先日のクリスマスイブで丸二年、730日、フェイスブックの書のグループに参加して一日たりとも欠かさずにお題を書き続けてきた。
多分というか絶対、このおかげで私は随分と空間把握の力がついたと思う。 筆遣いも私なりに上手くなったと思う。 発想力も磨かれたと思う。 そして私は何度となくこの話をする。 比較的大きな日常の変化であって、この努力の継続を誰かに聞いてもらいたくてたまらないのだろうと思う。 豪雨の日も暴風の日も激烈な二日酔いの日もおじいちゃんが死んだ日もおばあちゃんが死んだ日も妊娠に狼狽えた日もそれが確定した日も、一日も休まずに書いて提出してきた。 我ながらなんという執念だろうと感心する。 勿論グループの方々には5年も6年も欠かさずに書かれておられる猛者がいらっしゃるので、その方々に頭など上がるまい。 私は「センスがある」という先天的にそれができたかのように言われることを好まない。 私は自分に所謂「センスがある」などと思ったことがない。 「センスがある」と言われるとき、私はそれはほとんど後天的努力によって獲得したものであると反論めいたことまで言いたくなってしまう。 そんなとき、私は自分自身に、やはり、結果ではなくてその努力の過程を人から賞賛されたいと思っているのかと知って少々げんなりするものである。 しかしながら「センスがある」というのは、そのことについてどれだけ敬意を払い研究・実践してきたかの積み重ねであることがほとんどであると思うから、「センスがあって羨ましい」などと言われると、それまでの努力に一瞥も与えず更に一蹴されたような気分にもなってしまうのである。 たとえ今誰かの目の前でその一部を披露したとき、私はとても楽々と易々と飄々とそれをやってのけることはできるだろうと思うけれど、それは事前の蓄積がないと不可能なものなのである。 まあでも、そもそも「センスがある」というのはどんな定義で使われていたとしても悪いことではないと思うので良いのだが、どれだけ私は「センスがない」との自覚から始まっているかの“物語そのもの”を知ってほしいと思っているのか。 作品には無論物語は存在するのだが、作品の受け手側にその物語は必ずしも無くてはならないものではないし、むしろ無くて良い。 表出された作品や成果物などの結果が良いものであれば良い思う反面で、私を全面余すところなく理解してという気持ちが先立ってしまうようで情けない気持ちがする。 言うなれば誰も褒めてくれないような執念を発揮できるということが、「センスがある」と言い換えても過言ではないようなことかもしれない。 ところで最近、自分がどんな書を目指しているかについてふんわりと言葉になってきた感がある。 誰も真似をしたいと思わないような書を書きたい、書けたら良い。 他者の追随を許さないのではない、そもそも他者が目指そうとか追いつこうとか思わないような。 それを見ていても一見は気持ち良くも安らかにもなれないのだが、何だかそれが不思議と気になって二度見三度見してしまうような。 そして書き手自身の私も、外側の人間の立場として「変だけど良いよね」と言ってしまうような。 すべてこの世に存在するものを借りて混ぜ合わせて出来るものが、ほんの少しの独自性を醸せたら良いのではないかと思う。 ようやく婚姻届を提出してきた。 新しい戸籍が作られたそうだ。 もはや紙一枚の契約ごとに私は興味を持てない一方で少々慄いていた節もあるのだが、何だか国民らしくなった気がする。 新しい苗字は少し変わっている。 私は「竹内」姓が字面的に好きではなかったのは昔からなので、それを変えられるのは好ましいことである。 早速新しい苗字が名前にくっついた書類が区役所から届いた。 とてもとても変な感じである。 やはり私は「竹内恵美子」だったのだなあと思い知らされた思いだ。 ちなみに、奇しくも私は義理の妹さんと漢字もまったく同じ名前なので、兄貴(夫)は妹と結婚したような感じなのもやはり変である。 積極的に名乗っていこうとはさっぱり思っていないのだが、慣れる日が来るのだろうか。 戸籍上の「竹内恵美子」は既に消滅しているのである。 そうか、「竹内恵美子」さんは消滅してしまったのか。 私は私のままのはずなのに、字面はもうまったくの別人を生きていかねばならぬ。 それにしてもいやはや忙しい年末である。 30日、31日と使って布団カバーを洗って、布団を干したい。
