毎月末、私は銀行のATMに行って翌月の食費等を下ろしに行く。
我が家は、食費や日用品費等は毎月定額で折半している。 ただ、酒は夫の方が飲むので、多く出してもらっている。 この共通財布は鮮やかな緑色をしていて、「緑の財布から出しておくよ」とか、そういう具合で家庭内では使われる。 緑の財布はほとんど私が管理していて、毎日使った金額をアプリに入力、繰越金が出る場合は、公式へそくりとして貯めていて旅行に行く際などに使う。 毎月の金額は最初に適当に決めたものであるが、節約しつつもぎりぎり感もない適度な金額だったようで、ずっと同額での運用が続いている。 私のような人で月末のATMはいつも行列している。 ATMの行列は少しピリピリと牽制し合う様子である。 皆少し心拍を早め、疑心暗鬼にそれとなく辺りを見回したりする。 いざ自分の番になると、行列が長ければ長いほどまだかまだかとヤキモキしている人々の視線を感じるものだ。 それでも、平静に平静にとただ操作を間違えずに済ますのみである。 ようやくお金を下ろしてATMを出ると、やたらと日差しがまぶしく感じられることが多い。 ひと仕事終えたのだけれど、下ろしたお金を持って家に帰るまでの道のりも何だかそわそわしてしまう。 キャッシュレスな世の中で、私も普段はそんなに現金を持ち歩いていることはないのだが、この時ばかりはひと月分の家計の重みを背負って緊張もするものだ。 ところで、このひと月分の食費や日用品費について金額を公開するつもりはないのだが、実際の家計の金額の話は一般的にタブーなように思う。 それは例え親やきょうだい、親しい友人などの間柄においても。 私も夫も、食料品や日用品についてあまりこだわりがないので、基本的には安く済んでいるように思っているが、実際のところはどうなのだろうか。 さて、年始からやっている「お字書き道TALKS」は現在のところ隔週更新で定期的にアップしている。 やればやるほど問題が出てくるもので、動画コンテンツの難しさにぶち当たっている最中である。 普段何気なく説明している話も動画として残すとなると曖昧なことが多々ある。 私にとってみれば、歴史や書の意義などを再度問う良い機会だ。 内容を子ども向けにしてほしいという声もちらほらあるのだが、現状のところそのような方向性を我々は考えてはいない。 動画の内容をかみ砕いて、お子さんにも伝えてくださったら嬉しく思う。 ちなみに息子は、私の動画をテレビに映すと、「おかあしゃん!!!!」と言って走り寄り、テレビ画面にげらげら笑いながらんちゅんちゅとキスをしたりする。 私はそれをたまらなく可愛いと見守っている。 動画素人ながら奮闘して作っておりますので、よろしければご笑覧くださいましたら大変幸いです。 冒頭に相方タナカ氏のギター演奏を入れましたが、これがまた良いなあと隣で聞いていつも思っております。 チャンネル登録やいいねやコメントも本当に有難く頂戴いたします。 第四回「ひらがな後編」2022/02/26公開 【ひらがな実践編】あ!素人でもFirst Takeで美しく書けた! https://youtu.be/kHXJNMN8Pjw
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ワクチンの三回目を終えて、追加の抗体が産生されたであろうけいこがやってきた。
