少し久しぶりに外に出ると、よく降る秋雨にうんざりしていたところから一転、澄んだ青空が広がっている。
運動会の匂いがする。 高村光太郎の「智恵子抄」より智恵子の最期を描いた「レモン哀歌」を書く。 とある生徒さんが昔教科書でこの詩を読んだ際に「がりり」と「トパアズ」という表現がとても耳に残っているというエピソードから。 私は小中学生の頃、国語は点数で言えば算数よりも得意な科目ではあったのだが、教科書など本の内容を楽しく豊かに捉えることや表現の素晴らしさなどに心を打たれたという経験がほとんどと言っていいほど、ない。 この頃から思えば、本を読む、ということがとても苦手であったと言える。 想像力が無かった、と言えば確かにそれまでのことのような気がする。 「それ」とか「あの」とかの指示語を追うのは得意だったから、というか、そればかり追ってしまって内容が頭に入ってこない。 しかしテスト問題というのは、凡そ漢字に直せだの文章の順番を並べ替えろだの指示語は何を指すかだのといった類だから得点はできたのだろう。 しかし如何せん表面的な字面ばかりを追っていたものだから、作品そのものを味わったという経験が本当に乏しい。 今はそのような経験が無いこともないが、やはり、乏しいのだと思う。 それで私がなぜブログや俳句などの言葉を多少扱うことが好きなのかは少々自分でも謎めいている。 今さら、超有名な「レモン哀歌」を読んでみると、本当によくできた巧い文章だなあと感心した。 なんて、どの立場のどの口が言うか、という感じであるが。 いや本当に簡潔で無駄がなく美しく、リズムが良く、そして透明で高村光太郎的。 智恵子が死んで哀しくて哀しくて、しかしどこかとても冷静な凪と安堵を感じる。 看病していた人が死ぬということは、不謹慎な意味ではなく、例え愛する人であったとしても、きっと少しほっとするというような心持ちがするのではないだろうか。 死期の迫った病人を看病するというのは並大抵のことではなく、それまでのその人の姿や思考ではなくなってしまうような辛いことも起こるだろう。 この状態がいつまで続くのだろうか、と思ってしまうことも当然あるだろう。 そんな最中、智恵子は死んでくれた。 レモンをがりりと齧って、トパアズいろの香気が満ちて、智恵子はもとの智恵子となって。 そうして智恵子は死んでくれた。 光太郎はこの詩を智恵子が死んで数日後、ざっと草稿を作って何度も読み返し、何度も推敲したのではないだろうか。 こちらの言葉の方が適切か、ひらがなにするか漢字にするか、助詞をどうするか、語順は良いか、出来得る限り無駄をそぎ落として鮮やかに、且つ光太郎の熱量を描き残すほどに透明に。 そんなふうに今の私はこの詩を有り難く読んだ。 著作権が切れて尚読み継がれている文章はやはり当然ながら格調が高いのだと思う。 読みたいという意志は十分にあるのだが、どうやって読書を習慣化すれば良いのかが分からない。 さてこの「レモン哀歌」の書は、完成までトータルで4,5時間もかかってしまった。 光太郎が丁寧な推敲を重ねたのではなかろうか、という推測の下、紙の大きさや文字の大きさやレイアウトなど試行錯誤を執念で重ねた。 最終形が、そんなふうには見えない、つるりとした見栄えにはなっているが。 半紙に一枚、改行無しで息を潜めてつらつらと。 私は、こういうことをネタばらししてしまうところが、イケてないだろうか。
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曼珠沙華の有名な巾着田へ。
私は花畑がとても好きだ。 10年ほど前けいこと秩父にシバザクラを観に行ったとき、関東の季節ものの観光地の混雑っぷりに大きな嫌気を感じて、もう行くものかと思ったものだ。 しかしあのときは確か土日であったと思うから、平日水曜日にはさほど混んでいないだろうと高をくくって出かけて行った。 そんなことは全然なかった。 曼珠沙華公園付近の道路は大渋滞、たった2キロほどを車で通過するのに1時間以上もかかる混雑っぷり。 こんなはずではなかった。 都心から2時間以上車を走らせやって来ているのだが、やはりまだまだ関東圏であるこのあたりは季節ものともなればすぐに人ごみが生成されてしまう。 かく言う私もその人ごみの一部であるのだが。 大の都心好きの私であるが、人ごみが好きなわけでは決してない。 都心にいたら都心の人ごみを避ける知恵もつく。 