自宅レッスンを行っている生徒さんと、家に植物が多いですねという話になって、植物好きの私のスイッチが入ってしまって、葉を触ってもらって香りを嗅いでもらったら気に入ってくれたので、プレクトランサス・アロマティカスを小さく分けて小さな豆電球型の小瓶に挿して差し上げた。
「そのうちに根が生えてくるから、光の多い場所で水を絶やさないようにね。香りが良いからって葉っぱを握りつぶさないようにしてあげてね」と説明ををする。 「わかりました!毎日話しかけます!」と言うので、「それはしなくてもどちらでも良いと思うよ」となぜか我に返ってしまった。 家にある植物を人に分けて差し上げるのはこれが初めてではない、思えば何度かある。 押し付けるつもりはないのだけれど、結果そのようになってしまっているのかもしれない。 一応、植物の話題について、何かしらの手ごたえのような反応を示してくださった人だけにそうしているつもりだけれど。 でも、自分の好きなものを知ってもらったり、シェアしたりすることは、私はされた側としても嬉しい。 もちろん自分にフィットするか否かによってその嬉しさの幅はとてつもなく変わるものだと思うけれど、何にせよ、その人が悦に入って個人的な何かを見せてくれたり、何かを分け与えてくれることは嬉しいことだ。 ついでに、その生徒さんはジムに行っているというのでプールの楽しさも熱弁しておく。 どちらも気に入ってくれたら嬉しい。 さらに今日は、別の生徒さんにも私はいかにプールが良いのかを説明して、「帰りの電車でamazonで水着買ってください!」とか言っていた。 今まで自分がはまったものについて人に熱弁して勧めてきたものはいろいろある。 「グレイズアナトミー」とか布団乾燥機とか五反田の刀削麺とか小石川植物園とかBOSEのミニスピーカーとか。 本当は煙草も勧めたいくらいなのだけれど、自分が始めたのが遅すぎることと、社会性が低いのでしないようにしている。 ごく稀に、私がとても勧めたものを試す人がいて、フィードバックをくれる人はだいたい気に入ってくれたひとなので、そうでしょうそうでしょう、となる。 そもそも、元々が私も人から勧められたものが多いものだ。 その一方で、なぜだかブルーハーツだけは、熱弁はいくらでもするけれど、人に推し進めたことがない。 私がブルーハーツの話をするときは、恐ろしく自分を話すことになるというか、もはやブルーハーツの話に全然留まれない。 これはもっと全然最近のことだけれど、私は「カイジ」においても同様の感じを抱いている。 それらは今の私のひとつの核を成すこととなったきっかけやそれを分からせしめた、とてつもなく大きな経験で、未だに軽やかに扱えない。 ブルーハーツや「カイジ」について話すとき、もちろんそれが一般的にどのように扱われているかをなんとなく把握しつつ、そしてそういう一般的側面も私ももちろん本当に好きなのだけれど、そこではなくて・・、ということが説明し難くて、けれど私にとってはそこが最も重要で、ということが上手く伝えられなくては、私のそのそれが傷ついてしまうように思っているのかもしれない。 でも、本当はそれが伝えたいのだけれど、とても多くの人生経験を語らないと、それでも伝えるということの圧倒的難しさ、あるいは不可能性を思うと、私は自分自身が傷つきたくないので、少なくともコンテンツとしてのみのブルーハーツについてはもはや語りたくないのだと思う。 友人のブログに私のあげた多肉植物の成長した姿と、彼女のお子さんの髪型が似ているという写真が載っていて、その子は彼女が私の姪に作ってくれたものと同じスタイをしていて、その窓辺には彼女の短歌を私が書いたポストカードサイズの書があって、またそこには偶然にも私の家にもあるゴールドの鈴のオーナメントが飾ってあって。 その写真を見たときに、全然違うのに、なんだか少し自分の家のような感じがした。 同じ友人に私の作った俳句を「自分で作った句だと錯覚した」という感じに近しいような感じだろうか。 ここ最近プールの頻度が加速している。 プリペイドカードまで入手した。 最初に水に潜る瞬間が好き。 これこれ、と思う。 水の中を見渡すと、透明な水の世界が広がっている。 できればあのプールの真ん中の深いところで自由に潜って遊びたい。 他の泳者や監視員の目を気にせずに潜水とかしたい。 でもただ泳ぐことに徹しなければいけないし、途中で止まっても、深く潜ってもいけない。 結構本当に、水の中で遊びたいのだけれど、そういう場合はどこに行ったら良いのだろう。 曜日感覚に乏しい私は、日曜の午後なんかに行ってしまって今日は少し後悔。 低速レーンで泳いでいても、平泳ぎしかしない私はクロールの人たちに追いつかれてしまう。 私はがんばって泳ぎに来ているわけではないので、追われるのは辛い。 泳ぎ終わってほかほかの体を連れて、広い場所で空を眺めて一服。 ビタミンウォーターが身体にすうっと染みわたる。 東京も捨てたもんじゃないよなあ、と、私は日頃から東京を捨ててなんかいないけど、そう言いたくなる。
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ラナンキュラスはどれもみっちりで、細い体に頭を擡げている。
