アロマティカスがいよいよぐんぐん伸びて、このままでは鉢を自分で倒して自殺をしてしまいそうな感じになっているので、長く伸びすぎているところを切って水挿しにする。
植物を切る、という行為はなんだか痛々しく思えてしまって私はあまり好きではない。 でも、間引きや剪定という言葉があるように、あるいは人間が髪や爪を切るように、必要に応じて切ってあげることは植物にとっても過ごしやすくなったりするのかもしれない。 どうなのだろう。 水挿しにする手前、何枚かは葉っぱを落とさなければならない。 まだ青々と瑞々しい葉っぱをそのまま捨てるなんて、と葉っぱを濡らしたキッチンペーパーに挿しておくことにした。 葉っぱから根が出てくるということを何かの記事で読んだことがあるからだ。 数日後、水挿しにした茎のある方は水の中でぐんぐんと根を伸ばしてきた。 先端部はぴょこっと動物の赤ちゃんとその風合いはそっくりな新しく小さな葉が出てきている。 私が植物が好きなのは、伸びるからである、増えるからである、成長するからである、動くからである、静かに、黙って。 そして、記事の通り、切り取った葉っぱからもちろちろと根が伸びているではないか。 生首のような葉っぱから手足が生えてきている様相である。 植物の葉緑体が持つ光合成という能力は本当に底知れない。 また、アロマティカスの成長力は本当に著しくて面白い。 秋が深まらないうちに土に植え替えようと思う。 そしたら欲しいと言っていた生徒さんにプレゼントしよう。 句会の締め切りが迫っている。 全然できていないのだが、間に合うのだろうか。 最近はいつもそんな感じだけれど、最近の中でも最もできていない。
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初めて神宮球場に野球を観戦しに行ったり、豊島園にある庭の湯というスパ施設に行ったり。
思い出したかのように夏をやっている今年、私も逃さずキャッチできた気がして嬉しく思っている。 ちなみに私は野球にはさっぱり興味がないどころか、夜のスポーツニュースなどで野球について始まると反射的にチャンネルを変えてしまうほどだ。 多分恐らく、幼い頃、私がルールも楽しみ方も分からない野球に父や祖父によってテレビが占領されて、見たい番組が見られないという嫌な思いをしたことが原因のような気がする。 そして試合が長引いていればその後の番組が押されて、ドラマが時間通り始まらない、あるいは、当時の録画機能では遅れた開始時間を察知することができず、60分丸ごと忌み嫌っている野球を録画してしまった、なんてこともあったものだ。 まあでも今は、野球は国民的スポーツなわけでこんなにもたくさんの人を魅了しているのだから、私がその面白味を理解していないだけだろう。 と言っても、私は各種スポーツ観戦にものすごく深く興味が持てるとは思えないのだけれど。 しかし、神宮球場は気持ちが良かった。 休場は当たり前のごとく丸くて皆が見渡せて。 空が広くて丸くて。 グラウンドはつるりと整備されていて絵みたいで。 とても蒸し暑い昨日だったけれど、私にとってはそこでビールを飲むには丁度良いくらいの気候だったし、人々の熱気の上から時折吹いてくる夏の夜風は心地よいものだった。 野球は合間合間の時間が長いので、生の試合をだらだらと観戦しながら飲むビール目当てで来ている人も多いと思う。 昨日は通常700円のビールが半額350円だったというのもあるのかもしれない。 テレビ観戦のみならず、ビールの値段に関わらず、シーズン中は何度も球場に足を運ぶという人も多いだろう。 デートらしきカップルも多かった。 球団が売買されたり、名だたる大企業スポンサーがいくつも付いていたり、花火が上がったり、チアガールが踊ったり、始球式と途中の場和やかしに氷川きよしが出てきたり、各種応援グッズが充実していたり。 そんな訳も、頷ける。 前の席の30代くらいの男性ふたりがビールの大きなカップを6個くらい積み上げながら球団歌を熱唱していたのと、外人さんが英語を張り上げて応援していたのは印象的だった。 