披露宴で撮った写真たちをプリントに出したものが上がってきた。
合計360枚、カメラマンさんからもらった写真データ数は1036だったので頑張って頑張って絞ったものだ。 ついでに360枚収納できるアルバムも購入。 カメラマンさんは私の生徒さんにお願いしたので、どれもこれも随分とリラックスをした表情をしていた。 フォトブック、なるものが簡単に作れることは知っていたので、一旦作業を始めればそんなに時間がかからずに終わるかなと思っていたのだが何事も初めてのことは勝手が分からず、取り掛かる前から物凄く面倒に感じた。 私はあらゆる取扱説明を読むことが本当に苦手である。 「しまうまプリント」が良いと方々から聞いたのでそのサイトを確認していたのだが、一瞥して数日が経過していた。 フォトブックをセンス良く立派に仕上げようと思っていたのだが、1036のデータを選別することだけでももう眩暈がする。 とりあえず360まで絞り込んで普通の写真プリントをすることにした。 途中何度選択のコントロールキーを離してしまったことか。 また、アップロードする画像の重たいこと重たいこと。 写真を現像するなんて何年振りだろうか。 最も安い現像で1枚6円なのだが、なんて安いのだろう。 360枚を現像しても2000円あまりである。 10数年ほど前のインスタントカメラの現像はもっととても高かった記憶があるが、詳細には何も思い出すことができない。 私はデジカメを所有したことが未だかつてないが、スマートフォンの写真で不都合を感じたことはほとんどなかった。 場合によっては画像を誰かにメールやLINEなどで送信したり、SNSやらどこかにアップロードすることで共有もできるのでデジタル画像のありがたみばかりを享受してきたように思う。 削除も移動も仕分けも実に簡単にできるのも、デジタルの良いところである。 しかしながら、今回現像して思ったのは、やはり手で触れる物の存在というのはしっかりとそのかけがえのなさがあるということだ。 スマートフォンなどの画面で見るものよりも大きく見られるし、周囲を見渡すことでその周辺の情報まで一緒に取り込める。 インターネット検索で語句を調べるのと、本の辞書で語句を調べるのによく似ている。 本の辞書ではその重さとページをめくる過程と、目当ての語句の周りの語句まで何となく目に映っているあの感じが良いのだろうと思う。 スワイプするのではなく、ぺらぺら、ぱたりぱたり、とめくるという行為には少しの好奇心と高揚感がついてくるものである。 物は物として存在し私の所有している空間を少しずつ脅かす邪魔なものにもなり得るが、触ったりめくったりという行為を伴い、質感と実感を以てやっとそのものを認識できる何かもあるのだろう。 デジタル画像は、画面に映し出された時のみのものであり、画面自体はそれを媒介しているに過ぎない。 しかし写真や本は、ある画像そのものが紙などに己の固有の居場所を与えられ存在できるという点において独立していると言える。 その分実際に場所を取るというわけだ。 そして今日、360枚の写真をアルバムに収めてまた数日後、再度フォトブックに挑戦してみる。 説明はあまり読まずにPCをカタカタと触りながら、ブルドーザー式に遅々と理解を進めていく。 程なくして、フォトブックを作ることはそんなに複雑なことではない、と言えるくらいに操作方法を習得した。 あの素晴らしかった友人のスピーチを1冊のフォトブックとしてまとめてみる。 1冊30ページほど、文庫本ほどの大きさのフォトブックが送料を含めて500円程度でできる。 やはり、なんと安価だろうか。 今後、子どもの写真を撮ってまとめておくのは良いだろう。 デジタル画像も無論整理もできるが、時間をとってまとめること、編集すること、一つひとつに固有の居場所を与えることには意味があるだろう。 それにけいこ世代はデジタルは苦手なので、こういったものは手に取れる形であげると喜ぶと思う。 この春、引っ越しをして比較的遠くに行ってしまった友人関係だが、元気だろうか。 彼女は、引っ越す前に行く先のことを「空が青すぎて、風が強すぎる場所だ」と憂いたっぷりに言っていた。 自分自身のあの姿をフォトブックで思い出して、少しでも元気になってもらいたい。 そもそも引っ越して元気を失っていなければ、東京の思い出の1頁を楽しんでもらいたい。
