産後は抜け毛が酷くなる、とよく言うが、私は平時から割と抜け毛をするほうだと思うのでさほど気になっていなかった。
ところが、前髪の生え際に男性の髭のような感触のツンツンジョリジョリした硬い髪の毛が生え始め、あっという間に3、4センチほどにピンピンと成長した。 ジョリジョリしたものを自分の頭皮に感じるなぞ全く初めてのことであったのでびっくりした。 今、ポンパドールにするとちょうどイワトビペンギンのようになる。 私の身体はきっと、産後、と呼ばれる期間に一区切りについたのだと思う。 身体も気持ちも、臍帯を切り離してなお繋がっていた息子と互いに一つひとつになれてきたのかもしれない。 あとは卒乳だけである。 2ヶ月前、息子があまりに哺乳瓶と離乳食を嫌がる時期に、もうおっぱいを止めるからねと私は本気で言い聞かせていたのだが、結局ここまで来てしまった。 おっぱいの出はあまり出なくなってからは変化ないように思うが、息子のおっぱい好きはどんどんと加速しているように見える。 夜中も寝ぼけながら必死でおっぱいを探している。 出ないおっぱいに長いこと吸い付いているから引き剥がすと、なんでーー!と怒る。 求められるのは嬉しいので私もなかなか止める決断が難しい。 息子の嬉しそうな顔は何度も何度もいつでも見ていたい。 元より、ほとんどの場合、他人の嬉しそうな顔はみんな好きなものだろう。 それにしても、出産が去年で本当によかったとやはり思ってしまう。 ここ2,3ヶ月、また今から出産を控えている人はどんなに不安だろうか。 立ち会いもできず、まさか分娩室とZoomを繋ぐなんてことが出来るのであろうか。 気を確かに、頑張って欲しい。 こういった場合出生率も下がるのだろうか。 忌み嫌われていた丙午も数年内にもうすぐ来るが、現代におけるその出生率も気になるところである。 さて、延期になっていた書の展示会であるが、6月にWeb展示をすることが決まった。 軸装した作品ではなく、それ以外に4点、裏打ちも表装もしないまま出品し販売する。 書の骨董市だと思っていただけると良い。 キュレーターの方は、真意は分からないが、4点傑作だと言ってくれた。 本当に、「なんじゃこりゃ」というような作品というか書き方なのだが、私もようやく自分の書の型のようなものができたということも含めてなかなか良いのではないかと思っている。 まあいつだって少なくとも自分は書き上がった時点ではなかなか良いと思っているから、それが後日、後年の鑑賞に耐えうるものかは時を経てみないと分からない。 今回、売る、ということを初めてする。 依頼された作品や意図せず売れた経験はあるのだが、他の多くの作品と並べて売り出されるのは初めての経験である。 まくり、と呼ばれる書いた紙そのものの状態、しかもWeb上の画面のみの判断で、である。 自分でさえ書作品を購入した経験が少なく、というのは、書作というのは自宅も漏れず一般的な家のインテリアには合わないことが多く、せっかく手に入れても常時見ないのでは意味がないではないかと思っていた。 しかし、キュレーターの方に聞いてみると、なんとコレクターの方は基本的には飾らないのだそうだ。 もちろん飾る場合もあるが。 普段はしまっておいて、時々うへへと涎を垂らさないように眺める、またコレクター仲間に自慢する、そういうことらしい。 それで、その作品がオークションに出るような作品まで上り詰めれば金融商品として売却するというのも大きな楽しみであるらしい。 「何かよく分からないけど何か気になる、何か、何なのか、何か、良い」そんな作品を買い求めるのは、書に精通した人でなくても全然良いのかもしれない。 蚤の市で偶然見つけた自分しか分からないだろうという良さげな掘り出し物、それをふと買ってしまう、そんなことなのだろう。 今回は書作品としては激安だが、それでも表装なしで数千円はする。 売れるのだろうか、と半信半疑というか、半信以下なのだが、どうなろうとも楽しみだなと思う。 もちろん、このブログの読者様もお買い求め頂けます。 すべて一点ものでもう絶対に二度と書けませんし、この界隈ではなかなか良いものだと自負しております。 なんて、告知と宣伝をやっていこうという覚悟も必要である。 よろしくお願いします。
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ふと息子を見ていると、この可愛い子は誰だろう、と思うことがある。
