お字書き道TALKSの新しい動画が公開された。
保育園の休園騒動でタナカ氏との撮影が行えず、急遽ひらがなの書き音をすべて納めるというプランに変更となった。 このプランは前々からやるつもりではあったので、機材などは全てそろえていた。 ASMRと名乗りたいのもあり、きちんと録音できるタスカムというメーカーのレコーダーも買った。 何事もそうだし、いつも新しいことを始めるたびに思うのだが、世に出すそれなりのものを仕立てる、ということの何と難しいことか。 試作段階のボツ作をどれほど出せば良いのか。 また新しいことに付随する技術の獲得の必須である。 今回で言えば、まずマジックで文字を書くことが結構難しかった。 しかし筆では思うような音が出ないし、実際にひらがなは音で覚えるととても効果的であると思っているので、音は大事にしたい。 まあでもこれは慣れたと言えばすぐに慣れた。 次は編集である。 いつもの動画編集はタナカ氏がやってくれているが、今回は今後のことも踏まえて私がやることになった。 動画の編集はスマホレベルでもやったことがなく、すべてが未知であった。 動画素材と音声素材を合わせて、サムネイルを作り、音量などを調整する。 難しい編集はしていないが、それでも初めての私にはとても骨が折れたし、そもそも素養が全くないために編集時のトラブルに対処が上手くいかず、本当にストレスがかかった。 動画を編集するには性能の悪いだったこともある。 まあでも何より締め切りまでの時間が足りなさ過ぎたこと。 子ども×仕事、というのは実に相性が悪いこと。 仕方がないのだけれど、これが一番の苦労だった。 仕方がないので、ひと晩は徹夜することになった。 いや、愚痴など言っても別に何にもならないのは分かっているが、何だか本当に大変だった。 しかしながら大変だった動画を息子に見せると結構喜ぶ。 彼は2歳にしてほとんどのひらがなが読めるようになったので、面白いのだと思う。 そんなこんなで、とても一生懸命作りました。 大人も子どもも楽しんでいただけるのではと思います。 ぜひご覧いただけると幸いです。 ひらがなASMR "あ~ん" 全46文字【おとなと子ども向け】 / Hiragana ASMR [for Adult and Kids] https://www.youtube.com/watch?v=vAjmkY2a3rE&list=PLn-7ce-n7qTL-Klvox6krEeggXOu5YZ6S
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ついに触れられるところまでやってきた新型コロナウイルス。
息子の通う小さな保育園は小さなクラスターを起こし、あえなく休園となった。 10日間ほどの休園期間、ようやく後半戦といったところである。 先週息子ももれなく発熱し、戦々恐々と小児科に向かった。 すぐに検査が出る抗原検査をまずしましょうということで、一回目の鼻に綿棒を突っ込まれて陰性。 保育園からはPCRをしてくださいと言われていたので、そのまま二回目の綿棒を突っ込まれて検査に出してもらう。 PCR検査は唾液でもできるのだが、幼児に適量の唾液を指定の場所に出せと言っても到底無理なので、やはり鼻に綿棒の方法にならざるを得ない。 もちろん、ぎゃんぎゃんに抵抗する。 かわいそうだけれど、羽交い絞めにするしかない。 小児科の先生は一日では結果は出ないかもしれないと仰っていたが、翌日の夕方に「結果がまだ出ていませんのでもう少しお待ちください」という電話をわざわざくださった。 再検査に出している可能性があるとのことで、再検査となると、ウイルスをさらに倍々にして検査をするとか。 この時点では陽性である可能性は五分かなと思い、腹をくくる準備をしていた。 そのまた翌日は小児科は休診日だったのだが、朝の7時半くらいに再び電話が鳴った。 先生は朝早くに出勤して、結果を確認して皆に電話をかけているらしかった。 結果は、陰性だった。 このときには息子の熱はすっかり下がり、ほとんど元気を取り戻していた。 抗原検査もPCR検査も陰性で、本人も回復しているということなので問題ないと思います、とのこと。 良かった、 本当に良かった。 がしかし、元気になった子とともに保育園なしで過ごさねばならぬ。 大変だ。 そう思って、一日一日を日々乗り切って、今に至る。 いつも遅寝の息子だが、この生活になってから遅寝+昼寝三時間というサイクルが定着しつつあって何だかこちらが悪いことをしている気分である。 