関東圏の観光地は、インターネット上で人気になっているところは出向かない方が良い。 季節ものは特にその限定感ゆえ、より人が群がる原因にもなる。 どこかある程度遠くに出かけたいとなったとき、誰かからの情報かインターネット上の情報を当てにするほかないのだが、名も知れず静かで慎ましやかで面白味があるところだってたくさんあるはずだ。 だってここはトウキョウなのだから。 しかしまあ、曼珠沙華は確かに恐ろしいほどの本数が咲いていて圧巻だった。 私はあの花には毒があるという知識を持っていたが、一面の真っ赤な毒花絨毯だという言葉を充ててしまったのは人ごみに疲れてしまっていたせいもあるのかもしれない。 ところで道中には郊外のたくさんの団地を見た。 団地というのは戦後の人口増に合わせた計画的街づくりで建設されたものらしく、首都圏には大規模団地群がとても多いらしい。 そう思って見てみると「○○団地東」など信号機の名前もたくさんあることに気付く。 最近、団地育ちだという方の話を聞いて、「団地育ち」「団地っ子」という言葉が何やら特別な意味を持っているということを初めて知った。 私にとって「団地育ち」とは「マンション暮らし」くらいの意味合いでしかなかったのだが、どうやら集合住宅という意味での「マンション暮らし」とは一線を画す特殊性があるようだ。 大規模団地は、その団地だけでひとつの街が形成されることもある。 何十棟も同じ建物が立ち並び、順番に番号がふられ、全棟で4万人も5万人も住んでいるところもあるようだ。 病院やショッピングセンターがほぼその団地のためにだけ存在するのはまあ良いが、驚いたのは、小学校や中学校が団地住まいの子どもたちだけで成り立つことも少なくないということだ。 全員がほとんど同じ間取りや景色や近隣環境の中で育っているわけだ。 彼らはともすれば自己紹介の際に「団地育ちです」と言ってしまうくらいアイデンティティに関わる自覚を持っているのだと思う。 そういえばマーシーも東京の団地育ちなのだと思うが、子どもの頃の風景として団地の歌がいくつかある。 私は地方の戸建て生まれ戸建育ちであるが、上京物語を語っても戸建育ちについて自分のアイデンティティの片鱗を見出すことはほとんどない。 今回ある大規模な、最寄駅からバスで30~40分かかるという郊外の団地群の場所を車で通過したのだが、夜だったからという理由も大きいと思うが、今まで感じたことのない怖さに似た気持ちを抱いた。 まるでジオラマの中に小さくなった自分が取り込まれてしまったような気分。 コンビニがあってファミレスがあってガソリンスタンドがあってカラオケがあるようなよくある日本の地方都市とは全然違う。 ちなみに私はこの何処にでもある地方都市感がとても苦手ではあるが。 団地はそもそも都市開発として計画的に街を設計されているのだから、昔ながらの土着の居酒屋やクリーニング店などは存在しない。 画一化された林立する住宅群と、取ってはめたようなバス待合所、整然とし過ぎている並木道、完璧に舗装された道路。 個々の力が合わさってできる醸成するような文化的な何かを感じることが難しいような。 都市計画という予め大きな力が働いていることは便利であり、先進的な仕組みを享受できる一方で、閉鎖的環境が生まれざるを得ない側面があるだろうと思う。 団地でなくともどの地域にもあると思うが、大きな社会の中でまた尚生まれる小さな社会。 そこでしか通用しない暗黙の規範も多々生まれ得る。 それは誰かにとって居心地が良かったり悪かったりするのはどこに住んでいても同じことだろうが、団地の特殊性についてはもう少し知ってみたい気もする。 そんなことを思った小旅行。 どこに行っても行けそうなサウナを検索して旅をする。 全国各地津々浦々、サウナくらいはあるものなので、どこに行くのも信頼性の比較的高い楽しみがひとつ追加されるようなものだ。 東京浴場組合から銭湯お遍路26か所達成の認定証が届いた。 ただ今35か所のスタンプ数。 88か所まではまだまだ。 締め切りを過ぎて過ぎて、無理やりにひねり出した俳句で句会に参加。
