電車狂の息子は、散歩中にものすごい力で駅へと私をけん引していく。
近所の地下鉄の駅を3つほど、その道のりをだいたい覚えているらしい。 「あっちあっち」と指をさして、違う方向に行こうものなら暴れるか座り込みストライキを起こす。 家では夫が買った結構盛大なプラレールで遊びながら、電車の動画や絵本を見たりする。 電車三昧とはこのことである。 おかげで「おかあさんといっしょ」や「ピタゴラスイッチ」をあまり見なくなってしまった。 「いないいないばあ」はかろうじて見るときもあるけれど。 最近は保育園から帰るなりプラレールを出せと猛烈にせがむ。 「くっく、ちっち、てって」の3つをこなさないとプラレールは出さないよと言っているのだが、もう気が焦ってしまって怒ったり泣いたりする。 ちなみに「くっく」は靴を脱ぐ、「ちっち」はおしっこをする、「てって」は手を洗う、である。 やっと3つを済ませると、棚の上にしまってあるプラレールの箱を出すと、きゃっきゃと全速力でリビングに走っていく。 狭い家の中をよくぶつからずに全速力で走れるものだと毎度感心する。 私はこの度プラレールというものをほとんど初めて身近で見たのだが、本当に良くできている。 子どもでもはめられるレール、変に動かしても投げられてもだいたい大丈夫な電車本体、オンオフの簡単な操作、そして子ども向けではあるものの実物のミニチュア品としての芸の細かさ。 山手線などは乗車口の開け閉めまでできて人が乗っている絵が入っていたりもする。 また、駅や鉄橋・高架、踏切など実物に沿ったオプション品は充実し、大人が真剣に集めれば街のジオラマのようなものさえできるだろう。 今家にあるのは、山手線、中央線、新幹線、ドクターイエロー、貨物列車。 それぞれ先頭車両に電池を入れて、後部車両とつなげたりして走らせる。 あとは駅と高架とトンネル、路線切り替えなどがある。 ばらばらになっている青い線路の端くれをつなげて路線を組むのだが、私はこういうものが至極苦手である。 適当に行き当たりばったりでつなげて、最後上手くいかないところは無理やりはめ込んだりする。 でも何とかなる。 あるいは、一番簡易な、小さな楕円のみの路線にする。 息子はモーターのついた各先頭車両を持ってきて、走らせてくれと私に渡してくる。 山手線、中央線、新幹線、ドクターイエロー、貨物列車の頭部分だけ、小さな楕円を連なってぐるぐる走っていることがあって、何だか不気味な感じがする。 そう、プラレールは何か不気味な雰囲気がする、ということを目的にここまで文章を書いてきたのだが、やっと不気味までたどり着いた。 不気味さがあるのは車両が動いているときである。 おもちゃの車両が時々意思を持っているかのように、予測しない動きをすることが多々あるのである。 生き物のようにうごめいたり、揚々としたり。 例えば、レールから片輪になっても走り続けたり、勝手に脱輪してまたレールに戻ったり、脱輪して線路の無い夢の世界へ脱走していったり、座礁して倒れ車輪の回転音だけ激しく延々と鳴っていたり、2車両が正面衝突してすぐに脱線せずにしばらく車両同士が力比べをしていたり、後ろに速度の速い列車を走らせると前の列車が逃げ惑うようにしたり、それが追いついてオラオラ押していたり、電池の少ない列車が坂道をえんやこら上っていたり上れなかったり、動いている車両をレールに乗せようとして落としてしまって小動物のように逃げていったり、レールのない部屋の中を走り壁にぶつかって痙攣していたり。 私が勝手に物語性を見出してしまっているだけと言えばそうなのだが、とにかく生き物のように、意図せぬ動きをたくさんするのである。 私はねずみなどの小動物が苦手なのだが、そんなふうに見えているのかもしれない。 車体を持ち上げて動いている車輪に手が当たると得も言われぬ感触がするのも、何か小動物に触られているような気分が連想されてしまう。 寝ているときに、この車両が私の体の上を通ったら、私は大層大声を上げるかもしれない。 まあ普通に遊ぶ分には嫌悪するほどの感情ではないので良いのだが、プラレールを目の前にしてこんな気分になるとは意外であった。 しばらくは息子のプラレール遊びは続くだろうから、まあ付き合っていく他ない。 それにしても、プラレールが発する音は結構大きくうるさい。 しかも、列車の数を増やした分だけ増し増しにうるさくなる。 まあ、付き合っていく他ない。
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最近は息子と一緒に寝室に入り、そのまま寝ることにしている。