ぎゅうぎゅう閉じた花びらが、少しずつ空気を取り込んで大きくなって開いていく。 ある程度開ききったところで少しでも刺激を与えると、まるで喋っているうちに一瞬に眠りに落ちてしまうかのように、ばらばらっと花びらを落とす。 フリージアはラッパみたいで、水仙は素っ頓狂。 1年くらい前、このことは俳句にも詠んだ気がするけれど、自分でそれらに言葉を与えてしまうとイメージの固定化が少なからず起こる。 今見て再びそう思う一方で、フリージアは甘やかな毒を持っていそうで、水仙はマリオに出てくるパックンフラワーみたいだと思ったけれど、パックンフラワーを今調べてみるともっとかなり奇怪なものだった。 以前、イメージを我が物にする沈丁花、という人から見ると訳の分からない句を作ったことがある。 沈丁花、という言葉が春の季語であることを季語辞典で見つけたときに、「春」とも相俟って、松任谷由実の「春よ、来い」が頭の中でリンクした。 小学生の頃、「春よ、来い」をよくリコーダーで吹いていた。 その頃、私は詩の意味を考えることも言葉の意味を調べることもなかったけれど、「沈丁花」という字面と語感が何かしら新鮮な感じがして気になっていたのだろうと思う。 私の中の沈丁花のイメージは花そのものではなくあの曲なのであって、実際の沈丁花の花をおそらく見たことはないのではなかろうか。 時を経てすくい上げられた沈丁花は、言葉を充てる楽しさと、それによるイメージの支配力について思い馳せることとなってできた句だった。 例えば「春」という概念は広く遍く共通する感覚を持ち得ると思う。 植物が芽吹いてきたとか、太陽に力強さを感じたとか、風が不意に薫ったとか、そんなことはツンドラ地帯に住む人にもあるとてもとても広い世界的共通概念なのではないだろうか。 これらはまあ言葉として陳腐であったとしても、それをうまい具合に、「春」ではなくて「春感」のイメージを言葉で紡げたとしたらおそらく句会で得点が獲れるような良い俳句になると思う。 先日の句会の特選句である、我が絆し横一列に祝箸、というのも、もちろん私の中の思いもあるけれど、共通概念を目指したという側面もある。 実際の評にもあったけれど、「お正月って何かしらそういう感じありますよね」というところの共感を呼んだということだと思う。 「春」の概念よりはとてもとても狭い共通概念だけれども、範囲は絞られた方が逆に描きやすいということもある。 俳句というのはあまりにも短い五七五の中で、表層を描くにしても、深層を描くにしても、割に広範囲の共通認識を射抜くことが一つの格調に繋がっているように思っている。 もしくは、戦場写真のような瞬間の鮮やかさで撃ち取るものか。 イメージを我が物にする沈丁花、では、沈丁花が春の季語であることを読み手が知っていたとしても、何がなんだかわからない。 こんな裏側があることは、五七五の世界では描ききれないよなあと思うから句会用ではないと思って出してはいないけれど、実は個人的な思い出としては好きな句だったりする。 イメージに言葉や記号、例えば音や字や絵など、を与えることで誰かにそのイメージを伝えようとする。 本当に伝わったか、という確証は一生得られないけれど、伝わった気がする感じがしたり、受け取った感じがしたりするのは、そういうのは一つのもうとても素晴らしい感動体験であると思う。 創作側からすれば、「私をわかってください」というコミュニケーションのきっかけの発信とも言えるだろう。 仕立ての良い紺色のコートとか冬の青空に映えた浅草寺とかプールで臭う香水とかデニーズの苺パフェとか都庁の眺望レストランとか好ましい勝手な依頼とかフジロックのパエリアとか気負いのない大声とか個人的な会話とか。 なんかいいなあと思ったキーワードたちを留めておく。 レッスンをしていると、「正しい字を教えてください」と言われることがたまにある。 多くの場合、「正しい字」=「きれいな字」と言っているのだと思う。 私としては、「人が見て共通認識としてきれいに見える字」というものはあるだろうけれど、「“正しい”字なんて誰も知らない」ということが回答である。 これはどんな大家の先生であっても回答できないはずだ。 無論、字は記号なので、間違い、ということは存在する。 しかし記号としての意味が、記録として自分に、あるいは他人に伝わればその記号的間違いも結果的に“問題のない正しさ”ということにもなる。 では、「人が見て共通認識としてきれいに見える字」を“正しい”字とする。 しかしこの“正しさ”だって微妙で、曖昧で、一般的に言われるところのセオリーを外れていても“正しそうな”字はたくさん存在するし、少なくとも誰かが判断する“良い”字になり得る。 書き順、筆順というのは、文科省が定めている手引き上の“正しさ”は存在する。 しかしその社会的ルールさえも、歴史上で変化することもあれば、楷書体と行書体で“正しく”書き順が異なることだってある。 という屁理屈ではないのだけれど屁理屈に聞こえそうなことばかりを言っていても仕方がないので、記号的に“正しい”字のバランスの取り方も当然やる。 しかし、字は一画でも終われなければ一字でも終われないので、全体の「空間バランス」や「流れ」、そして気負いない「線質」ということも非常に重要になる。 “正しい”字が存在しなくとも、“上手い”字とか“良い”字とか“きれいな”字いうものは存在すると思う。 それは、非常に複合的要素が組み上がってできている。 そして、どこにおける誰判断のことなのか、ということを加味するのであればもう字の話ではなくて哲学の領域まで行ってしまいそうだけれど。 一気に全部はできないので、少しずつある要素を他の要素と組み合わせながら場数を増やして練習していくしかない。 理解と運動は別のことなので、イメージ上の“良い”字になれるように運動を積んでいく。 それは例えばギターが上手くなったりすることととても近しい。 運動を伴う何かを体得しようと思ったとき、一つではなくて二つ以上の何かをやっている方が理解が腹落ちするのは格段に早いと思う。 という一連のことは、なかなか進まない私のギターにそっくりそのまま通じて跳ね返ってきている。 久しぶりにエレキギターをアンプに繋いでみる。 私は何度、トライアドで止まってトライアドから始めるのだろうか。 ベランダに出ると、木瓜の花が酷く巻き散っていた。 強風で散った感じではないので、おそらく鳥か何かの仕業だろう。 無残な様相だけれど、まだつぼみは残っている。 