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さて、子宮がグレープフルーツ大になっているらしい。
グレープフルーツ大の塊が身体の中に育っているということは、非妊時からしたら異常というしかない。 今不意にでもお腹に強い衝撃を与えたら、中の子はショック死してしまうかもしれないと思うと、電車に乗るときなどは少しだけ周りを警戒してしまう。 最近も歩けるときには15000歩のノルマを目指して頑張っているのだが、どうにも身体が疲れやすいので休み休み、達成できなくてもすべてを妊娠のせいに押し付けて日々をやり過ごしている。 自分自身の代謝活動以外に、身体の中で新しい組織を丸ごと生み出そうとしているのだから、そりゃあ疲れもするだろう。 私の悪阻はおそらく酷い人からしたらとても軽いものだろうと思う。 お腹が空くと気持ち悪くなる「食べづわり」というやつらしい。 しかしながら、あれほど煮まくっていたごった煮のことを思うと気分が悪くなり、リンゴとカリカリ梅とハンバーグやラーメンが食べたい今日この頃である。 特に白菜や大根といった冬野菜や、丁寧に繊細に味を重ねて作られた料理に嫌悪感を感じる。 あと別に食べられなくても全く生活に差し支えないのだが、なぜかトリッパ(もつのトマト煮)が本当に食べられないし考えたくない。 トマトソースピザやトマト自体は大丈夫なので、おそらくもつに嫌悪しているらしい。 しかし和風のもつ煮込みよりもトリッパが嫌である。 ジャンクフードが食べたくなる、ということは比較的よくあることらしい。 ある人はペヤング、ある人はケンタッキーフライドチキン、ある人はフライドポテト。 ポテトの入った紙袋に顔を突っ込んで匂いを嗅いでいたのはいもうとである。 私はこのメーカーのコレ、というものはないが、コンビニのホットスナックを買ってみたり、男子感の強いてんこ盛りの洋食屋に入ってみたり、ポテトチップスを食べたりしている。 どれもに非妊時にそれらを食べたいと思う回数よりは断然に多くなっている。 リンゴを毎日2個くらい食べるのは、非妊時でもリンゴが家にあれば食べているとは思う。 これまで妊娠した人の悪阻や出産の苦労話など、話半分でほとんど聞いていなかったのだが、事実「食べづわり」なんてものがあることをそうなって初めて知った、いざ我が身のことになればその未知の不思議感に興味津々である。 ちなみに「非妊時」という言い方が「妊娠時」の対義語であるということは、言語上当然なのであるが新しい言葉を得たような気持ちだ。 悪阻は、自分とは違う遺伝子に根付かれて、身体はおっかなびっくり、思わず拒否反応を示してしまっているということだろうか。 しかし、種の存続としての最も重要であると言っても良い生命活動のひとつである妊娠が母体を苦しめているというのは何だか解せない感じがする。 ホルモンバランスが大きく変わるわけで、それに慣れない母体の単純な反応なのだろうけども。 それにしても、妊娠出産にまつわる個人エピソードというのはインターネット上にありとあらゆるものが山のように出てくる。 私も興味や不安でいろいろと検索するのだが、今後何かしらの重大な決断に迫られることもあるのかもしれない。 宗教観や倫理観や死生観などが問われることもあるだろう。 ひとつひとつ、その都度考えていくしかない。 想像しうる事態に事前準備で考えておくことは良いことだと思うが、実際に何かが起こったとき、自分が何を思うかということは本当に予測できない。 そうなって初めて、「あぁ私ってこんなときにこんなふうに思うのね」と認識することも多い。 この場合の「私」とは身体の主体そのものである「私」なのか、はたまた身体の反応を客観的に認識する宙に浮いたような存在の「私」であるのか、判然としない。 ある生徒さんから、この歌詞が面白いと「宇宙の奥の宇宙まで」という福島県の高校の校歌を紹介してもらった。 これが私にとって大層衝撃的だった。 後で知ったが、宗 左近さんという有名なお方の作詞で、一部のネット界では歌詞に出てくる「ゆんゆん」は既に通信の擬態語として定着しているらしい。 