午後から散歩に出ることが多く、公園のすべり台は?と聞いても「いらない」と言われるので、毎日ご所望のエレベーターと電車に乗りに行く。 降りた駅の近くのフレッシュネスバーガーで「ハンバーガー食べる」というものだから試しに入ってみると、ハンバーガーは食べなかったがポテトは食べて、なんと息子と二人でお茶をしている図に私は少し感動した。 息子もフレッシュネスバーガーを気に入ったらしく、ここ数日で3回も行っている。 これまではスマホ動画なしに店で食事をすることが考えられなかったので、とても成長を感じている。 しかし2歳児とのお出かけはほのぼのばかりで終わるなんてことは到底なく、エレベーターを何度も乗りたがったり、コンビニの商品を落としたりするのを止めて大激怒される。 床に寝そべってストライキを起こし、時に恐ろしい声で泣く。 どろどろに汚い暴れる息子を抱き上げて歩き始めると、そのうちに寝てしまう。 お母さんの胸の中でおやすみ、なんて悠長なことを言えれば良いが、眠くなった彼は12キロの体重を全部私に預け脱力する。 ここ3日間は過酷な息子運びを連続して行っている。 とても疲れてしまって、息子に優しくできず怒ってしまうこともしばしばである。 その罪悪感にもまたしばしば駆られるのだが、それも互いの機嫌ですぐにかき消されてしまう。 子どもと接しているときの感情は、アップダウンがとても激しい。 アップの状態のときにダウンの状態を適切に思い出すことが困難なので、ダウン時の対策をなかなか練ることが出来ない。 よく言われることだが、子育てにはたくさんの大人の目が必要だと思う。 核家族が増え、コロナ禍で集まることが難しいこの時代において、「ママは休んでいい、家族やベビーシッターさんなどにお願いしよう」という情報をよく見かけるが、家族に預けられない場合、他の選択肢として専門家にお金を払うという方法しかないのが問題のように思う。 もちろんその方法はあって良いし、寧ろもっと使われるべきだとも思うけれど。 その他にもっと気軽に子どもを見る目が増えないものか。 今18:16なのだが、17時頃に寝始めた息子は、一体いつ起きるのだろうか。 何年ぶりだろうか。
とりあえず隔週の短期講座だが、かな書道を習うことにした。 YouTubeチャンネルのお字書き道TALKSでかな文字を取り上げたこともあり、今まで何年もの間やろうやろうと思っていた時が今だと思い申し込んだ次第である。 先生はInstagramでたくさん投稿をされていて、前々から美しいかな文字だなと思っていた方。 また100均の折り紙などに書いていたり、それほどまでに紙などにこだわる先生ではなさそうな感じだったのも決め手になった。 先生によっては、道具一式指定されることもあるだろうし、折り紙に書くなど言語道断だという人だっている世界である。 その方の講座が自宅の比較的近い場所であるというものだから、早速Instagramのダイレクトメールを利用してご連絡を差し上げた。 会派などは関係なく、かな初心者でも大丈夫ですよ、とのこと。 書道の世界においてかな書道というのは少し独特なものである。 かな書道のみをやっている人も少なくない。 一般的に和歌を書く、流麗で優美な書を思い浮かべてもらえば良い。 「継色紙」「寸松庵色紙」などと平安時代の最高峰の作品を検索すれば画像もたくさん出てくる。 現代のひらがなをくずした文字と変体仮名、漢字の草書体を組み合わせて紙面を作っていく。 紙の右上から書き始めるのではなく、中途半端なところからスタートし、行頭を揃えないように書き進んでいく、散らし書きとも言う、のが一般的である。 先生はこれを「景色を作る」とおっしゃった。 ざっくりとした内容は知ってはいたが、実際に書いてみたり、そのポイントなどを聞くのも初めてである。 まず紙は、料紙や新料紙を使う。 これらは色や模様が入っているが、料紙は紙に直接模様をつけたもの、新料紙はその模様を印刷したもの、ということらしい。 言わずもがな、新料紙の方が安価である。 ちなみに料紙は高価なもので半紙半分ほどのサイズのものが1枚2000円とか3000円もするらしい。 かな書道の料紙や新料紙は基本的にはにじまない。 その中でいかに濃淡、潤滑を作っていくか。 筆はかな用のものを先生から一本購入した。 ピンキリだが、1500円前後で良いものはたくさんあるとのこと。 