何でここにいるのだろう、と。 昨年まで無かった動く肉塊がぽんと目の前に現れて愛くるしい以上の愛くるしさでまとわりついてくる。 この可愛い子におそらく今現在は世界中の誰よりも最も好かれていて、その子のお世話をすることが他ならぬ私であることは、私の自尊心を一周以上まわって逆に揺るがしてしまうほどだ。 まあもちろん、多少の鬱陶しさも否定はしないが。 私の存在をほとんど四六時中欲しがり、膨大な量の無償の愛情を注がれると、私は自分のことを「必要不可欠な多大な価値のある人間」というちょっとした行き過ぎた解釈が思考でなく身体に染み込んでしまう。 それをいとも当然のように外に向けるのは極めて厚顔である。 しかしこんなに息子に溺惑する一方で、生まれたときから「血を分けた」という感じをさっぱり感じておらず、「親子」である認識があまりない。 法律上というか便宜上、人前では男の子なので「息子」という呼称を使っているに過ぎない。 何故だろうと思うのだが、はっきりとは分からない。 私はあまり「親子」とか「家族」という言葉を意図的に、もう既に無意識的に使わない。 「親子愛」や「家族愛」、はもっと使わない。 それはそれらを否定しているということではなく、そういうものが絶対に存在する、しないはずがない、当然ながら愛し合っている、そんな言わずもがなの暗黙の風潮が嫌だからである。 親子愛や家族愛は、多くの場合、生まれて幼少期から青年期くらいまで一緒に過ごす時間が圧倒的に多いから、他の人よりもそういったものが生まれやすいだろうとは思う。 私は現在においてその方面で特段悩んでいることは無いのだが、何かまだブロックしていることでもあるのだろうか。 生まれるという偶然性や必然性を、“不思議”という言葉で一旦括って、不思議と目の前にいるこの子のことをまた連続的にお世話し続けるのである。 世話に要らなくなるとき、私はどう思うのだろうか。 さてまた区の乳児健診があり、今回は前回と比べて勇んで小児科に向かった。 と言うのも、離乳食もまあまあ食べるようになったし、うんちも硬めではあるが1日3、4回出るし、はいはいも高速化してきたし、つかまり立ちや小さなものを掴むなど成長が著しく思われるからである。 しかし結果は「カウプ指数」という成長の指標上、前回とあまり変わっておらず、つまりはカロリーや栄養が不足しているということだった。 今回は行ける!と自信を持って挑んだ県大会の予選に、町の予選第一回戦で敗れたような気持ちになって思わず涙がこぼれそうになった。 あんなに頑張って日夜進んできたのに。 その他動作などの面には問題ないらしいが、水分、鉄分、タンパク質、そして総合的なカロリーを上げてくださいとのこと。 フォローアップミルクを飲ませるのが一番良いということだったが、哺乳瓶も嫌がればおそらく息子は粉ミルクの味が好きではない。 小児科からの帰りがけ薬局に寄って、飲まないだろうなと思いつつ、私の心は予選を勝ち抜いて一日がかりになるだろう試合の準備を一切汚すことなく持ち帰ってくるようなやるせない灰色の気持ちで一杯だったので、何とフォローアップミルクの大缶を買ってしまう。 ううう、と唇を噛み締めながら、重たい袋をベビーカーにぶら下げて、散歩もせずにまっすぐ家に戻った。 ちなみに飲またくなって戸棚の上にしまい込まれた初期用のミルクも沢山残っている。 仕事中の夫に泣き言をLINEで送り付けて、夫はそれなりに返信をくれるのだが、やっぱりこういうときは孤独に思う。 粉ミルクでプリンを作ってみよう、カロリーをざっくり計ってみよう、と夫は建設的で現実的な提案を次々としてくれるのだが、私の孤独はそれでは収まらず、かえってしょんぼりとするか少しの怒りが沸いてきてしまう。 それは、私の頑張り、を褒めて欲しかったし感謝されたいというのはあまりにも幼い話かもしれないが、たぶんそういうことだ。 最も優先されるべきは「息子の健やかな成長」であることが、私たち親の共通事項であることは理解しているのだが、今の私のメインライフワークについて私を評価して欲しいのである。 がしかし、少なくとも数値上は結果が伴っていないのだから評価などされなくて当然とも言えるが。 しかも、当の息子の気持ちも置き去りになっている。 帰宅した早速夫は粉ミルクプリンを作ってくれた。 言うだけでなく、実際に行動してくれるのは夫の頼もしいところである。 