊びに付き合ってあげることは得意ではない。 絵本を読んであげることも、一緒にハイハイすることも、お絵描きすることも、型はめすることも、しないわけではないけれど、本当に超短時間で私が飽きてしまって止めてしまう。 息子が気に入る動画を探して、そればかりを見せてしまったりもする。 このことに多少の罪悪感を抱かないわけでもなく、その罪悪感というのは薄く心底にこびりつくようなものなので案外しんどいのではないかと思う。 ここで重要なのは息子の意思である。 まだ息子は喋らないし、イエスノーの表現もあまりしないのだが、楽しそうにしているしていない、という状態は十分に見て取れる。 自主的にひとりで楽しめるものがあれば、こちらの罪悪感も少しは軽減できるのではないか。 まあそうは言っても、どのおもちゃにもあまり熱狂的になったことはない息子であるので、ここから試行錯誤ではあるのだが。 私の気紛らわしに、水で描けるお絵描きグッズを買ってみることにした。 あとは、地域の体育館で教えてもらった、猫用の自動で動くボールを買おうか。 大人が感じている濁流のような時間感覚と、余りある子どもの潤沢豊富な時間感覚の違いを自覚した上で、上手く付き合えたら良いなと思う。 日曜日の今日、レッスンを終えて、息子にお昼ごはんをあげていたら、もうどうにもこうにも眠いらしく椅子の上で目を閉じ始めた。
食べながら寝る子どもの姿というのはよくある話だと思うが、誤飲や窒息のおそれがないとも言えないので、食事中に眠くなったら起こすか、あるいは早々に切り上げると良いと何かの記事で読んだ。 無論何事もそうであるが、似たような経験がないと、その些末に聞こえるような話はさっぱり耳に入ってこないものだ。 子育ての常識というのは、子育てをしていない人の常識と結構な乖離があると思う。 それほどまでに、私はかつては子育てに無関心であった。 息子の口を拭いて、椅子から降ろして、布団に連れていき、乳をあげる。 彼は5分もしないうちにすやすやと眠った。 さて大人はコーヒーでもと、夫はコーヒーを淹れてくれたが、自分は難しそうなハードカバーの本を腹に乗せたまま眠ってしまった。 皆、寝ている、静かである。 こういうのを幸せというのだろう、と思うが、私はこの状況を自分の心に問うてみたが、特別な幸福感をという感じではない。 もちろん悪くはないし、良いけれど。 私がこのことに特別な幸福感を抱かないのは、「こういうものが本当の幸せってもんだよ」という一般通念への反発も入っているような気もする。 けれど、やっぱり私にはその幸せはちょっと物足りないので、もう少し欲張りに幸せになりたいと思う。 私も昼寝をしたい気持ちもあるのだが、せっかくこの両手の空いた静寂の時間を無駄にできまいと、逆に変に気忙しくなってしまう。 パソコンを開いて、頼まれている事務仕事を片付けて、ついでなのでこれを書いている。 息子は2時間くらいお昼寝をするだろうか。 そしたらあと1時間でお字書きをしよう。 それに、今日は夫の誕生日である。 リモートワークが主になっている夫には既に大きめのデスクチェアをプレゼントした。 誰しも体調不良を責めることはできないが、なるべく健康でいてもらいたい。 結果的に何が奏功するかはわかりかねるが、日常の多くの時間を使う仕事については、快適にやってもらいたいものだ。 腰痛さえもなく、元気にやってほしい。 息子と夫が起きたら、お散歩がてらケーキ屋にでも行こう。 さて、WEB個展の日取りを決めた。
2020年11月5日~30日、である。 これと言って特別な日取りでも何でもない。 宣言するところから始める。 そうしないと個人が勝手にやることなのでいつまででも先延ばしが可能である。 とりあえず、やる、やるのだ。 作品は、ほとんどこのために新たに書いている。 こだわりは、全て自分の言葉を書くこと。 誰かの詩や句を借りることを今回はしない。 一部普通の単語や熟語は書いているけれど。 一応販売もする予定なので、BASEというショップサイトを間借りしてやることにした。 アカウントを立ち上げ、簡単な設定を済ませ、題字を書いてサイトの上部に設置までを行った。 ちなみに、展覧会の名前を「竹内恵美子 狼煙展」とした。 個人として仕事をしていたり、SNSやこのHPなどに作品を載せたり、団体の主催する展覧会に出品はしてきたが、何せ個展などやったことがない。 個展をやるような人は、個性と実力に溢れていて自己顕示欲のとても強い人がやるものだと思っていた。 私など到底その個性や実力に及ばない、そう思ってきた。 しかし、個人が勝手にやる個展など、実際にどういう状態だって別に構やしないのである。 その個展が成功するか否か、それは全く別の話だけれど、やること自体、誰の許可もいらないのは当然のことである。 この広い世界で、細々と何かの影に隠れて活動をしてきた節があるが、とりあえず観客が何人であろうと全世界に向けて狼煙を上げる。 当然のことながら現在存在する私の立ち位置を表明する。 そういった意味合いを込めて、「狼煙展」なのである。 たくさん血迷ったことが出てきそうである。 初回はたくさんの失敗や反省をすれば良いのだ。 とにかく、狼煙を上げることが本目的としておこう。 他人からすれば本当にどうでも良いことだと思うのだが、本人にとっては一大事で、すでにどきどき高揚している。 まだ準備中ですが、URLを載せておきます。 https://emikonoroshi.thebase.in 今のところ、Instagramのみで公開している作品と、未公開作品をアップする予定なので、このブログでご覧いただいているものではありません。 「忙しい」と口にすることをあまり良しとはしていない方である。