しかし驚愕だったのは、1日例えば7時間くらい書いたとすると3日でだめになるらしい。 一般的にかな書道の先生は、1週間程で変えるか、3本を使いまわして1か月くらいで交換するか、というペースのようだ。 まあでも四六時中かな書道に身を置くのでなければ、3本使いまわしで1年くらいで良いですよとのこと。 とにかく筆は消耗品だということである。 今日は初心者の線の練習と「いろはにほへとちりぬるを」を書いた。 また驚いたのは、思い通りの濃淡が出るように、一字書く中で付きすぎている墨を拭って良いことである。 例えば「ろ」の横から斜めに行く前に一旦筆を紙から離し、別の紙で墨を落として、先ほどの横画に戻って斜めの線に行く。 そんなことをどこの箇所でやっても良いと言うことだった。 なるほど、この世界は、完成形のイメージがすでに上がっているのである。 そのための下書きも緻密なものが存在する。 どんな変体仮名を使うかや、改行などのレイアウトはもちろん、墨継ぎの位置も完全に細かく決める。 ちなみに、変体仮名や改行や墨継ぎは書かれる文章と全く切り離されて、景色のためだけに決定される。 目指すは完璧に美しい景色の書である。 もちろん書き進めるうちの臨機応変はあれど、完成形イメージを的確にトレースする力が必要ということになる。 書いているうちのラッキーはあまり存在しづらく、技術に裏打ちされた練度がものを言う。 音楽で言うと、ジャズではなくクラシックだろうか。 ジャズ的書ばかりやってきた私にとっては、何とも新鮮な世界である。 先生のお手本を見ながら「いろはにほへと」を真剣に書く。 ちなみにかな書道というのは、さらさらと流れていくので、スピードが速いと思われがちだが、実際にはものすごくゆっくりである。 3,4枚書くだけでも結構時間がかかる。 一応私も講師をやっている立場なので、良い字を書かねば!と気負っていたが、途中からかな文字を書く楽しさに乗っかることができた。 先生にも「初めてとは思えない」と言われたが、私は正直ほっとしていた。 先生に、私の素性はあまり明かしてない。 今日から全6回の隔週の授業である。 どこまでやれるようになるだろうか。 さて、なかなか撮影と編集が大変な「お字書き道TALKS」であるが、隔週更新を守ってのコンテンツ制作に励んでいる。
最近嬉しかったのは、冒頭のタナカ氏のセリフ「お字書き道TALKSのお時間です」というのを息子が気に入って耳コピしていたことである。 効果音の「どどん」と言うのも含めて、「どどん、はいどおこんちわーおじかっどーとーくすのおじかんでっすっ」と、教えてもいないのに言い始めて驚き歓喜した。 子どもが真似をするというのは、何はともあれ良いことである。 何はともあれ、だが。 我々の長いコンテンツを視聴してもらうにはどうしたら良いか、が目下の悩みではある。 長尺コンテンツ「ゆる言語学ラジオ」とひとつ決定的に違うのは、彼らのは耳コンテンツであること。 元々「ラジオ」と名前が付いているわけで、ポッドキャストでの活動をYouTubeにも乗せようということのようだ。 一方我々のはやはり「見る」のに重きを置いたコンテンツとなっている。 書道の話を耳だけコンテンツとして成立させることはできなくもないが、やはり実際に作品やらやり方を見てもらうのが当然ながら良い、百聞は一見に如かず。 書作品は聞くことができない。 もっと短くすれば良いのは、一理あるのはもちろん分かるが、内容の性質上、そんなに分かりやすいポイントだけを切り出すことをしていないので10分などでまとめるのは難しい。 「これを押さえるだけで昨日より10倍上達!?」「文字が劇的に変わるペンの持ち方」「書道が好きになる方法5選」、のような性急なことはありえないと私たちは思っている。 いやまああるのかもしれないが、そういう方向性で話を進めたくはない。 道のりは長く深く険しく、でもそして、楽しいのだ、ということを哲学含めて伝えたい。 ちなみに、私はYouTubeの長尺コンテンツを結構見る方である。 何なら、短い動画はいちいち次の動画に変えるのが面倒なので、逆に再生しないほどである。 長尺コンテンツをずっと静止して見続けているわけではないのだが、スマホスタンドにスマホを立てて、手本などを書きながら見たり聞いたりする。 その時間は私にとって結構至福と言ってもよく、趣味たる趣味はYouTubeを聞きながらお字書きをすることです、と言いたいくらいだ。 まあと言いつつ1.25倍速で聞いてはいるけども。 