野球選手のお尻が大きいことくらいは知っていたけど、ピッチャーの投げる球が思っていたよりもヒュンと速球であったこと、ピッチャーのお手玉のように扱う白い粉袋、意外と長い距離を走らねばならない広いグラウンド、ひたすらに黒子のように球拾いバッド拾いをしていた小柄で機敏な男性、スライディングを本当にすること、飛球が来たら避けられそうにないこと、筒香がすごくて人気なこと、そんな普通のことを身をもって知ることができた。 豊島園の「庭の湯」は水に浸かるのやパチャパチャするのが好きな人にはとてもおすすめである。 レンタル水着があるので手ぶらで行ける。 顔を付けてはいけないので泳ぐプールではないけれど、プールのような広さがあったり、露天風呂があったり、サウナや岩盤浴があったり、マッサージチェアがあったり、昼寝の畳部屋があったり。 フィリピンの温泉プールは泳げたから良かったけれど、積極的にリラックスするのであればここも負けてはいない。 汗が上手にかけない私はサウナも岩盤浴も辛かったけれど、定期的に通えば気持ち良く汗がかけるようになるのかもしれない。 底から強烈なジェットが出ているプールがあって、その上に足裏を当てると自分がロケットになった気分がして楽しかった。 そして今日、国立新美術館で会期中の読売書法展に伺う。 作品数がとてもとても多くて全然全部見切れない。 書道をやっている人ってこんなにもこんなにもたくさんいるのか、と単純に驚く。 併設されたショップで、猪豚の真っ黒で穂の長い筆と、アイロンでやる裏打ち用紙を買って、Amazonでコンパクトアイロンまで買った。 アイロンをかけて着る服は着ないので、アイロンは持っていない。 美術館の奥にある、座り心地の良い椅子で休憩がてら夏のお出かけについてを書いている。 青森から、とある書家の方から封書が届く。
先日、作品をお互いに交換し合う約束をして、それが届いたのだ。 会ったことも、話したこともない、でも、年に1度しか会わない友人よりは互いを知った気になっている。 ブログ仲間のようなものだ。 私は青森へ、自宅のトイレに飾ってあった井上有一の言葉を書いた細長い書をくるくる小さく巻いて送った。 届いた大きな茶封筒には、表の方にはクローバーの紙が貼り付けられていて、そこに私の住所と名前が比較的慎ましやかに横書きで書かれていた。 裏側にはその方のご住所とお名前が縦書きに威風堂々という感じで縦書きに書かれていた。 名前は特に、威風堂々、と。 書家の字は、作品として書かれたあるいは自分流に書いた書家の字は、一言で言うと、おしなべて、読みづらい。 おそらくそのことをその方も分かっているのだろう、宛先の方は郵便屋さんに優しい字で書かれていた。 封筒の中身は、私がリクエストした私の俳句の書、「花弁雪」、自作の書のポストカード2枚と、お手紙。 リクエスト以外にも色々と送ってくださって、しげしげと私はそれらを見つめた。 作品も素晴らしいのだけれど、私はやっぱり手紙に感動した。 手紙、という作品になっている。 本格的な古典に根差した人が書く日常の字は、凄味がある。 線が凄い。 その一方で、パッと見は私でも読みづらい。 古典仮名を学んだ人のやり方が見てとれる。 でも、読み進める前に、なぜなのかよく分からないけれど、不意に泣きそうになってしまった。 書は体を表すとはよく言ったものだが、書いている筆の音がしそうなほど臨場感のある読みづらいお手紙の書に私はじんわりとしたものを感じた。 それに、こんなふうに、生身の私を介してではなく私から切り出された書によって見知らぬ人と交流が持てているのだなあということを嬉しく思った。 もちろんFacebookというSNSが交流源なわけで、純粋に書のみが交わしている何かではない。 でもある程度、書が物を言ったと言っても良いだろうと思う。 でも私が目頭を熱くしたのは、おそらく、社会性というものを限りなく取り除いたところの交流をお手紙の温かみに見たからだろうと思う。 それは内容ではなくて、全体感として。 