奄美大島の泊まったホテルのことを書こうと思っていたのだが、すっかり東京と妊娠の日常に飲み込まれて色を失ってしまった。
口頭で語ることで伝承するとしよう。 さて妊娠六か月。 妊娠中期は初期に比べると比較的身体も心も落ち着いて暮らせるとは誰が言ったのか。 ある男性は「ここからは妊娠黄金期だね」と言っていた。 確かに、世間的に言う妊娠期間の「安定期」なのだろう。 私においては、困ったことに黄金期とは呼べないというか、むしろ身重感で全身が疲弊し始めている。 腹の子は急速な成長を遂げているようで、私のお腹を日々ぱんぱんに押し広げようとしている。 つわりこそさっぱり治まったものの、総合的な辛さは増している感じがする。 身重によるだるさ以外、特別には腰痛である。 調べてみると妊娠時は大きくなる子宮と出産の準備で骨盤が緩むようになっており、その周辺の筋肉バランスが変わったり神経を圧迫したりして腰痛が起きることがままあるらしい。 お腹も大きくなっていることにより、今までとは異なる歩き方を無意識でするからということもあるようだ。 あれだけ歩いていたのに、いよいよ腰に負担が大きくなってきたようで60分も歩けない。 ソファに寝たら起き上がるのに姿勢を選ばないと起き上がれない。 寝返りを打つにも腰が痛くないように動かないといけない。 病気や老化でもこのようなことが起きるのだろう。 今まで何の気なしにやっていたことがかなわなくなることは、情けないし、焦る。 その他も数々普段と異なる身体の不調は現れている。 それに加え、花粉が飛び始めたではないか。 妊娠期間中の花粉症は治まることもあるとどこかで読んだ気がするが、それも残念ながら当てはまらなかった。 そして安易に薬が飲めない。 もしかすると妊娠の不調と思っているもののいくつかは、花粉症の不調なのかもしれない。 毎年花粉の季節にはやや機嫌が悪くなってしまうものだ。 こんな状態ではあるものの、私なりに腹の子を愛おしく思っている。 胎動らしきものを感じ始めて、腹の中の様子を想像してみたりする。 ちょうど大きめのかえるを腹の中に飼っているような心持である。 羊水の中で透き通った軟骨のような腕や足を、スローモーションで動かしているような。 それが子宮の壁に当たってくにゅっとした感覚が母体に伝わるような。 かえるくん、と呼ぶことにしている。 かえるくん、というようにたぶん男の子だろうと先日の検診で言われている。 かえるくんは、母体がいきなり身体を曲げたりしてうわあああとなっているのかもしれないし、臍帯から少々辛いものが流れてきたうわああああとなっているかもしれないし、母体が緊張したりしていきなり心拍がうるさくなってうわああああとなっているのかもしれない。 かえるくんはかえるくんで大変そうである。 久しぶりに句会に出席。 「過ぎし日の~」の句でとても久々の特選をいただく。 過ぎし日の悲憤のやうなゴム風船 クレーン車は大空を架け春動く 百万の溜息の成す朧の夜 剃り落とす泥棒髭や寒戻り 菜の花や工事現場の握り飯 おむすびで膨らむ頬の少女春
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さて、ほとんど何にもしないをしに行った奄美の旅もクライマックス、奄美空港で成田行きを待っている。
奄美大島の雑感を書いてみたいと思う。 これから書くことは、全日程冬曇りの奄美大島だ。 太陽にきらめきを与えられた元気いっぱいの夏の海と山を見たわけではないので、その辺は差引しながら読んでいただきたい。 奄美大島、これと言った目玉がないところであった、というのが総論かもしれない。 経済は大丈夫なのだろうかと傍目から少し心配になる感じもある。 インターネットの検索でも、「奄美 観光」とやると「~岬」「~展望台」「~自然パーク」「~海岸」のようなものしか出てこないのも頷ける。 島民もあまりたくさんは見かけなかったが、全体的に街が静かで緩やかな雰囲気。 奄美大島の名物と言われても思い浮かぶものがあまりないのではないだろうか。 現に私も黒糖や黒糖焼酎くらいしか思い浮かばなかった。 実際には、黒糖の他に、鶏飯(けいはん)と呼ばれる鶏だしのご飯や、タンカンというネーブルに近いみかんや、豚味噌、あおさ、サーターアンダギーなど色々とあるのだが、どれも物凄く売り出しているという感じはしなかった。 