梅一輪一輪ほどの暖かさ 服部嵐雪
春めいてやぶありて雪ありて雪 小林一茶 大根引き大根で道を教へけり 小林一茶 レッスンで俳句でも書こうかと春らしい俳句を探していた。 嵐雪の「梅一輪~」は短い五七五の中に二度も同じ言葉が出てきて尚非常に効果的であるところを私は前からとても気に入っているのだが、今回目に留まった小林一茶の句もそのような重複ものだった。 大根の句なんてとっても好きである。 そういえばと思いだしたが、句会がもう間もなくである。 まずい。 書や俳句をやっていると言うと、「まさに和ですね」とか「日本文化を継承されているのは素晴らしいですね」と言われることがたまにある。 俳句はそうなのかもしれないけれど、最近は句会の前にしか作らないのでとても一生懸命やっているとは言えない。 また書は、和心を持ってやったことも、日本文化であると思ってやったことも、実際皆無である。 もっと言うと、私の持つ典型的な「和」「日本文化」と自分はかなりかけ離れていると思っていて、とても似付かない。 日本文化とは何かあまり考えたこともないのだけれど、私の持つ典型的な「和」「日本文化」とは、わびさび、厳かで慎ましやか、時に艶やか、と言ったところだろうか。 もちろん私の身体は日本にどっぷりでその文化も日常知らぬ間にたっぷりと吸収しているだろうから、私の書にもそんなもののほんの欠片が垣間見えることがあったりなかったりするのかもしれないが、私本人の書をやる大義名分としてはどうにも違和感があるのである。 第一、私は書において日本のものだという認識もほとんどない。 書は中国のものだと思っている。 古典仮名の世界はそうかもしれないけれど、私は仮名はほとんどやっていないし、仮名だって言ってみれば漢字をくずしてできたものだから元は中国である。 まあそれを独自の形で作り上げたのだから確かに“日本文化”と言っても良いのだけれど。 では私は書を何だと思ってやっているのかというと、書である理由は私の単なる嗜好でしかなく、矮小なひとりの人間が個人として存在したいという願望から来る自己顕示だ。 先人たちが作り上げた素晴らしい文化体系を存分に借りながら、そこに「現在の自分」を足す。 それそのもの、が大事なのだ。 それで、なんだか良いもの、ができれば良いなあと思っている。 しかしながらそう考えると、確かに文化は継承しているのかもしれない。 確かに、私も漏れなく揺蕩う文化の中にいる。 では何が違和感だったのか。 おそらく、「和」「日本文化」というイメージの典型を押し付けられることだろう。 これは逆に、私自身がその典型を私の中でイメージ付けてしまっている背負うことも言える。 あぁ。
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眼鏡を買った。
私は視力が0.1を切るが、通常はコンタクトレンズなので眼鏡は家で短い時間使えれば良いのでバリバリに見えなくても良い。 しかし、毎年花粉症の時期にコンタクトレンズが入らなくなってしまい、今まで持っていた眼鏡の度数が合っていなくてやや不都合な感じがしていた。 そんなこんなで実に7,8年ぶりくらいに眼鏡を買ったのではなかろうか。 2,3日の間、時間のある時に適当にいくつかの眼鏡店を歩き回り、形や値段の傾向をざっと見て、金縁の少しレンズが大きめで軽いものにした。 今の眼鏡が太い紺縁のものはおもちゃみたいで丈夫だったけれど、今回のものは軟で繊細だ。 ぞんざいに扱ってはならない。 今までの眼鏡よりも度を少し強くした。 検眼もとても久しぶりで、今まで言われたことがなかったけれど乱視があるらしい。 乱視、とはなんぞや。 そして大人になってから乱視になることがあるのか。 家に帰って新しい眼鏡をかけると、今までの眼鏡よりも度が強い分くらっとした。 くらっとして、くっきり鮮明に見える。 くらっとするのは今までの見え方を覚えている脳が慣れないせいだ。 「この世界の片隅に」をやっと観た。 この映画はまだまだ盛況のようだ。 主演声優ののんは、主人公の少し間の抜けたとっても雰囲気が合って、“天才肌”と言いたくなる感じがよく分かった。 