久々に定期便以外にも自分で花を買って、それが定期便の花とかぶってしまって部屋が花だらけである。 色に一目惚れして買った菊の花があまりにイキイキとしていて嘘っぽい感じすら醸している。 カスミソウが臭い。 白い花は、全般的に湿った艶めかしい匂いがしてあまり好きではない。 最近、私はどこかに迷い込んでしまっている感じがする。 あらゆる揺蕩う環境と揺蕩う自分自身の中で、揺蕩っているのはどうにも心許ないので、自分の中にある決め事のような拠り所を以てして癒されたりする。 癒されたい、というのは全くもって本当だけれど。 ある人がある人の本を読んで抜粋した“小さな神様”というものが、私の中に存在するのだろうと思う。 ”悔しい”という思いに目を向けてみる。 うむむ・・、と考えているうちに眠くなってしまう。 「亀田音楽専門学校」がたまらなく面白い。 私は人と話しているときに、というか何か困ったり難しい話をしているときに、合谷を押したり、髪の毛を弄んだり、その辺にあるものを繰り返し手でいじったりする癖がある。
薄々知ってはいたけれど、それを人から指摘されてなんだかちょっと引っかかっている。 おそらく心理学的にいうところのメンタルブロックのようなことが無意識に働いているのだと思う。 自分が何を考えていて、何を演出しているのか、私はそんなことに単純に興味がある。 しかし、対人となったときに深層心理が行動として出てしまうのだろう。 踏み込まれたい、くせに、踏み込んでもらっては困る、そんなややこしさなのだと思う。 そのことは、何だか情けなくて、泣きたくなるような気持ちになる。 世間話とかが苦手なタイプには見えないだろうし、事実おそらくそれはない。 どちらかというとそれ自体は得意なのかもしれない。 「自分は真性の変態に憧れがあるけれど、後天的な変態にもなりきれない者と認識しています」とある人が言っていた。 その人のことを私はよく知らないけれど、なるほど、と思った。 それは、私が自分自身に対してまるでそう思うからである。 ここで言う「変態」とは何か、ということはちょっと置いておいて、私が好きな芸術作品というのは、音楽にしても書にしても言葉にしても、「真性の変態に憧れを抱きつつ、それは自分が違う気がするから後天的な変態になろうとして頑張っていたら真性の変態が漏れ出てしまった」という感じがする。 もちろん、受け手側の好みというものがあってこそだけれど、そんな姿というのはたまらなく愛おしい。 それとは別に、各ジャンルにおける様式美への挑戦、というような良さもとても好きだったりするけれど。 あと、「ロックはガキンチョ騙すものなんだよ」と言っていたヒロトの言葉が今はよく分かるような気がしている。 日々のバランスとは大事なもので、当然ながら常にいろんなものに対して自分を推し量りながらやっている。 すべてをいつ何時も開放するなんてことは、この世の誰もができないと思う。 しかしながら、ほんの一瞬であってもタガが外れて”わたし”に出会えたら、そんなときに生きていて良かった、と思うのかもしれない。 とまあこれは言い方次第で小難しい話にもなるし、極めて日常的なくだらないことでもある。 くだらない美しい何かを、きっととっても愛してしまっているのだろうと思う。 軽々しくも、重々しくも、そう思う。 寒いので、先日整理していて見つけたタートルネックを久しぶりに着た。 過去にはよく着ていたけれど、なんだか首が苦しいし、首付近の布が邪魔である。 まさか首太りしたということがある気はしないのだけれど。 ファッションは嫌いではないし服はそれなりに好きだし、もちろん人には良く思われたいというふうにはある程度は思っているけれど、正直なところよく分からないし、燃えるような興味はない。 度の入っていない眼鏡や、日よけや防寒でない帽子、街中のサングラス、肩掛けのカーディガン、飾りのカフス、などに私は立ち向かうほどのファッションへの情熱は持っていない。 いや、肩掛けのカーディガンはやってみたら思いのほか温かかったので、家の中限定ではやる。 現に下着以外何日か同じ服を着ていることもよくあるし、化粧も年々薄くなっていく。 顔がぼやけるから、という理由でアイラインとアイブロウは書くけれど、アイシャドウもグロスもしなくなった。 まつ毛パーマはしたいけれど、もう1年以上やっていない。 コンシーラーもふとしたときに買ったけれど、結局一度も使っていない。 自己演出というのはどちらかというと良いもののように思っているので、したいときにアイシャドウできらきらくらいさせれば良いのだけれど、どこに向けての何なのかということを問ううちに何だか気恥ずかしくなってしまうのだ。 結局自意識は全部自意識だし、跳ね返ってくるそれに自分で理由づけができないと、それをすることが難しくなってしまうというわけだ。 まあ元々面倒で省いていったものなので、日常としては問題はないけれども。 そしてどれもこれも自己演出の域を出ないのではないか、ということにもなってしまうけれど。 さてはて、月がきれいである、とでも言わないと終われなくなってきた。 それもこれも、どうでもいいような、よくないような、いいような、よくないような。 月はたぶん出ていない。 いろいろと物を捨てたので、部屋を少し模様替えする。