黒糖や黒糖焼酎を押しているという感じもなかった。 ちなみに、タンカンは初めて食べたがかなり美味しい。 車で島を縦断したが、農業や放牧の姿もほとんど見かけなかった。 事実、農産物を積極的に作っているのは奄美大島の離島である喜界島や徳之島のようだ。 これは、奄美大島にはほとんど平地が無いということが大きな要因のひとつらしい。 道路は、海と山に沿って作ったうねうねの道と、仕方がないから岩山をぶち抜いた長い長いトンネルの道が主要道である。 喜界島や徳之島は、人口こそ多くはないが平地があるようだ。 岩山のような気難しい山には開発の手がなかなか伸びなかったのだろう。 あとは、鹿児島県の離島としては断然に屋久島の方が近く、ひとたび屋久杉などの観光のメインを売り出すことに成功したため観光開発の資金がそちらに流れてしまったのではないかと思われる。 これまた奄美に程近くの沖縄は、県も違えば国としても要所であるからそれなりの財源を確保しやすかったのもあるだろう。 つまり、奄美大島はこれまでのところ、開発の優先順位が回ってこず、やや忘れ去られた土地と言うことなのかもしれない。 もちろん開発の話は島民の反対なども起こっていくつも頓挫しているなんてこともありそうだ。 しかしここにきて島民の反対を押し切り、自衛隊が部隊配備があるらしく、その開発は急ピッチで進んでいるとのこと。 これから奄美大島は変わってゆくのだろうか。 また、山肌が大きくも小さくも剥き出しになっているところがいくつもあって、度々地滑りが起きた跡があるのだが、そのため開発どころか補修に忙しいということも見受けられる。 このあたりの山は岩盤の上に土が薄く被って植物が生えているらしいので、雨が降ると土砂が崩れやすいとのこと。 道に土砂が積もって通行止めになりっぱなしの道路もあると言っていたのは、島最西端にあるカフェの奥さまだった。 奥さまは奄美大島に移住して9年目。 元々東京清澄白河出身で、山村留学をきっかけに島に来たそうだ。 高校生の息子さんは毎日往復4時間をかけて高校に通っているそうである。 大きな鶏と山羊をペットに静かにカフェ経営をしているが、奥さまはとてもお喋りに飢えているように見えた。 人が減っていて現金を稼ぐ手立てが非常に難しいというような、若干愚痴をこぼしたくもなる状況があるように思う。 最西端のカフェから宿まで一時間半、あの地滑りは5年前くらいか、これはつい最近か、と補修の跡と植物の生え具合から予測する。 道路脇に土嚢が積んであるのは何故なのかと思っていたら、どうやら崩れた土砂をそのままその場所に積んであるだけのようだった。 自動車は島民は軽自動車が圧倒的に多く、普通車かと思えば観光客のレンタカーてもある。 走る速度もゆったりとろとろとしている。 島の北端にある奄美空港から最南端、さらには最西端まで車で走ったが、中心部名瀬には少しの都市感があったもののあとは小さな集落が山を越えるごとにぽつぽつとあるだけだった。 廃校になって潮風に錆びている小中学校も容易に見つけられた。 私たちが泊まったホテルのある瀬戸内町には、スーパーAコープとファミリーマートがあった。 町の中心部にも居酒屋やカフェがほとんどなく、食料の調達は皆ほとんどここで済ませているようだった。 そのため私たちも東京にいるよりも頻繁に行ったファミリーマートは日夜東京都心ほどに混雑していた。 しかも皆袋いっぱいに買っていく。 昔ながらの酒屋、魚屋、カメラ屋、餅屋、お土産屋、服屋などが古さそのままに佇んでいる。 潮風が吹くからだろう、建物は皆錆ついている。 今回、この旅に太陽の力が無かったのは、中華料理に油とにんにくを欠いていたようなものかもしれない。 名瀬に泊まらなかったということも大きいだろう。 ちなみに泊まったホテルは、何もしないをしに行くことを完遂させてくれる良い場所だった。 ホテルについてはまた書こうと思うが、サービス面に東京の匂いがするなと思ったらやはり東京の会社の経営だった。 東京らしさというのは私にとってある意味で安心感があり、ある意味でスノッブ感もあるということだ。 無事に成田に降り立って、家まで帰ってきた。 行ったことがないところへ行くのも、行ったことがあるところへ行くのも、どちらも旅路の楽しみである。 2日目、この度唯一のアクティビティ、ホエールウォッチングに出かける。