この映画の雰囲気の大きなところをのんが主導している。 周りの人に勧められるばかりでほとんど前情報を入れず観たので、てっきり「君の名は。」のような映像美もあるアニメなのだと思っていたけれどそうではなかった。 絵は大画面で見なくても良い感じだったけれど、ほんわか柔らかな風味だった。 いつの時代も、どこの場所でも、人々は息づいていて暮らしを送っている。 それは時代が進んで日本は戦争をしていない現在だって変わらない。 いつだってそこかしこに、ひとりの人の人生がそれぞれに存在し、何か大変な事態が起こったり起こらなかったりして、交わったり離れたりする。 “自分”が知らない“自分”として存在する誰かの人生がたくさんたくさんあって、例えば遠く海外に行ったときに一瞬で通り過ぎてしまうバスからその地の風景をちらりと見たときと同じような思いがした。 この映画は、戦争に翻弄されながらも、なるべく平常でいられるように起きている事実を俯瞰しながら丁寧に生活をしている人々の姿が描かれている。 この時代の、この地域の、“普通”や常識“”もたくさん知ることができる。 その中に主人公すずや他の登場人物の個性や個人的で純粋な願いが盛り込まれている。 戦争でたくさんの人々が思うように生きられなかった悲しい時代、そういう見方もあるけれど、いつだって変わらずに時間は流れていて、人々は交錯している。 死んだ誰かの分まで生きる、のではなく、当然ながら日々を普通に丁寧に生きるのだ、そんなことをかんがえさせられた。 いやしかし、その一方で、戦争が組み込まれた日常とはやはり何と苦しいものだろう。 自分や身近な人がいきなり死ぬ確率は戦争の有無に関わらずあるけれど、戦争中はその確率が異常に高い。 爆弾が雨のように降ってくるなんて、道を歩いていたらいきなり爆弾が暴発するなんて、ゲームの世界としてしか想像が難しい。 爆弾が煌めく空を見て、絵を描くことが好きだったすずが不意に「今絵の具と画板があれば」と漏らしたところ、敗戦して、「ああ、何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ。」とすずが泣き崩れるところ、そんなことがとても印象的だった。 何を書いてもネタバレ的になるので何だか難しいけれど、とってもおすすめする。 何となく買った豆苗を切って、豚肉と玉ねぎと一緒に豆板醤で炒めて食べた後、再生栽培をしてみることにした。
と言っても、タッパーに水を入れて、豆苗の根の部分を入れておくだけ。 節約になるほど私は豆苗を常食しているわけではないので、単純に植物好きとして。 植物が育つ様というのは、地を割るような、空を割くような、凄味があって、その一方で可愛らしさも忘れない。 そろそろ啓蟄であり芽吹きの季節である。 またキックボクシングを観戦しに行った。 好きではなかった、むしろ嫌いという呈示をしていた格闘技の世界だが、私は試合中もう随分と食い入って見ている。 ほんの少し話したことがある選手を応援していて、その試合は声が漏れてしまいそうなほどに余計に力が入るけれど、知らない選手の観戦も楽しくなってきた。 ノックアウトの瞬間は、本当に皆の呼吸が一瞬止まって、コマ送りのように時が流れる。 急所に入れられた選手のダメージを、実際にダメージを受けたのは選手のみであるのに、会場全体で共有するかのような瞬間がある。 「死ぬかも」という言葉にしなかったとしても、「死ぬかも」という瞬間の疑似体験こそが、格闘技ファンたちの愉悦であり期待なのかもしれない。 もちろん、観戦側が傷つくことは一切なくて、また高い確率で選手は死なないであろうし、”スポーツ”という特殊なルール上のお話の下で。 そして選手側はそういう側面を持ちつつも、もっと肉体的現実的で泥臭いだろう。 それにしても、選手たちの身体は美しく引き締まっていて、皆肌がぷりぷりつやつやである。 攻撃を食らって傷ついた皮膚は痛々しいけれど。 引き締まっていない身体が美しくないかは別の話だが、単純にスポーツを真剣にやっている人の身体は見とれてしまう。 ”付き合い”で誰かのライブに行ったり、展覧会に行ったり、ということを時々耳にする。 