区手配のコロナワクチンの一回目を接種してきた。
先月、5000枠のワクチン争奪戦に躍起になって緊張の中何とか獲得できた。 日曜日、なるべく仕事に支障が出ない夕方の時間帯、奇しくも最も近い接種会場を予約することができた。 夫の急用ができて、急遽息子も一緒に連れて行くことになった。 最近は、事情をゆっくり丁寧になるべく全部話すようにしている。 お母さんは今から大切な注射を打ちに行くこと、あなたに注射はないこと、ベビーカーに乗ってほしいこと。 最近はほとんどヒップシート(大きなウエストポーチのようなもので、幼児の乗り降りが簡単にできるもの)で抱っこして移動しているため、ベビーカーに乗ってくれるかは大変懸念した。 抱っこしながら注射するのは、おそらく息子が大暴れするだろう。 やや深刻そうに息子に話をすると、おそらく本当に理解をしたのだろう、すんなりと「びーびーぐ、のる」と言って自分からベビーカーに乗ってくれた。 二歳はいろんなことが分かって、気をきかせてくれるのだ。 「ありがとう、ありがとう」と言って、出発。 早めに出たので、会場まで遠回りして散歩しながら行く、寝てくれ!と願いながら。 程なくして、家を出て10分程度で、息子はがくっと寝落ちた。 このために昼寝もお預けしていたし、作戦成功である。 こんなに上手くいって良いものか、思わず息子のすやっと眠る顔を写真に収めた。 会場はスポーツセンターの古い体育館のような場所で広々としており、受付、問診、接種、待機などのブースが区切られていた。 すべてのものが簡素な感じだったけれど、エアコンもきいていて、換気もされており、係員は皆てきぱきと丁寧で温かった。 ベビーカーを押している私にはさらに慈悲の目が向けられているように見えた。 時間より早く到着したのにも関わらず、1分も待つことなく手続きは進み、ちくんとワクチンは打たれた。 痛くないと聞いていたが、普通に針が刺さる痛みがあったし、何かが注入されている感触まであった。 15分間待機してくださいと、時刻の書かれた付箋が私のパイプ椅子に貼られた。 事務作業の緊張感と、応対の丁寧さが程よくて、私は15分間なんだか感動の沸き上がる思いで過ごしていた。 色々と言われる行政だけれど、こうして現場では滞りなく事は進められていて、少しのおもてなしまでしてくださる。 会場の設営も運営も、大変だろう。 休日出勤も、大変だろう。 世話をしなければならない子どもや両親などがいるかもしれない。 そうこうしているうちに15分は過ぎ、「お変わりありませんか」とマスク越しのにこやかさに「大丈夫です、ありがとうございます」と席を立った。 各ブースで、皆ベビーカーを覗き込んで笑顔を向けてくれるのだが、息子は本当にずっとすやすやと眠っていた。 なんとまあ、良い子のことでしょう。 有難い気持ちで私は会場を後にして、まだ眠っている息子を起こさぬよう散歩をする。 休日はどうしても歩数が稼げない。 ぐるぐるぐるぐる、ベビーカーで近所を回って、8000歩。 あと2000歩行きたいところだが、息子は気持ちよさそうに眠りから覚めた。 家に着いて夕食の準備をしていると、やはり聞いていた通り腕が痛くなってきた。 夜、寝られるかしらと思ったが、痛いなあと思いながら普通に眠ることができた。 朝、また腕は痛いけれど、その他は何ともない。 「お母さん腕が痛いから、今日保育園ベビーカーでもいい?」と聞くと「いい。びーびーぐ」と言う。 こうして言葉でコミュニケーションが取れるというのは、未だ毎度感動する。 人とお話をする、それはとっても大切で、感動的なことなのかもしれない。
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毎年依頼を受けて残暑見舞いと年賀状を書いているのだが、ああいった、同じものを複製する仕事を私は好んでいる。