自分自身が、あるいは他者が、いかに意識的・無意識的に社会的であるかに気付くことは想像以上に難しいことだ。 ここで言う「社会的」とは「他者を気にして意識的・無意識的に振る舞うこと」とも言いかえられる。 純粋な自己というものは日常の各所に散りばめられているものだと思うけれど、それは瞬間的刹那的で、それを自身が認識したと同時にいつの間にかするりと逃げられてしまったりする。 言葉や論理の限界にいつの日か気付いて、それでないものの価値を知ったような気がしている。 アートと呼ばれるものの役目は、言葉や論理の限界を飛び越える伝達手段にひとつはあると思う。 私は言葉や論理も大好きだけれども。 最近買った篠田桃紅さんの「人生は一本の線」という文付き作品集にもあった。 「私の言葉なんて、無意味です。百万の言葉より、一本の線が私の伝えたかったことです。」 確かに彼女の作品は、「ほぅ」「ふむ」「うん」「あぁ」と思ったりする。 となると、今回いただいた手紙、読まなくても十分なのかもしれない。 私は言葉が無意味だとは露も思わないけれども。 言葉の世界にも、その言葉そのものが指す意味だけを伝えるのではなく、何らかその記号を飛び越えて醸し出す、匂い立つ言葉というものもある。 それはたぶん、アートなのではないかと思う。 とか何とか言って、手紙の内容は気になるので拝読した。 以前メッセンジャーでお聞きした、私と誕生日が同じであること、二番目の娘さんと私は同い年であること、そして私の書がその方の書と似ていると思うこと、そんなことが書かれていた。 「恵美子どのの書は私の書に似ています。いやもっとセンスがあり、頼もしく思っているところです。」 もっと目頭が熱くなってしまったではないか。 今日はもうひとつ、ささやかな良いことがあった。 以前から私が隠れファンであったブログが再開されたというお知らせを別の方からいただいた。 出産や子育てでブログを離れていたそうだ。 飽きの来ない滋味深くやさしいおいしさの文章。 ほんわかとしたお味の中に、シェフのお人柄が醸すこだわりの強さが文章の骨格になっている。 最近「ドグラ・マグラ」や篠田桃紅さんの、比較的先鋭的な文章を読んでいる私は、そのブログのおいしさを楽しみにしていた頃の暮らしを微かに思い出して懐かしさを思った。 その人が仕事でもなく誰かに頼まれるでもなく、好きで日常的にやっている露出物って良いよなあと思う。 もちろん何でも良いわけではなくて、何かしらの面白味がないとダメなのだけれど。 約束までの時間があるとき、仕事までの時間があるとき。
出かけたりご飯を炊いたりなど時間がかかることはできず身動きは取れないけれど、準備はもうできていて少し時間を持て余してしまう、そんな細い時間が生じるときがある。 そんな細い時間にちょっとした簡単だけれど面倒な雑務を行うと、ものすごく効率的に時間が使えた気になって、ものすごく満足することがある。 ブログや書作は細い時間でやるものではない。 昨日は、約束の時間まであと1時間、翌日提出のお題も書きあげて特段他に書きたいこともない、そんな時間がふっと生まれた。 葉書や小さな紙が入っている箱がごちゃごちゃっとしていることは前から気になっていたので、何となくそれを整理し始める。 いろいろな紙の種類が入り乱れて、どれが何枚くらいあるのか全然把握できてなかったけれど、種類別にきれいに箱に並べ直した。 在庫は潤沢にあって、もちろんそれは使うためにあるのだけれど、きれいに並べたからこれを崩したくないな、とほんの少し本末転倒なことを思ったりする。 この作業は案外すぐに終わってしまったので、アロマティカスの枯れそうな葉を取り除いたり、机の脚に溜まっていた埃を拭いたり。 クローゼットを開けると、久しぶりに服でも捨ててみようかと漁り始めた。 最近本当に服は買っていないので増えてはおらず、少量を着まわしているので当然のごとく、廃れた服が増えてきた気がしていた。 ここ数年の服の買い物は短期的な自分の流行りですぐに捨てたくなるようなものも少なく、比較的長持ちしてきた。 