もちろん”付き合い”の部分があっても良いし、無論初めはそういう理由で行動に移ることが多いと思うけれど、2回目3回目はそのような理由では行きたくないなと思う。 何かしら、そのコンテンツに期待して、それをやっている人たちに敬意を払いながら拝見したい。 主催側はもちろん多くの人を集めたいということはあるから、営業も宣伝もするわけでするべきなのだけれど、観客側の「行きたいから行く」があってほしいと、ささやかに願う。 というのも、現在東京都美術館で東京書作展の選抜作家展なるものをやっている。 この展覧会には私は初めて出品した。 久しぶりにとってもとっても好きな歌を書いた、奥田民生の「CUSTOM」。 告知が遅すぎますが、もしご興味とお時間が許せば、どうぞ足をお運びください。 全国公募 東京書作展 選抜作家展2017 http://www.tobikan.jp/citizens/h28_02.html ※20日(月)休館 「カイジ」の和也編をブックオフで買って読んでいる。 私は漫画というか本全般がやっぱりどうにも苦手なのであるけれど、「カイジ」はやっぱりどうにも大好きだ。 私の理解力やら嗜好性指向性がそこにあるのだろうけれど、泣かされて笑わされてハラハラさせられて、そんな福本さんの芸術を私はとても尊敬している。 今日は嬉しいことがふたつあった。
ひとつは、「字を書くのが楽しくなってきました」と聞いたこと。 もうひとつは、カート・ローゼンウィンケルの日本公演にお誘いいただいたこと。 字なんて読めればいい。 記号としての字は、自分あるいは他者が解読可能であることでその機能は一旦完結している。 その時点は、皆平等であり、フラットである。 以上、だ。 けれども、なんだかそれが美しい方が良いと思う人がいて、それが“アート”のようなことであってもなくても別にどちらでも構わないけれど、ただ別に特にやらなくても良いことに個人がかけがえのない大切な時間とお金と労力を費やして、少しでも満足を得られることは、ひとつの人生の膨らみなのではないかと思う。 それが字であっても、人に魅せるのが恥ずかしいという理由から端を発していても、音楽であっても、穴掘りであっても、何でも良いのだと思う。 私のところに来る方々は、自分の字についてコンプレックスを持っている方が圧倒的に多い。 一般的に字はとても社会性が高いものだから、人からバカにされそうで恥ずかしい、といった思いを抱いてやってくる場合が多々見受けられる。 私は初回で「字が上手い必要は特にないと思います」と全員にはっきり言うことにしている。 それを言うと、「?」という顔を目の当たりにすることも多いし、たとえその時にそれがどういうことなのか上手く伝わらなかったとしても言うことにしている。 実際に私は本当にそう思っているからだ。 字なんて読めればいい。 そこから、「こうした方がきれいに見えない?」「あー見える!」ということを積み重ねていく。 なんだか共通項として“きれい”ということは存在しているのだろうし、その”きれい”を自分で体現することができたらそれは嬉しいだろう。 「書くことが楽しくなってきた」、それはきっと、もっともっと”きれい”に立ち会える瞬間を本人が今後も増やしていくことができるであろう兆しなわけである。 脳科学者の中野信子さんの言葉を借りれば、「脳からの報酬」が少なからずあったのだろうし、それを続けることでもっと報酬が得られるかも知れないわけであって、そのこと自体は誰もにとって望ましく好ましいことであろう。 生徒さんそれぞれがどの地点を“きれい”と認定するのか、私には分からない。 ただ、その“きれい”に本人が立ち会えるサポートには熱くなってしまう。 別に字なんて読めればいいのだけれど。 そして、もっと言うと私自身がその「脳からの報酬」が欲しくて書をやっているに過ぎないのだけれど。 もうひとつの嬉しかったこと、カート・ローゼンウィンケルについては私は実は彼をよくは知らない。 とても有名なジャズマンであることと、大方どんな感じの音楽をやる人であるかと何となく知っているだけだ。 