気付くと前回のブログ更新から一週間が経過している。
別に更新する義務などないのだが、長年の癖でうっすらと日常にブログのことが頭を擡げるのである。 本当は暇になるはずなのだが、何だか本当に慌ただしい日々を送っている。 きっとこの慌ただしい日々について私はひと月しないうちに口を割るだろうと思う。 割りたくて仕方がない。 誰かに話したいのではない、ブログに口を割りたいのである。 さて、仕方がないのでまた歩いている話でもしてみる。 1日15000歩、この一か月間、90パーセントほどの確率でクリアしている。 営業職でもない私が、純粋な徒歩移動のみで毎日15000を達成するのは簡単なことではない。 こんなにも歩きまくっていると、当たり前だが、特に住んでいるところの周辺は小道までも歩きつくしてしまって、知らない景色にたどり着くことがどんどん難しくなっていく。 時間の制約が無い場合の散歩は、新しい景色に出会えるという楽しみも大きいものだ。 用事があって出かけるところは同じ場所が多いから、歩く道もほとんど同じで少し飽きてきている。 しかし、徒歩の方が電車よりもかかる時間にブレが少ないので約束時間で待ちぼうけするというロスは減らせる。 これには迷っている場合などないわけで、ほぼ同じ道を通ることが必須となる。 慣れればいちいちグーグルマップで確認しなくても良いから楽は楽だ。 ところで都心にはとても行き止まり、袋小路が多い。 住宅街の小道に入っていくと空気がそこに溜まっているような異様な雰囲気になっていって、結果戻るしかない行き止まりに当たってしまうことがよくある。 行き止まりのぎりぎりまで家は密集して建っていて、その辺りの道路は私有地と言って良いほどほぼ住人しか通らないのだろう。 こういう場所は、グーグルマップも確かに行き止まりを示しているのだが、「道がどこかに通じていないはずがない」という私の変な思い込みがあって、どこか抜けられるだろうと安易に思っている節があるのでいけない。 一か月歩き続けてみての変化は、ふくらはぎの筋肉が成長したこと、階段をひょいひょいと登れるようになったこと、そして何より生活全般に及ぶフットワークがとても軽くなったこと。 元々私はかなりの出不精であるし、はさみを取りに隣の部屋に行くのも面倒に思うほど動くのが好きでなかった。 それが歩数が足りないからとマンションのエレベーターも使わずに階段を使ったり、駅でエスカレーターが隣にあるのに階段を使ったり、横断歩道があってもわざわざ歩道橋に上ったりするのである。 スーパーに買い物に行くくらいなら家にある少ない食料で凌ごうと思っていたが、わざわざマンションの階上から階段を下りてスーパーまでひょいと行けるようにもなった。 階段なんて乳酸が溜まるばかりで本当に嫌なものだと思っていたが、小走りでも上ったり下ったりできる。 日常的に鍛えておくことは大切なのだなあと身体で思い知っている。 書道で少し大きめのものを書くときにも効果が出てくるのかもしれない。 「何事も自分の足で歩いて体感して確かめないとだめだ」なんて説教じみたこともそろそろ言ってもよい権利を得てきた気がする。 いやでも、本当にそう思う。 机上の空論とはよく言ったもので、何事も自分でしこしこと時間と手間をかけて舐めまわさないと分からないことだらけだ。
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けいこが来ていた。
無論一泊だが。 けいこが来ると一緒に美術館に行ったり飲食店に行ったりスーパーに行ったりするのだが、「東京の割に広い」とか「東京の割に空いている」とか「東京の割に安い」とかという言葉をとても頻繁に使う。 けいこの中では、東京は土地が狭く人が多くて混んでいて物価が高い、というレッテルがべったりと貼り付けられていて、それが自分の基準よりも良好の場合には「東京の割に○○」と出てくるのである。 しかもそれを毎度新鮮であるかのように言う。 今回一緒に行った美術館でも中華料理屋でも近所のスーパーでも言っていた。 確かに東京は蒲郡に比べれば土地が狭く人が多くて混んでいて物価が高い面はあるのだが、私も長らく東京に住んでいるので、何も敢えてそれらが凝縮されたところばかりに突っ込んで行ったりしない。 私だって喫茶店のテーブルが狭いのも、人ごみで上手く歩けないのも、物価が無駄に高いのも嫌なので、東京慣れしているからこそ、少しゆったりできてコストパフォーマンスの良いところに行くのである。 だから毎度けいこの「東京の割に○○」を聞くことになる。 何度も「東京の割に○○」ということに出くわすのだからそろそろ情報はアップデートされても良さそうだとも思うけれどそうはならないようだ。 考えてみれば私も「東京なのにこんなに土の匂いがして最高」とか「都心とは思えない静けさ」などと、大きな森のような公園を都心に見つける度に言っている気がする。 そんなものは東京にだって結構たくさんあることを既に知っているのだけれど。 反対に、蒲郡にだってとても混んでいる場所もあるし、コストパフォーマンスが悪い店だってたくさんある。 