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あと一週間も経たないうちに新元号が発表される。
私はあらゆる行事ごとに惑わされることを厭う傾向にあるのだが、元号発表には大きな期待を寄せている。 平成が始まった年、私はまだ3歳であった。 無論、小渕さんがあの「平成」という文字を掲げた瞬間を覚えてはいない。 幾人かから当時の状況を聞いたが、あの時は今回と違って天皇生前退位ではなくまず天皇が崩御されたということだから、喪に服すことと新時代到来の明暗が奇妙な感じであったという人が多かった。 西暦で統一して和暦など無くせば良い、というのもごもっともだと思うけれど、書家の面々にとっては作品の最後に書く落款に和暦で日付を入れることも多く比較的なじみ深いものなので無くなるのはどこか空しさを感じてしまうだろう。 西暦2019年と書くのが嫌なわけではないが、漢数字的には、二千十九年となり、なんだか締まりが悪い。 それに、昭和生まれ、平成生まれ、昭和感、平成感、というように一時代を括るというのは大きくて曖昧な社会的変化を語るのに一つ有効な手立てであると思う。 個人が個人としてただ存在することには別に和暦も西暦も国も人種も関係ないが、私たちは時代風潮に全く影響を受けずに暮らしていくことはほとんど不可能と言っても良いし、社会的動向や時代を読み解くのは個人がより良く生きていくことにおいて時に肝要であると言えるだろう。 元号括りは、西暦の1980年代、2000年代などの10年刻みの言い方よりももっと大きくて情緒的な共有物が含まれる感じがするのは私だけだろうか。 音楽でいうとことの“グルーブ”的な感じを元号は持っている気がするのである。 もっとも、明治以降というか、特に昭和、平成について言っているに過ぎないが。 ところで私は「安久(あんきゅう)」という元号になるのではないかと勝手な予想している。 ある方のお父さんが「安久(やすひさ)」さんという名前で、それを見たとき元号みたいだと思ったところから。 現状この安久説は最も有力といった感じでインターネット上を騒がせているが、私はもっと前からこう言ってきた。 実に些末なことだが、信じてもらえるだろうか。 友人が「本日」と書いて「ぽんにち」と読ませたらきっと自殺率も下がるくらいの明るい時代になるだろうと酒を飲みながら言っていたことが思い出される。 この友人の最新の予想は「万安(ばんあん)」とのことだ。 イニシャル「A」もインパクトがあるが、「B」とはなかなかである。 かえるくんはとても早産にならない限り新元号元年生まれとなる。 このことを私は、妊娠が分かったその時から何だか妙にめでたく感じているのである。 うさこちゃんの絵本を手に入れた。
うさこちゃん、というのはミッフィーのこと。 キャラクターものは全般的にそんなに興味のない私だが、なんとなく昔からミッフィーは好きだった。 特段ミッフィーの何かを所有しているということも無かったが、数年前にはミッフィーの手帳を買ったことがある。 手帳を使う習慣が付かなくてすぐに捨ててしまったけれど。 ちなみに今は大きめのミッフィーのぬいぐるみが家にいる。 今回、「1歳からのうさこちゃんの絵本」というのを読んで、色々と分かったことがある。 まずは、「うさこちゃん」というのは福音館から出版されている絵本の訳名であり、「ミッフィー」というのは講談社から出版されている絵本の訳名ということだ。 後者は英語圏の訳名をそのまま輸入したらしい。 日本ではミッフィーという名前の方が有名になっている感じがあるが、絵本では福音館からの出版数の方が圧倒的に多い。 弁当箱からアート作品までキャラクターグッズも数多あって、それはほとんど「ミッフィー」という名で売られているのだが、絵本としての出版は「うさこちゃん」を名乗る福音館の方が圧倒的に多いらしい。 ちなみに原作ディック・ブルーナさんはオランダ人であり、オランダ語のミッフィーは「ナインチェ・プラウス」。 ナインチェ=うさぎさん、プラウス=ふわふわという意味とのこと。 福音館の方のいしいももこさんという訳者はなるべく原作に近い訳をそのまま充てたかったのだろう。 今さらながらブルーナさんの世界、うさこちゃん物語はとてつもなく味わいのある絵本である。 