来る日も来る日も今年も来年も、ということでなければ。 昔、大学生の頃、バイトもそういったバイトを好んでやっていた。 返却されたレンタルビデオのカバーの張替えとか、化粧品の瓶のふたを閉めるとか、ひたすらに個人情報をパソコンに打ち込むとか。 1時間でどのくらいできるか、次はもっと上手くやれるか、そんな己との闘いに躍起になって、とっても辛いのだけれど一時間前の自分に負けるのは許せなくて。 終了後は、軽いマラソンを走り切った後のような達成感と解放感に酔いしれていた。 この戦いの対価としていただける報酬は受け取りやすく、何とも対等な感じがして良かった。 自分が同じことを繰り返す作業に向いている、と思っていたので、そういった仕事に就いた方が良いだろうと思っていた。 だから会社員だった頃、もちろん学生時代のバイトのような反復作業だけではなかったものの、その傾向が強く、新しく仕事を生み出したり、交渉して仕事を取ってくるなどは酷く苦手であった。 今はどうだろう、と思う。 いつからか私は「少しでも新しいものが見たい」という価値を重んじているので、同じ作業を繰り返して走り切る、という仕事を好んで取りに行ったりすることはほとんどなくなった。 でも年に2回ほど、そのような類のお仕事をいただけると、過去の高揚が戻ってくるようで楽しかったりもする。 紙の枚数は限られており、間違えられないし、私からはまだ見ぬ人様へ届くものなので緊張もするし、普段あまり使わない方向の神経を使って非常に疲れる。 しかしこの仕事は集中してやれば必ず一定の時間で終わることが分かっており、ゴールへ向かって邁進しやすいと言える。 そしてまた疲れは心地よさにも一役買う。 一方で、作品揮毫の依頼においては、もう全然違う緊張感がある。 少なくとも自分が良しとするラインに仕上げねばらないので、書いている途中には本当にこの作品は出来上がるのだろうかと大不安になる。 そうは言っていても仕方ないので、負けるな負けるな大丈夫、と自分を落ち着かせながら制作に向かう。 自分のために書いている創作とは本当に訳が違う異常な状態になるのだが、気合いを入れすぎても良いものが出来ないのが難しいところだ。 だから、この大不安に自分を慣らすべく、まずはその状態で作品のレイアウトを固めるくらいには書き込むことになる。 そして、自分が良しとするものが出来上がっても、今度は依頼者の評価を聞くまでまたもや大不安になる。 そしてOKをいただいても、作品を表具屋に無事に汚さず濡らさず破らず届けて、表具をしていただいて納品するまでも気が気でない。 そして、作品の場合、その出来には基本的に上限がないため、もっと良いものが書けたのではないかという一抹の不安も残る。 しかしながら、いつだってある時間の中で可能な限りの最高を出すしかない、という正論を言い聞かせて仕事の終わりとする。 あるひとりの生徒さんに、「先生に是非こんなふうな仕事をしてもらいたい」という仕事の提案を受けた。 私もそのことについて考えたことがないわけではないのだが、今までやったことない類の仕事なので二の足を踏んでいる。 向き不向き、適材適所、というのはあると思っているが、未経験のことについては、ある程度予測ができるとしてもやってみる他ないよなあと思っている。 息子、夏休み6連休。
長かった、あぁ、長かった。 夫に息子を任せて、私は仕事に出ていたりもしたけれど。 一緒にいる時間は本当に何もできない。 パソコンも本もスマホも書道用具も彼にとってみれば大変に興味深いおもちゃだし、親がそれらに夢中になっていることは彼を酷く退屈にさせて怒らせる大きな要因になる。 もっとも、彼はスマホでYouTubeの動画を操作できること、またそれをテレビに映すことができることを知っているので、自分の好きな動画を見せろと大変な勢いでせがんでくる。 外に出て時間を潰したいのだが、コロナ、猛暑、大雨、という三重苦のためになかなかそれもかなわない。 子のいる家庭は皆、そうなのだろう。 ところで、子どもが産まれてから、「時間を潰す」ということに度々難儀するようになった。 「時間がない、時間がない」というのが多くの大人の言いぐさで、現代人、特に都会人には余裕がないなんて使われ方をよくするものだ。 会社員を辞めて独立してからというもの、私はそれほどまでに「時間がない」という状況に陥ったことが無かったように思う。 もちろん一時的に徹夜するほど忙しいなどというときはあったであろうが、それがひと月ふた月続くなんてことは絶対にありえなかった。 おそらく悠長に過ごしてきた方なのではないかと思う。 まあ好きなことを仕事にしているので、オンオフがあまりなく忙しいのが何ゆえなのかは計りづらいということもあるが。 時間があれば、サウナに行っていたし、ドラマや映画や漫画を見ていたし、お字書きをしていたし、お酒を飲んでいたし、友人と喋っていたし、散歩をしていたし、寝ていた。 今挙げたもののみで日常の空き時間というのはほとんど使い尽くされていた。 それに対して、「時間を潰す」という言葉を充てることはなく、能動的にそれをしていた。 