クジラがそんなに好きかと言われればそんなことは無いが、クジラが見たいかと言われれば是非見てみたい。 私はどこへ行っても建造物を見るよりも山や海の緑や青を見るほうが好きだ。 生憎天気は曇り。 夕方から嵐になるとの予報から、予約時間を14時から11時半に早めて出発。 何組かの客と共に乗船するのかと思いきや、客は私たち二人だけ。 ホテルの後ろから桟橋が出ていると聞いていたが、桟橋というよりはただの板が船に向かって架けられているだけだった。 そして船というよりはボートである。 案内してくれたホテルの方はひょいひょいとその板を渡ったが、私は少々足がすくんだ。 よりによってマキシスカートなんて履いているものだからその裾を捲し上げると、片手がふさがって余計怖くなった。 今さら、「妊婦なんですが大丈夫ですか」などと言っても無意味だろう。 曇っいたが海はエメラルドグリーンで透き通っていた。 奄美大島は同じ鹿児島県の屋久島よりも随分南に位置していて、沖縄本島に近い。 かつて沖縄で見た海の色と同じ感じである。 船頭の若い兄ちゃんはこんがりと日焼けしていて、キャップから覗く短髪は雑に金色だった。 よく喋るとも喋らないとも言えない、言葉数の兄ちゃんは、根はいい奴何だろうなと勝手に想像していた。 ボートの中央に四角い箱のような場所があってそこに座るらしい。 ちゃぷちゃぷと浅瀬を進み、亀が泳ぐのを見たりなんかして。 ここまでは良かった。 あんな航海になろうとは。 亀がいるのは浅瀬だが、クジラがいるのは沖合とのことで、ボートはどんどんと沖へ向かっていった。 岸は遠ざかり、海の色は深い青色となり、海底を知らせない。 一面海の絨毯となると、たっぷたぷの母なる海に囲まれて私はまた自然の力に怖くなった。 沖へ向かうにつれて波立ちは荒くなり、ボートはしぶきを上げて上下した。 服に水がかかるなんて聞いていない。 けれどそんなことを言っている場合ではない。 兄ちゃんは実に冷静に普段通りそうに舵取りをしている。 たぶん、私には普通でないだけで普通のことなのだろう。 ガコガコと揺れ跳ねるボートの箱椅子にしがみつきながらバタバタとはためくロングスカートを膝で挟んで固まっていた。 2時間と聞いていたから、まだまだ序盤だから私は早くこの状況に慣れようと波の動きとボートの動きの傾向を読み取ることにした。 波は当然ながらとめどなくやって来て、うねりがぶつかって砕けたり、合わさって大きくなったりする。 ボートのエンジンを止めているときはその波に身を任せ揺れていれば良い。 しかしエンジンをかけるとその波に逆らう動きをすることになるので、衝撃が発生して揺れ跳ねる。 このくらいの波ならこのくらいの揺れ、と次第に波とボートの動きが把握出来てきた。 幸い船酔いする気配は一切感じられなかったが、身体が強ばっているとつい呼吸が浅くなるので幾度も深呼吸をするようにした。 また無理に身体を縮めて固くしているよりは、波と一緒に揺れてしまう方が衝撃が少ないのでなるべくリラックスするように努めた、 しかしあまり気を抜いていると、ふとした波の衝撃で外に放り出されそうな気がするので程々に。 「大丈夫ですか?あそこの岬を抜けると波は楽になりますから」と兄ちゃんは説明したが、随分先の岬を指していて私は内心あんなところのその先まで行くのかとまたドキドキした。 ホエールウォッチングの乗客はこの状態でこれまでに怖いから引き返してくれなどと言われなかったのだろうか、それとも私が怖がりすぎなのだろうか。 何の疑いもなく、私たちは今陸地にいるときよりもはるかに死に近い場所にいる。 浴槽5cmの水深でも溺死の可能性があるというのに、ここは大海原、波立つ底知れぬ海の真ん中である。 もし落ちたら息の仕方を練習しているうちに海水を飲んでむせて溺れてしまうだろう。 鮫がいるかもしれない。 ライフジャケットを来ているから、遥かに見える小さな無人島を泳いで目指すよりは無駄にじたばたせずに揺蕩って浮いていた方が良いだろうか。 マキシスカートは脱いだ方が良いだろうか。 様々なことが浮かんでは消えていった。 前方から向かってくる波を見ていると恐怖感が増すので、衝撃を身体で逃しつつなるべく遠くを見やるようにした。 