無駄がないというのか、潔いというのか、物語が足りていないというのか、そういった欠落感を持ちつつ、そのことがかえって絵との調和を醸成して絵本の良さを増しているのである。 ブルーナさんの絵は特徴的な太い黒の輪郭や強い原色使いや一切の余分なき構図で、絵単体でも完成物であるけれど、やはり、分厚い装丁や朴訥とした言い回しや簡潔で独特な物語を以てしての絵本作品なのだろう。 全てのマリアージュがブルーナさんのやりたかったことなのだろう。 そして、いしいももこさんの訳はきっと素晴らしいのだろう。 うさこちゃんの本名は、ふわふわうさこ。 うさこちゃんのおとうさんは、ふわふわさん。 うさこちゃんのおかあさんは、ふわおくさん。 このことだけでも十分に面白いし、可愛らしい。 一冊いっさつの物語も、一頁いちぺーじの絵も、大人が読めば何だか突っ込みたくなるようなことばかりなのだけれど、その絶妙さがたまらない。 絵や言葉そのものに言いたいことがあるというよりかは、その全体で醸す何か、というものがブルーナさんそのもので、きっとそれが他人である読者に伝わるべき点なのではないだろうか。 絵や言葉の融合地点から発せられる言葉にならない何か。 真似をしようと思って真似ができることではない。 おこがましいことを言うが、私はブルーナさんのような作家になりたいのかもしれない。 思慮深く、潔く、無駄がなく、技術があって衒いのない、あるいは見せない、そんな表現物を作れるような。 表現物全体で人柄がにじみ出るにも関わらず、それでいて言語化できる主張めいたことはなく、その表現物そのものが価値を持って独り歩きできるような、そんな表現物を作れるような。 絵本はいいお値段なのだが、これから少しずつ蔵書として増やしていこうと思う。 かえるくんが読むときはぜひきれいに扱ってもらいたい。 結婚に際しての親族顔合わせの席での小道具として親族名簿を小さな巻物にして作っていった。
夫妻となるもの、その両親、きょうだい、その子どもたちの名前と生年月日を淡々と書き記していった巻物である。 私は単純に人の名前を書くのが好きだし、改めて親族をずらりと字面で見ることも少ないので、出来上がり図はそれなりに壮観だった。 あまり「家族」というもののコミュニティを深々と掘り下げたくない私であるが、切っても切れないこの社会の最小コミュニティは家族というものである。 私にとって「家族」は「カゾク」と書きたくなる感じがあって、それは未だに「東京」と「トウキョウ」と書きたくなる感じといささか似ている。 私には、どこか社会通念的な家族概念から一線を引いた立場でありたいと思っている節がある。 「家族団欒」「家族旅行」「家族愛」「家族思い」「家族が一番大事」「家族のために頑張る」「家族になろうよ」、そんなことは大々的にはしたくない。 そんなにチーム感出さなくて良い。 チーム感を出せば、自ずと内外の排他感まで生まれ得るではないか。 また「カゾク」からは一線引きたい一方で、現状の住処としている「トウキョウ」には「東京」の方から一線引かれているような感じがある。 「トウキョウ」は生まれ育った故郷とは全く異なる場所や機能として存在し、どんなに長く「トウキョウ」を愛したって「東京」は私のアイデンティティとして一体化することはないのだろう。 それは少し寂しいようで寂しくなんかないのである。 それに、私は「東京」に「新しい家族」を探しに来たわけでは毛頭ない。 「トウキョウ」は私が一方的に大好きであるだけだ。 私にとって「トウキョウ」は社会通念的な「家族」感に乏しいからというのも理由のひとつかもしれない。 「家族」の一員としての私、ではなくて、この地球に生きるあるひとりの私、である方に価値を置いているということなのだろう。 このことはおそらく私の孤独の素のようなものであるし、「東京」を「トウキョウ」と呼んでいるのは紛れもない、この私自身である。 いくら「東京」を擬人化しようとも。 すべては便宜上の「東京」と「トウキョウ」であるし、「家族」と「カゾク」である。 十数年間住民票のある「東京」に暮らし続け、法律上の「家族」を新しく作った、言えるのは制度上のこのことだけである。 「東京」や「家族」という言葉に私が少しの言いよどみを持っていることを自覚しながら、私はきっとかえるくんを育てていくのだろうと思う。 