「時間を潰さなければならない」ほどの大きな時間は持っていたという自覚はない。 ところが今は「時間を潰す」ことに本当に大いに難儀しているのである。 息子と一緒では先に挙げたことのほとんど全てが出来ない。 かと言って、息子と時間を過ごすには子育て初心者の私には到底ネタが足りず。 シャボン玉もお絵描きもねんど遊びも10分潰せれば良い方で、どれもこれも、すぐに終わってしまう。 家の中にいる場合、行きつく先はやはりテレビなどの動画になってしまう。 お昼寝もやっとの思いでしたかと思えば、30分で元気満タンきらきらおめめで起きてきたりする。 何にもすることがないのに、寝ることもできない、緩慢で膨大な時間の牢獄に放り込まれたような気分になる。 ぬううううううううと長い長い時間を何やかやとやり過ごして、18時になると、やっと1日の終わりが見えてくる。 最近は一緒に寝ることにしているので、21時半頃に寝室に行くともうそれで私の1日は終わってしまう。 こんなにも有り余る「時間を潰す」ことに難儀したというのに、このときばかりは「なんて時間がないんだ」と思う。 コロナが無ければ、猛暑でなければ、雨でなければ、そんなことをもちろん思うのだけれど、立ち向かってもどうにもならない。 猛暑と雨は見通しもつく。 どんな時世であっても、子どもには関係がないので、楽しい今を過ごさせてあげたいとは思う。 応募していた、区のスポーツセンターの親子体操なるものが抽選で当たった。 9月からである。 休日の緩慢で膨大な時間に憂えるより、少し面倒で忙しいくらいの予定があった方が良い。 コロナでなくならないと良いけれど。 台風が過ぎて、強靭な朝日が照っていた。
保育園の送り迎えだけで私の腕はこんがりと焼けてしまった。 日焼け止めは元からあまり塗らないし、息子を抱っこしていては日傘をさすこともできず。 直射日光は苦手なので、あまり無防備にいたいわけではないのだが。 もう四六時中エアコンをつけていて、エアコンで体調が悪くなるということもないのだが、いささか寒く感じるときがあって、冬布団をかぶって寝ていたり、長袖パーカーを羽織っていたりする。 一方で息子は、夏でも冬でも布団など一切かぶらない。 かぶせてもかぶせても出て行ってしまう、というくだりもうだいぶ前に終えて、最近はそのままにしている。 子どもの睡眠時の適温は21~24度くらいと聞いたことがあるが、彼らは夜でもかっかと燃えているようで、足先が冷たくなっていることもない。 偏食で小食の最近の息子は、比較的よく食べてくれる。 卵も野菜も入った炒飯を食べてくれるのは本当にありがたいし、安心できる。 よくいもうとや保育園や区の検診や幼児相談などで食事の心配をされるのだが、この点において私はどうやらひとつ突き抜けてしまっている節がある。 夜ごはんが絹揚げ豆腐のみ、唐揚げのみであったり、朝ごはんがふりかけごはんのみであったり、昼ごはんがクリームパンのみであったりしても悩みに及ばない。 飲み物を買うときはなるべくカロリーのあるジュースをと思うし、のみヨーグルトを飲んでくれた日にはなんて健康的なものを飲んでくれたのだろうと嬉しくさえなる。 デザートのプリンも食べる日と食べない日があるが、食べてくれれば糖質のみならずタンパク質も補給できたと考えることにしている。 炒飯は何の文句も無い完全食であると信じている。 無論、ごはんなどの炭水化物、肉や魚や卵などのタンパク質、野菜などの繊維やビタミン類、こうした主要な栄養素をなるべく種類多くバランスよく摂った方が良いのはもちろん知っている。 しかしながら、どんなに手間やお金をかけても食べないものは食べない、ということもまた骨身に染みて分かっている。 息子が7,8ヶ月だった頃、おっぱいもあまり出なくなって、粉ミルクを全力で拒否されて、離乳食も遅々と進まず。 「体重は減らなければ大丈夫です」と様々なところで書かれていたり言われたりしたのだが、明らかに体重が減っていたことがあった。 私は泣きたくなったり、泣いてしまったこともあった。 ミルクの種類や温度や濃さや哺乳瓶の口、スプーンで、コップで、寒天にして、砂糖を足して、卵焼きに混ぜて、お粥に混ぜて、大人も一緒に、食べたら大いに褒める、お腹が空くまで放っておく・・・たくさんの工夫をした。 今思い返しても私にとっては涙ものの話である。 そして1歳2,3か月までどろどろの離乳食を食べていて、何度も栄養相談などに出向いた。 嚥下に問題があるのかと、歯科医の友人にも意見を仰いだ。 