いつぶりか思い出せない本格的な雪である。
と思っていたら数日が過ぎて、街は冷凍庫のようにきんきんに寒くなった。 こうなるから雪は嫌いである。 大雪となったあの日、私も仕事があってちょうどいつもより早まった帰宅ラッシュにつかまってしまった。 満員電車は窓に顔や鞄が押し付けられているくらいの具合で、まるですし詰めの様相。 私は会社員時代から満員電車というものを常時経験していなかったので、本当にこのような満員具合で毎日4、50分を耐えるとなるともはや気が遠くなるような思いがする。 電車を2本見送って、一駅なのに30分くらいかかってしまった。 そして、仕事場と予定していたカフェはなんと18時閉店。 デパートもいつもよりも1時間早く閉店予定と出ていた。 そういう事情で、満員電車は成っていたのだ。 駅構内は家路に急ぐ大勢の人々で、さながら軍隊のような足音がサツバツと鳴り響いていた。 仕事を終えて、「お気をつけて」と生徒さんと別れたあとの電車は拍子抜けするほどに空いていた。 みんな無事に帰れたであろうか。 駅から出ると「ヤバイ」という言葉が口をついて出るほど雪がもりもりと積もっていた。 常緑樹には葉っぱたちがぎりぎりに重さに耐えながらこんもりと、落葉樹にはむき出しの枝がそのまま凍りついてしまうのではという感じで雪がのしかかっていた。 動けずに雪漬けになんて、植物も辛い。 道路にはパトカーが3台ほどいて、何やら言っているがよく聞こえない。 あれでは交通整理に来ているのか、パトカーがスリップして立ち往生しているのか区別がつかない。 雪は嫌いで憂鬱で、と言いながらやはり非日常は少し楽しい。 帰宅の道を歩いて行くと、時折電線が耐えかねた雪が落ちてきて、私のビニル傘に的中した。 ばさっっ、と音がして、後ろから殴られたような心地であった。 そして大雪から2,3日後の今日、アイスバーンが割られた歩道が多い中、日陰で人通りの少ない路地裏はつるつるででこぼこした氷が溶けそうになく、まるでゲームの中の氷のシーンのようだった。 都心の、小箱みたいな狭小の公園はあれ以来人が立ち入っていないらしく、雪がそのまま公園全体を覆ったままだ。 ユニクロのウルトラライトダウンといつものダウンコートを二枚重ね。 むくむくとやや動きづらいけれど寒さ対策としては申し分ない。 鶯谷にある銭湯に行ったり、少し久しぶりにたくさん飲んだり。 リアム・ギャラガーの新曲をダウンロードして見たり、あることに戦ってみたり。 珍しい仕事の依頼があったり、お手本を書いたり。
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33歳になった。
ケーキとピンクの花たちをいただいたり、石けんをいただいたり、メッセージをいただいたり。 私はある別のことで頭がいっぱいなので、それどころではない、というのが本音である。 でもありがたい。 まだまだ十分に若いと思うけれど、確かにたしかに年を取ったなあと思う。 同級生の友人たちは家族を築き、一方で既に亡くなっている人もいる。 皺はみんな増えたし、禿げた人だっている。 自分が子どもだった頃からすっかりおばさんになったのだけれど、未だ自分が子どもであるという消えない認識から、色々の選択から避けていることがある。 何かを誰かが決めてくれて、文句や評価だけを言う。 最後に勤めた会社を辞める数か月前、私は社長には結構言いたいことを言っていたのだが、「お前は檻の中で吠えているだけだ」とその社長に言われたことがある。 私はその後言い返せなくなり、妙に納得した覚えがあるのだが、実際に腹落ちはしてなかったような気がすると今改めて思う。 会社を辞めてひとりでやっていても、どこか社会と対峙している自分は説明の出来ない大いなるものに守られているような気がうっすらとしていたように思う。 自分のことなのに、どこか他人事だったと言ってもいい。 人生におけるあらゆる選択決断が結局のところすべて自己責任であることは、“論理的に”十二分に理解しているつもりなのに、私の決断が私のものである自覚になぜだか乏しいのである。 何らかの決断について、外界の価値観や他人の許可を必要としていたのだろう。 それはそちらの方が責任を取らずに済むからであり、自分のせいにしたくないということが深層にあるだろうと思われる。 最近、本当にここ数か月、私は社会の中にいるひとりの裸の成人女性である、ということがただ身に染みてきているような気がしている。 裸の成人女性、とは語弊があるようにも思うが、枠組みとしての社会のみならず、他人と接するすべての場合においても、ただの事実、私は独立したひとりであるということだ。 そろそろ、何らかの決断に自分の意志と覚悟を自覚的に反映させて、己に対して責任を取り、我が人生を自分のものにしておかねばなるまい。 そのことがようやく腑に落ちてきたら、社会というものが思っていたよりも複雑であり困惑していることや、人生というものが思っていたよりも案外難しいということが厳然と立ち上ってきた次第である。 