腹の子も多少心配だったが、まずは自分自身の安全を確保しなければならないし、腹の子はそもそも羊水という海の中にいるわけだから多少のことは大丈夫だろう。 確かに、岬を抜けると波は穏やかになった。 波が穏やかだと障害が少なくスピードが上げられるので、兄ちゃんは25knot、46.3km/時で更に沖合に出ていった。 途中兄ちゃんに同僚からの着信があり、クジラを見かけたというスポットの情報を入手して更に進む。 奄美大島の隣にある加計呂麻島を抜けていく。 遠くに徳之島が霞んで見える。 加計呂麻島は、奄美大島よりも切り立った岩山だ。 「山山山」という文字が並んでいるような、お山の連続。 Googleマップで確認すると道は島の周囲半分弱ほどしか通っておらず、残り半分は船でしか来られないのだそうだ。 いよいよ人の手も及ばないところまで私たち3人は来てしまったというわけだ。 こうも人の気配が感じられなくなると、電信柱や電線や灯台があるだけだも少しの人間の匂いが感じられて安心感が沸くものである。 それにしてもあんな岬の端っこにどうやって灯台など運んだのだろう。 兄ちゃんは加計呂麻島の山の上の方から流れている滝を見て、この夏にあの岩山を登って滝の中腹にある滝つぼのプールに入るのだと今日一番嬉しそうに話してくれた。 「そこから見下ろしたらオーシャンビューの絶景ですよ」と彼は言うが、既に四方八方完膚無きオーシャンビューである。 飽き足らずオーシャンビューの王様に逢いに行くのか。 次第に島の景色も人の手の匂いを全く感じさせなくなってきた。 四方八方水平線という景色になってしまったら私の恐怖は増すだろう。 まあでもこの状況も、プロの兄ちゃんがいるわけだし、私も少し慣れてきたというか覚悟が座ってきたという感じもある。 にしても、13時を回っていて、このツアーの予定時間はあってないものなのだと思い知った。 まさか兄ちゃんはクジラが見られるまでサービスしてくれるのだろうか。 兄ちゃんはとても丁寧に海を見やってクジラを探してくれていた。 16時くらいからは嵐の予報、いつ引き返すのだろう、いつ引き返すのだろう、いつ引き返すのだろう。 自然は危険、天気は移ろいやすい、なんてことは兄ちゃんのほうがよほど肌で知っているだろうから下手な口出しをしたくはない。 何せ兄ちゃんの手に3.5人の命がかかっているのだ。 しかし私はもうクジラなどどうだって良かった。 十分すぎる海の体験が出来ただけでもうとうの昔にお腹いっぱいである。 昨日の宿までの車中とは比べ物にならないほど、後日の体験談を語るに値する。 生きて帰れれば。 急に風がやや強くなってきて海面が荒立ち始めて、当然船も揺れる。 「帰り道で見られたら御の字ですから。そろそろ戻っても大丈夫ですよ」と考えた3案ほどの中から20分程の時間をかけてようやく私は口にした。 兄ちゃんの気分を害するようなことがあっては決してならない。 ボートは大きく方向を変えて戻り始めた。 ここまで何時間をかけてきているのか、また帰路も果てなく遠く思えたが、帰り道に入っただけでも幾分か安心感が沸いた。 がしかし、この日一番のビッグウェーブはここからだった。 風が強くなってきている。 見るからに波は高くなって強くなっている。 ボートは飛び跳ねる。 兄ちゃんはまだ時折クジラを探してくれながら、丁寧に運転をしていた。 波を読んで細かにエンジンをかけたり止めたり、スピードを速めたり遅めたりした。 舵さばきもとても細やかだった。 見比べたことはないけれどこの兄ちゃんはきっと船乗り技術がとても高いのではないかと思う。 波が高いときは力を上げてぶつかると必ず負ける。 だからスピードを落として波を吸収して避ける。 波の上に乗ったらそのまま滑るようにして走る。 けれどまたすぐに次の波が来る。 しかもリズムが一定でもなければ方向も定まらない。 海の、地球の、膨大なエネルギーと強大なうねりを思わざるを得なかった。 当たり前だけれど人間など海からすれば藻屑であり塵であり点に過ぎない。 ここで藻屑と散るのは地球からしたら一粒の砂が零れ落ちたくらいのもので、無かったことにできる程度のものだろうけれど、当の本人の私の身体と脳内は酷い状態を経て藻屑となるのだろう。 波に打ち付けられるボートにしがみつきながら、行きに兄ちゃんが私の悲鳴を聞いて言った「大丈夫です、船は沈みませんから」という発言に再びの信頼を寄せる。 