しかしようやく、どれもこれも古くさい感じが募ってきたように急に思えて、どれもこれも着ようと思えばまだまだ全然着られるし嫌いでもないけれど、一方でどれもこれも言うなればほとんど捨ててもいいように思えた。 捨てても捨てなくても良いのだけれど、捨てたい、という衝動的な思いを満たしたいがために大きな買い物袋一袋分くらいは捨てることにした。 ターゲットは、着心地がよろしくないもの、サイズ感がやや合っていないもの、ショートパンツ。 色やデザインは気に入っているけれど装飾のビーズやスパンコールが肌に当たって痛いとか、生地がだるだるすぎて肩が落ちてしまうロンTとか、いつも履くたびに丈が微妙だと思い続けてきたショートパンツいくつかとか、着ぶくれして見えるチュニックとか、もらいもののジャケットとか。 漁っていると、そう言えばこんな服を持っていた、とその存在を思い出すものもあった。 いつもよりもお化粧を盛って着てみようかしらと思うワンピースとか、てろてろ生地のブラウスとか。 捨てる捨てないを逡巡することもなく、大きめの買い物袋はいっぱいになった。 ずっしりと重いゴミ袋を高揚とした気分で持って、ゴミ室に捨てに行く。 まだ残り時間があったので、食器の洗い物を済ませ、コーヒーを詰め替え、各種植物たちの水やりをし、気分転換に花瓶を別のものに変えたりした。 青森の書仲間に送る書を選んで梱包もして。 早めに出て郵便局へと思ったけれど、休日であった。 難しくもなければ、すぐにやる必要もないこれら雑用ごとを、何も成果が無くとも当然のような細い時間に、幾つも完遂できることはある種のちょっとした興奮状態をもたらす。 目に見える成果物が残り、有能感と達成感を味わえる。 別にそんなことができたところで誰かから褒められることは全くないのだけれども。 でもちょっとした良いことには違いがなくて、良いことは誰かに聞いてもらいたくて。 小さな子どもなら「ねえねえお母さん!こんなことがあってね!」と母親に話すのかもしれない。 SNS慣れしている人ならSNSにアップするのかもしれない。 しかしこの場合、あまりにも事が些細なのでわざわざ人に話したりSNSで共有するようなネタでもない。 ここはやはり、孤独の王様でいられるブログが適している。 そんなわけで、せっせここの文章を書いているのである。 何とも夏らしくない八月である。
向こう一週間も雨やら曇りやらで気温も低いらしい。 数日前、肌がちりちりと火傷をするのではないかと思うほどの熱さだったが、あんな感じが夏らしくて良い。 でもまあ、あの日が5日も続けばきっと暑さには飽きて、漏れなく疲弊してしまうのだろうけれども。 山の日、私はとても久しぶりに丸一日休みだった。 13時まで寝て、さてと残り物でごはんを食べて、さてとドラマ「黒革の手帖」を観て篠田桃紅さんのETV特集の録画の2回目を観て。 そして「科捜研の女」を観ながらほんの少しだけまたうたた寝をして。 今日はひとつ、やりたいこととして目標を持っていた。 もうブランクが1年半くらいになるだろうか、長らく行っていないプールに行くこと。 私は本当に自転車移動以外の運動を全然しないので、体力増進・健康管理にために運動習慣を持ちたいと日々確かに思ってはいる。 体力が落ちている、そんな気がしている。 この前やった卓球はとても楽しかったけれど、卓球は相手が要る。 運動習慣として確立するには、ほとんど自分の都合だけでやれるということが大切である。 プールだプールだと1年半前は日常に組み込めると思って嬉しがっていたのだが、なぜ行かなくなったかは、生理のせいというのがひとつ、もうひとつは行かなくなる最後の回で泳いでいる途中で少し水を飲んでしまっでプールの真ん中で咽てしまったことにある。 普通に陸上で咽ても辛いのに、私たちは水の中で呼吸はできないわけで、水に囲まれた場所で咽るなんて軽くパニックである。 昔、ベトナムのニャチャンの海でもそんなことがあって、咽るならまだプールの方が俄然マシだけれど、私にとって水がたっぷりあるところというのは少なからず怖いものだという認識がある。 もちろんその一方で、水に身体を委ねているという地上の重力からの解放と、きらめく水の世界はとても気持ちが良い。 