何か物事が腹落ちしたり腑に落ちるとき、瞬間的にそれを分かったと認識することもあれば、分かりかけているというような状態からじんわりと分かったという状態へ移行していくこともある。 分かりかけている、という時点でその物事について真剣に具体的に噛み砕いてみようとすればおそらくもう少し短期間で、分かる、という状態まで持っていけるような気もするが、私はなかなかその面倒が買えないのでほとんどの場合ほったらかしにしていることが多い。 だから、何かが分かるまでに数年とか十数年とか数十年とかかかったりする。 余程ダメな人間である。 33歳、がんばりましょう、と自分を明るく鼓舞する。 久しぶりに買った豆苗がぐんと精を出して背を伸ばしている。 植物が伸びるのを見て感じられるのは、いいね!、と思う。 そしてまた色んなものを捨てている。
ピアスとかピアスケースとか。 ベロアの深紅や錆びたゴールド、煤けたパール、イメージとしてはイギリスの古くてこぎれいな家の香りがするようなものに心惹かれていた時期があった。 花で言うと薔薇や芍薬を好んで愛でていた。 ここ4年より前、5年間くらい。 ちょうど会社を辞めて独立したあたりから、なぜだかそれらにあまり興味がなくなった。 当時陽当たりのほとんどない穴倉のような2階の部屋に住んでいたからだろうか。 薄暗くて雰囲気の良いバーのようなインテリアにしたいと部屋作りをしていた。 ファッション性もそれに傾倒していったような感じがある。 となると私は、住むところによって、家具だけでなく服装にまで影響されていることになる。 今これを書いていて改めて思ったが、思い返してみるとかなりそうなのかもしれない。 その後現在にかけて、インテリアとしてはもっぱら流行りの北欧風が好きである。 シンプルな木の雰囲気と、彩度はきつくはないが挿し色として十分な緑や黄色や水色を取り入れることとなった。 ファッションへの興味は減退し、ピアスは邪魔だという理由から付けることがほとんどなくなった。 花も以前よりは興味が薄れたが、花びらの重なりが厚いものよりガーベラやデイジー、ノースポールのような平たい花の方が好きになった。 今の部屋は西日の陽当たりが抜群で、とても明るい。 1Kなので、暗い部屋、というのもない。 しかしいまいち、居心地が上手い具合に作れていない。 ここからのテーマは、合理性と居心地のせめぎ合い、になるような気がする。 それに際し、居心地や着心地の良くないもの、でもちょっとおしゃれで好きだったものにはさよならしていくこととなった。 がらくたみたいなピアスを30個くらい、じゃらじゃらと捨てた。 再びカートローゼンウィンケルのライブへ。 東京駅近くのコットンクラブというライブハウスは、ミッドタウンのビルボードや表参道のブルーノートのようなところで、それよりも空間的にゆったりしており、シックなラグジュアリー感がある。 これらのライブハウスは高いので時々しか行かないけれど、去年は何だか3回ほど行った。 いつも、このようなラグジュアリーさに対する自分のスノッブ感をどのように扱ったら良いのか分からずにいたけれど、少しずつ慣れてきた。 それは私がラグジュアリーに格上げされたということではなく、私がただそのような空間に対して怖気づくことなくそのままでいても良いのだということに慣れてきたのだと思う。 丸の内を歩くスーツの男性たちには威厳があった。 身体を太い棒のように包み込む仕立ての良さそうな黒のコートに、ものすごくきちんと巻かれたマフラー、磨かれた革靴が立てる速足の音。 何かを一括りに見ることが良いとは思わないけれど、東京の街は、街ごとにいる人々の様相が全然違って面白い。 カートの鳴らす和音にカートらしさを存分に思いながら、インプロビゼーションの世界の抽象性に進んでいくとき、その道のりが1mくらいの雪が積もった道を自力で進んでいくようなものなのだろうなあと思った。 ディズニーランドのホーンテッドマンションとかであの演奏が流れていたら、わくわくとどきどきが止まらないだろうなとも思った。 生徒さんたちから年賀状がわらわらと届く。
去年もそうだったけれど、やっぱりちょっと感動する。 自分がこういう仕事でご飯を食べているのだなあと実感もする。 私のところに習いに来ている方は字が苦手な方が多い。 字を書くのが本当に嫌だ、という人さえいる。 そんな方たちが悪戦苦闘しながら、あぁもう嫌だとか、心が折れそうとか、また失敗したとか、そんなことを思いながら特段出す必要もない年賀状を出してくれる。 まあ、半ば私がそれを焚きつけているのだけれど。 別に書家でなくても、創作意欲とかそういうことがなくても、字が苦手でも、それができるようになりたいのであれば人に見てもらうものを書くということは結構大事なことだと思っている。 もしそれが好きならもう既に一人で勝手にやっているはずなので、一人ならばなかなか手が出ないことは、何かしら理由や期限があった方が良いのだ。 一般的なきれいな字を判断しているのは、社会全体であり、他人であり、己の社会性であり、己である。 