部屋の物の配置換えというよりは、クローゼットの中身の移動など。 大きな本棚は移動できるのかしらと思ったけれど、本を入れたままの状態で、床を傷つけずに案外楽に動かすことができた。 スツールを一つ、粗大ごみに出すことにする。 若干割れているピンクのスーツケースを捨てようか迷う。 私は海外旅行かフジロックでも行かない限り、スーツケースなど滅多に使わない。 しかし、例えばフジロックに行くことになったのだとしたら必要になるだろう。 しばらくビニール袋でもかぶせてベランダに追いやっておこう。 壊れかけのPCはどうしようか。 今すぐにでも捨てたいけれど、iTunesはあのPCにしか入っていないから、でも、iPhoneには全部入っているし、それは問題があるのだろうか、ないのだろうか。 iTunesでない音楽データを、iPhoneからWindowsPCへ直接移行はできないと聞いたことがあるような、ないような。 もしかするとMacのPCを買えば良いのかもしれないし、良くないのかもしれないけれど、しばらく新しいPCを買う予定はないし、なんとなく私はMacを利用することへの自分へのスノッブ感を拭えないので、もし買うとしてもWindows製品を買うだろう。 外付けのハードディスクも持っているけれど、いまいち本当に音楽データが大丈夫なのか信頼が置けない。 いや、本当に信頼が置けないのは、私のこういったことの知識と技術だけれども。 こういうのは詳しそうな人に指示を仰ぐのが一番である。 ところでスーツケースの中に使っていない壊れかけだけれどまだ用のあるPCを入れて、ベランダに置いておくのは問題があるのだろうか、ないのだろうか。 湿度や気温で、本当にイカれてしまうだろうか。 機械系のことを考えると、まともに思考が働かないのはいつものことだ。 とにかく、リビングの方の物を極力減らしたい。 ごちゃごちゃしているものは、ごちゃごちゃしているスペースにまとめたい。 そんなつもりで今回の模様替えをしたけれど、その良し悪しは少し暮らしてみないと分からないだろう。 ポイントは、使い勝手の合理性と、見た目と動線のスッキリ感、だ。 60×140くらいの引き出しかラックが付いているようなテーブルが欲しい。 市田柿ショコラとかロイズのコーヒーチョコレートとか穂村弘さんの本とか絶妙系のピンクのポーチとか新年句会一等賞の「開運」の日本酒とかセブンイレブンのチョコレートケーキとかいきなりのシャンパンとか、なんだか色々いただいてしまった。
誕生日が句会で、そしてふらり飲みに行って良かった。 市田柿ショコラをいただくと、むぎゅっとした干し柿の中にぐにゅっとしたホワイトチョコレートが入っているという贅沢なつくりのお菓子で、一個を食べることがとっても満足な一品だった。 これはおいしい!と買ってくれた方は食べたことがないだろうことは想像がついたので、逆に、おすすめです!とメッセージを送る。 句会の後、友人と、時間にしてみれば短い数十分、コーヒー一杯でたくさんでたくさんの言葉を詰め込んで、話をする。 二人とも不完全燃焼気味ではあったものの、ちょっとした踏み込んだ話というのは難しくて興味深い。 言葉がなくては、会話がなくては、お喋りがなくては、それがなくても好きなものも確かにあるけれど、それは本当に大好きなのだ。 延長自我の合流地点、のような話が生まれることがあるのならば、それは脳内麻薬に近いようなことだ。 運動会か部活の試合を終えたかのような心地よい疲労感。 句会はもう何回も出ているけれど、毎度まいど、緊張することを止められない。 誕生日に、誕生日という気遣いなく一等賞を獲れたのは、とっても嬉しい誕生日プレゼントとなった。 俳句でなくとも、私は自分の言葉を褒められることに最上級の嬉しさを覚える。 面白い、と言われたい、けれど、ちゃんと面白い、と言われたい。 今思うに、誕生日にひとりで飲みに行くなど、一抹でない寂しさを覚えそうなものでもあるけれど、そういう発想も気負いもないくらいに気軽な場所ができて、それはもう幸いだ。 要は自分が暇なときに、心寂しいときに、それを自ら埋めることができるのは健康的である。 私は博愛主義でもなんでもないので、その場所というのは、どうしようにも選んでしまう。 好みだって相性だってある。 それは自分にも、相手にも。 年賀状はいよいよ2枚しか届かなくなった私だけれど、お誕生日のお祝いメッセージは案外いろいろな方からいただいた。 心がきゅっとする。 ももいろクローバーZのライブ映像を見ながら、というか流し聞きながら猛烈に掃除をする。 水拭きをすると足触りが変わるからやってみて!と結構人におすすめしているのだけれど、その後水拭きして良かったという話を誰からも聞かない。 久しぶりにお味噌汁を作る。
私はNHKの「きょうの料理」が好きでだいたい録画して流し見ているのだけれど、そこでやっていた料理を作ったり、何かポイントを自分で作るものに反映することはほとんどない。 ただお味噌汁を作るときだけに、一本の唐辛子をまるのまま入れると味が締まる、というのを見て、実際にやってみたところ本当に味が締まっているように思えて、それ以来お味噌汁には一本の唐辛子を入れることにしている。 私が自分のために作る料理について新しく採れる面倒とは本当にそれくらいなものである。 ついでにパックごと落としてヒビが入ってしまった卵も使ってしまわないといけなかったので、買ってきた葱と豆腐と一緒に炒める。 材料を炒めているときにいまいち自分が何を目指して作っているのかが判然としない。 何となく、オリーブオイルで炒め始めたけれど、葱の青さと豆腐のぽろぽろした感じに中華系の雰囲気がしたのでウェイパーと醤油で味付けすることにする。 あと年末にお持たせで買ったほうれん草とにんじんのテリーヌなんてものを、食べずに持って帰ってきてしまって、そして今賞味期限が1日過ぎていたので切り分ける。 これも久しぶりに、ご飯を炊いた。 いつかに買った5キロのお米がようやくなくなった。 このお米はいったいいつからあったのだろうか、半年前くらいな気もするし、一年前くらいな気もする。 私にしてはとても頑張ってごはんを作った気がしたけれど、黒いトレンチにできたものを並べてみると随分と簡素な感じした。 味としてはどれも、ストライクゾーンには入っているけれど、局所を射抜かれている気はしないものだった。 割と自分で作るものに自分として信頼を置いているけれど、今日の料理はちょっとした切なさがあった。 肉が入っていなかったからだ、ということのような気はする。 