普段のごはん作りはほとんど私の担当だが、お菓子は夫の担当にいつからかなっている。 夫はお菓子作りが得意かと言われれば特にそうではなく、粉ミルクプリンを電子レンジで加熱するのに失敗して沸騰させ、レンジごと掃除する羽目になったのはかえってありがたかった。 私はいつものどろどろを作るついでに、さつまいもとじゃがいもと小麦粉と粉ミルクを混ぜたおやきを作ってみる。 時期的にはとうに手づかみで柔らかい固形物を食べても良い頃である。 他にも豆腐もさいの目に切ったものや、まぐろを湯どうししてみじん切りにしたものもメニューに加えてみる。 息子は何でも新しいものには興味があるので、いつもの食事に新鮮な風が吹いたような面持ちで少しずつそれらを食べていた。 しかし粉ミルクに砂糖も入って甘いプリンはそんなに進みが良くない。 粉ミルクの風味が強いのが好みではなさそうな雰囲気である。 粉ミルク入りおやきも食べはするものの、量が少ないので摂らせたい粉ミルクがどれだけ摂れていることやら。 しかし確かに、医者から注意でもされなければこうして新たなステップに進むきっかけも掴みづらかっただろうから、良い機会にはなった。 ゆっくりでも元気で成長していれば何の問題もない、そんな言葉に励まされながら、その言葉では励まされきれない部分はまた逐一試行錯誤やっていくしかない。 外は雨模様だけれど、息子は私の上でぽかぽか朝寝をしている。 7時半、ベビー布団と大人用マットレスの間に当初とは180度回転して突っ伏して寝ている息子を元に戻そうと手を身体の下に差し込むと、息子は突然むくりと起き上がって起き抜けににやりと遊び始めた。
うつぶせ寝は良くないと言うが、ひっくり返すために起きてしまうのは何とも勿体ない。 またそのうちにひっくり返ってしまうし、どうしたもんかと少し頭を悩ませている。 息子の朝が早くなってきて大変であると私は言いたいが、今のところどんなに早くても6時半くらいなので、そんなに早いとは言わないのかもしれない。 5時前に起きる子もいるようで、そうなると午前中の時間がべらぼうに長いのはどうするのだろうか。 土曜日の今日はまだ眠り足りない夫が息子を片手でひょいと抱き上げて寝室からリビングに連れ出してくれる。 私はリビングでぐだぐだと遊ぶ彼らの声を聞きながらそのまま8時半まで寝かせてもらう。 8時半、最近の私の起床時間は平日も土日も変わらずだいたいこの時間である。 世間の奥さまたちからは「ありえない」と言われるだろうか。 窓を開け、夜に干しておいた洗濯物を回収し、家は朝日が眩しい部屋なので洗濯は風呂後の夜に行う、顔を洗い、水を二杯飲む。 これまた昨夜準備しておいた息子の離乳食を温め、水と一緒に朝食の準備をする。 休日は夫が息子の食事を見てくれるのでとても楽である。 すっかりミルクを飲ませなくなった息子だが、液体ミルクの賞味期限が切れそうなので、水の代わりに飲ませてみようとしたがやはりオエッとしてだめだった。 ちなみに最近水はお猪口で飲むのがちょうど良い。 その間にトーストを焼き、珈琲を淹れる。 大人たちも息子のごはんに追いついて朝食を齧り、どろどろになった息子を拭いたついでに私はキッチンと居室の掃除に取り掛かる。 息子がいると掃除機くらいしかかけられないので、拭き掃除はだいたい休日となる。 息子はけらけらしていたかと思えばうだうだ言い、うきゃーと言ったかと思えばふぎゃーと泣く。 10時半過ぎには手足がぽかぽかしてくるので、夫が抱っこ紐の中に息子を入れて寝かせた。 11時には掃除を終えた私が、さて、とお字書きでもしようと思ったがブログを書いている静かな休日の朝である。 というか、もうすぐ昼である。 生産的で建設的な何かがない日々というのは、満足度が低い。 いくら息子は日々革新的な成長を遂げていても、母は生産的でも建設的でもないのである。 だからといって、不意にできた時間を何に費やすかといえば、掃除やごはん作りといった家事に当ててしまいがちなのは、さほど生産的でも建設的でもない、単なるエネルギー消費である。 だから家事や育児を生産的であり建設的であるように、ブログに書いたりSNSにアップしたりする。 私はSNSではなく専らブログであるが。 生産性や建設性は他人がいないと成り立たないというか、証明できないのだろうか。 ただ、何とか存在の社会的証明をしたいというのは確かに私の中ではあるのである。 