息子には「今日保育園から帰ったらおばあちゃん来るよ」と予め伝えたら、「おばあちゃんっ」と元気に言い、その内容が伝わったようだった。 これまでおばあちゃんであるけいこにも全然懐かない息子だった。 まあでも特別おばあちゃんに懐かないということではなく、お母さんである私以外に心を許すのには誰であれ膨大な時間を要する子である。 日々一緒に暮らすお父さんでさえも。 しかし今回は驚いたことに自分からけいこの膝に入っていくなど、おばあちゃんに対してとても友好的な態度が見られた。 抱っこも、トイレも、おばあちゃんがやっても全く嫌がらない。 おばあちゃんの食べているごはんを自らもらいにいくなどもしていた。 それどころか、「お風呂誰と入る?」と聞くと、少しいたずらな顔で、「おばあちゃん!」と言う。 半分冗談、半分本気、そんな様子だった。 それならおばあちゃんと行こう!と私がけいこに視線をやると、やだやだむりむりと断られてしまった。 まあ気持ちは分からなくもない。 始めは良くてもいつ機嫌を損ねるか分からない子と二人きりで風呂に入るのは骨が折れるばかりだろう。 日々一緒に風呂に入っている親でも、風呂の所作は何かと気を使わねばならない点も多い。 それでも、半分冗談でも、「おばあちゃん!」と言えるようになった息子は何か心の変化があったのだろう。 思いあたる節としては、LINEのビデオ通話である。 最近スマホ見るたびにおばあちゃんに電話をかけるとせがみ、頻繁に顔を見ていたのでその存在に慣れていたのではないか。 ビデオ通話なんて、と思うが、それでも効果があるなら、例えばベビーシッターさんを久々に依頼する際には前日にビデオ通話で挨拶と少しのお話をしておくと多少は良いのかもしれない。 そろそろ、お母さんお母さんお母さん、お母さんしか絶対ダメ、という時期も終わりに来ているのかもしれない。 あんまりにも私しかダメというのは不都合が多く、本当に困りものではあるのだが、息子にとっての最優先最重要人物としての地位が徐々に脅かされていくのはそれはそれで少し惜しく寂しい気持ちが湧くものである。 息子には自立していってほしいと切に願っているが、一方で「私はもう必要ないのね」とひねくれる気持ちも隠せない。 とんだないものねだりは、母たる機微だろうか、それとも普遍的なものだろうか。 ところで、けいこの話でひとつ驚愕したことがあった。 けいこは、キッチンの引き出しの奥から出てきた10年以上賞味期限が切れた袋麺の出前一丁を食べようとしたらしい。 茹でて、粉末スープを入れて、臭いをかいで、器に盛って。 食べてみたところ、えもいわれぬ不味い味がしてほとんど捨てたと言う。 詳しく聞かなかったのだが、そのひと口は飲み込んだということなのだろうか。 確かに、賞味期限というのは消費期限と違って、期日が過ぎたとしても美味しさが落ちるだけで食べることは可能である。 納豆やヨーグルトやスナック菓子や缶詰などはどれも賞味期限記載である。 しかしながら、消費しなければいけない消費期限は書かれていないのが一般的だ。 かといって、10年以上賞味期限が切れたものを食べようとも思わないのが一般的なのではないか。 けいこの、食べてみたら食べられなかった、と我が身で毒見をするスタイルは昔から変わらない。 幼い頃、賞味期限切れのヨーグルトを捨てようとしたら止められて、自分の鼻と舌で確かめてダメならダメと判断しなさいと教わった気がする。 それにしても、袋麺は10年間という時間の中で、何がどう変化して、不味くなったのだろうか。 不味くなるとはどういうことなのだろうか。 袋は閉じられているが、少しずつ空気が入って酸化していくのだろうか。 「ピタゴラスイッチ」あたりの番組で、10年間の食品の変化を超早送りでもした映像を作ってもらいたい。 あ、でも、実際に見た目はほとんど変化していなかったのだろうから、味だけの変化は映像化できないか。 一緒に息子を保育園に送り、少し足を延ばして行ってみたかったレストランで昼食をとり、けいこは帰っていった。 レストランでのごはんは美味しかったのだが、全体的に油が多く、完全に胃もたれしている。 けいこも同じ感想を述べていた。 さて、またあれから。