そんなこんなの過去があるので、私の息子に対する食のハードルは低く下がったまま定着した。 今でも歩き回って食べることなども、危険がなければ特に止めはしない。 気分が乗って食べてくれているのだら、どんな風に食べていても特段問題ではない。 その気分を害することこそが私の恐怖なのだから。 一方、保育園の集団生活では多少固かったりもさもさしたものが苦手のようだが、きちんと座って完食しているようである。 美味しい給食を作ってくださる保育園にも感謝だし、がんばって社会生活を営んでいる息子にも拍手喝采を送りたい。 さて、明日から息子は6連休である。 祖父の初盆だ。 長い長い夏休みの中休み。 あと3時間でお迎えである。 豚バラ肉の薄切りと忘れ去られて久しい糸こんにゃくと芽の育ちそうなじゃがいもと。
肉じゃがでも作ろうか。 本当の肉じゃがは牛肉で作るものだろうか。 本当の、とは。 糸こんにゃくは2週間ほど賞味期限が切れていたのだが、消費期限ではなく賞味期限だから大丈夫だろう。 変な匂いもしないというか、こんにゃくの匂いがするだけだ。 ざざっと水洗いして、水から煮て灰汁抜きをする。 小さくて丸いじゃがいもの皮をむいて、ふたつに切り、油を熱したフライパンに放り込む。 そういえば玉ねぎもあったと、途中でくし切りにした玉ねぎも放り込む。 じゃがいもと玉ねぎが油でコーティングされててかてかになるまで軽く炒める。 一度、大きなお皿にそれらを取って、次に豚バラ肉を炒める。 少し焦げ目がつくくらいまで放っておき、全体の色が変わったら、糸こんにゃくと取り出しておいたじゃがいも玉ねぎを入れ、具の半分くらい水を入れる。 酒もどばどばっと入れて、砂糖もざっと入れて、ほんだしもさらさらっと入れる。 蓋をしてぐつぐつ煮込むが灰汁は出てこない。 玉ねぎのシャキッとした感じが溶けて透き通ったころ、醤油とみりんをだぱぱと入れる。 もう一度ぐつぐつ煮る。 あとは火を消して冷ますだけ。 冷ます、というのもとても大事な料理工程のひとつである。 元より私は料理動画が大好きなのだが、ひと月ほど前にYouTubeで観た中国料理の動画がとても良かった。 炊飯器で作る炒飯のような単純な料理なのだが、ゆっくりと流れるピアノのバックミュージックも静かな女性の中国語のナレーションもとても心地よく、また手元にぎりぎりまで近づいて撮っているため、食材が包丁で切れていく様や、生米が器にぶつかる音などが繊細に響くのも良い。 使っている器も、バットなどの味気ない料理道具ではなく、白のみの単純なお皿でもなく、動画作者が選んだであろう可愛いけれど可愛すぎない品のある食器であるのも良い。 細部まで本当に神経が行き届いた動画である。 しかし、この動画には「怠惰な料理」というような日本語訳の説明があるが、私に言わせれば全然怠惰ではなく、結構面倒な料理である。 とにかく工程が多すぎる。 私がこれまでにたくさん見てきた料理動画は、私の中では何となくの参考料理イメージには蓄積されているのかもしれないが、再現したものはほぼ皆無だ。 どれもこれも私にしてみれば手をかけすぎに思えるのである。 私が過去にこれは本当に簡単で使える!と思ったのは、少し前にTwitterでバズっていた「やけくそハンバーグ」くらいなものだ。 買ってきたひき肉をそのままフライパンで焼いて塩こしょうして出来上がり、というレシピと言えないくらいのレシピである。 しかしバズっていただけあって、ひき肉の新たな食べ方の開発と言って良いほど、なかなか美味しかった。 ここまで手間を抜いておいてなんだが、ニンニクのスライスでもあると完璧である。 豚や鶏ではなく、牛が牛豚合い挽きが良い。 ひき肉なら牛も安い。 牛ステーキのような、とは全然いかないけれど、ステーキ感は十分味わうことが出来る。 それに、強火で焦がすくらいに焼くことで牛の持つワイルドな雰囲気が立ち上り、食べ応えがある。 お酒に良く合う。 料理は多くの人の否応なく身近にある分、何か物事の全体像を説明するときの例えに使いやすい。 料理を「料理道」と考えてみると、こんなに毎日毎日、多くの人がたくさんの練習を積んでいるものって他にないのかもしれない。 それに正面から向き合っているかどうかで話は全然変わってくるけれど。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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