人生で最も忙しない年末なのかもしれない。
それはほとんど、成長著しく、狂おしいまでに愛おしい我が息子のせいである。 子どもがいる、ということを、こんなにも大変なことだと子どもが産まれる前の私は思っていなかった。 大変だ大変だ、という世のお母さん達のことを相当に無関心に、また半ば呆れ顔すらしていたかもしれない。 懺悔など今更であるが、あの時の身の振り方については心から反省している。 事ある毎に、見知らぬシングルマザーやシングルファザーに思いを馳せることにもなった。 結婚していてもひとりで子育てをしている人もいるだろう。 人間というのは、ひとりでひとりを到底支えきれないということを骨身にしみて思い知った中で、今後の私の人生において、少しでもこの類のことの支援が出来れば良いなあと思っている。 自分ではない誰かを四六時中見守り世話をするということは、まったくただ事ではない。 もちろん、赤ちゃんでなくても、病人や高齢者の世話でも然りである。 人の世話で自分のことがままならないのは体力的な面でも厳しいものがあるし、それは直結して精神にも影響を及ぼす。 また、思い通りにならないことだらけの中で湧いてくる自分の感情に向き合わねばならないことも十分に大変なことである。 自己嫌悪に陥ってそれを解消する暇もなく、次の瞬間にはまた可愛すぎる子どもの姿に、この子のためなら何でもやれるという恍惚無敵感を覚えて、未消化の感情が山の如く高くなっていくのである。 今年7月から行き始めた保育園には本当に助けられている。 良い面しか見当たらない、と言っても過言ではない。 世話をする相手がどんなに大好きでも、信頼できる誰かに託して離れる時間を作った方が良い、というのは自論だが、切にそう思っている。 こんなことを書いているが、おそらく私は現状精神的にとてもまいっているということはないと思う。 しかしながら、人の世話をメインでしている誰もが、心身を壊す可能性がすぐ隣にあることを自覚することは、そうならないようにするためのひとつの方法なのではないかと思う。 それもそうと、年賀状をようやく書き、その束をポストに投函したその日の深夜、義父が息を引き取った。 出してしまったが、唐突に喪中になってしまった。 入院していてそんなに良い状態ではないとは聞いていたが、まさか死んでしまうとは思っていなかった。 眠れなくなってしまって、これを書いている。 夜、息子が異例の機嫌の悪さで私は気を揉んだのだが、まさかそれとこれとは関係あるまいか。 今年は年末年始に実家には帰らないので、代わりにいもうと宅で年越しをしようとお邪魔している。 息子と姪の間に挟まれて寝ているが、ふたりはすーすーと寝息を立てている。 お義父さんはもう息をしていない。 まるで群像劇のように、私とお義父さんは当然ながら違う物語を生きていた。 結婚して日も浅いこともあり指折り数える程しか会っていないのだが、お義父さんは何を思って終わりを迎えたのだろうかなどと思いを馳せる。 また、夫は何を思っているだろうか。 地球にしてみればほんの小さな生き物が息絶えただけであり、しかしそのほんの小さな生き物と長らく暮らしてきた、またほんの小さな生き物たちにとっては、それらの生き方にも影響するほど大きなことなのだろうと思う。 ふたりの子どもの寝息を聞きながら、今生きていることを感じてみようとする。 どくん、と私の心臓が全身に血液を送り出したのを感じる。 夜明けまでに眠れるだろうか。
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12,13日と立川での展示会を終えてなんとも疲労困憊である。