東京のそういった場所を発見したとき、マイナスがプラスに転じた嬉しさを未だ毎度味わっている気がする。 ということは私も今なお東京の実態を上書きせずに東京に対するマイナスの評価を携えているということだろうか、まさか。 まあマイナスの評価レッテルを貼っておいた方が心が楽という心理状態は分かる。 「東京の割に○○」という言い方は多少東京のことを“だめな奴”ということにしたいという上から目線な見方も含有しているだろう。 「あんたとしては上出来だわ」と。 ついでに、おそらく自分が住んでいる土地の方が総合的に優れているということの表れでもあるような気もする。 いや、でも、東京は居場所とするほとんどの土地が狭く高く人が密集しているというマイナスポイントは誰もが思っていることなのではないだろうか。 東京生まれ東京育ちならば「東京の割に○○」とは思ったり言ったりしないのだろうか。 毎度新鮮味を持って上から目線で東京の評価を上げて、それをまた都度完全リセットするような行為はしないのだろうか。 とある変化が私に起こっていてやや戸惑っている。 それは意志の行使と自然現象の結晶である。 それに付き纏う仕方のないことと仕方なくないことがある。 色々と思うことが増えそうなのだが、私は私であるために勝ち続けなければいけない、のかもしれない、尾崎豊風に言うと。 こっちゃんに連絡がつくのだろうか、と伝えたいことと聞きたいこともあって数年ぶりに連絡を取ってみた。
連絡先はEメールもLINEも分からないのでFacebookのメッセンジャーを利用してみる。 案外すんなり返事は返ってきて、伝えたいことも伝えられ、聞きたかったことも聞けた。 ここ数年こっちゃんとは連絡が取りづらいような気がしていたので拍子抜けしたのだが、たぶん安心した生活を送れているということなのではないかと思う。 こっちゃんとは、古い友人である。 このブログ上で名指しをすることはけいこ以外はほぼないのだが、“こっちゃん”と書きたかった。 “こっちゃん”そのものの人格の記憶や、“こっちゃん”という可愛らしい語感や字面が醸す何かしらの情緒があるような気がして。 こっちゃんどうしているかなあ、と会っていないここ何年かの間にも何度かは私は思い出していた。 こっちゃんと私は同級生なので、ほぼ同じくらいの年月を色々なことをしながら思いながら過ごしてきたことだけは確かである。 ピエールエルメの華々しいローズとフランボワーズのケーキをいただく。 ひとつ800円くらいするのではないだろうか。 と、気になって今調べてみると「イスパハン」というマカロンのケーキでなんと972円。 群林堂の豆大福は180円だし、うさぎやのどらやきも180円である。 ちなみに最寄りのスーパーの生菓子コーナーのショートケーキは360円ほどだったと思う。 なのに、重量は同じくらいのピエールエルメのケーキは972円。 同梱されていたクリスマスケーキのパンフレットを見ると、12センチほどの手に乗りそうな艶やかなケーキが6000円ほど。 こう考えると、洋菓子の相場価格が全般的に高すぎるのか、和菓子が控えめ過ぎるのかどちらだろうか。 洋菓子の主な材料は、小麦粉、バター、生クリーム、卵、砂糖、フルーツなど。 和菓子の主な材料は、米(小麦粉)、豆類、砂糖、果実など。 となると、バターや生クリームが高いのだろうか。 あとは製造工程の手間や使用する機械などだろうか。 お菓子を手作りした経験がほぼないのでこの辺りはよく分からない。 広告宣伝費がまず全くもって異なりそうなのは容易に想像がつく。 いやはや何はともあれ、ひとつ972円のケーキを自分では買わないのでなんともありがたい。 でもこういうのは、出来る限りフラットな気持ちで、972円だということにありがたみを感じずに食すのが正しいと私は思っている。 当然だが、高いと美味しいはイコールの関係にはない。 濃いピンクのフランボワーズの二つのマカロンの間にクリームとフランボワーズの実が並んでいる色鮮やか、艶やかな一品。 マカロンをフォークで切るわけにはいかないので、この艶やかなピンク色のサンドイッチにがぶりとかぶりつく。 それは、こっそり忍び込んだお母さんのメイクルームで、高級なお母さんの薔薇の化粧品を食べているかのようだった。 中にはライチのクリームも入っていて、やはり高級なお母さんの乳液を舐めてしまったような、そんな心持がした。 おそらく薔薇の香りは私にとって食べ物の認識がやや低いのだろうと思う。 全くの新しい感じなのであればもっと素直に受け止められたのかもしれないが、既に記憶に別の方向性で先入されているものを味覚完全優位に感じることはやや難しいということだろう。 決して美味しくない、というわけではない。 慣れていないだけだと思う。 参入障壁を越えるに至ってないと言っても良い。 このことは、他のいろいろなことにも当てはめることができる。 ジャズや花やプラモデルや氷細工やリリアンなど何でも、楽しみ方というものがある。 楽しみ方を知って、最初は分からなかったことが分かるようになったり、徐々に面白味を感じる幅や深みが増してくるということもあるだろう。 