時間がなくて途中になってしまったものを翌日の履歴から追って続きを見ることもする。 最近は人気YouTuberの切り抜き動画が流行っていて、本家のYouTuberよりも稼いでいるなんて話があるが、私はほぼ切り抜き動画は見ない。 要素だけ取り出してそれを誇大するというのは広告や煽動の王道手法であると思うし、制作としてそれがやれるのは所謂優秀ということになると思うが、それは言わば化学調味料たっぷりのスナック菓子のようなものだ。 スナック菓子は美味しいし食べやすいけれど、そして実際のスナック菓子は私は大好きだけれど、こと動画においては私はスナック菓子を食べたいわけではない。 素材の皮を丁寧に剥いて、固いところを食べてみたり、微細な素材本来の風味を味わいたい。 その素材が他の料理になっていたら、それを食べに出向いたりしたい。 思えば、我々の長尺動画はこのブログのようなものかもしれない。 映える写真も、ためになるメッセージもない。 いやもとい、動画は一部の人にとっては映える写真と為になる情報を盛り込んでいる。 このブログにはほとんど日々の私の雑記しかない。 しかしそれでも長年のブロガーには少しの愛読者もついてくださっているのは、アクセス解析を見ると垣間見ることができる。 まあそんなふうに動画も育てていきたい。 いや、タナカ氏とやっている面においてはもう少し流行らせていきたい。 世の中は一般的に合理主義的で、極めて簡易的な所謂ライフハック術が皆好きなように見える。 でも、そうではない価値に揺り戻しが起きて始めているのが、まさに今現代なのではないだろうか。 「分かりづらい内容をそのままの状態で置いておけるのが動画の良いところ」と言ったのはゆる言語学ラジオの堀元氏、「もっと複雑な俺を知ってもらいたいじゃん」と言ったのは慶応の助教授?若新氏である。 どちらもYouTube番組から聞いて、なるほどと思った言葉だ。 もちろん、自己中心的なアピールのみに終始するものはコンテンツとしては愛されないと思うけれど。 そんなことを言いながら、そんなに分かりづらく作っているわけではない。 むしろ最近は、分かりやすさ、に精を出している。 最新回、4月8日0時公開、書道の見方が変わるかもしれない、そんな回になっていますのでどうぞご視聴よろしくお願い申し上げます。 第五回【未来派】書道レイアウト入門 ♯3 SHO-DO 仕分け 2022/04/8公開 https://youtu.be/bCSsaSGl44k 息子が徒歩での登園降園の最中に、あらゆるものを指さして「これは?これは」と私にそのももの名前を聞くことがブームになっている。
とにかく手当たり次第に次々に「これは?これは?」と軽快に聞いてくる。 息子は私との対話を楽しんでいるに過ぎず、そんなに明確な名称を聞いてはいないと思う。 現に私が答える前に次の「これは?」を言ったりする。 「これは?これは?」と聞かれるたびに私は色々と逡巡する。 息子が指さすものの名称を明確に答えることが難しいのである。 地面を指さして「これは?」 「コンクリート」、あるいは「アスファルト」、あるいは「地面」、あるいは「道」でも良いかもしれない。 マンホールを指さして「これは?」 「マンホール」。 それは良いのだが、所謂錆びた鉄のふたのマンホール以外にも地下へと通じる何らかの穴のふたがあって、それのことも一緒くたに「マンホール」で良いのか、どうなのか。 道端の雑草を指さして「これは?」 「雑草」という言葉はこどもにとって難しいかもしれないと思い、「くさ」と答えてみる。 そうすると、その辺に生えているあれもこれも「くさ」。 では「たんぽぽ」のように名前を知っている「くさ」?が出てきたときには「たんぽぽ」と言った方が良いのか、それとも「くさ」で統一した方が良いのか。 やはり「雑草」と言っておいた方が、道端に生えている植物感が出て良かったのではないか。 しかし、「雑草」にも一つひとつ名前があるはずで、名もなき草ではない。 私が名を知らぬ草なだけだ。 何事も一つひとつの名前を知ることで、世界を良く知ることにつながり、解像度が上がる。 それは人生を豊かにするひとつの方法なのではないかと思っているので、雑草の名前もできるなら調べて教えた方が良いのではないか。 自転車のペダルを指さして「これは?」 そもそも息子が意図的にペダルのみを指さして聞いているのかどうかが判然としない。 「自転車」そのものを指している可能性が大きい気がするので「自転車」と答える。 