私はこの詞を見るや否や、詞の全貌も意味も捉える隙もなく、久しぶりに大爆笑をしてしまった。 自分でもなぜこんなにも面白いのかが未だにきちんと説明できなくてもどかしい。 少し冷静になって詞をきちんと読んでみると、概ねとても賛同できることしか言っていないのだが、その表現の組み合わせが絶妙であり過剰なのである。 無論、ゆんゆん、よんよん、やんやん、という擬態語も可愛過ぎて抱きしめたいというのもある。 真剣に、真っ向から、過剰。 その表現が情景描写として最も適切であるかどうかよりも、その過剰感そのものを描いているかのよう。 表現を過剰に上塗りすることによって、自由で居続けることに対して若者が勇気を奮起できるように取り計らったのだろうか。 というのは私の憶測である。 間違いなく、賛辞の大爆笑であった。 手放しに腹の底から笑えるなんて、とてもとても有り難いことである。 こういうのが好きそうだと、情報を回してくれるネットワークは大切なものである。 今年一番、笑ったかもしれない。 さて、私の妊娠は継続しているわけだが、現在10週に入って子宮はこぶしほどの大きさになっているらしい。
昨晩仰向けに寝て不意にお腹を触ると、下腹部真ん中あたりがぼこりとしていることに気付いた。 なぜか、まさか癌なのではと一瞬本当にどきっとしたのだが、もしこんなに大きな癌なのならもう既に相当にまずい状況になっているだろう。 正直なところ、今の感情として子どもや命が宿っているという実感がほとんどないのだが、腹の中で何かが私の子宮を拡張していることだけは日々感じている。 時折、つきんつきんと痛みが走るのは、おそらく成長によって筋肉がひっぱられたりしているからだろう。 また、悪阻があるのはまだ母体が妊娠の状態に慣れないということなのかなと思う。 先日の検診で何となく丸まった人の形をしてきて、その真ん中で拍動している白い影を見た。 できるだけただ状況や自分自身の感情を受け取ろうとほとんど何も考えずに検査を受けるのだが、拍動しているのを見るとなぜか不意に泣きたくなる。 やはり私は、私とは別の生命体が腹の中にいることに感動でもしているのだろうか。 私たちの身体は、妊娠していなくとも日々とてつもなく神秘的で不思議な反応や代謝などを繰り返し、移り変わっている。 とても多くのことが不随意の配下で行われている。 妊娠による胎児の成長過程も、受精のトリガーのみ意志を行使できたとしても、その後はほぼ関与することはできない。 我が身体に確かに多くは手を下せないのが、我々の生命体というものなのかもしれない。 現在、胎児の臓器や歯や髪の毛の素となるものが作られている段階らしいということを「トツキトオカ」という可愛らしいアプリが教えてくれるのだが、私が特別に何かを思ったり願ったりしなくても育つものは育っているのだということだけを今は受け取っておくことにする。 最近よく妊婦は孤独だ、と感じる。 どんなに父親になる人が色々と協力してくれたりしても、私の身体の変化は私だけのものであり、その感覚というのはどんな言葉を尽くしてもそのすべてを無論共有のしようがない。 妊娠にまつわることはほとんど妊婦の身体にまつわることだから、当然といえば当然である。 ふと男女で分担しても良いではないかと思ってしまうのだが、病院の検診も妊婦本人が行かなければ何の意味も無い。 身体も時間も妊婦負担である。 体温が異様に高いことや白菜や大根の煮物のことを考えると気持ちが悪いことやわりと頻繁に起こる軽い下腹部痛も、逐一報告するような話ではないのだろうし、厳密に寸分のずれもなく私の微妙な不調など分かるはずもない。 ただ、このことは男性が本当に純粋に経験してみたいという人もいるわけで、とやかく言うようなことではないとも思っている。 私たち人間はそういうふうにできていて、そうなのだから仕方がない。 妊娠出産子育てはふたりで平等に行うもの、というその発想がまず間違っているのだろう。 そもそも、妊娠如何に関わらず、自分の事細かな状況を他人に分かってくれなど土台無理な話である。 だから、妊婦が孤独なのではなく、人間が孤独なのだという当たり前のことだけなのかもしれない。 拍動を見て一瞬だけ泣きたくなるのは、何にもできないけれどがんばれ、と思う同じ人間の立場からの応援の気持ちなのかもしれない。 胎児もまた孤独なのだろう。 生理予定日より前に、私は何だか落ち着かない気持ちだったので妊娠検査薬を買った。