もっと満を持して参加したいのだが、最近あまり句作に向かないのはどうしたものか。 夏の昼仏壇跡の黒の奥 男湯へパパと呼ぶ声夏の夕 宵闇に夢という意味調べたる 台風をぎゃふんと言わす球児かな この夏の伽藍堂なる仏間かな 夏の陽の血は滴るやソルダム 自分に季節感がないということに気付き、またそれを私は精神的に重んじていないようなので「季語」や「季節感」やそれらに対する共感を狙うことが良しとされる俳句の世界に正対できないのかもしれない。 しかしながら、そのスタンスでも私にとって言葉は面白いし、五七五という相当にキツい制約のフレームも面白い。 だから辞めようなどとは思っていないのだけど。 なかなか筋トレのように日々句作をすることはおろか、締切にも間に合わず迷惑をかけることにもなってしまっている。 どうしたものか。 さて、やはり実体験があると創作物は瑞々しさを増すわけだが、私にとって今年の4月に祖父母が死んだのは比較的大きな心の動きだったのだと思う。 というよりは、人の死にまつわる人の動きが興味深いと言った方が良いのかもしれない。 いよいよ住人がひとりもいなくなった実家の行く末を四十九日の法要の際に少し話し合っただけで、現状話が進んでいるのかどうかは、東京に出たきりの中間子にはあまり報告ごとがないのかそれとも単純に話が進んでないのかは知らないが、おそらく後者だと思うが、とりあえず祖父母が大切にしてきた仏壇は撤去するということになった。 代わりに兄の新居に仏間を設けているので、そこに竹内家の仏壇を新調するということらしい。 6月の時点で仏間にはぽっかりと、不気味で深い仏壇の跡があって、「夏の昼仏壇跡の黒の奥」というのを呼んだものである。 伽藍堂の句もついでに作った。 仏間はただでさえ薄暗いのに、突如大きな四角の真っ黒い奥行きが生じたことに私はやや驚きを感じていた。 仏壇を移動させれば仏壇の大きさの空間がそこにあることは当然であり、それはただの空間にすぎないのだが、いかにも自ら意味を持たせてしまいそうな黒い空洞だった。 これまで存在し続けたものが無くなって、代わりに現れた四角い闇。 酷く埃っぽいその闇に一歩踏み入れる理由など何もないのだが、私は理由があったとしてそこに踏み入れることがあるとすると妙な高鳴りを起こしてしまうかもしれないなと思った。 「四角」「立方体」「黒い柱」「奥行き」「深淵」「ブラックホール」「闇き(くらき)」「黒枠」「遺影」「空洞」「洞窟」「虚無」「存在」・・・俳句を作るとき、描きたい意眼^ジがある場合にはその界隈の言葉をわっと出していく。 季語をあれにしようかこれにしようか、繋がりそうな言葉を引っ付けて入れ替えて。 単純な意味で、コントラストは強い方が印象的なのは書も同じなので、季語は「夏の昼」にすることにした。 この句のおかげで句会における坊主なし(得点なし)記録を密やかに保つことができた。 確かにこの句の出来はそんなに悪くない気もするが、もう少し納得感のあるところに落としたかった気もする。 ところで、祖父母はでき得る限り毎日正信偈を唱えていたが、誰もそんなことをする人がいない兄の家で仏壇の扱いはどのようになるのだろうか。 まさか何周忌かの法要時だけ扉を開くなんてこともなく、花を供えたりごはんを盛ったりもするのだろうか。 子どもの頃、数年に一度「お磨き」といって仏具を金属磨きのペーストで念入りに磨くのを手伝ったことがあるが、定期的なメンテナンスをしなければ忽ち仏壇はくすんだものになってしまうだろう。 そう言えば、祖父の父だという人から遺影がずらりと仏間に飾ってあったが、それはどうするのだろう。 そこにはもちろん父の顔もあって、いつでもその父の顔は血色よく笑っている。 最近、年を取ったものだと思うことが増えた。 あるひとつの考え事に私はひとつの言葉を与えることにした。 思えばこれまで、私は誰かに対して言い淀んで結局言えなかったことがいくつかある。 自分の考えと自分の行動に責任を持つのが嫌で言い淀んだまま口を噤んできた、誰のせいでもなく自分のせいで。 どうしても言えない言葉というのがジャンルを違えて色々とあって、それは言ってしまったらそれをやらねばならないという強い意志に縛られそうだと思っていたからだと思う。 今回私はその考え事の内容に言葉を与えたというよりかは、自分自身の決断について言葉を与えたと言って良い。 これにより私は自身の強い意志に縛られることがあるのかもしれないが、それよりもこのあたりの我が思いについて皮が剥けてくることを願いたいというか、リアルタイムに、煮たり風化させたりせずにそう思うことを的確に受け止め表現できるようになっていきたいものである。 何を考えて書いているのですか?