しかしもうすでに「自転車」という言葉を息子は知っているので、パーツの名前「ペダル」を教えた方が良かったか。 民家のブロック塀を指さして「これは?」 「へい」。 「塀」の近くには柵があることも多い。 「塀」は面で隙間がなく、「柵」はストライプで先が見通せるもの。 格子状の仕切りだったとしたら何というのだろう、「網」か、それともそれも「柵」と言えるのか。 木々の新芽を指さして「これは?」 「しんめ」と答えて良いものか。 この場合は「葉っぱ」の方が適切か。 それとも「葉っぱの赤ちゃん」とちょっと詩的に言った方が伝わりやすいか。 「これは?これは?これは?これは?これは?これは?」 アクリル板、ナンバープレート、手すり、ガードレール、ボタン、自動販売機、桜、階段、マンション、植え込み、自動ドア・・・・・ 例えば、道路沿いにある駐車スペースの駐車料金精算機はそういう呼び名なのだろうか。 公園の砂場の真ん中に立っている鉄の棒のようなものは何なのだろう。 うさぎの形をした動かない遊具?には名前があるのだろうか。 とにかく名前が分からないものも山ほどある。 息子のこれはこれは攻撃に、私は何だか言葉に対しての不甲斐なさが募ってしまった。 名付け、とは、人間の叡智である。 名付けることによって世界という混沌を混沌でなく認識することに成功し、秩序だった生活を行うことを可能にしていると言っても過言ではないだろう。 脈々と受け継がれてきた各々の名前は、先人からの「愛」とも言えるかもしれない。 有り余る壮大な愛が目の前にある。 そんなことに気付かせてもらったのかもしれない。 大げさに言うと。 無事に東京に帰還した。
先ほど、行きの先日のブログを読み返したらなんと散漫な文章だろうと慄いた。 まあいつも散漫な文章なのだが、一度書いた文章が消えてしまったショックから立ち直れずに、息子を連れての移動が1時間を超え、抱っこの時間も長引いて、そんな中で書いたものだから致し方ない、と思いたい。 いつものコースと言えばいつものコース。 新小学4年生と新小学1年生の甥っ子のいる兄の家に寄り、山ほどのトミカで遊ばせてもらい、一緒に夕飯を食べに行く。 けいこのマンションで少しスパークリングワインをいただき、興奮している息子を風呂に入れて寝かせる。 翌日にはけいこのマンションから車で30分ほどのけいこの実家に寄って、暇を持て余している叔父と叔母と昼食。 叔父は珈琲をこだわって淹れるのが趣味で、お言葉に甘えて美味しい珈琲をいただく。 息子はひよこの手押し車を見つけて大喜びで遊んだ後、それから引き離すのが大変であった。 続いて、けいこ御用達の浜名湖のホテルに行く。 もうここには何度行ったかしれない知れない。 年季の入ったホテルで私が最も楽しみにしていたのは、サウナである。 久方ぶりのサウナ。 今回は夫が一緒ではなかったので、けいこに息子を預けていくのを少々心配していた。 事前準備としてトミカのロンドンバスを仕入れ、私がサウナに行く直前にそれを出して、「お母さんはちょっとお仕事してくるからね」と言うと息子は「おしごと」という言葉に反応してスンとそれを受け入れたようだった。 後から私は「おしごと」なんて嘘をつかなければ良かったと思った。 サウナに行くことは悪いことではない、嘘はきっと思わぬところで綻んでくるものだと思うから、きちんと本当のことを説明すれば良かった。 次からはそうしようと思う。 それもこれも、サウナを大満喫できて、私は自分ばかりがこんなにいい思いをして良いものかと罪悪感を抱いたのだ。 しかしながらその罪悪感でさえも必要ないはずである。 個人が良い思いをする、喜びの顔を周りの人に見せる、それを喜んでくれる周りの人がいる、それで良いはずだ。 周りの人が怒っていたりするのであればまたやり方を考えた方が良いが。 そんなことを水風呂の後にととのいながら考えていた。 それもそうと、サウナを日常に取り戻したい、取り戻そうか。 サウナから戻ると息子は大絶好調に部屋を駆け回っていた。 実際にしたわけではないが、嬉しくておしっこをしてしまう犬のような駆け回り様だった。 息子はとにかく食べることに興味がないので、けいこと私がごはんに舌鼓を打っている最中もせわしなく駆け回っていた。 ご馳走を目の前にして彼が食べたのは持ってきたふりかけご飯と蒸しパンだった。 栄養云々は二の次であり、まずカロリーを摂らせたい。 私はサウナ後で晩酌をしたこともあり、良い気分になった。 