息子の就寝時間が後ろ倒しになりがちな傾向があり、まだ寝ないのかと待っている時間が辛く、もちろんそこでうつらうつらしてしまうので起きないとと思うこと自体もストレスになっていた。 現在は、1,2ヶ月ほど実験しているところである。 それまでは、息子を寝かせて21時半とか22時とか、そのくらいにむくりと起きて、もっぱらお字書きをすることに充てていた。 少しの作業の後、12時や1時に寝るのだが、翌日昼間や夕方にものすごい睡魔に襲われるのでどうしたものかと思っていた。 起きるのは7時から7時半と言ったところなので、睡眠時間は一般論的には十分と言えるのだろうが、私にしてみると足りないようだ。 睡眠不足はおそらく自律神経の不均衡に最も影響を及ぼすものではないかと思う。 過去の実験より、私は睡眠時刻はずれてもあまり問題はなく、トータルで寝ていればさほど不都合はないことは分かっている。 まあ妊娠する前の数年前の体の実験なので、今はどうかは定かではないが。 今回の実験では、22時半~23時ごろに就寝し、7時くらいに起きるので、8時間は寝ていることになる。 この1時間の差は大きく、日中寝るまでほとんど眠気を感じることなく、活動的に過ごすことができる。 平日は9時に息子を保育園に送り届けた後お迎えの16時半まで、自分としては日々怒涛の種々様々な予定をこなしているつもりである。 また、たくさん寝ることは私にとって幸せなことで、しかも、しっかり寝られるということはそれなりに疲労しているということでもあるので、良い塩梅の疲労感を携えての睡眠という高級な日常を送れているという気さえしていた。 ただ、ひとつ頭にずっと引っかかっていたことがある。 それは、元々深夜帯を活動の拠点としていて、深夜帯には色々と捗ることも多く、そもそも深夜の時間が大好きであり、とても名残惜しいということである。 でもまあこれは暫定的な実験なので、とりあえずは息子のせいにして諦めることにしていた。 1,2か月の実験を経て、ここ最近思うことは、やはり自分の仕事や好きなことをする活動時間が足りないと感じる。 例えば、日々のお字書きにまつわる一連のことやブログ書きやサウナに行く時間など。 しかし、これはもし息子を寝かせてからまた作業するにしても、元の昼間の睡魔に襲われる生活に逆戻りするだけで全く解決しない。 また当然ながら以前のように、「思い立ったらすぐやる」とか「できるまでやる」とかいうことができない。 息子を愛でながら、高級な睡眠を貪りながら、できうる限り「思い立ったらすぐやる」とか「できるまでやる」とか実現するためにはどうしたら良いだろうか。 現在の生活において時間制限の中で創作などをするのは、自分の成果物になかなか納得がいかないことも多い。 しかし、もうすぐ2歳の子との生活では、無理なものは無理と割り切らないといけないのかもしれない。 他人から見て私が悠長に見えるかどうか知らないが、案外私は所謂意味で前進していたいと願っているのかもしれない。 前進する、達成感を得る、ということであれば、趣向を変えて英語の勉強でもしてみようか。 あまりにも唐突で、自分でもびっくりするような発想ではあったのだが、そういうのも良いかもしれない。 私は幼い頃、英語くらいは喋れるようになると思っていたのだが、まーーったくそうはなれなかった。 憧れは少しは持ち続けていたが、旅行英会話さえも全然だめなほどのレベルから、何一つ勉強したことはなかった。 例えばギターをやる、例えば子育ての何かをやる、例えば英語をやる。 曲がりなりにも現在書道という道にいて、何かを身に着けることの難しさや道の果てしなさを知っているつもりである。 どれもゴールは見えづらく、やればやるほど奥が見えて疲弊してしまうこともあるだろう。 しかしそれでも、何にしてもほんのほんの少しでも、やり始めること以外には始まらない。 そして、ある程度腰を据えてやらないことにはそれについての評価もできない。 という、自己啓発本でも読んだかのような浮足立った気持ちで、「英語 初心者 何から始める」と検索してみた。 闇雲に単語や例文を暗記するのではなく、小さくても目標を持つと良いという記事を読んで、なるほど確かにと思い、ふと安易に「道案内できるようになってみたい」と考えた。 早速道案内の英語例文集の載った記事をざざっと見てみる。 ふむふむ、と思ったところで、気が付いたのだが、私は非常な方向音痴である。 日本語で道を聞かれてもパニックを起こし、まともに説明などできない。 完全に目標の初期設定を誤ってしまったようだ。 英語にかまけている時間があるのなら本分の書の道を邁進したらどうかと思う気持ちもなくはないが、まったく別のことをやるとどこからか相乗効果が起こり、文脈がつながるという必然はギターで体験済みである。 マンネリ化したときは、性質の異なることをやることで何か開けることもあるというものである。 さてどうなるかは分からないのだが、今日の日にこんなことを考えたことは記録しておきたく、息子が寝た後にむくりと起き上がった次第である。 途中で大きなクレバスをジャンプしたような文章になってしまった。 ちょっとした、というか私にとっては大層な考え事をブログ内でまとめていて、どうやら保存するのを忘れたようで全部消えてしまった。