「何かにぶつからなければ」と付け足しで言っていたけれど。 荒波と対応している時点ではスピードが上がらずこんな調子でいつ着くのだろうと不安に思ったが、それでもボートは少しずつ進んで加計呂麻島と奄美大島の瀬戸内に入って波はようやく穏やかになった。 そこからは本日最速スピードでホテル裏の木板の桟橋まで戻ってきた。 そう言えば、クジラは見られなかった。 「ありがとうございました。楽しかったです。」と連れ合いは兄ちゃんに言った。 強がりではなく、刺激的で、もう一度乗りたいくらい楽しかったらしい。 兄ちゃんは、「クジラ見つけられなくてすいません」と言った。 「いいえ、それは全然問題ないです」と私。 何しに来たのか。 あのボートの上でひとり脳内戦争をしていたのは私だけだったのだ。 ちなみにひとり脳内戦争を煽っていたもうひとつの理由は途中トイレに行きたくなってどうしようもなかったからだ。 ボート内にトイレがあると聞いていたが、波の上でどのような形のトイレかもわからないところで用を足すのは怖いのであと少しあと少しと我慢していたら、ボートから降りた時にはものすごく足がガクガクして真っ直ぐ立てないほどだった。 無事に用を足し、塩漬けになった服を全て脱いでこれまた塩漬けの全身を風呂に浸けた。 良かった、温かくて波立たなくて枠のある風呂に入れた。 波に乗れ。 波を読め。 波に体を委ねろ。 逆風でも耐えていればいつか抜ける。 順風を逃すな。 スピードを落として波を砕け。 荒波に下手には逆らうな。 波が穏やかならスピードを上げて走れ。 しかし波は止まない。 多少のしぶきで騒ぐな。 状況を冷静に楽しめ。 耐えうる状況の幅を広げろ、経験を積め。 海的、波的格言のようなことがたくさん浮かんできた。 都会が好き。 だがたぶん、たまにこういう経験をしたくなるのもまた私なのだろう。 今回のは予想を遥かに上回っていたけれど。 夜眠りにつく前、海面がありありと見えて、私の身体はまだ波の上にあった。 奄美大島へ飛ぶ。
東京より断然暖かくて、特別にやることがないところならどこでも良かった。 石垣島と迷ったが、10年ほど前に行ったことがあるのでやはり行ったことがないという点が決め手となった。 まあ本当にその地が好きなら何度も行くべきだし行きたいものだと思う。 気質的に比較的値段の高い宿に泊まることをどの旅行でも今までしてこなかったが、今は身重ゆえお酒を飲むことも各種アクティビティに参加することも難しい面があるので、その分宿をランクアップしてみることにした。 ちなみにアクティビティといえば、ホエールウォッチングだけ予約をしてある。 さて奄美大島、そして高いホテルはどんなところだろうか。 前日の昨日、早起きをしなければならないプレッシャーなのか、あまり眠れなかった。 なんだかいつもより、ワクワクしていた。 旅行の行きの道中はそれなりにワクワクするものだが、色々な手続きやそちこちの移動が億劫に感じることのほうが多かった気がする。 今回なぜいつもよりワクワクが大きいのかの理由のひとつは、普段からの散歩が効いているのではないかと思う。 歩きつけている分、すたこらと歩くのは全然苦ではないどころか、歩数が稼げるなどとも思う。 フットワークが軽いとは、身重なのに身軽である。 私は自分のことを酷く怠惰でフットワークの重い奴だと自覚しているので何だかそれが嬉しいのである。 まあでもしかし身重であることには違いはない。 搭乗前のベンチで、私は優先席に座ってみた。 杖をついた人の絵、心臓ペースメーカーが埋め込まれている人の絵、子連れの人の絵、妊娠している人の絵、松葉杖の人の絵。 マタニティキーホルダーを区からもらっているが、まだ一度も付けていない。 妊婦だからといって気を使わせるのは嫌だということから来ているのだが、私はこれまで妊婦にそのような目線を向けてきたかもしれない。 なってみないと分からない、というのは何事もそうだが、もう少し想像力を持ちたいものである。 あと、席を譲られる側も、別に優先席マークに値しなくとも具合の悪い人は使えば良いわけである。 周りが気づいてくれなければ、具合が良くないので席に座らせてください、と自然に言えば良いのだと思う。 ホテルをランクアップしたくせに、航空券はLCCで成田空港発。 