ところで昨夜作った豆腐のグラタンもどきが、定番化するかもしれない兆しがあって嬉しく思っている。 たまたまYouTubeを見ていたら草彅くんの料理動画があって、「そんなに美味い!ってもんじゃないんだけどなんか作っちゃうんだよね。つまみに。」と言っていて、材料も作り方も簡単そうなのでやってみることにした。 先日買ったグラタン皿の出番が一度もないということもある。 グラタン皿に豆腐を適当に崩して卵を割り入れ混ぜる。 じゃがいもと玉ねぎをサイコロ上に切ってレンジにかけて、豆腐卵の上に乗せる。 顆粒のコンソメをパラパラと散らして、ハムととろけるチーズを乗せてトースターで10分ほど焼く、出来上がり。 既に草彅レシピをややアレンジしてしまっているが、じゃがいも玉ねぎハムあたりの具材は何かと置き換えが可能であるだろう。 確かに、「そんなに美味い!ってもんじゃない」というまさにそういう味だったのだが、やさしいグラタンといったふうで、悪くない、良い。 そしてなぜだか、チーズと豆腐の組み合わせだろうか、微かにベシャメルソースの風味が感じられる時がある。 もてなし料理という感じは全くしないし、共感が得がたいことを承知で誰かに食べてもらいたいようにも思う。 とりあえず、何回か作りたい料理となったことを嬉しく思う。 さて、出産後、ずっとずっと考えていたことをそろそろまとめて書いてみたいと思っている。 と言うのも、ふとした時に、あんなに考えていたことが頭から消え失せようとしていることに気が付いたからである。 私はあの頃、確かに思い悩みすぎて散歩中に涙ぐんでいたくらいだったのに。 私としては、消えてしまうには忍びない内容だったように思うので、褪せ始めた記憶の輪郭をここらで補正しておきたい。 と思っているが、果たして近日中に出来るだろうか。 緊急事態宣言、という物々しい事態であるが、私の日常はさほど影響がない。
もちろん仕事は激減しているけれども、皆さん気を遣ってかどうなのか分からないが、郵便による通信指導やZoomやSkype等でやりましょうと言ってくださる方もいる。 外出の自粛と言っても、1歳にも満たない乳児を連れて行くのは、そもそもが公園とスーパーがほとんどである。 と思っていたが、図書館や児童館に行けない、美術館にも行けない、電車に乗れない、いとこに会いに行けない、など、時折していたことが全て自粛となってしまった今、息子も体力を発散しきれずにいるような様子である。 そのためなのかは分からないが、夜の寝つきが悪くなったことと、真夜中にすっきり目覚めて徘徊するようになったのが本当に困る。 小さな手と身体でもそもそと動いて私の顔を踏みつけ、髪の毛を引っ張り、首を握り、奇声を上げ、つかまり立ちに失敗して倒れて泣く。 勝手に遊んでくれる分には良いのだが、基本的には身体にまとわりついてくるので寝られたものではないが、こちらも身体を起こして一緒に遊ぶほどには眠気が覚めない。 また、普段から標的になっているスマホや眼鏡に目掛けて果敢に移動していくので、それらを都度遠ざけなければいけないのが結構なストレスである。 息子はまだ歩けもしないので、体力を使い果たすというのは脳を疲れさせる、という意味合いが大きい。 大好きな「いないいないばあ」を観たり、つかまり立ちをしたり、初めての食材を食べたり、お気に入りのおもちゃを舐め回したり、近所に散歩に行ったり、私と色々なことで遊んだり、そんなことも日々刺激には変わりはないのだが、いかようにもマンネリ化してくる。 本人はあまり認識はしていなくても、やはり色んな人との触れ合いや物理的長距離の移動や景色の変化は赤子の脳に大きな刺激を与える。 それらが複雑に段々に成長を遂げていくのだろう。 事実、街中に出かけたり、車に乗ったり、いとこに会ったりなどすると、いつもは見せない表情をしたり微妙に様子が変わるのはこれまでも何度も見てきた。 このまま何とかやり過ごすことが出来なくもないだろうが、大きめの刺激があるように工夫した方が良いだろう。 週末に部屋を少し改造してプレイスペースのあり方を変えようか。 しかし、夫もこの非常事態で仕事も大変そうだし、家に帰っても休まらずで何だか可哀想に思える。 夫は可哀想に思われるのは嫌だと言うと思うけれど、このような状態が続くようなら私と息子と別の部屋で寝てもらった方が良いのではないかと思う。 