息子のお風呂はけいこが入れてくれたが、お父さんお母さん以外とお風呂に入ることは実は初めてで、行ったは良いものの戸惑っていたようだ。 何事も経験だ、と私は扉越しの泣き声を聞いていた。 翌日は生憎の雨。 晴れていたら一両列車の浜名湖鉄道に乗ろうと言っていたが叶わず、売店でトーマスのパーシーを買ってくれたのでパーシーと戯れている間にモーニングコーヒーを飲む。 やることがないので、そのままけいこのマンションに帰宅。 カレーを作ったら偏食の息子がよく食べた。 食べたら息子が眠そうにするので、「寝ちゃダメ―」とけいこがピアノを弾いてくれた。 知っている童謡に息子はキャイキャイとしていた。 何とか寝ずに新幹線に乗り込む。 発車するや否や息子は私のお腹の上で眠りに落ちた。 有難や。 しかしながら東京駅から自宅まではほとんど抱っこであった。 本人の希望や危険や迷惑を考えると抱っこが最良のようの思えるからそうするが、12キロの重さは当然ながら堪える。 無事、自宅に帰還。 毎度遠出は親子共にとっても良いなと思う反面で、とっても疲れる。 でも良いのだと思う。 4月1日。
けいこからのLINEのトーク画面の背景に雪が舞っていた。 今日は寒いからか、と思っていたら、ついさっきそれが桜の花びらであることに気がついた。 不意なきっかけで息子とふたり、新幹線に乗っている。 30分以上も前に東京駅に着いてしまって、時間を持て余している。 しかし時間ギリギリに焦るのはもう本当に嫌だし、しかしかと言って30分もの間、危険がいろいろと潜む新幹線のホームで息子と時間を潰すのは骨が折れる。 30分間、何をしていたか、よく覚えていないがうろうろしてなんとかかんとか、やり過ごす。 前回の旅を思い出し、新幹線で丸々寝ないことを覚悟して臨んだ。 そうしたら、新幹線に乗る前に抱っこで寝てしまい、そのまま座席ですやすや。 毎度毎度思い通りにならないものである。 推測しても準備しても裏切られるので、心構えは悪い方に対応できるようにしておくのが吉か。 それはそれで、余計な荷物などが増えて困りものなのだが。 こどもは、寝顔が可愛い、とよく言ったものだが、私は寝顔より起きているときの顔が好きだ。 人間の機微が出てきた彼の表情は面白くて可愛らしい。 一週間ほど前に、けいこからじいさんの誕生日お祝いの色紙を書いて欲しいという依頼があった。 時折、色紙に書いて欲しいという依頼があるのだが、正直なところ、色紙に書くのは嫌である。 できれば避けたい。 と言うのも、色紙は安くても3枚100円くらいするし、3枚や10枚などの少数書いたものを人様にお渡ししたくないからだ。 あと何枚しかない!というプレッシャーの中で良いものが書ければ良いがなかなかそういうわけにもいかない。 これは私の力不足とも言えるし、こだわりとも言える。 依頼の揮毫は、時と場合にも寄るけれど平均50枚ほどは書く。 そうして良い空間バランスを見つけていくのが私のやり方である。 依頼主は、色紙と言っても、特別にそれでなければならないということはほとんど無い。 色紙くらいのサイズで、気軽に飾れるもの、が欲しいのである。 なので、書道用紙に書いたものを色紙額に額装しますね、ということでほとんど話は落ち着く。 今回もそのようにした。 「齢、九十七」とでかでかと書いてくれということだったので、でかでかと書く。 そう、じいさんは先月で御歳97歳になった。 なんと息子と95歳差である。 もはや何がなにやら、の差である。 私の他のじいさんばあさんは93,4歳のときに死んでしまった。 93,4歳でも随分長生きだと思うが、所謂長生きには93,4というひとつのハードルがあるように思う。 ここを超えると100まで行けるかという感じがしてくる。 生徒さんのお祖母様が103歳と言うが、もうそこまで行くとどこまで行けるか、また分からなくなってくる。 期待も予想も、すでに超越している。 じいさんにはまだまだ頑張ってもらいたい。 施設にいるそうだが、コロナの影響で15分間のみ許されているとか。 たった15分で何を交わすというのか、息子は逃げ出したりしないか。 一度書いていたブログが消えてしまった。 書き直していたら、もう到着時刻である。 息子はまだ寝ている。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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