それは、「忙しい」という人は本質的に「忙しい」のかどうなのか疑わしい事例をたくさん見てきたからなのかもしれないし、私のような暮らしぶりは「忙しい」に値しないような気がしているからかもしれない。 どちらかというと後者の意味合いが大きく、私は自営業という形態における少しずつの優越と罪悪の意識をしっかりと解せぬまま持っているところに、「忙しい」をあまり口に出せない由来があるような気がする。 まあ「忙しい」と発することに客観性など必要ないのかもしれないし、どこまでいっても主観しかないこの世界において尚、なのだから、これは欺瞞の一種であろうと思う。 ところで、会社員である夫の自営業への理解が、自営業の私よりも深くて日々驚くばかりである。 自営業の辛さや楽さ、というのは、良し悪しや度合いなどはさておき、会社員のそれとは大きく異なる。 私は、その自営業の辛さや楽さを会社員のそれと比べて、広範的総合的に楽さの方が勝っていると感じているので自営業をやっている。 おそらく、夫は、辛さや楽さという指標ではなく、もっと広範的総合的「良さ」において少なくとも今は会社員を選択している、という感じなのではないだろうか。 ちなみに私が数年前会社員を辞めたとき、自営業と会社員のそれをきちんと比較して納得してから会社員を辞めたのではない。 そのとき私は到底会社というものにいられるような心境ではなく、勢いづいて辞めたにすぎない。 会社が悪かったわけでは全くなく、自分の事情において、である。 けれど、結果的にその私の心境における選択は今となって考えてみても、今を含めたこれまでのところ一度も間違っていたと感じたことはない。 これは、かつてひとり暮らしで一度も寂しいと思ったことが無いということと似ている。 さて、私は、何か自分の創作、制作に時間や労力を費やすことを、”余分な贅沢”のように思っている節がある。 夫はこれを、れっきとした仕事、と認めてくれるのである。 私が好きで出向くアートの展示会や、友人に招かれた展覧会に行くことも、夫にとっては仕事になるらしい。 「行って楽しんできなよ」というのもあるが、「それは仕事だから是非行かないと!」という感じで押し出してくれる。 無論、私の創作物や展覧会に出向くことは少なくともすぐにはお金になることでも何でもない。 当人にとっては、何になるか、何にもならないかもしれない、そんな不安を抱えながらそれでもやっているそのことは、少しだけ後ろめたい気持ちがないわけではない。 一緒に暮らす人がふたりもいる今、私だけ”余分な贅沢”をしていて良いものだろうか、と傍若無人に見えているかもしれない私でさえ思うものである。 普通なら毎日何時間もお字書きに費やすなて、いつまで遊んでいるのと怒られるようなことのように思っていた。 ”余分な贅沢”をしている私が「忙しい」などど口にしてはいけない、そんな風に思っていた。 もちろん、私の仕事は字を教えていたり依頼物を揮毫するためだけに直結することをやっているだけでは成り立たない。 日々のあれこれを全部含めて、自営業、自分営業、である。 だから、自己研鑽的な活動はすべて、仕事、と言ってもいいはずである。 お金をすぐさま生み出すか否かに関わらず。 ということは私自身が一番分かっていないといけないと思うのだが、何だか夫の方が理解が深いらしい。 先日、近くに旅行に行った際、私はいつものお字書きセットを忘れてしまったことを最寄り駅に着く前に思い出した。 それを言うと夫は、「戻る?待ってるから」とやや神妙な顔つきで即座に言った。 私が驚いている場合ではないのに、驚いてしまった。 まあでも、いつもの道具でない、コンビニで買ったような有り合わせの道具で書く新鮮さもあるので、このときはそのまま戻らずに出かけることを選択したが。 私の深層で、自営業やアーティストに対する一抹の蔑みが未だあるのかもしれない。 家事や育児についても、アンペイドワークに対する理解や経緯が足りないのは私の方なのかもしれない。 夫のこのような態度に、私は居住まいを正す気持ちがするばかりである。 話は変わるが、「大津絵」を東京ステーションギャラリーに観に行った。 ここにも私の目指したいものがあるなあと思った。 とても良かったので記録しておく。 11月8日まで。ネット予約制。 是非、もう一度行きたい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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