すっかり看病ブログとなってしまっている。 引き続き丸一週間保育園をお休みした週末、なんとたらりと鼻水が垂れ始め、こんこんと軽い咳をしているではないか。 熱を測ってみると・・・39.0。 私は叫びのようなため息を連続してついた。 もう、もう、終わると思ったのに。 幸い熱は翌日には引き、追加で余分に1日保育園をお休みして療養に徹したためか、大事には至らずに済んだ。 息子は保育園に行かない日々を日常と化していて、これまで家で保育園の先生やお友達の名前を連呼していたのもすっかりしなくなっていた。 長い長いお休みを経て、保育園に復帰すると、彼が一番好きな先生が迎えてくれた。 久しぶりなので泣くかなと思ったけれど、大好きな先生に抱かれてにやにやしていた。 この日一日、また「発熱があるのでお迎えを・・・」とならないか、本当に戦々恐々と時間をやり過ごしていた。 10時を過ぎ、12時を過ぎ、給食を食べてお昼寝をして、15時を過ぎ、ここで検温をクリアし、16時。 保育園から電話が鳴ることはなかった。 喪が明けた、ようだった。 約1か月間、きっと息子も大変だっただろうけれど、私たちも結構大変だった。 元気が一番、健康が一番、切に思う。 おそらくだが、息子はこれまであまり発熱をしてこなかったので、今回の一発目の40度越えの発熱時に免疫ががくんと落ちてしまって、立て続けに色んなものにかかってしまったのだと思われる。 子どものうちはたくさんの菌やウイルスにまみれて、それに対抗できる身体づくりも務めなのだろう。 息子の身体が進化したのだと思いたい。 久しぶりにお字書きなどして、楽しくて幸せに思う。 久しぶりに美術館に行くなどして、楽しく幸せに思う。 この1か月、息子を寝かしつける時間が長く、寝た後も隣にいないと起きてしまうので、私も横になっている時間が長かった。 何かできることはないだろうかと、スマートフォンでAmazonプライム映画を観てみると音を最小にしても結構見られることがわかった。 映画好きの方におすすめをいただいて、10本くらいは観ただろうか。 冷たい熱帯魚 オーシャンズ 福島フィフティ いぬやしき ボブと言う名の猫 セッション 青天の霹靂 さいはてにて ダヴィンチコード 「冷たい熱帯魚」は実話を元に作られたらしいが、もう恐ろしすぎて2日くらい引きずっていた。 園子温監督もさることながら、やはり現実は小説より奇なりとはよく言ったもので、実話も恐ろしすぎる。 しかしやはり、何にせよ人が心血注いだ作品は良い。 エンターテインメントは日常の花であり、花は明かりである。 各々の興味関心を満たせる日常でありたい。 さてまたあれから。
まさかの39.8度の熱で保育園から呼び出しがあった。 数ヶ月前に発熱時のルールが改変となり、解熱後72時間経たないと登園できないことになっている。 月曜だったから、もう今週は終わった、ということになった。 それもそうと、息子は一体どうしたのだろうか。 あまり0歳、1歳の時には熱を出すことがほとんどなかったから、今になって色々と身体が反応し始めているかのようである。 熱々の息子を抱っこ紐に入れて連れ帰る。 ふぅふぅ言いながら機嫌が悪い。 給食は完食したというから、とにかく寝かせようと私も横になった。 身の置き所がないらしく、寝付いたと思っても寝返りをする度に暴れているような感じだった。 一度起きて、ご所望の炭酸水をあげて、また寝る。 今度はきちんと眠りに入れたようで、顔も少しスッキリしていた。 最近はもういつでもそうなのだが、寝るときに私に抱きしめられていないと寝られないらしい。 夜中に何度も「こっちごろん」と言って、反対を向いて寝ている私の体を自分の方に寄せようとしてくる。 寝返りも自由ままならない。 翌朝、熱は38.1まで下がっていた。 比較的元気であり、何よりも前回と異なるのは食欲があること。 何か少しでも食べてくれるのは体調はそこまで悪くないのだろうし安心出来る。 ちなみに初めから発熱以外、咳や鼻水など見た目には症状がない。 念の為また小児科に電話を入れて受診する。 また鼻の中に綿棒を突っ込まれて大暴れの大泣きである。 