どこにいたってどうであったって、お前はひとりのただのお前だ、と教えるのだろう。 途中の話に熱が入ってしまったが、私の書いた親族名簿の巻物を見た友人がいたく気に入ってくれて、親族名簿を発注してくれた。 その友人も間もなく結婚する。 巻物は私の仕立て力では売り物にならないのでお断りして、A4のきれいな和紙にずらりと両家の面々を並べ書いてゆく。 身重の今、作品系のものは机上で書けるもののみ受けている。 4枚手書きで、ということで数日の夜をかけてやっとのことで4枚目が完成したと思ったら、お父さんとお兄さんの名前が一緒になっているではないか。 何と言うこと・・・。 夜な夜な書き直す。 そして夜な夜な簡単な製本を施す。 これがまた、私は表具についてはさっぱりなこともあり、それっぽく見せるのには難儀なことである。 本日納品。 ともあれ、命名書もそうだが、これは新たな商品になりうるのではないだろうかという個人的手応えがあった。 名前好き、そして結局家族というものに興味が大有りの私としては書いていて非常に面白い。 売り物というのは、作者側が何かしら面白いと心底思っていないとダメである。 しかしながら、今回仕立てたものを見せたいのだが、個人情報が満載なのでダミーの親族名簿を作らねばなるまい。 そのダミー一族を考えるのもまた楽しといったところだろうか。 確定申告を提出しに行ったのは一週間ほど前である。
提出のみ受け付けの臨時ブースには、ディズニーランドなどで見かけるベルトで区切られたぐるぐると長い行列ができていた。 ディズニーランドと違うのは、誰もおしゃべりをしていないこと、楽しみな雰囲気がないこと。 そんな行列の中、久しぶりに迷走神経が迷走した。 所謂貧血というやつなのだと思う。 妊娠如何ではおそらくなくて、私に起こりやすい身体の不調である。 気分が悪くなってきて動悸がして息苦しく、目の前に黄色い靄がかかってチカチカとしてくる、冷や汗をかいて意識が朦朧。 高校生の頃から年1回ほどの頻度で起きるのであるが、これの対処法というのはしゃがむか横たわるしかない。 まずいまずいと考えているうちに意識を失ってしまうかもしれないので、朦朧とする頭で色々と考える。 へなへなと座りこんで後ろの列の人に「誰か係の人を読んでください」と頼むか、その際大きめのお腹を見せて「妊娠しています・・・」とか言った方が良いのか、あるいはあと10分ほど持ち堪えて受付の人に書類を渡すや否や「気分が悪いので休ませてください」と言うか。 もう30分ほどもこの行列に並んでいて、提出期限は明日までだから何としても今日出したい。 もたれかかるには頼りなさすぎるベルトに寄りかかって、もうしゃがもうもうしゃがもうと思いながら何とか呼吸をしながら列は進んでいった。 こんなときでも腹の子は心配だった。 腹の子は私とは明確に異なる人だけれど、今は私なしには生きられない存在である。 私だけなら、どうなっても良いとまでは言わないけれど、どうにかなるしどうにかするが、腹の子まで苦しいのはかわいそうである。 とりあえずとにかく酸素は届けておこうと、なるべく深い呼吸を心がけた。 やっとの思いで受付までこぎ着けた時には随分と目の前はちかちかしていた。 いくつか確認の質問を受けたが、頷くだけで精一杯。 後ろからの列も迫っていたし、何とかトイレまでは行けそうだと判断し、周りから見たら何事も無かったかのように提出を終えて壁伝いに部屋を出た。 きっと顔面蒼白だっただろう。 トイレでしばし休憩していたら、視界も心拍も平常に戻ってきた。 行きにそうしたように帰りも歩こうかと思っていたが、電車に乗ることにする。 タクシーも考えたが、タクシーを拾うまでの道のりで駅に着きそうだった。 これまでこの症状が起きたとき、一度その事から回復してしまった後は、後遺症でぼんやりしているが再度症状が戻ってきたことはない。 事なきを得て帰宅。 かえるくんはその夜、ぼこんぽこぽことよく動いていた。 用があって外出したらその用に振られてしまったのでしばし散歩をすることにした。