焼肉とか好きではないし、ステーキ肉も苦手だし、肉食というほど肉食ではないけれど、私は“肉の力”を信じている。 やっぱり肉が入っていればある程度なんだって美味しいさ、と思う。 眠たくて眠たくて、ごはんを食べ終えて、録画してあった「きょうの料理」を見ながら寝てしまう。 足が寒かったり、首が痛かったり、テレビがうるさかったり、ときどき起きるのだけれど起きられない。 ベッドは2m先にあって、本気で寝ればいいだけのことなのだけれど、それができない。 寝ている座椅子をもっと倒したり、手元にあるリモコンでテレビを消せばいいだけのことだけれど、それができない。 こたつやホットカーペットなんてあれば、1週間とか連続でそこで夜を明かしてしまうのでそれらを持たないようにしているのに、そうでなくてもそんな寝方を繰り返してしまう。 これは、今私はお風呂はほとんど朝だけれど、昔お風呂に入らなければベッドに入ってはならない、とベッドを神聖な場所と取り扱っていたことに起因するような気がする。 部屋着のままベッドに上がることなど、自分も他人も許せなかったし、その辺で使っているクッションをベッドに上げることさえも抵抗があった。 今はそんな頑ななマイルールからはほぼ解かれている。 ということは、単に眠いときには不快な状況から逃れられる状況があったとしても動けない、だけのことか。 今日は誕生日だ。 31歳、というのは、幼い頃や小さな姪にとってはただのおばさんだと思う。 しかし現代的に言って、そして職業的に言って、なんだかまだまだ年齢としてもひよっこな感じがする。 「年なんて関係ねえ。真島37年だ」と言ったらしい、いつかにマーシーbotから拾った言葉を思い出す。 そしてまた、プールに行く。
行こう行こうと思って、1か月くらい経って行った。 仕事と仕事の合間に。 平日16時のプールは、それでも空いてる!というほどではなく、でも1レーンに人が4人ほどでとても快適に泳げる。 この時間帯はさすがに年配の女性が多い。 地方のプール事情がどうかわからないけれど、東京のプールの更衣室の方が皆身体的に開けっぴろげな感じがする。 よく言われるように、地域における“人とのつながり”が希薄であるから、他人にどう思われても良く、恥じらいというものも薄れてしまうのかもしれないし、あるいは、身体に対する価値観や考え方が違うのかもしれない。 そのくらい皆堂々と着替えをしたりしている。 私はとりあえず合理的にいきたいので、私も便乗して堂々とする。 今日も700mほどを泳ぐ。 服を着替えると、身体が芯からじんわり温かいのを感じる。 それは結構長持ちして、その後の仕事でも少しふわふわとしていた。 何だか最近、毎晩お酒を飲んでいる。 ひとりで家では飲むことも、月1回くらいから、月3回くらいに増えた。 まあでもひとりで飲んでいるときは全然量は飲まない。 ビールなら350ml缶1本で十分である。 昔、私はお酒に弱いフリをしていた。 それは自覚的にではなく、自分でそのようなキャラクターを設定していた。 おそらく、お酒なんて楽しくない、もしくは酔っ払うのは怖い、そんな感じだったのだろうと思う。 自分が外界からの影響でバグを起こすことが怖かったのだと思う。 飲んでも2、3杯で、その頃はたくさん飲みたいとも思ってはいなかった。 もちろん2、3杯でも酔っ払うので、それはそれで満たされていた。 だから自分のお酒の限界なんて知らなかったし、知りたいとも思ったことがなかった。 今でも酔っ払い始めた感覚というのは2、3杯だけれど、その後結構な量が飲める。 総量として、体調にもよるけれど、ワインでいえばおそらく1本分くらいはいける。 大酒飲みだった父のようではないにせよ、割に強い方なのかもしれない。 あとはほとんど精神力の問題のようにも思う。 ひとりで飲んでいるときに量を飲めないのは、気を張っていなければお酒が軽くまわり始めた時点で眠くなってしまって寝てしまうのもつまりはそういうことだと思う。 精神力は他者に向けて保たれている。 この論理展開だと自分が精神力が強いということになってしまうけれど、単に思考がしつこい傾向がある、とも言える。 あと、これは今の私のスタンスとして、酒の場というのはコミュニケーションの場なので、アルコール許容量の限度はあれ、精神力を以てして臨みたいと思っている節がある。 お酒は、一緒に飲む人と楽しく飲みたい。 私は誰かと話すことが好きなので、とにかく楽しい話や面白い話、別に話題の明暗は問わない、がしたい。 ヘベレケになって訳が分からなくなってしまったら何だかもったいない気すらしてしまう。 それに、本当にヘベレケになる前に気分が悪くなってしまうので、ヘベレケにはなれないのだけれど。 心ゆくまで飲んで、心ゆくまで話す。 お酒の自制ではなくて、ええかっこしいの自分の自制を外したい。 相手がどうかはわからないけれど、私はそんなことが少しでもできた日はとても幸せだ。 いやしかし、二日酔いは辛い。 二日酔いは嫌いだ。 そして、木瓜の花が咲いた。