いろいろなメーカーのものがあったけれど、今はどのメーカーのものを精度が高いので安いもので十分と、20年ほど前にさくらももこさんのエッセイで読んだことを思い出して、安くて2本入っているものを買った。 妊娠検査薬というのは、妊娠していると尿に混ざる特有のホルモンに試験薬が反応するという仕組みでできているらしい。 そのホルモンは生理予定日から1週間を過ぎると検査に十分な分泌量となるが、それより前に検査を行うことを俗に「フライング検査」と言うようだ。 やはり我が身体のことは気になるので、私もフライング検査をしてみることにした。 生理予定日の起き抜けの尿を我慢しながら、深呼吸と言葉にならない決意表明を自分の中でしながら、本当に恐る恐る検査薬のスティックに尿を引っかけてみる。 結果は尿を浸した1分後に出ると書いてあるが、妊娠している場合はもう尿が染みていく過程で判定の線が出るというのはいもうとから聞いていた。 何も出なかった。 ふーん、なーんだ、と私は思った。 そうよねえ、とやや期待をしていた自分に驚きながらごはんを食べた。 ごはんを食べ終わってなんとなくすぐには捨てられずに置いてあったスティックを見ると、ほんのうっすら、髪の毛の半分ほどの線が判定窓に掛かっていた。 尿を引っかけて30~40分ほど経過していたのではないだろうか。 そこからはもう、これがどういうことなのか、インターネットで調べまくったのは言うまでもない。 検査薬がどこのメーカーでいつの時間の尿で生理予定日何日目生理周期何日年齢何歳などなどのありとあらゆる状況の個人的体験談が出てくる、出てくる。 妊娠や妊活の世界がこのようになっていることに初めて触れた私は情報の統括に数時間を要した。 当然ながら、生理を待ちながらあと1週間後に検査すれば良い、というのがごもっともな回答なのであるが、事が事だけに気になったら止まらないのも仕方のないことである。 私がインターネットから導いたのは、妊娠している確率は50%を少し超えるだろう、ということだった。 試験時間外の反応、しかもかなり微弱な、はカウントしない、というのが科学的な答えであって、その反応は「蒸発線」という言葉さえあるほどのものだということも分かった。 「蒸発線」とは、水分その他成分が薬剤に触れて時間経過の乾燥とともにうっすら浮かび上がるものらしい。 つまりは蒸発するときに出てしまった線であり、これは無いものと同じ、陰性であるということ。 しかしながら、私が使った妊娠検査薬は最も蒸発線が出づらいタイプのもので(現に判定窓は空気に触れないようになっている)、本当に陰性の場合はうっすらも影も露も見えないという意見がほとんどであった。 数多の体験談では、私と同様にかなり時間が経過してからうっすら線が現れて、実際に妊娠していたというものもわらわらと簡単に見つかった。 一方で「現在の検査薬はほぼ正確です。陰性と考えてまず間違いないでしょう」という医療監修のようなサイトに書かれていたりもした。 その夜、父親になる人からも検査薬の仕組みから考えてまず陰性だろうというようなことを言われて、無性に腹が立ったというか悲しかったことを覚えている。 そしてやはり妊娠が目標になってしまって達成できないことの悲しみや怒りの念を持ってしまっているという恐れていた我が事態にも憂えた。 妊娠はひとりでできることではないが、妊娠の状態は紛れもなく妊婦ひとりのものである。 他人を巻き込んでの壮大なプロジェクトなのだが、とてもシンプルな意味で妊娠の大半をひとりで負わねばならないという点において、こんなにも序盤で、面倒が多くて辛いなと私は思った。 しかしこの時点でいくら情報を集めたところで特段意味はない。 一週間、待つしかないのだ。 そして生理の来ないまま、指折り数えて一週間。 お酒を少し、飲んだり飲まなかったり。 今度は少し慣れた手つきで、何を考えるでもなく、尿をまた検査薬に引っかけてみる。 水分が染みていくその過程で赤紫色の判定線がくっきりと浮かび上がった。 おお・・・、へえ・・・、そんなふうな感嘆詞を心の中だけで思った。 私が妊娠した。