と聞かれることが時折ある。 一般的な「綺麗な字」を書く人が、わざわざこねくり回して下手風に書いたりすることや、その発想の在り処は確かに他人から見ると不思議に見えることもあるだろう。 私なりの創作の秘密、なんてものがあるのだろうか。 私の創作の基本は所属団体の画面構成法や筆遣いである。 専らそれだけを崇拝しているわけでもなく丸のまま模倣したいとも思っていないが、赤ちゃん鳥が初めて見たものを母だと思ってついて行くかのごとく、基軸はそこにあると言って良い。 所属団体の筆法は書壇においては異端傾向であり、文字を逸脱しているとか古典を蔑ろにしているとかアクロバティックだとかやりすぎだとか言われることもあることを私が認識したのはつい3年ほど前である。 しかしながら〝創作〟なんて壮大なことを心から愛せるようになった、そして〝創作〟を大それたことではないと地平に下ろしてくれたのは、その画面構成法や筆法の所謂ジャンプ力のようなもののお陰と思っているので、異端だろうと何だろうと私は感謝の念を強く抱いている。 最近の私は、明文化できている、あるいは言語化されている単語ストックがあまりないので、創作と言っても参加させてもらっている書コミュニティの毎日のお題を書くことが多い。 誰かに、社会に、発したい溢れ滴り落ちるような言葉は今はないけれど、それでも何か書きたいわけで、それは絵ではなくて文字の方が良くて。 あと、日々の研鑽は苦しくてもやっている方が総合的に見て楽だということもあったりする。 だからもうかれこれ500日ほど、毎日毎日一日も漏らさずに執念で出し続けている。 当日の朝に翌日のお題発表となる。 翌日昼の12時が提出期限なので、丸一日と少しが書き上げる時間だ。 仕事をしていたり出かけていたり、その寸暇を縫って書くこともあれば、2時間以上をかけて仕上げることもある。 お題は参加者が持ち回りで出していて、とにかくどんな言葉でも良い。 過去には。変わり種としては「♯」記号なんてものもあった。 「♯」はどの書き順で書くのか、どんな書き方をしても筆文字となると「井」か「丼」の雰囲気が醸されてしまうのがなかなか面白かった。 しかし、どういうふうに書いても様にならないし、画数が少なすぎて書くのが楽しいものではなかったように記憶している。 さて、明日のお題は「九月の河童」である。 まだ書いていない。 とりあえず言葉の意味を調べてみるが、特別な意味は無いらしい。 さて私はここからどのように書いていくのか。 言葉から浮かぶイメージを書にする場合もあるにはあるし、言葉に全く引っ張られないで書けるかと言ったらおそらく無理なのだが、私は言葉から連想される映像を直接的に書くことは少ない。 また書く前に書の完成図ができているといったこともほとんどない。 ただ、こうすると楽に作品ぽくなる、という私なりの手法は2、3あって提出期限ギリギリの制作になってしまったときは書く前に完成イメージが存在することもある。 この場合は筆ではなく竹ペンといって竹の先端を万年筆のペン先のように象ったものを使うことが多い。 大抵の場合は、その辺にある筆をおもむろにとってその辺にある墨でおもむろに書き始める。 一枚目のそれは、おそらく無意識に出てしまうお母さんの残像、所属団体の筆法を利用したものであることが多いと思う。 そこから文字の大きさや雰囲気を探っていく。 紙を縦にしてみたり横にしてみたり、時々横書きにしてみたり。 線を細くしたり太くしたり、重ねてみたり離してみたり、スピードを速めてみたり遅めてみたり、紙を変えてみたり筆を変えてみたり。 だいたい、いつもと同じでは辟易とするので、いつも行かない方向に線を走らせてみたりする。 例えば明日のお題であれば多少文字数があるので、どこで改行をしようかも作品づくりの大きなポイントとなる。 文節で切ることが普通であるが、普通である必要はどこにもない。 しばらく踏ん張っていると、構成レイアウトが決まってくる。 それを基準に微調整を繰り返していく。 他人から見たら善し悪しなど見当がつきそうもない善し悪しを書き上がり瞬時に判断し、捨てたり取り置いたりしていく。 墨がかすれたとか線が飛んだとか、そういった偶然の産物は大好きだけれど、それをも出来うる限りまっさらな地点に引き下ろしながら判断していく。 どんなに読めない書であっても、書は文字を書いている。 書き手である私も抽象画を書いているつもりは毛頭なく、文字を書いている。 