事務局の代表という立場ではありえないくらい、のほほんとやらせてもらった気もするが、それでもそれなりに代表の仕事というのがあって気を張っていた。 もちろん展示会自体というか、私の作品の方向性の課題も浮き彫りになったわけで、それもこれから暗中模索をすることになる。 自ら望んで書道家、アーティストなんてものを自称しているのだが、それはたいそう面倒なことなのである。 好きだから書いている、やりたいからやっている、というマジックワードを使わずに、なぜ私は自分の言葉を筆と墨で書いているのか、何を表現したいのか、それは社会的・歴史的にどういう意味を持つのか、そんなことを明文化していく必要がある。 また、仮に美術界に書道を乗せるとするならば、新しい手法の発見が責務である。 今一緒にやっている団体は、あくまで美術界に書道を乗せる、ということが大目的なので、そこもやらねばならない。 心の中からわーっと出てきたものを表現すること、それはもう言わば古い。 たとえ自分だけの言葉を紡いで書にして満足だけなら、そこに出す必要もない。 今の私の書活動に亀裂が入りそうな自問をしなければならなくなった。 正直、自分というものの面倒くささは嫌というほどわかっているつもりなので苦しいのだけれど、やるかやらないか、と言われると勿体ない精神で「やる」と言ってしまう性分なので、きっと再度自分を棚卸することになるだろうと思う。 さてこの週末、私はほとんど朝から晩まで家を空けていた。 息子はむちゃくちゃな盛りなので、夫も面倒は見てくれるが大変なので、けいこと姪を召喚した。 私は前日に姪が食べられる甘口のカレーライスを10皿分煮込んでおいた。 予想より状況は酷く、息子は私の存在を求めて、何かにつけて不機嫌極まりなかったようである。 1日目は私が帰宅すると、姪でも手を付けられずひっくり返って泣いていた。 2日目はけいこや姪と公園に行って滑り台など大いに楽しんだようだが、私が帰宅するころには怒り泣きをしていた。 そんなにストレスがかかるのか、と申し訳なくも思うのだが、致し方ない。 思い通りにいかない日もそりゃああるものである。 小学2年の姪は、本当によく面倒を見てくれる。 子どもは子どもを許しているので、一緒にいると息子も楽しそうにしてくれる。 姪はよく食べるのだが、私の作ったカレーライスを「おいしかったーーーー」と言ってかなりの量を食べたらしいので、私はそれが嬉しかった。 それと、丸二日間、お母さんを求め続けられて悲しかっただろうお父さんの夫にも感謝である。 世のお父さんは皆そんなものなのかもしれないが、やっぱり悲しいよねとは思う。 私は息子を撫でまわしながら抱きしめ、でもたぶんまたこのようなことがあったら私は出かけるのだろうから、何も言わずにただ撫でまわしながら抱きしめた。 平日。
7時半くらいに起床。 息子はもっと早く起きることもあれば、私が起きても寝ていることも多い。 総じて、なんとなく、私に似て、息子はいわゆる夜型というやつのような気がする。 私は上京してから子どもが生まれるまでの10数年の間、朝ごはんは食べることがほとんどなかった。 しかし子どもが生まれてからは朝に起きるようになったので、毎日トーストとバナナの朝ごはんを食べる。 そのおかげでトーストにはこだわるようになって、理想の食パンを追い求めてパン屋を探した過去がある。 幸い、住んでいる地域には近からずだが良いパン屋が点在していて、理想の食パンには行きついている。 3つほど大好きなパン屋があって、第一位の理想の食パンは最も遠く、徒歩20分以上かかるのでなかなか行くことができない。 しかしながら徒歩3分の最寄りのパン屋は、食パン以外にもとても美味しいパンがたくさん揃っているので全く申し分ない。 夫の方が早起きをするので、だいたいトーストは夫が焼いてくれる。 珈琲も淹れてくれて、寝ぼけ眼の起き抜けに、パンと珈琲の香りがとても有難く感じられる。 息子は少しずつ固形のものも食べられるようになってきたが、朝はもっぱら納豆ごはんのどろどろである。 しかし最近身体や心の具合の大きな変化期にあるように思うので、ごはんも色々とあり方を変えるときなのかもしれない。 トーストを片手に、息子の口へどろどろを運び。 「みんな、元気~~??」という甲高い「おかあさんといっしょ」のお姉さんの声に息子は手を挙げて反応し、私はバナナを食べながら息子にぶどうゼリーを食べさせ。 昨夜洗濯した保育園のタオルや着替えなどをたたみつつ、お茶とコップと一緒に保育園バッグに入れる。 