奄美大島行きの便は30分ほど遅延して出発した。 キチキチの座席はリクライニングするのも憚られ、俺もリクライニングしない私もしないあなたもしない、と乗客全員で暗黙の誓いを立てているようだった。 ぎっちりの飛行機で3時間、途中初めて胎動のようなお腹のポコポコを感じつつ、しかし十分にフライトに飽き飽きしながら奄美空港に降り立った。 そして、ここから宿まで車で2時間強。 カーナビが海沿いに1本のうねうね道を延々示している。 農作物を作っている気配や放牧の気配が見当たらない。 町というか集落もとても少なく閑散としている。 これは曇りだったからだと思うが、暗い。 平地が少なく、山ばかりの奄美大島はあまり開拓がなされていないらしい。 奄美大島は沖縄本島と同じくらいの面積があるにも関わらず、人口は沖縄本島の10分の1、10万人もいないのだそうだ。 「島」という漢字には「山」が入っているが、まさにぼこぼこと山が隆起して島ができたという様相である。 車のハイビームを点けないと道がわからないほどに街灯は少なく、真っ暗である。 時折現れる集落を見ると安心する。 以前からそうだが、私は圧倒的な自然には恐怖を強く感じる。 車という現代の甲羅に守られて尚。 もしここで車が故障してしまったら、もしここでカーブが曲がりきれずに海に落ちたら、もしここで運転手が心筋梗塞を起こしてしまったら、もしここで竜巻が起こったら·····杞憂なのも承知の上でどきどきする。 自分を宥めるために、大丈夫大丈夫と呪文を唱える。 私はたぶん、生来の怖がりなのだ。 あるいは、この状況を楽しいと思えるように考えてみる。 これは、無事に帰れたら後日の体験談を誰かに語るに値する、という程度にしか考えられない。 運転手に不安が伝わるのは良くないと、ならば寝てしまえと目を閉じる。 そうこうしているうちに、まさしく果ての果てまで、マップ上は道が途切れているところまで来て宿に着いた。 誰だろうか、こんなところにリゾートホテルを作ろうなんて唆した奴は。 おそらく島民ではなさそうである。 さて、ごはんはシンプルな味付けでとても美味しかった。 4泊5日。 持ってきた本を読みたいと思っているが旅行期間中に手が伸びるだろうか。 読書したいと思えるほどに暇、という状況をわざわざこんな果てに作りに来た。 家から成田空港、成田空港から奄美空港、奄美空港からホテルまで。 1000キロ以上移動していて疲労困憊だが、自歩6000歩程であるのは悲しい。 旅日記の続きはまた。 忙しくなくなったはずなのだが、実際にはあまり変わりはない。
いや、確かに締め切りにカウントされない分忙しくはない、のかもしれない。 しかしながらあれこれと忙しいかのように感じている。 あっと言う間に夜が来て、あっという間に次の日がやってくる。 と思ったら、夜が来る。 妊娠前よりも比較的規則正しい生活をしているからだろうか、より単調な日々の転がるスピードに慄いている。 一方で、出産予定は7月初めだから、腹の子は早く大きくなってその頃を迎えたい気持ちもある。 たぶん、この忙しさを感じるのは私以外の人が家の中と腹の中にいるからなのだと思う。 私はおそらく元来ひとりでいることが相対的に好きなタイプなのだと思う。 まあ皆そうだと思うが、あの人やこの人や、私にかまってくれる人たちが周囲にいてくれた上で、それで丁度良いほどにひとりでいたいのである。 我が儘と言えば、そうだろう。 昔、実家には最大8人で暮らしていた。 おじいちゃんやおばあちゃんは長い間留守にすることもなくほとんど家にいたから、家にひとりでいるということはほとんどなかった。 ごく稀におじいちゃんは山へ、おばあちゃんはお墓参りへ、他の家族も皆外出中、そして家は私だけ、という状況になることがあった。 私は、わーーーーひとりーーーー、随分と高揚していたことを覚えている。 誰の耳も気にせずピアノで同じ曲を何回も弾くというようなことをやっていた気がするが、別にこれと言ってひとりだから何をするわけでもない。 ただ、家に私ひとり、という状況がとても嬉しくて、家の中を走り回りたい気分だった、実際走り回ったかもしれない。 もちろん家族が帰ってくることを前提に。 大学進学時に上京し、ひとり暮らしを始めた。 ホームシックになったことはただの一度もない。 