初めての妊娠である。 現在心拍が確認できた.妊娠3か月と少し。 このことをここに書き留めることをいくつかの理由でやや迷っていたのだが、自分に起こった出来事や考えや思考実験や身体実験についてを主に記しているこのブログにはとても大きなネタであるのでどうして書かずにいられるだろうか。 ということで、書くことにした。 妊娠初期というのは流産の可能性が最も高い。 流れてしまっては変に気を使わせてしまう人も出てきてしまうだろうと思っていたことが書くことを躊躇っていた最も大きな原因のひとつだが、まあそれも不可抗力的な自然現象だと思うのでよしとする。 そうなったらきっと私は悲しむのだろうと思うのだけれど、そのとき悲しんでいるということをまた日常として書けば良い。 どんなふうに悲しむのか、あるいはそれとはまた別の感情なのかも自分としては興味深いところでもある。 もうひとつ、この界隈のことは私以外の人をどうしても巻き込んでしまう話になってしまうので、取扱いに繊細さが必要であるということも書き記すに躊躇った理由である。 特に子どもの父親である人や、このまま順調にいけば生まれてくる子どもに、変な影響を与えてしまうのを良いことだとは思っていない。 さてしかし、変な影響とは何なのか。 誰かと一緒に生きている以上影響を与えないということは不可能で、身近にいる彼らが他の人よりも大きく影響を受けてしまうのも当然のことである。 私は私として思うことを少しの体裁を整えながらなるべくクリアに書き綴ることと、彼らが思うことが私と異なるかもしれないことを自覚して丁重に取り扱うつもりはあるので、許してほしい。 変な影響を与え合って生きていくしかない、といういささか変な割り切りをここで告白しているのは、既に書き始めてしまったからである。 しかし、妊娠が発覚したこの2か月間のどこから書き記せば良いのか。 既に風化しつつある感覚や思いが何だかもったいない気がするのが、長年のブロガーとしてはある。 とりあえず、旅日記のように最初から振り返ってみることにする。 そもそも私が妊娠を望んでいないと周りの友人たちは思っていただろうと思う。 声高らかに子どもが欲しいと言ったことはただの一度もないはずだ。 私自身もそのことについて特別には考えないようにしていた。 あるとき子どもの父親になる人から「もし可能ならばその景色を見てみたい」と言われて初めて私は自分のこととして、且つ眼前のこととして、直ぐに来てしまう明日のことのように、思いを巡らせてみた。 私は自分の心の答えを案外すんなりとキャッチしていたのだが、逡巡する時間を表面上の私は必要とした。 あれやこれができなくなる、自分の時間がなくなる、お金がかかる、とにかく大変になる、そんなデメリットたちは別に消えるものではないのでそれを押し込める猶予期間だったのだろう。 あと、無論妊娠できるかどうかは分からないということが表面上の私が最も懸念していたことである。 それをひとたび望んでしまうと、それは忽ち目標に変わってしまう。 目標は勿論達成されることが望ましくて、そのための過程で努力を強いられることになる。 努力を精一杯して叶わないとなると、願ったり祈ったりもするだろう。 私としてはそんな自分に耐えられるだろうかということが大いに心配だった。 しかしながら少しの時間を要して、全てのデメリットや懸念事項を大半飲み込むことなく、私は「やってみたい」という当初の答えを口にするに至った。 妙なこだわりかもしれないが、「子どもが欲しい」という表現より「妊娠や出産や子育てをやってみたい」という表現の方がしっくりくる。 全ての物事に因果関係はあるだろうが、特別で過剰な意味づけをすることは最近の私にはあまり無いので、ならば「やってみたい」という私の思いを多くの疑問を携えながら尊重しても良いのではないか、そんなふうに思えた。 「人生はWANTで進むべきだ。MUSTではなくて。」とかつて言っていた友人の顔が思い出される。 長くなりそうなので一度記事を分けることにする。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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