その一方で、とても多くの母親が感じていることだと思うが、ひとりで四六時中赤子を見ていると、夫が帰ってくるなりそれを一挙に押し付けたくなる。 仕事に行くというのは、ひとりになれる、自由になれる、ということとは全然違うと思うが、業務の責任や労働の苦労を一切無視して、母であり妻である女性が「あなたはいいわよね」と言いたくなってしまうのも分かるようになった。 しかし、あれもしたいしこれもしたい寝たい休みたい、という殆どのことは私ができていないのと同様に夫もできていないのである。 またしかし私が夫のように稼げるのかと問われると毛頭自信がないのでそこは言うものではない。 このような所帯染みたことを言うのは嫌だから別の切り口がないかと探っているが、日々の静かなる濁流に飲まれながら、不満を息子の笑顔で食いつぶしながらやっている感じである。 と書いている側で、息子はちょこんと座って涎の玉を溜めながら「いないいないばあ」をきらきらと見ている。 最近の悩みの殆どはこの人が生み出していると言っても過言では無いのだが、あまりの可愛さにこちらはすっかり悩みを有耶無耶にされてしまうのである。 思考はまとまらないので、とにかく発信を増やすこと、オンラインでもなんでも夫と息子以外の人とのコミュニケーションを増やすこと、これはしてみたいと思う。 5月に予定されていた展示会も掛け軸が出来上がって準備も万端となったところで延期となった。 しかしながら作品は夜細々と書き続けている。 この展示会に出品することを決めて良かったと思う一番のことは、“私らしい書”という形のひとつが見えたことである。 その形というのは、私が今まで思い描いてきた“私らしい書”とは180度異なると言っても良いような意外な形だった。 私は長らく、書において本当に大きな勘違いをしていた。 私はどかんとびしゃっと派手に力強く、しかしぬうっと気色悪い線も入れながら紙面をいっぱいに使って太細緩急をつけて書くことが自分に向いていると思っていた。 もちろんそれもこれまでにしこたま練習をしてきているので、何とか出来るのであるが、しかし、色々試していくうちに作品になりやすい書き方は弱い力で神経質に、偶然を借りながらぼそぼそちまちまとたくさん書くことであることを知った。 このことは今回の展示会のキュレーターである方に指摘されてのことだが、最初はそれを認めるのが無意識に嫌だったようで、「そんなはずはない」とまたどかん系のものも書いていた。 様々な書を見てきて、そういうものに憧れがあるというのもある。 だが、何度やってもどかん系のものは成功する確率が低いというか、成功するまでにかなりの時間を要するのである。 片やちまちま系を書くと、2、3枚目でまあまあのものが書けることが多い。 キュレーターに「どうしてそれを突き詰めないのか。苦手な方向に答えはない。」と言われ、あれこれうんうんと考えて漸く、「これが私らしさ」というものかとやっと認められたのである。 そういえば数年前に東京書作展において東京新聞賞をもらったのも、かなり多字数のちまちま系であった。 人には皆、向き不向き、というのがある。 人生で熱量を使って行うのは、向いていることである方が良い、と思う。 それは何かに影響を受けた私ではない私の性質を理解して、受け入れることと同義である。 自分を理解するのに、書において十数年かかってしまったわけだが、好ましい大発見であった。 しかしこの大発見も日常の静かなる濁流の中にあって、大発見だと分かっていて大発見だと感じるまでに時間がかかっている。 息子がぎゅうっとなるほど可愛いのである。 朝からブイーンガガガガゴーーーーとミキサーを回す。
ブレンダー、は、すりこぎのような形で手で持てて、ボウルや鍋にそのまま入れて材料を粉砕、攪拌するもの。 ミキサー、は、専用の円柱型容器に材料を入れて、機械に立てて粉砕、攪拌するもの。 フードプロセッサー、は、ミキサーの円柱型太い版。 と理解していたが、実はブレンダーとミキサーは同じものを指すらしい。 ミキサーと呼んでいるのは日本くらいで、英語ではブレンダーなのだそうだ。 日本ではブレンダーという呼び名のハンディタイプ商品が出回ったため、そのようなイメージが強い。 ちなみにフードプロセッサーは、材料を細かく刻むというのが主な役割のようで、どろどろのペーストにしたりジュースにしたりはできないらしい。 いずれも洗うのが面倒というのと、電気機器を増やしたくないというのと、私には使いこなせないだろうという理由で、これまで買おうと検討したことはなかった。 