清廉なピンク色は冬の水色の空によく映える。 暖かい部屋だとすぐに花が咲いてしまうので長く楽しみたい場合は外に置いてください、と花屋さんに言われたのでベランダに出しておいたけれど、この調子でいくと次々に蕾が開いてしまいそうだ。 今日は冬らしい寒さだけれど。 でも、芽吹くことも、茂ることも、落葉することも、そんな植物の移ろいが好きなので、枯れて死んでしまわない限りは楽しんでいられそうだ。 デヴィットボウイが死んだというニュースを見て、デヴィットボウイの曲のいくつかをきっかけに久しぶりにYouTubeサーフィンをする。 クロームキャストの機嫌を取りながら、気になっていたあれこれとか、昔、と言ってもここ3,4年よく見た動画を巡る。 デヴィットボウイは何やら有名らしいと3,4年前に知って、とりあえずベストアルバム2枚を借りてはいたので知っているけれど、熱い気持ちで聴いたことも、もっと言えばちゃんとは聞いたことがなかったかもしれない。 そんなアルバムが、実は山のように私のiTunesには入っている。 最近音楽方面ではなくても話題のゲスの極み乙女。を初めてちゃんと聴いてみる。 彼らの音楽は、演奏能力の高さとか演出の洗練さになんだか詞の良さが隠れてしまっているような気がする。 曲もいいけれど、歌詞がすごくいい。 ついでに、兄と音楽の話などしたことはほぼないけれど、最近兄が好きだと聞いた9mm Parabellum Bulletも聴いてみる。 何が、ふむ、という感じなのか上手く言えないけれど、ふむ、という感じで通り過ぎる。 今の私には断然にゲスの極み乙女。である。 そしてまたついでに、立てかけっぱなしになっていたキーボードを引っ張り出す。 お正月に実家のピアノを触っていたのでその延長で。 昔発表会で弾いた曲などももうすでに1曲も通して引けはしないけれど、知っている曲で簡単なメロディとコードであればがたがたに弾くことはできる。 幼い頃全然さっぱりピアノなど真面目にやってなかったけれど、ピアノを習うのをやめた小学校6年を過ぎてから数年後、コードに興味を持ったことがあって、CやDmやE7などのオーソドックスなコードは、ギターを習う前から構成音として何となく知っていた。 お正月にけいこの耳の範囲で弾いていると、「コードのルート音を基準にして単に弾けばいいということじゃなくて、コードの移り変わりを考えんといかん」と遠くから言われた。 ちょっと前なら、???となったところだけど、今はその意味だけはわかる。 そのために自在に展開させることは難しいけれど。 でも、その意味がピンときて、ちょっとしたその展開をできる範囲でやってみると、確かに・・と思ったので嬉しくなる。 音楽は、もう本当に何がどうなってみんなあんなふうにやっているのかが皆目見当もつかず、超人のみがやるものと思っていたので、このようなその仕組みのほんの些細な一部を知れることは私にとっては大した喜びなのだ。 そういう意味で、コード、という和音の持つ世界観というのは私にとって本当に魅力的に思える。 メロディだけではアカペラになってしまうところを、コードがあれば曲になる。 音楽が鳴っている、そんな感じになる。 音楽をやっている人からすれば何をそんなこと、ということだと思うけれど、私はだからギターの簡単なコードは弾けるようになったし、それはとてもとても画期的な出来事だった。 もっと言うと、3,4回やったことあるスタジオでのバンド演奏、と言っても聞けたものではないものだけれど、ではドラムも入ってベースも弾いてもらったりして、あら!こんなことが!今ここで!と思ったものだ。 けいこは、音楽ができる。 特にフォークやジャズやポップが好きで、その類の楽譜をたくさん持っているし、何でもすぐに様になるように弾けてしまう。 だいたいの音楽理論は分かるようだし、人前で弾くのも全然厭わない。 私はあまりにも音楽に対して、巨像、虚像を自分で描いてしまっているのだけれど、すべて棚卸しして膨大な努力を積み重ねれば私にも取り扱うことができるようになるのだろうか。 そもそもそこまでの飽くなき努力を私は音楽に対してできるのだろうか。 けいこの楽譜の中からよく弾いていた「いとしのエリー」「I LOVE YOU」「乾杯」「赤いスイートピー」。 「I LOVE YOU」と「乾杯」のコード進行をネットから拾ってみるけれど、メロディの音符が載っていない。 ピアノの場合は、コードと一緒にメロディも弾かないと手が余ってしまうやり方しか分からない。 ちなみにギターもメロディとコードを同時に弾くことはできるのだろうけれど、難易度が全然違う。 引っ越して2カ月強が経過して、だんだんとこの部屋に必要のないものがわかってきた。 恐ろしく寒かった前の部屋で使っていた電気毛布とか分厚いルームシューズとか、そんなものを捨てる。 ついでにこんまりさん風に言うところの“キュンとしない”服やストールも幾つか捨てる。 久しぶりに45Lのゴミ袋いっぱいに部屋から物が減り、なんだか気分が良い。 ボケ、という植物を買った。
ぼけ、木瓜、バラ科ボケ属、果実が瓜に似ていることからこの漢字が当てられたらしい。 梅の花に似ているので梅と同属かと思っていた。 花屋さんは元旦までやっていたところが多く、年始の始動はゆっくりのようだ。 キャビンアテンダントの職業イメージが華やかである一方、重労働が多い大変な仕事である点において、花屋の店員にも同様のことが言えると思う。 私の知っている花屋の店員さんは総じて可愛らしい女性が多くて、にこやかで優しいけれど、大量の草花の管理は間違いなく重労働であるし、冬の凍てつく水や、植物の棘に攻撃されていることだってあるだろう。 今はどうか知らないけれど、私が幼かった頃の「大きくなったら何になるの?」というよくある質問は、「スチュワーデス」や「花屋さん」というのが多かったような気がする。 私は幼心になりたいものってなんだと思いながら、全然そんなつもりはなかったけれど、至極適当に、「花屋さん」と答えたことがある。 何にせよ、職業イメージの華やかさのみでキャビンアテンダントも花屋さんも務まらない。 いつもの花屋さんはいつもよりも品ぞろえが寂しかったのだけれど、何か植物が欲しかった。 そこで目に留まったのがたくさんの蕾を付けていくつかちらほら花を咲かせている木瓜だった。 木ものを買うのは初めてである。 黄緑色の小さくて硬い蕾はなんとも可愛らしくて、ほんの少しピンク色をちらりのぞかせている。 つぼみは愉しみ、と今でも象徴的な意味で思っている。 つぼみのままでは、とも思っている。 ベランダにいるブルーデイジーの隣りに。 葉っぱよりも、茎よりも、木や枝にはどくどくと血が動いている感じがする。 鶏もも肉をまるのまま鍋に入れて熱し、白菜をざくざくっと切ってじゃっと洗って放り込み、えのきのいしずきを落としてほぐしてばらばら、ほんだしをざざざ、酒をどばっと、醤油をぶちゅーっと回し入れ、みりんをたらり。