誘っていただいた理由はまあ察するに難くないのだが、とにかく、誘ってくれた、という事実は私を嬉しくさせた。 テレビドラマ「カルテット」が面白い。 話の内容は特にどうということはないのだけれど、紡がれる会話たちが、またそれを喋る俳優たちが。 いつからか、私は登場人物の過去のトラウマなどからくる人格形成やら何やらに、さして興味がなくなった。 ないわけではないけれども、作品が作品としてのコンテンツそのものに興味がある。 会話自体がが面白いのだ。 一種の社会風刺なのだろうと思う。 事細かな個人的事情はそれぞれにたくさんあって、しかしながらそこから見出される汎用性のある格言めいたこと、あるいはそこから派生する考え事が好きなのである。 毎日寒い。 しかしこれが進むと花粉が飛ぶ。 既に微かな気配を感知しつつあって、今年こそは度の合っていない眼鏡を作り直しに行きたい。 コンタクトレンズは面倒だけれど、眼鏡も邪魔だ。 久しぶりにごった煮をこしらえる。 どうにも野菜不足な気がしたからだ。 小松菜とえのきと豚肉とだし粉と酒と醤油と塩とはちみつと、そう言えば、「はちみつ」くんという男の子が姪と同じ保育園に通っているそうだ。 豚肉はやっぱり美味しい、ごった煮は母の味ではなく私の私による我が故郷の味で、心から美味しい。 訳あって床に置いてあったみかんを不意に踏んづけてしまった。 全体重をかける前に気付いて、ぐしゃり、とはいかなかったけれど、薄皮でぎゅうぎゅうに中身が詰まったみかんは、ぶちゅっ、と弾けた。 口の中でミニトマトが弾けて、口から中身の汁が飛び出てしまう感覚に酷似していた。 字を教えている10歳の少女に、「先生スカートじゃなくて絶対パンツの方が似合う」とたまにスカートをはいて行った日に言われる。
うう、となりながら、「えーそんなこと言わないでよ」と、あ、うん、先生も確かにそう思う、と内心思う。 はまっているたまごっちを、あんなこともできてこんなこともできて、こうするとこうなるの!ほら!と一生懸命見せてくれる。 私の幼き頃にも行列に並ぶほどたまごっちは流行って、漏れず私もたまごっちをやっていた。 たまごっちのサイズも風合いも変わらないけれど、カラーになっていたり、他のたまごっちと通信できたりとかなりの進化を遂げている。 でも、ドットの大きな液晶の感じや、ピロっという可愛げな決定ボタンの音は変わっていない。 先生にもあれを見せてあげたい、とレアな画面が出るまで、小さなボタンを細い指で超高速で操作している。 そのうちに私のいる側の椅子に周ってきてすり寄ってくる。 挙げ句、私の首を触ってくすぐってきたりする。 聡明でやんちゃで口の減らない彼女は、今までこんなことをしてこなかったのだけれど、なんだか可愛いなと思う。 さ、字を書こうね、という話だけれども、とりあえず字のことに興味を持って好きでいてくれるのであれば、誤解を恐れず、何だっていいかなとも思う。 私だって、彼女くらいの頃には、どうやったらかわいい文字が書けるか、ということの方がよほど興味が大きかったわけだし。 部屋がエアコンで乾燥するので、濡れタオルをハンガーにかけて干して加湿をしている。 時々その濡れタオルに精油を5,6滴落として、“アロマ加湿タオル”にする。 今ある精油はラベンダーとはっか。 それをエアコンの吹き出し口にそのまま引っかける。 加湿器を置けばいいのだけれど、どうも電化製品と相性が良くない私は、必要最低限のそれらを買う気にはなれないし、それに加湿器はアロマ機能のあるものでも電気を一度経由してきたというような匂いが蒸気に乗る気がしてあまり好きではない。 一方、アロマ加湿タオルは野趣あふれる精油の香りが直に漂う。 家にお越しになる面々は、玄関に入った瞬間に「いい香りがする!」とおそらく喜んでくれている。 まあアロマ加湿タオルの加湿は、ひと晩持たないことが玉に傷ではあるけれど。 送ってもらったみかんがどんどん腐っていく。 みかんが腐っているのを見るといつも、ちびまる子ちゃんやカイジの青ざめて縦線が入っている絵を思い出す。 フリージアは咲き香気を放ち、ガーベラはぐきんと頭を垂れ、プレクトランサス アロマティカスはむくむくと大きくなって、クワズイモはよく強風に倒れている。 毎日のお題を、どう書こうか、ということで悩むことはあまりない。