この前食べたタルトタタンの生温かさが美味しくて、タルトタタンを食べないにしても、あのカフェに足が向いた。 いつも句会をしているカフェまでのろのろと歩いて行く。 のろのろと、というのは本意ではないのだが、腰が痛いのでスタスタとスピードを上げて歩けないのである。 ちなみに今日のトータル歩数は9000歩余りだったが、まあこのくらいが限界である。 お腹が張ってくるし、腰は動かなくなってくる。 本屋で本を買ってカフェで本でも読むことにしようと思い立つ。 私は皆からやや驚かれるが本当に読書が苦手である。 いろんな有名な小説のことなども、恥ずかしいほどにほとんどのことを知らない。 でも言葉は好きだし、文章も好きである、一応。 だから本を読みたくて読めるようになりたいと常々思ってはいる。 カフェで読書、というのは憧れである。 昼下がりに食後のコーヒーに入ったカフェで、持参した本が面白くて読み耽り、気が付いたら夕方だった、なんてことが起こってほしいものである。 読み耽る、なんて体験は自覚的には一度もないかもしれない。 行きしなに昔ながらの古い本屋さんがあったので、ふらりと入ってみる。 知っている作家の小説にするか、小難しそうな時代小説にするか、銭湯雑誌にするか、料理本にするか、エッセイにするか、絵本にするか、この際タイトルのみを見て選んでみるか。 中島京子さんという作家の「妻が椎茸だったころ」というタイトルに惹かれたけれど、今日のところはカフェ読書超初心者として滞在時間で読み切れるものが良いだろう。 あれこれいろいろ物色して、結局漫画になってしまったが、「まんがで読破 旧約聖書」という脈絡のない本にすることにした。 まんがで読破 シリーズは「般若心経」や「相対性理論」や「菜根譚」などいろいろあったが、何となく「旧約聖書」が目に留まった。 哲学の本はほんの少し何冊か読み齧ったことがあるが、仏教以外の宗教の本はあまり経験がない。 日々のいろんな考え事をするにはおそらく広く遍くもう少し素養が要るというか、所謂勉強的要素があった方がスムーズな考え事ができるのではないかと思っている。 しかしながら私はほとんどすべての宗教も歴史にもとても疎く無知なので、ものすごく易しいところからしか入れない。 「旧約聖書」は中でも比較的分厚い本ではあったけれど、漫画ならばいけるだろう。 ちなみに、私は漫画であれば日々読書をしているかと言われればそんなこともない。 活字のみの文章よりも若干食指が動くというくらいのものだ。 本を本屋で買うなんて何年振りだろうと、喜び勇んで本屋からカフェに向かったのだが、私はこの本をこの時点で読み切る自信は毛頭なかった。 きっと読む気がしないか、眠くなるか、スマートフォンを見てしまうか、結局10ページほどしか読んでいない本を持ち帰って積読本の高さを増すことになるのだろうと、そんな気に満ち満ちていた。 日曜の夕方、カフェは混んでいた。 あんずのタルトとアップルティーを注文して、カフェの目的のひとつを達成する。 喜び勇んで買った漫画本を取り出して、開いてみる。 カタカナの名前が数多く出てくるので人物を把握するところで既に心が折れそうになっていたが、名前を覚えることは諦めて詠み進めることにした。 隣りとの席が近いので、会話が丸聞こえであることが気になった。 途中眠くなってカタカナの名前たちが頭に蠢いていた。 座りっぱなしの腰も痛くて、何度も何度も姿勢を探っていた。 1時間強の時間をかけて私は一冊の漫画本の最終ページまで到達した。 読み切ったのだ。 なんと久しぶり。 肝心の内容がどこまで頭に入って咀嚼できたのかは怪しいところが多々あるが、本を読み切ること自体が久しぶりであった。 内容も、私が知らないことだらけなのが良かったのか、上澄みの上澄みをぺろりと舐める程度の楽しみは十分にあった。 そりゃあ聖書なのだから当然といえば当然なのかもしれないが。 家で寝っころがってしまっては毛頭本など読めないので、カフェのような人目があって姿勢をある程度保たなければならないところで本を読めば良いのかもしれない。 ということが、本日最大の収穫であった。 今日のカフェは他人の会話が気になったので、むしろファミリーレストランくらいに雑音がもわんと混じり合うところの方が良さそうだ。 タリーズやドトールといったコーヒーチェーンでも良いのかもしれない。 美味しいタルトは食べられないけれど。 調べてみると家の近くには大きな図書館があるようで、そこでも良いのかもしれない。 読書の習慣を、人生で初めて、なんとか付けてみたいものである。 かえるくんが腹の中でもごもごぽこぽことしている。