何でもなさそうなのに、今は有事の世の中、すべてはコロナにつながっている。 また陰性でほっとした。 その後は順調に快復。 やはり食べられれば回復も早い。 しかしながら保育園はお休みしないといけない。 誰が悪いわけでもないが、大変な世の中であるには違いない。 おかあさんといっしょの映画版と、ミッフィーの映画をAmazonプライムで延々と見ている。 それにしても、おかあさんといっしょのキャストの4人は、まだ20代というのに凄まじく素晴らしいお仕事をされている。 微塵も妥協を感じない。 やけに空気が冷たいと思っていたら雪が降り始めた。 積もるのだろうか。 お篭もり条件が整いすぎやしないか。 さてあれから。
息子は全快したが、保育園がコロナ騒動で不定期に休園になっている。 夫と連携して仕事を調整。 息子はと言えば、家にいられるのは嬉しいようである。 さすがにと言うか、まあ始めからネタ不足であり。 家にはプラレールやトミカは山ほどあり、それなりにそれで遊びもするし、「おかあさんといっしょ」の映画版をAmazonプライムでもう何十回見ているか分からない。 家にいるより、保育園の方が様々な遊びができて楽しいのではないかと思うのだが、やはり彼にとっては保育園は仕事という感覚のようである。 家の中ばかりでは仕方がないので、外へ行こうとすると必ずトミカの神奈川県警のパトカーを握りしめて出かける。 それをそこかしこで走らせては、ほふく前進をしながらトミカを間近に観察して喜んでいる。 子どもに清潔観念がないのは今も昔も変わらないだろう。 外に出る度にズボンを変えて、ジャンパーは一日で洗うことにしている。 それから、電車電車と言うので、電車に乗りに行く。 公園もすべり台があれば行くには行くが、基本の遊び場はもっぱら電車である。 有難いことに、最寄り駅の路線は平日の昼間はかなり空いている。 優先席に鎮座してしばし電車を楽しむ。 地下ばかりではつまらないので、地上へ出るところまで行く。 場合によってはそのままガタゴトゆらりと寝てしまうこともある。 歩き始めた頃はあんなに歩きたがっていたのに、今は抱っこ抱っこである。 自分が興味のあるエレベーターやエスカレーターなど以外ではほとんど抱っこをせがまれる。 うろちょろされるのも、走ってどこかに行ってしまうのも困るので抱っこも楽だと思うことがあるけれど、やはり単純に重い。 最近は、路線の名前も覚えてきて、西武線、大江戸線、山手線、中央線、新幹線各種など、車両の違いも分かる。 他にもアルファベットの大文字はほとんど分かるようになったり、歌も色々とよく歌っている。 脳の瑞々しさを感じる日々だ。 また、私と台所に入って色々とやりたいらしく、悩ましいところである。 台所の入口にベビーゲートはあるが、私がごはんの準備をする時間締め出しておくなんてことは喚き散らされるのでできない。 子ども用の包丁など買った方が良いのだろうか。 15時前くらいから寝ているような気がするが、現在の時刻は17:08。 たくさん寝かせるのはどうかと思うのだが、私も隣で布団に入ってぬくぬくしているのが止められず起こす気もない。 明日は保育園なのだが、まあ何とかなるだろう。 息子と過ごしている時間は、私の何かはほとんどひとつも進まない。 息子は身を明け渡すことが愛だと言わんばかりの欲しがりだ。 今だって私が隣で寝ているからこんなに長く寝ている。 このように母は猛然たる愛情を息子からいただきながら、限局的な自尊心ばかりを高めて、のんべんだらりとした時間を過ごしている。 いつか息子の愛情の器が満ち満ちて、自立の道を歩んでいってくれると良い。 そのとき私は何を思うだろうか。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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