イメージはぱっと思いつきで、それを形にするまで私は結構長くかかるけれども。 毎日一緒じゃつまらないよなあ、ということは思うので、意図的に書体を変えてみたりする。 墨の色を変えてみたり、紙の色を変えてみたり、字の大きさを変えてみたり、線の質を変えてみたり。 例えば「一」という文字を一字だけ書くにしてももうやれることは無限なのだ。 その最初の思いつきの大方のイメージは、おそらく言葉の持つイメージに支配されていることが大きいだろうと思う。 しかしながら、文字はただ文字、であるし、そこに乗っけられた言葉のイメージは言葉にはできないし個々人が思うイメージだって異なるはずだ。 ただ所謂典型的なイメージにはしたくないというのが私の傾向ではある。 だから、最初の思いつきの、言うなれば私の勝手な気分的イメージに十分支配されながら、そのときに紙面が面白くなると良い、とただそのことだけが表れれば良いかなと思っている。 ところで、先日「心機一転」というお題があったわけだが、私は何となく、たまには篆書体でも書いてみるか、といった具合でそれを「篆書体」で書くことにした。 それが下の画像の一番目の作品で、「転一機心」と右から書いてある。 「篆書体」とは紀元前後の中国の秦の時代の頃にまとめられた書体で、現在でも印鑑やパスポートの表紙の文字としてよく見かけるものである。 歴史的なことは私はあまり詳しくないのだが、篆書体は一時秦の公式書体として用いられ、広く万人が使う文字として広まったが、直線曲線の組み合わせが煩雑で筆記に適しておらず、短い期間で廃れていった。 それに取って代わったのが「隷書体」という書体ではあるのだが、それでも完全に失われていってしまうことはなく、2000年後の現代でも我々の生活の中に根強く残っている。 おそらく、篆書体が単純に“美しさ”を持っていたからだろう。 篆書体でそれぞれの字をどうやって書けばよいのかは調べないと分からないので字典を引く。 今はスマートフォンのアプリで字典があって、分厚い字書を捲らなくて済むので大変に便利である。 本の辞書は探すのに時間がかかることと、指の皮膚の脂を持って行かれることが嫌である。 かつての書家がそれを自分なりに残したものが載っているので、篆書体にもいくつかの書き方がある。 まあでも凡そこんな感じの記号というところで統一されている。 漢字の起源は、多くはその形を模した象形文字から派生している。 「心」は心臓を象ったところからできているらしいが、古代の人々は人間の心臓を見ていたのだろうか。 それとも、食す動物の身体を開いたときに心臓を見たのだろうか。 それとも、どうやらここで鼓動を打っているやつが止まると人間は息絶えるらしい、という大切なものが身体の中央辺りにあることが分かってそれを想像したのだろうか。 そして、心臓から「こころ」という言葉が来ているのだと思うけれど、そのまさに生命活動の根源とも言える心臓が精神である「こころ」となっていったのだろうか。 私は浅はかな想像しかできないけれども、学者だって本当の本当のところは確証を得ないだろう。 しかしながら、「心」という記号は2000年もの強靭な時の流れにも耐えて残ってきたわけである。 それが星の数ほどもある漢字それぞれにあるわけで。 そしてこれからも少しの変化を受けつつもきっと受け継がれていくだろう。 漢字ってすごいものだ、と最近改めてよく思うのである。 ひらがなもそうだけれど、だからこそ書いていて気持ちが良いのだろうと思うし、それが”美”そのものなのだろうと思う。 言葉で言い尽くせない何かを、何とかして伝えたり残したりすることが芸術の役目のひとつなのではないかと思う。 なんて、そんなことを言うようになった自分について、とりあえずきちんと誇りを持ちたいと思う次第である。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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