何をするでもないのに、一住戸の中に誰の目もない、私だけの空間は大いに楽しかった。 それから15年ほど、ひとりの住戸で暮らしてきた。 幸いなことに私に何かしらの形で接してくれる人々はいて、だいたい適量のコミュニケーションが取れて、淋しさでどうかしてしまうと思ったことはなかった。 一住戸にわたしだけ、それは私にとってとても快適なことなのだろうと思う。 そして今、婚姻して毎日人と一緒にいる。 たとえ空気のような存在の人でもいるのといないのとでは大違いである。 私以外の誰かの存在が全く気にならないということはあるはずもなく、また単純に体温の塊がそこにあるということでもある。 無論、それは有り難く嬉しいことでもある。 たぶんこの状況にまだ少し慣れていないのだろうと思う。 当然のように人が家に帰ってきて、当然のように一緒にごはんを食べる。 このことは、私が忙しいと感じるひとつの要因だろうと思う。 しかし何度も言うが、ひとりでいたいということは誰かといたくない、ということではない。 自分の思う、適切な量だけひとりでいたくて適切な量だけ誰かといたいのである。 では一日何時間、週に何度、完全なるひとり時間を設けましょう、という問題でもない。 ひとりでいたい気分のときにひとりでいたくて、誰かといたい気分のときに誰かといたいのである。 こうした独りよがりの欲求は、私個人としては満たされたいし満たされて良いと思っている。 相手にもそうあってほしい。 けれどそのタイミングが合わないことだってあるだろう。 別に相手を悲しませたいと思っているわけではなく、できれば喜んでいてほしいのだから、お互いの折り合いの付くところを時間をかけてでも探っていくべきだろう。 そこは相手が我慢しているという状況に追い込まないような高度な交渉が必要である。 なるべく互いの欲求が満たされることが望ましい。 実は私たちは制度上住戸を同じくしていない。 まあ夜はほとんど一緒にいるのだが、住民票の住所は別である。 私は自宅が職場であるので、それを全く家庭の場として同化させるのは嫌だしスペース的にやや無理があるので、もうひとつ住戸を借りている。 腹の子が出てきたとき、この形態が最善であるかはまだよく分からない。 ひとりについて、誰かといることについて、長くて大事なことなので、譲ったり譲らなかったりして一緒に考えていきたい。 案外、最高の一日だった。
披露宴当日のことを疑っていたわけでも蔑んでいたわけでもないけれど、あまり予想もなかった予想以上の楽しさというか嬉しさがあった。 主催側が言うのも変だけれど、展開に滞りなく、緩急のある良い宴だったのではないかと思う。 披露宴の開催を迷ったという経緯があるが、本当にやって良かったと思う。 私は自分が中心となって特別に大人数の何かを主催するということは今までほとんどやってこなかった。 多くはない人数の飲み会の幹事でさえも。 まあでも結婚披露宴は、しきたりと会場のプランナーさんたちに従っていけば何とかなるだろうと思っていたのてさほど重たくは考えていなかった。 しかし実際には、非常な大変さがあった。 衣装、ヘアメイク、テーブルの花、食事や飲み物、席次、プロフィール紹介やバックミュージックの選曲、お礼やお車代、引き出物やプチギフトや各人へのプレゼント、決めなければいけないことだらけ、選択の嵐だった。 同時にそれは、プランナーさんや招待客や諸々を発注する店などとの連絡の嵐でもあった。 ほとんどお金がらみのことであるし、披露宴とはそもそも社会制度に則って婚姻し、それを社会的に発表する場であるから社会的仕事力が問われる。 また、プランナーさんから提示されるものから全てを選べばそんなに大変ではないのかもしれないが、自分たちらしさ、なんてものも結局多量に盛り込みたいわけで、そうなってくると想像力も創造力も必要となってくる。 何かを選択するということは何かを選択しないということでもあり、こうしたいという思いのコストパフォーマンスを考えながら選択をするのは本当に骨が折れることであった。 たくさんの人を巻き込んで、たくさんのお金を支払って、途中で放り投げるなんてこともできない。 しかしもし披露宴をやらない選択をしていれば、嵐が吹き荒れることもなかったのにと何度かは思った。 日に日に重たくなる身体もあったし、ドレスが入らなくなるかもという不安も募るばかりだった。 