一般的なきれいな字になりたいと願うとき、とても多くの場合、他人との比較が入っている。 ならばその他人に対してのアピールはあっても良いし、それを乗り越えていくことは少なからずコンプレックスと言われるものの克服になり得るだろうと思う。 万に一つ、そんなコンプレックスを抱えた人が、誰から「字が上手ですね」と言われた日には昇天の思いがしたっていいとすら思う。 それでも自分の字に対して満足できないなら、そここそがゼロ地点なのかもしれない。 さてはて私はどんな字を書けば満足いくのだろうか、それは他人にはきっと分からなくて、自分でも掴みづらいものだろう。 あれやったりこれやったり、そのことを教えるなんてことになったときには、その糸口になりそうなことを私は自分の経験から話をしていくしか方法はなく、もちろん私にだって正解は分からないどころか、むしろ私が方法論を教えてほしいくらいである。 ところで、あまり興味のない面倒で億劫なことは人とやるべし、と私は思っている節がある。 ある人にとっての年賀状だったり、般若心経だったり、やり始めれば頑張れるし、やったあとにはジョギング後のような爽快感があることも知っていてそれは悪くないと思っている類のことは、それを一緒にやってくれる人がいると良い。 現にレッスン時間中に年賀状や般若心経を書きあげた方たちはこれについてとても共感してくれた。 私にとって料理などがそうで、ハンバーグや餃子やデコレーションケーキなど、絶対に絶対に一人でいたら作らない面倒な料理も、誰かと気分を盛り上げてやれるのなら楽しいことに変わることだってある。 1月も8日。 仕事もばりばりと始まった。 用があって今日の夕方からけいこが来る。 困っていた年が明けた。
2018年。 あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 久しぶりに大晦日に実家に帰って、しっちゃかめっちゃかの姪たちはいつも通り21時には床に就き、紅白を観て、妹の旦那さんが買ってきた蕎麦を啜って、カウントダウンTVで年を越した。 子どもというのは本当に大変だなあと毎度思いながら、彼らには考えさせられることはたくさんある。 2日、静岡おでんを食べに行こうと友人に誘われ、友人は下り、私は上り列車で静岡で落ち合う。 昨年5月、私も初めて静岡に行ったのだが、県庁所在地で歌舞伎町のような様相の繁華街においてさえもとても心地良い空気の流れる場所だった。 それは5月の風のせいかなと思っていたけれど、再度降り立った冬の静岡もやはり心地よい風が流れていた。 飲み屋を3軒はしごして、ドンキホーテでジャワティーとポッキーとHARIBOのグミを買って、私たちが最近ドハマリしているフリースタイルダンジョンの年末スペシャルを宿で再び観る。 その中で、KEN THE 390の「インファイト」という曲がライブでやっていたのだが、私は高校生がドキドキするような気持ちでそれを食い入って聴いていた。 昔ラルクアンシエルのhideが大好きだった頃と同じような、単純にそれがある種のミーハー心と乙女心で「カッコイイ!!」と私の身体に鳴り響いた感じである。 音楽でこんな気持ちになったのは、本当に高校生以来かもしれない。 あとやっぱり、なぜそれが私に響いたのか、その原因は知りたいとも思う。 一方で、単純にカッコイイと思えているのだからそれでいいとも思う。 ヒロトやOASISの曲を聴いて、私の心が揺さぶられた感じと大きく異なるのである。 彼らが私に響いた入り口は、詞の力もとても大きい。 ラルクや「インファイト」はほとんど詞は聞いていない。 あとは、私はたぶん“切実そうに見える”作品に惹かれてきたように思うが、後者だって切実なのだろうけれど、表面上それはあまり見られない。 ちなみに、同じヒップホップでもDOTAMAさんは切実感があるのであって、それも私は大好きである。 人に、KENさんの「インファイト」が好きだと告白するのは、一人勝手に少し恥ずかしい気持ちさえする。 とか言いながら、そんな気恥ずかしくてくすぐったいような気持ちを誰かに聞いてもらいたくて、こうしてブログにまで書いているのだけれど。 恋は理屈ではない、と言ったところだろうか、違うだろうか。 これまでiTunesからダウンロードすることは特別な理由もなくほとんどなかったのだが、家の音楽ファイルが入っているPCが壊れ気味なので、iphoneからダウンロードしてみることにした。 なんと3か月間無料で音楽ダウンロードし放題のようだ。 amazonプライムは使うようになったけれど、appleの方もきっちりインフラを押さえにきている感じがある。 3か月後は月額980円とのこと。 最近めっきり音楽を聴いていなかったけれど、こんな形で再び何かを掘れることはとっても嬉しい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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