息子の口をふき、上着を着せて、ベビーカーに乗せる。 今まではベビーカーに乗せるときスマホを渡すとそれに夢中ですんなり乗ってくれるのだが、最近はそうもいかない。 海老反りに嫌がるところを、「乗って~~~~」と半ば強引に乗せる。 外に出てベビーカーが動き始めれば全く問題ないのだが、どうにも拘束されることが嫌らしい。 まあ、気持ちは分かるのだが、抱っこ紐で保育園まで送るのは辛いので、本当に、切に、ベビーカーには乗ってもらわないと困る。 時間を見ながら少し遠回りして保育園に向かう。 9時前に送り届け、その足で郵便物を出し、スーパーに向かう。 近所にスーパーはいくつかあるのだが、9時開店のスーパーが少なく、どうしても9時開店のスーパーに行くことになる。 コロナで営業時間が短縮されていることもあるのだが、9時と9時半の開店時間の差でずいぶん多くのお客を逃していると思うのだが、それで良いのだろうか。 冷蔵庫には何があるが、夫はテレワークか、などを鑑み、ざざざっと買い物を済ませ、9時半頃に帰宅。 買い物の荷解きをしつつ、だいたい10時くらいまでは昼ごはんと夜ごはんの仕込みをする。 今日は夫がテレワークなので、昼ごはんは親子丼にする。 あとは卵でとじるだけ、の状態まで作り、同時に味噌汁を拵える。 夜はお義母さんからいただいた総菜と、にら納豆キムチ、春菊の梅酢ごま和え、豚の生姜焼き、豆腐の味噌汁、にしよう。 にらと春菊を茹で、生姜焼きのたれを合わせ、あとは夕方にやれば良いだろう。 料理にかける時間と労力があまり腑に落ちないので、手早く、手間なく、がモットーである。 ならば作らなければ良い、という命題に、栄養バランスと見栄とコストが絡み合って結局作ることになる。 何か月か前から夜ごはんのお献立を筆ペンで書いて、Instagramにアップしている。 誰かに見てもらう、ということは私にとって、私の存在をほんの少しでも分かち合ってくれるというご褒美的なことなのかもしれない。 日々のなんでもない暮らしも、せっかく頑張っているのだし、誰かに見てもらわないと勿体ない気がしてしまうのである。 ひょっとすると、お品書きを書くのも、ブログを書くのも、書を書くのも、俳句を作るのも、そんなことが最も大きな理由なのかもしれない。 せっかく頑張っているので、見てほしい、のである。 全く閉鎖的にひとりでいたとしたらやらない、そんなことばかりのような気がする。 最近とても勿体ない気がしているのは、子育て全般についてである。 写真は毎月まとめて写真集を作って両親に送っているので良いのだが、その他についてはブログに書く以外はアウトプットをしていない。 せっかく頑張っているのに勿体ないなと思う。 子育てにおいても、適度に観客がいてくれた方が頑張れる気がするのは、夫だけがいてくれるだけでもそうである。 ひとりで息子を見ているときはぐだあっとしてスマホを見てしまうことが多いのだが、夫がいてくれれば息子と馬鹿げるほどの戯れることができる。 私自身がそれほどまでに観客を必要とすることを、私はこのことで気づいたのである。 子育てネタも何かアウトプットしてみたら良いだろうか。 子育ての細かいネタやお困り情報などは、インターネット上に腐るほどあるのだが、意外と見やすいお役立ちポータルサイトなどはないように思う。 困ったらまずこのポータルサイトを見てみる、のような辞書的なサイトができたら良いなあと漠然と思う。 賛同して協力してくれるお母さんはそれこそ山ほどいるだろうとも思うし。 まあ、それをする以前に私は書道家なのだけれども。 平日の1日のタイムスケジュールの記事を書こうと思ったのだが、10時まで書いたところで話が派生して私の文章欲が尽きかけている。 いや、もっと書こうと思えば書けるのだが、今日は他にもやることがあるので続きはまた機会が来たらにしようと思う。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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