結局、招待状、宛名書き、各種メッセージ、ウェルカムボード、席札表裏、メニュー、席次表、ゲストテーブルの飾り物を自作した。 なぜかウェルカムボードでちぎり絵をすることを思い立って、初めてのちぎり絵、と言っても簡単な構図ばかりだが、千代紙をひたすらに千切って貼りまくるという作品を合計で七点を三晩で作った。 円卓でどこにも作品があるようにとポストカードサイズの作品を20点ほど、宴の前夜の遅くまで書いて額装した。 こだわる、ということは際限なくどこまでだってできる。 実際に手を動かし始めたのが遅すぎたが、その前にもたくさんの構想を事あるごとに発想して頭に溜めこみ、買うべきものを揃えていった。 席札と受付を木にしようと、家具屋の端材を買ったのは我ながらなかなか良い発想だった。 席札の裏には、その人からぱっと連想される言葉を書いた。 これらの作品は多くが持ち帰っていただけたらしい。 会場のスタッフの方々が無理やり皆さんに持たせたのか定かではないし、行く末は分からない。 まあ作品の行く末は良いとしても、本当に悔やまれるのは、この数日間で作ったこれらの作品の写真を撮り忘れてしまったことである。 結局、時間をかけて生み出したものの思い出が最も愛おしいのは製作者なのである。 誰にどれが渡ったのかわからないし、私の思うように撮影して画像を送ってくれというのも言いづらい。 しかし本当に悔やまれる。 それもそうと、友人のスピーチが素晴らしすぎて、私が唯一宴中に泣いたのは彼女のスピーチであった。 彼女とは私の精神の開拓黎明期を共にしているから何とも思い出があり過ぎる。 しかしながら、その思い出も十分に手伝っているが、とにかくスピーチのパフォーマンス力に身震いさえした。 話の掴み、構成展開、言葉の選び方、声のボリューム、スピード、抑揚、視線、間の取り方、演技力演出力、世界観、度胸、ロックンロール、愛情。 どれもが百点満点と言って良いほどだった。 しかも、考え抜かれた起承転結の文面であるのに、その場の臨場感や対応力まで完璧であった。 彼女自身の持つ可愛らしい朴訥さは、このスピーチに限っては織り込み済みのようにも思えた。 技術力に即興力、彼女のことを見くびっていたわけでは決してないが、想像以上だった。 スピーチのプロフェッショナルでもないのにプロフェッショナルの所業だった。 長めのスピーチの結びに、彼女はいきなり「うたいます」と宣言して、ブルーハーツの「歩く花」を歌の途中からアカペラで歌い始めた。 そこまでの流れにももう涙は止められなかったわけだが、彼女の大声の歌に本当に久しぶりにロックンロールを見た気がした。 私のためにこんなにも一生懸命にやってくれたというのもあるが、それよりも上質なロックンロールライブを見られたそのことに感動したのだった。 彼女は自分が好きなことを多くの観客にパフォーマンスするとき、最も輝きを増し、彼女の持つ一番の花が開くのかもしれない。 自分自身の花の種が、どんな種類でどんなふうに育てると最も生き生きと開花するかを知ることは案外難しいことだと思う。 あのスピーチを作るのはとても大変で面倒だったと思うけれど、たぶん彼女自身もあの場のあの役をやったことには満足しているのではないかと思う。 どんなにお礼を言おうとも、あれは自分のためでもある、と彼女は言うだろう。 とてもとても、有り難かった。 とてもとても、尊敬した。 宴が終わって、ようやくドレスから解かれ、控え室で冷めた婚礼中華料理を、興奮冷めやらずもぐもぐと食べた。 食べる時間が全くなかったわけではないのだが、食べると気分が悪くなるかもしれないという思いから宴中はほとんど箸をつけなかった。 前日に、腹の子には「明日は締め付けるけどごめんね、良い子でいてね、よろしく」と念じておいたおかげなのか何なのか、ドレスで気分が悪くなることもなかったのは幸いである。 一日明けてご祝儀の集計や、費用の収支をまとめるなど。 友人の「歩く花」を思い出すと今でも涙が滲みそうである。 他にもエピソードはあるのだが、友人のせいで書けないということにしておこう。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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