ここが私にとっての書の面白みであるのだが、書く文字は記号としてのルールがあるのだからすでに制約たっぷりなわけで、書体はともあれ行き先には限度がある。 文字であることの縛りへの信頼と安心感。 縛りの中の無限の自由と開放感。 無論その中に目眩がするほどの無限のバリエーションと可能性がある。 無限の可能性ゆえ、書き手の決断によってのみ作品は完成する。 そして、この世界の脈々と受け継がれてきた何か美しさの塊や強固なフレームである文字というものに触れるのは大きな喜びと言っていい。 それに、少しオカルトめいてしまうのだが、コントローラーである私自身が文字に行き先を教えられ導かれているように感じることが稀でなくあるのである。 当然ながら筆に力をかけているのも、紙面上のイニシアチブを握っているのも、その後その善し悪しを取捨選択しているのも、紛れもなくこの私なのだけれども。 今思うに、お導きに逢ったときの書のことを私は往々にして良しとしている感もある。 お導きは少し置いておくとして、何を目指しているのか、それは〝紙面上、面白みがあること〟と総じて言っていいかもしれない。 書的に主題となるコンセプトが、紙面上にえも言われぬ奇妙で少し気持ちが悪い、居心地が悪すぎずも少し悪く、アンバランスの中の絶妙なバランスを保っていて、出来れば飽きのこないもの。 ひとつの作品を書くのにお導きにも逢えず何十枚も紙を消費してどうにもならないときは、一旦振り出しに戻るような気持ちでやけくそに書くこともある。 それが功を奏することも少なくない。 一応の完成物は壁に一定期間貼っておくのだが、良いものは長持ちするのは確かなことだ。 自分が3ヶ月以上鑑賞に耐えうるものを書けるのも30回に1回くらいなものだろうか。 書作について考えることは日々しているが、桜木町で行われているある書展に刺激を受けたこともある。 こうして文章を書いていると、私は考え事の少ない人のようには思われないのだが、私は自分自身がとても考える力が足りないと思っている。 分かっていることを描写するのは自分としてさほど苦にならないのだが、何か分からないことについて答えらしきものを導き出すことが本当に苦手である。 苦手というか、面倒で思考が続かない。 何かが分かる、という現象が身体に落ちることはとてつもなく好きなくせして、できれば苦労をせずに様々なことが体感として分かるようになると良いと、恐ろしく傲慢に考えているような節がある。 ただ、それではこの先が危ういような感じがしている。 最近とある書作以外の考え事をしていて、煮詰まったというか例のごとく思考体力が序盤で切れてしまって課題だけが残ってもやもやとしていたのだが、ある友人が「解決すべき課題意識がある場合は、考えるという行為は言語だけでなくて身体全身で考えてくれるから焦らず待てば良い」と教えてくれた。 考え事の答えが出ないとき、そのもどかしさに耐えられなくて、えいやと適当な答えを出して突っ込むのが私のやりがちなことなのだが、私は少しその考え事を意図的に寝かせることにした。 意図的に寝かせると言っても、課題意識は目の前にあるわけなので何となくその後も薄々とは考えてしまっていた。 でもそれは明文化できない苦しさや思考しなければならないという圧迫を持ってではなく、考え事をポケットに携えていつでも突っ込んだ手で転がしているような感じだった。 不思議なことなのだが、数日経ただけでその考え事は、答えを見せてはいないが明らかに違った景色を見せてきた。 そんなこともあるものなのだなと、私はこの体感について少し感動を覚えた。 考え事を放っておくという考え方。 こんな体感があると、私はまた考えなくなりそうなのだが、これはあくまで解決すべき課題が明示されているときのみに有効だろう。 課題そのものが言語化できていないときは、にっちもさっちもいかない。 となると、課題が言語で認識できたときに本当は既にそれは解決しているといっても良いのかもしれない。 何らかの見たくない言いたくない思いたくない隠したい、自分にとって不都合があるだけなのかもしれない。 不都合が何であるのかを発露するということが難儀である、だけなのかもしれない。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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