まあその参入障壁を越えるべく行動ができるか否かは選択次第であるが、ファーストインプレッションで排他してはならないと思う。 ちなみに、以下はピエールエルメHPのこのケーキの説明文である。 もはや一つのお菓子のレベルを遥かに超えて、“味覚の喜び”そのものを象徴するような絶品で、口に入れた瞬間にえも言われぬワンダーランドがよみがえります。ふんわり感とさくさく感の両方を兼ね備えた薔薇色のマカロンコックの中から、堪らないほど蠱惑的な味のコンビネーションが湧出してきます。そこでは、シャキッと爽快なフランボワーズで盛り立てられたライチの華やいだ風味が、とろけるほど甘い薔薇クリームと絶妙に融合しています。高揚感あふれるテーストに甘酸っぱさがミックスして極めて多様なトーンが発揮されるのです。イスパハンの完璧なハーモニーを存分にご堪能あれ。 女性雑誌もそうなのだが、洒落ているようで芯を食わない感じがするのがなかなかに面白い。 さて今日はけいこと新国立美術館で待ち合わせである。 歩いて行ける場所ができてうれしい。 霜月朔日。
私は季節感には乏しくなったが、唯一結構大事にしているのが年末感であり、誕生日と同じくただの連続した一日に過ぎない大晦日に少々厳かな気持ちになったりする。 11月ともなると一年の終わりを想定して、多少の自責をしたりもする。 一年の終わり頃に、一年が終わるからと言って自責しているようでは、次の一年も思いやられるというものである。 しかしながらやはり、年とか月とか時間とか、何か明確な線引きがあった方が安心で、過ごしやすいのかもしれない。 護国寺にある群林堂という和菓子屋さんの豆大福が絶品だと聞いて、歩いて買いに行く。 なんでも、地元の人を中心に一人10数個も買っていくほどに飛ぶように売れ、作りたてのタイミングを逃すとなかなか入手できない代物だという。 特別に饅頭フリークでも大福フリークでもないが、あんこも餅も大好きである。 出先から目白台を越えて行ったのだが、目白台は恐ろしいほどの坂だ。 急斜面すぎて階段でないと対応できないほど。 自転車ではもう毛頭登れないと思うが、歩きでも心臓とふくらはぎがはちきれそうになる。 えんやこら登りきると新宿方面を見渡せるほどに小高いのだが、もうすぐに今度は急な下り坂だ。 歩き回っていると、東京もアスファルトで固められて家々が建つ前は山や川や谷や台地があるただの土地だったのだろうなあということがよく分かる。 群林堂は江戸川橋の駅の程近くにあった。 ルスルスは浅草のものすごく駅から遠い分かりづらいところにあったが、群林堂は駅から1分くらいである。 まあ今の私は駅至近であることになんのメリットも感じないが。 豆大福、かのこ、豆餅、茶饅頭、栗羊羹、みたらし団子、品書きはおそらくこの6つ。 栗羊羹は季節ものだろうか。 「当店の商品に賞味期限はつけておりません。必ず当日中にお召し上がりください」と書かれている。 豆大福とかのこ、茶饅頭を購入。 白濁した台紙とオレンジ色の包装紙に包んで輪ゴムで止めてくれたが、私はあの和菓子屋のぱりぱりとした包装紙の匂いがとても好きである。 饅頭をそっと守る紙の質感と匂いは、饅頭を美味しく保つどころかほんの少し美味しさを上乗せするのではないかと妄想する。 単に色々な紙の匂いが好きなのもある。 包装紙、段ボール、新札、雑誌、書道用紙、コピー用紙。 どれも異なる匂いがする。 特に新札と雑誌が好きだが、新札はまさかお金だからという理由ではないと思う、たぶん。 その夜、緑茶を淹れて包装紙を開けるともうすでに豆大福は少し固くなり始めていた。 豆がごつごつとたくさんついた豆大福をがぶり。 真剣さを食べているようだった。 しっかりと餅、しっかりとあんこ、ずっしりと豆大福。 かのこはずっしりの球形のあんこの周りに、びっしりと小豆がくっついている。 小豆はほっくりとしていて、さながら栗羊羹を食べているのではないかと勘違いしてしまいそうだ。 茶饅頭は、お茶の茶ではなく、茶色の茶。 黒糖のやさしい皮に包まれたこれまたずっしりのあんこ。 あんこはきちんと甘いのだけれど舌に残る感じがなくて旨い。 かのこと茶饅頭は半分に切ったが、大きくて重量のある饅頭をまるまる二個食べるとお腹がいっぱいである。 真剣、実直、愚直、頑固、誠実、貫徹、直球。 化学調味料や膨らし粉や添加油脂や、別に私はそれらを毛嫌いすることも全くなければ寧ろ有り難がっているくらいだが、そういったものを使わずに素材だけで美味しく作るのはやはりプロの仕事だなと思う。 今度はできたてほやほやの大福をその場で食べてみたい。 しかし、歩いて行くと多少息が上がっているのでそのタイミングで大福を頬張ろうという気になれないかもしれない。 そのときは歩くのをやめて電車で行けば良いか。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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