泳いだ後の感覚も、じいんとしてぼおっとして気持ちが良い。 今日を機にまた再開しようと心に決めていたのだが、あれよあれよと時間は過ぎて18時半を過ぎてしまった。 重すぎる腰を上げて、家で水着を着て適当なスカートと羽織り物で水着を隠して、プールまで自転車を走らせた。 咽ないようにやや気を使いながら、やや緊張しながら、500メートルを泳いだ。 やっぱりプールは気持ちが良い。 もう少し人が少ないと良いのだけれど。 シャワーを浴びて風呂に浸かって、気まぐれに血圧と体重を計ったら、両方とも値が下がっていた。 特に何かをしているわけではないのだが、ここ数年で体重は一番低いものを見た。 血圧は相変わらず上が100を切る。 ビタミンウォーターを買って、ぼおっとする身体のスピード感に合わせてスポーツジムを後にする。 プール後のぼおっとする感覚は、大泣きをした後の頭痛以外の感覚と似ている気がする。 カットされたスイカを買って帰る。 別に普通のことだけれど、その水分量の多さに驚いた。 植物はこんなにも水分をどこから得て蓄えているのか。 しかもきれいで甘い水分になってだ。 Facebookの毎日あるお題を書くグループで、初めてそのお題を担当させてもらった。 お題は「秋風」とか「がんばろう」とか何でも良いのだけれど、私の一発目は一年前の夏の句「灼岩(やけいわ)に想像の目玉焼きを焼け」にした。 自分で紡いだ俳句をみんなに書いてもらうという贅沢。 とても気に入った作品を書かれた方がいて、その方に「ください!」と頼んだら、快く送って下さると言う。 ついでに、私の書も何か欲しいと言われる。 どれを、どんなふうに、差し上げようか。 そこら中で夏祭りをやっている。
地元定着感が少ないように思える都心の街で、さらしを巻いて法被を着た人たちが沸いてくるのは、私がこの辺りのことを単に知らないだけなのかもしれない。 まあでも、地域コミュニティというのは何にしても昔から苦手なので、仲間に入れてほしい気持ちは特にない。 というのは、強がりなのかとちらりと自分を一瞥してみたりする。 和笛の音を聞くとやや切ない気持ちになる。 昔からあまりグループで行動することがなかった私は、今でも誰かと会うときは二人のことが多い。 3人や4人のときがあったとしても、それは特定のグループではなく、ピンの人間たちばかりである。 と思っていたが、句会の仲間や書の仲間は特定のグループがいつのまにかできていて度々集まっている。 私より20以上年上の方が多く、それぞれに皆書がうまい人たちばかりだ。 個展の話をしていて、ひとりの方は神戸やミラノで個展を開催したらしい。 また他の人も、グループ展などを積極的にやっているらしい。 個展。 自分の作品だけを並べて展覧会をやる。 個展、こてん、コテン・・・。 すごい人、がやることであって、遠い目でコテンに思いを馳せたことがないわけではない。 しかし全然現実味を抱いたことがない。 ましてや海外!なんて度肝を抜かれるほどの思いがする。 もちろん、海外でも書はある程度受け入れられるだろうとは思っているのだが、西洋の方々からすれば、東洋異国のモノクロアート!みたいな感じで見られるのだろうか。 書は言葉を扱っているので、その意味が分かった方がより面白いとも思うし、いや、そもそも書をやっていない人からすれば日本人だって書に何が書いてあるのかほとんど不可解なものも多いわけだから、そういう意味では変わりなく見られるだろうか。 日本人の書をやっていない人の書のイメージは、「敷居と格調が高そうで、修行をたくさん積んだ精神性の高いもの、ついでに言うと、何で記号である字をあのように字をくずす必要があるのか、読めない、分からない、自分には関係ない」というような厳かなイメージの反面、奇特な人を避けたいというような感情も抱きがちなのではないだろうか。 まあ事実、これは私が書を本格的に志す前に思っていたことなのだけれども。 字は日本人皆が扱えるものであるがゆえ、書において分解再構築する価値が分かりづらいのだと思う。 