鶏肉に火が入ったら一旦取り出して、ぶつ切りにして、ぐつぐつことことしばらく煮たら味見して、塩をぱらぱらっと入れて調整したら出来上がり。 すぐには食べずに数時間から半日くらい寝かせる。 葱やにんじんを入れても良いけれど、あれば入れてしまうけれど、葱は葱くさくなってしまうし、にんじんは歯ごたえとしての主張がいささか強すぎる。 玉ねぎは甘味を広めるし、独特の風味の支配力が強いので、入れるならベースを和風だしにせずにコンソメなどでいきたい。 えのきとしめじは良いけれど、椎茸は椎茸くさくなってしまうし、舞茸は色が出て全体の味に影響を及ぼしてしまう。 今日入れなかったもので、この白菜の煮物に追加して更なる美味しさを持ってくれるのは、油揚げと豆腐くらいだろうか。 醤油の代わりに白味噌でも良い。 年末年始、食べ過ぎた、ということもそんなにないけれど、家で自分で作って食べることが少なかったので、そんなものがとても恋しくなった。 自分で作ったこういうごった煮が本当に心底落ち着く。 ひと口で脳を虜にしてしまうような鮮烈な味のパンチ力なんてなくて良い。 何やってもこれになっちゃう、そんなのが居所であることを、毎度自分のごった煮で確認する。 今では自分で作る赤だしのお味噌汁よりも、白菜の煮物の方が私にとってのソウルフードかもしれない。 肉類は、鶏肉でなくても、シーチキンでもいける。 その場合は、ノンオイルではなく、きちんと油漬けのものを使いたい。 まあでも、ジェノベーゼパスタが食べたかったり、天ぷらうどんが食べたかったり、ココナッツカレーが食べたかったり、ビーフストロガノフが食べたかったり、チキンカチャトラが食べたかったりも、もちろん、もちろんするけれど。 これは、そりゃあいつもと同じでは飽きるし色んなもの食べたいよね、という単純な欲求と、いつもと同じ私では拡がりがない留まっている場合ではないのだ、という何だか啓発混じりの観念も混ざっている。 日常から私は、ホメオスタシス、ということにだいぶ悩まされているような気がする。 既知の安心や安全を心地よく思う心があって、と言ってもそれも簡単に満たされるようなものでもなくて、一方で未知への冒険に、これは意志として、重きを置きたくて。 安心や安全はいつだって欲しいけれど、その安心や安全が外側にも内側にも常に揺らぎの中に存在することを一応分かっているので、目眩ましでないそれを常に追い求めるしかないわけで。 ちなみに、ビーフストロガノフやチキンカチャトラ、は数年前何かの料理本で見かけて私の中のお家おしゃれ料理の代名詞のようになっている。 作ったことはないし、当面作る気も起こらないだろうけれど。 コーヒーや緑茶とチーズが合う。 特にカマンベールやブリ―などの白カビタイプのもの。 苦味がまろっとなって、風味良好。 ゴルゴンゾーラのような青かびがピリッとするものや、ミモレットやコンテなどのハード系チーズはアミノ酸による旨味が強すぎる。 要は、お茶類の苦味は乳成分の何か“乳”の部分と相性が良いのだろう。 ただ私は通常におつまみとして食べるのであれば、がりがりするくらいのハードチーズが好きだ。 三が日を終えて、つるりと仕事が始まった。 去年一年でおかげさまで生徒さんはとても増えて、色んな職業や色んな立場の人と会うことができて、色んな話を聞けるのでとても楽しい。 自分が基点となって人に出会えるということはこれまでの私では考えられなかったし、私にとって良い自信になったと思う。 素直にとても嬉しいことだ。 正月休みに夜な夜な俳句を作っていたけれど、未だ句会に出す感じのものができない。 京都に行って、お寺や市内を観光することも一切なく、友人の家で紅白を見て、喋って、喋って、年が明けた。
あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 京都から実家に帰り、先ほど夜遅く、東京に豪速で戻って来た。 そんなに長い滞在でなくても、東京に戻ってくると、本当にいつも、いつも、ほっとして心が浮かれる。 まだ静かな東京の街中を自転車で走るのは、何だかもう深呼吸して叫びたいくらいの自由度を感じてしまう。 実際、叫びはしないけれど深呼吸はもう、大きく繰り返す。 別に特筆すべき抑圧のある家庭ではなかったのだけれども。 未だある少しの郷愁を携えてはいるものの、3が日で染み付いた方言も、何のことはなく封印されるだろう。 けいこは私が実家に帰るとき、「何時に帰ってくるの?」と数日前から頻繁に聞いてくるくせに、全くもって迎えに来てはくれないし、ちょっとしたおもてなし料理やお菓子などが何もないのはお正月でも何でもいつものことだ。 私をいもうととその子どもたちと同じ部屋で寝かせたのは、単にひとりで寝たかったのだろう。 下着が置きっぱなしだとメールがきたのでできれば送ってほしいと言うと、返信が途絶えた。 親戚の集まりに行くと、私が幼かった頃のように、各家族が総出で集まるということはなくて面子はここ数年ほとんど変わらないけれど、小さな子どもが2人や3人、また数を増やしていた。 ああいった場において小さな子どもたちを中心に時間が回っていてくれるのは、私としては楽なこともある。 動き盛りの3歳児はモンスターのごとく走り回り、寝ている私を踏みつけて起こしに来たり、お風呂やトイレの扉を開けられたり電気を消されたり、まるで起きているかのような鮮明な寝言を大声で言ったり、電気の紐を引っ張ると言って15キロの体を幾度となく抱っこを強要されたり、本当に大変である。 おばさんの私としては、睡眠の邪魔となるいたずらはいかなるものもやめてほしいけれど、その他いたずらや遊びに付き合うのはまあ日常ではないのでいいか、と思う。 