この度、離乳食作りにと1万円ほどの結構良いものを買った。 あらゆる電気機器を使うのに私は多大な苦手意識があり、しかも説明書を読むのが大嫌いなので、使いこなせるだろうかと思ったが、説明書を全て夫に読んでもらい使い方を説明してもらったのですんなりと使うことが出来た。 説明書くらい自分で読むべきとも思うし、それほどまでに難しいものでもなかろうけれども、私にとって本当に億劫なことなので、やってもらえるのは本当にありがたいことである。 すりこぎとすり鉢でごりごりやるのは、息子が食べてくれなかったことも大いに理由にあるが、もう本当に気持ちが萎む。 片や、ミキサーは粗く刻んだ材料をもう本当に瞬時に粉々どろどろにしてくれる。 前にも書いたが、息子の場合、最初に食べなかったのはのどごしという理由が大きかったようなので第一次離乳食問題はこれにて終焉を迎えた。 玄米、人参、ブロッコリー、さつまいも、じゃがいも、コーン、玉ねぎ、キャベツ、しめじ、ほうれん草、卵、ささみ、など、その時ある食材を刻んで鍋に放り込み、水で煮てミキサーにかけて出来上がり。 あまりつぶつぶしておらずどろどろで、うす甘いのが息子のお気に入りである。 カツオ粉や煮干しをミキサーで砕いたものをふりかけにしても食べる。 普通のご飯よりも水分も多めだし、炭水化物もタンパク質もビタミンも入っている完全食ではないか。 一汁三菜になんてしなくても十分のように思える。 すでに生後8ヶ月だが、この流動食をいつまで食べるのかよく分からない。 そして、離乳食のみでもミキサーを購入した価値は十分であるが、せっかくなのでミキサーを使って定番レシピを何とか編み出せないだろうかと思案している。 簡単、美味しい、普通に手に入るコストパフォーマンスの良い食材、使い勝手が良い、比較的飽きない、アレンジも可能、というのが定番レシピ入りの条件である。 インターネット検索ではフルーツジュースレシピが多いが、フルーツジュースは日常的飲まない。 これなら良さそうとやってみたのが、玉ねぎドレッシングである。 玉ねぎを粗く切ってミキサーでジュース状にし、鍋に入れて醤油、みりん、砂糖、お酢、オリーブオイルを適当に混ぜ合わせて火入れをしたら出来上がり。 カツオ粉や人参ペーストや胡椒などを入れても良い。 所謂、バイキングなどに並ぶ玉ねぎ和風ドレッシングである。 温野菜はもちろん、鶏肉や豚肉を焼いただけ茹でただけで、この玉ねぎドレッシングをかければ随分と立派になる。 ようやく総合評価高く、定番レシピとなった。 毎日まいにち、離乳食以外にもご飯を拵える身としては、レシピがマンネリ化していたのが気になっていた。 しかしなかなか長く愛せそうな定番レシピを開発するのは難儀なことなので嬉しい。 今日はパセリドレッシングなるものを作ってみる。 パセリとにんにく、粉チーズ、オリーブオイル。 まだ食べていないが、私はパクチーなど青臭い野菜が好きなので期待している。 パセリは玉ねぎよりも手に入りにくいので、定番入りは難しいかもしれないが。 つかまり立ちを完全マスターした息子は危なかっかしさを増している。 「いないいないばあ」の番組は例に漏れず齧り付いて見ている。 今まで私は、子育て関連の内容を扱っている読み物にあまり食指が動かなかった。 子育ての苦労を語られても、好きでやっているのだろうというくらいにしか思っていなかった。 しかしながら今自分がこんなにも子育てについて書いてしまう。 それだけ子育てまみれだということに他ならないのだが、おそらく、子育て関連の内容はほとんど子育てをしているお母さん中心の需要のみでその他の人は興味を持たないだろう。 しかし、子育てをしているお母さんたちは、少しでも有効で即時的な方法論を常に求めていると思う。 どんなに情報が手に入りやすい時代になっても、四六時中の子どもとのコミュニケーションについては確固たる正攻法などどこにも存在しない。 逆に今限定で、子育てというコンテンツを私は持っているのかもしれない。 何をどうやるか、本当にやるのかは置いておいても、何かやるには十分なコンテンツのように思う。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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