本当は、歌うことやギターを弾くこと、絵を描くことと同じなのだけれども。 だからそういった意味においては、海外の人々の方が記号の意味が分からない分、純粋な目線でそれを観てくれるのかもしれない。 どこどこの場所が1日1万円で借りられて広さの割には安い、などという現実感のある話をしながら、今一度自分が何をしたかったのかを考えてみる。 あるひとりの方が「グループ展やる?」と軽い感じで言っていた。 それは単純にとても楽しそうだし、いろんな費用や雑用を折半できる点では良いかもれない。 だが方向性がばらばらで、ちょっと喧嘩してしまうなんてことが起こりはしないだろうか。 最近、とあるレッスンを受けていて、何だかまた触ったことがないことに触っている感じがする。 あれ私こんなことやって良かったんだっけ、なんて思ったりして、それはそれでただ己の開拓不足であることには恥じなければならない。 でも有り難く受けている。 なんだかドキドキして心が浮つく。 使っている筆入れ、といっても商売道具のペンや筆ペンなどが一式入っている大きな化粧ポーチのようなもの、が壊れてしまった。
チャックを開けても閉めても、チャックが開いてしまう。 財布のように、スマートフォンのカバーのように、仕事用のバッグのように、こういったものすごく身近な物を選ぶとき、本当によく選んで買うようになったのはここ最近のことだ。 ネットでウィンドウショッピングをしつつ、デパートに出向き、雑貨屋に出向き。 財布もスマホカバーもバッグも、かれこれ3か月間ほどをかけて歩き回って探してきた。 しかしながら今回の筆入れの故障は、もう既にチャックは締まらないわけで、カバンの中でペンやら筆ペンやら定規やらがげろげろっと出てしまうので、日常に支障を来している。 それでも昨日2時間ほどデパートをくまなく探しても、ピンと来るものはなかった。 そもそも、筆ペンが入るほどの長さがあって、20本くらいのペンが入って、まちが少なく平らな筆入れ、などないのだ。 別に筆入れでなくてもそういった物が入れば問題はないわけだけれど、名前が付いていないものを探して買うのは骨が折れる。 タブレット用のケースでも良いかなと思ったけれど、緩衝材が無駄で嵩張るかなと思う。 2時間で見つかるとも思っていなかったけれど、やはり見つからなかった。 ついでにとても久しぶりに服も物色した。 服など、いつから買ってないだろうか。 半年以上、買っていない気がする。 化粧もそうだけれど、そういったファッションごとに本当にあまり興味がなくなってしまっている。 昔は私も女の子がそうするように、買い物が好きだったし、服も好きだったのだけれども。 最近はもっぱら着る服もローテーションで、ほとんど同じ格好をしている。 冬と夏の違いもはっきり言って羽織り物以外にはあまりない。 この状況を、私は好ましいとも好ましくないとも思っていない。 ただその辺にあるものを取って着ているにすぎず、とっておきのお気に入りをヘビーローテーションで着ているわけでもなく、かといって着づらい服は着ないので服に対するストレスもない。 ほとんど何にも、無いのだ。 せめて、着ていると気分が上がるような服をヘビーローテーションにすると良いかな、と物色する。 買う量が少ないのならば、少し値段の張る服でも良いではないか。 そうすると、かなり気に入らないと買えない。 かなり気に入る、なんてなかなかあるものではない。 好きな服のブランドが決まっていてほとんどそのブランドで買う、という話を時々聞く。 その人は、それはそのブランドが好きなのかもしれないけれど、その人はあまり服のことが好きなのではないのではないだろうか、とちょっと思ってしまう。 でも、今の私みたいな人は、好きな決め打ちのブランドがあるのは羨ましい。 一押しのブランドさえあれば、いつも気に入ったものがそこにあって、選ぶ必要もなくなる。 いやしかし、そんなことがあるのだろうか。 先日、けいこが来たとき、木瓜の隣りにすくすく育っていた雑草を引っこ抜かれてしまった。 雑草なんて生やしておいてどうするの、と。 大したことではないのだけれど、何とも言えない気分になった。 久しぶりに古典の臨書をしている。