あと私は、所謂「注目行動」と呼ばれる以外の子どもの無垢な行動を常にキャッチしたいと思っているのだけれど、そんなに見られるものではないのか、私の視線が穿っているのか、遊び方が足りないのか、それはあまり見つけることができない。 つい先日会った4か月の姪が、抱っこしてうずもれていると何かに似ているとしばし考えていたのだけれど、ちょうど角煮まんのようだ。 ほっぺが落ちそうになっていたり、むっちりの体が折りたたまれているその様が何とも角煮まんなのである。 毛がうすうすでふっくらしっとりつるつるでかわいい。 地元の友人と飲みに出かけ、割に量を飲んで、ひどく酔っぱらって終電に乗った。 最寄駅で降りて、バッグを持っていなかった私は「ん、財布とケイタイ・・」と思ってポケットに手を突っ込んで確認しないままに、「車内に置いてきてしまったかな」と、なぜか、本当になぜか、再度電車にひょいと飛び乗ってしまった。 その瞬間に扉はプシュウと締まった。 財布とケイタイはきちんとポケットの中にあったし、一応下りる前に何か落し物忘れ物はないかと座席を一瞥はしている。 まあでも、財布さえあればタクシーで帰れるか、と、なぜか電車に軽やかに戻ってしまった自分を責めるのはやめた。 次の駅で降りると、客もいなければ駅員もいない。 駅周辺は真っ暗極まりない。 小さなロータリーはあったけれど普通車は一台もなく、タクシーなどいるはずもない。 大通りに出て眺めてみるけれど、ちらほら車が通るだけで、タクシーなど一台も通りかからない。 お金があってもどうにもならない、ということはこの世の中にいろいろとあると思うけれど、あぁお金があってもどうにもならない・・・と痛切に思い知らされた。 仕方がないので夜道を一駅25分ほどを歩いて帰る。 大通りだから真っ暗ということもないけれど、少し遠くを見遣ると息を飲むような漆黒の夜が広がっていた。 その漆黒さは冷たくて怖くて、でも酔っているのも手伝って少しの高揚感をもたらした。 田舎の夜、というのは、都会の夜、とは明らかな異質感がある。 夜の漆黒さは、街自体が寝静まることによって生まれるものなのかもしれない。 おばさん寝ないで、と言った先日の姪の言葉は、きっと切実だったのだと思う。 エアロスミスもヴァンヘイレンもクイーンもディープパープルもガンズアンドローゼズもニルヴァーナもレニークラヴィッツもメタリカもエーシーディーシーも、私にとってはどれも全くもって懐メロではない。
年代的に言えば、オアシスだってブラーだってレディオヘッドだって、全然懐メロなんかではない。 といっても、これらが恐ろしく今の私を揺さぶるかと言うとそういうことではないけれども、ロックミュージックはとてもとても好きだ。 所謂ハードロックやメタルと呼ばれるジャンルはどんぴしゃという感じで聞いたことはないけれども、でもとても好きだ。 ちなみに、「懐メロ」というのを私は長らく「夏メロ」だと勘違いしていて、Tubeが歌うような、夏にヒットする海ソング、だと思い込んでいた。 ある人に、「最近ゴダイゴの曲がすごい好きなんです」といったら、「お前ナツメロばっかだな。ま、いいけど」と言われたことがあって、ゴダイゴって夏のバンドなのか、と一人腑に落ちない思いをした。 ほとんどのロックバンド名さえもほとんどここ3,4年で知ったものばかりで、私が突然ロックというか音楽を聴くようになって、そこから年代ばらばらに漁りまくって知った。 手当り次第と言えどそ漁りの主軸となった、曲入りでもらったひとつのiPodがあって、そこからランダムに流れる曲たちの中から自分の頭が引っ張られるものを、おそらく当時の中高生がそうであったように、ロックやらパンクやらの音楽経験を彼らに近しいメンタリティで拾い集めていった感じだった。 ただ今でも、どの曲がどの年代のもので、どの曲が有名でセンセーショナルだったかなどはあまり分かっていない。 あのときの本物の彼ら、を見ることは叶わないけれど、結局私は生で音楽が鳴っていることそれ自体がどんな種類の音楽であっても結構興味があるし、それに、多くの人が懐メロと呼ぶようなかつてのヒット曲は、どの曲だってその曲のフレームが強固なので聞いていて楽しいに決まっている。 コピーバンドの彼らが演奏する、彼らのそれら、も楽しい。 ロックミュージックのライブ経験の少ない私としては、よくやられるパフォーマンス、ボーカルとギターが背中合わせで歌ったり、アンプに登ってギターを演奏したり、ギターを持ち上げて弾いたり、そんなことが見られるだけでもエンターテイメント的に楽しくてたまらない。 ギターが前に飛び出してくるとき、そりゃあギターのシールドに引っかからないようにしないといけないよなあ、なんて無粋なことを考えながら、私がリクエストした「Don't look back in anger」でつい泣きそうになっていたりした。 と、まあ、そんなライブハウスに行って、とても良い夜だった。 自分にとっての麻酔のようにも思いつつ、音楽って楽しいよね、となんだか本気で言いたくなった。 一緒に行った人に、大音響の中で、ノリがジャズだね、と言われた気がしたけれど、どういうことなのだろうか。 確かに少ないライブ体験も、ロックよりジャズの方が多いようにも思うけれども。 さて、いよいよ年の瀬である。 甥と姪にあげるお年玉をあげようと薄々考えていたけれども、自覚的に薄々だったので全然何も用意できていない。 本年、お世話になりました皆さま、本当にどうもありがとうございました。 来年も引き続きどうぞよろしくお願いいたします。 良いお年をお迎えくださいませ。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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