時折、ぼこんぽこんと大きく動く。 自分以外の生命体が、不随意に私の腹の中で蠢いている。 春である。 胎動はかえるくんが生きている証で、あまり大きく強く動かれ過ぎても母体は辛いだろうが、胎動がないのもまた恐ろしく不安になるものである。 かえるくんの動きが何を意味しているかはさっぱり分からないのであるが。 妊娠して自分自身が以前と比べてすごく変化があったというか、自分で意外であったことと言えば、「この命を失えない」と身体で強く思っているらしいということだった。 自分の思いとして考えたり願ったりしているというよりは、全身でそう考えているらしいのだ。 自分の生い立ちや親子関係などを振り返ってということではない。 今このことを書いていてさえ、本当に不意に目頭が熱くなってしまうほどなのである。 いつだって、いつかは、命は失われるものである。 それは胎児のときなのか、この世で肺呼吸を始めて100年後なのかは分からない。 親が先なのか子が先なのかも、そんなことは分かったものではない。 自分の身体の生命活動でさえも多くのことは不随意である、ということが私の中で結構大きなこととして腑に落ちたのは妊娠する少し前である。 呼吸も咀嚼も消化も歩行も、全てが不随意ではないにしても、そのほとんどが意識的なことではないと言っても良いだろう。 一連の消化活動においては、私たちの身体の中で、考えてもおよそ手順が覚えられないような過程が日々あらゆる調整の下で行われているわけである。 それがこの世の中のごく普通のことで、恐ろしく緻密壮大なことである。 地球やら生命やら、神の所業によるところ、とも言いたくなるのも分かる気がする。 人間ひとりの短い生涯をかけて読み解いて系統立てて整理できるようなものではないから、その整理を諦めたときに神が出てくるのかもしれない。 でもまあ、それを系統立てて整理できてもできなくても、私たちの身体は止まらずに、いや止まるまで、ただ生命活動を粛々と行っていくのである。 自身の身体さえこんなにも不随意で動いているのに、今は別の生命体が別のシステムで動いているわけだから、もう不随意も不随意である。 しかもその生命体が現在どのような形でいるのか目視することもできないものだから、次の行動も予測できない。 動いていないときは眠っていて、睡眠覚醒はおよそ30分交替で訪れるとのとこだが、そのタイミングも見ることができない。 胎動でコミュニケーションが取れるらしいが、それはもう少し後だろうか。 かえるくんの胎動は日に日に大きくなっている。 それに加えて私の腰痛は日に日に増している気がする。 出産までに体力をつけなさいと方々から言われるが、活発に動くことが出来かねる場合どのように体力増進を図ったらよいだろうか。 トコちゃんベルトなるものを、出産を終えた方からいただいた。 骨盤を支えるコルセットだ。 そのベルトのホームページを見てみると、なんとまあ装着が難解なことだろうか。 私は元々、電化製品も家具の組み立ても役所の手続きなどの説明書を読むのが本当に嫌いだ。 どうせ読まないし、と即座に捨ててしまうことも多い。 文面としてさっぱり頭に入ってこないので、読み終わったつもりでも結局何をやって良いのかが分からないのである。 と思って放置していたところ、それを下さった方とは別の方から、私の腰痛を案じて連絡をいただいた。 やはりトコちゃんベルトを使っていたのだそうだ。 トコちゃんベルト、人気のようだ。 そして、その方曰く、装着は全然難しくないのだと言う。 看護師さんや助産師さんに聞いてみてと言われたが、そんなにも有名なものなのか。 ついでにあれこれと相談に乗っていただきアドバイスをいただく。 もう既にひとりでいることは不可能な状態になってしまったけれど、かえるくんがお腹の中にいるうちにやはりひとりを意識的に満喫しておこうと思う。 夜、確定申告に手をつける。 披露宴のブーケに使ったミントが、ぐんぐんぐいぐい大きくなっている。 植物もかえるくんも、春である。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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