孫過庭「書譜」。 5世紀後半くらいに書かれたもので、内容は書についての技法や方法論などが書かれているらしい。 書道の世界は、臨書臨書臨書臨書臨書・・・と言われるほど、古典の臨書が重んじられている。 臨書とは、誰かの字を見ながら、己を捨てつつそれを映すことを言う。 もっとも、漢字は3000年ほど前に発生して2000年ほど前に楷・行・草・篆・隷の書体がほとんど確立されてからあまり変化をしてきていない。 それほどにまで完成度が高く美しいものだったのだろうし、国家繁栄、社会的にも意味を成したものだろうと思う。 それに、筆記用具の主が筆だった時代だから、やはりその名手が生まれやすかったのだろうとも思う。 だから、臨書臨書臨書臨書臨書・・・で技術を体得し、歴史を感じ敬意を払いなさいと、そういうことなのだろう。 臨書をやらないのは書が分かっていないことと同義だ、というような言われ方さえすることもある。 そうなのかもしれないし、そればかりでもない気もするけれど、まあ私はあまり臨書するのは好きではない。 しかしながら、字の癖、身体の癖、思考の癖は自分で思うよりもずっと屈強なものであるので、臨書は凝り固まりがちな自分を癖を解いてあげる効果もある。 私にとっては臨書は発想を仕入れるという意味も大きい。 ここで力を入れるのか、ここで連綿はしないのか、偏と旁がかなり空いているのにそうは見えないのはなぜだろう、随分大らかに回ってきている、この人の癖はこうなのか、ここの穂先の向きはどこだろう、などなどと色んなことが分かってくる。 私は創作をするとき、「なるべく自分が普段行ってしまわない方向に線を書く」ということをよくするのだけれど、それも字という記号の制約の中ではなかなか叶わなくもなってくる。 しかし、そこにはそもそも無限の組み合わせが広がっているわけで、私の頭が硬いのと技術が足りないことがそうさせていることには違いない。 だから外界からネタを仕入れながらそれを開拓していく。 だから多くのものを見ること、そして実際に手を動かして書いてみることは必要なのである。 ところで「書譜」は草書体で書かれているのだけれど、私はあまり草書が身体にしっくりと来ない。 やっぱり子どもの頃から憧れたのは誰もが読める流麗な行書体であったことが大きいだろうか。 井上有一も言っていたが、何か表現をするとき、それは己の中にあるものなのだから、「日常的に垢に塗れて使い古された文字」というのはやはり楷書体行書体になる。 草書体は知っているとしても後々覚えたもので、まだまだ体にとっては新しいからなじまないのだろう。 あと、私の場合、草書体は元の楷書体行書体のイメージというか、くずされている過程が明確にイメージできてないと書けない。 草書体は、楷書体行書体よりも線が少ない分、繊細なバランスで成り立っているし、少しでもその心が分かっていないと形にならないのだ。 「お前にはまだ早い」と拒否されているような気分にもなる。 いや、古典はそこにあるだけなので、実際にそれを拒否しているのは私に他ならない。 一字において草書の書き方はいくつもあって、実際のところ、多くの書をやる人たちはそれを字典で確認しながら書いていることが多い。 皆、草書体は我々の日常生活の中にあまり馴染みがないものだからだろう。 一度字典を引いてもなかなか覚えられないのもそういうことだ。 それが私の身体の一部となって定着してくれる日が来るだろうか。 いかにせよ、物言わぬ法帖が大いに物を言うことを改めて実感している。 ヒップホップのR-指定さんが1991年生まれの26歳であることを昨日知った。 見た目も貫禄もラップも、てっきり40歳くらいなものだと思い込んでいた。 いろんな意味で驚愕。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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