WEB上に書き物をしている人であれば、こういった体験は一度や二度ではないだろう。 しかしながら、何度起こっても慣れることはなく、やるせなさと言い知れない脱力無力感が沸き上がる。 文章はある程度推敲した方が良いものになるというのは本当だろうと思うので、せめてもの慰めを自身にかけるわけだが、失われた労力と時間と熱量を思うとやはり愕然としてしまう。 ちなみに消えた文章は、なぜ書をするのか、なぜ筆で書くのか、書とは何か、という四方山話なのだが、私がいつもに増して私のために改めて問うてみたく書いたものでかなりの文量があった。 悲しい、あぁ、悲しい。 また書きたいのだけれど、今はその気が起きない。 悲しい。 日曜日はどこか出かけてみようとこども向け商業施設に出向いた。 こども向けだから楽しめるのではないか、と思ったがそれは大人の希望であって、こども向けが息子向けであるわけではなかった。 また、コロナ禍で空いているのではないかという甘い予測は当然ながら甘々で、普段よりは空いているのかもしれないが、やはり混雑していた。 私たち夫婦も息子も、混雑していると本当に気分を根こそぎ持っていかれてしまう。 息子にしてみれば、いつもの公園でも良いのだろうし、それよりも何よりも駅を探索したり電車を見ることの方がよほど楽しいようだ。 というより、とにもかくにも電車を見せろ、という感じだけれど。 結局かき氷を食べて、そのままテーマパークを後にした。 施設内に叙々苑があったので、何となく入ってみる。 私は焼き肉はさして好きではないし、叙々苑という店の価格帯を知らなかったのだが、焼き肉ランチ2900円~と書かれていて少々驚いた。 店内の作りも多少ゴージャスで、席も東京の割には広々としている。 食に興味のない息子だが、この時はなぜかやる気が感じられたので、息子が食べられそうな野菜クッパ胡椒抜きを注文して、ふうふう、ふうふう、私は一生懸命覚ましながら息子はぱくぱく食べた。 夫の焼き肉も細かく切ってあげると、ガムのように食べていた。 外食時は、息子がいつ暴れだすか戦々恐々とする。 息子は基本的に食べるものに興味が薄いので、レストランで飽きてしまうと大変なのだ。 過去には、何を食べているのかわからないスピードでかきこんで店を出たことも度々ある。 今回は比較的おとなしくしていてくれて、有り難かった。 息子を夫の抱っこ紐に入れて、涼しい店内をうろうろしているうちに眠った。 我々も少しだけウィンドウショッピングをして、帰宅の途につく。 電車の音で息子はきらりと目を覚ました。 家に帰って散々私とべたべたした。 私の勘違いではおそらくなく、ご満悦そうな様子であった。 夏のような強い空気に耐えかねて、朝からエアコンを入れる。
食パン狂であった私の”狂”が、高止まりからやや下がりつつあることを先月から感じていた。 朝はトースト、絶対、譲れない。 と言っても食パン狂になったのは、出産して朝ごはんを食べるようになってからなので、まだ2年も経っていない。 来月で息子は2歳になるが、食パン狂の軸とともに考えると、息子の2歳も食パン狂の2年も、私にとってはとてつもなく長いように思える。 先日も書いたが、おっぱいを止めてからたった2か月半ほどしか経過していないことと同じように。 例えば息子のいなかった30~31歳の2年間と、34~36歳の2年間とを主観的に比べてみると、圧倒的に後者の方が長い時間のように感じる。 これは直近のことだからということではない気がする。 無論、赤ちゃんという24時間手のかかる存在の世話をずっとしてきたことがそう思う原因なのだろうけれど。 やはりもっと長い間息子と一緒にいるような気がするし、もっと長い間食パンが欠かせなかった気がするし、もっと長い間息子はおっぱいを飲んでいないような気がする。 食パン狂がひと息ついて、朝ごはんにおにぎりを作ることにした。 茶碗にごはんを盛って海苔と一緒に食べることでも良いのだが、どうしてもおにぎりが食べたくなった。 私のおにぎり欲は、作ったおにぎりがイメージにぴったりと合って満たしてくれた。 おにぎりはなぜ、茶碗に盛ったごはんとは違う喜びがあるのだろう。 茶碗に盛ったごはんが劣るわけではなく、おにぎりには別の喜びが存在する。 それはたぶん、一口大に切った鶏肉を炒めるのと、それを串にさして焼く焼き鳥の違いと同じかもしれない。 ぎゅっとすると美味しくなる、という点で。 手がかかっているから愛情がこもって美味しくなる、というのも一理なくはないかもしれないのだが、これに関してはもう少し明確な美味しさの理屈があるのではないかと思う。 そう思って、適当に検索をかけてみるのだが、あまり的を射たというか私が納得できる答えが見当たらなかった。 失われた塩分を補給しながら食べるから美味しく感じる、という論がたくさんあったけれど、私にはどうも「にぎる」「ぎゅっとまとめる」というところに美味しさのポイントがあるような気がしてならない。 お寿司は私はあまり好きではないが、ちらしずしではなく普通のお寿司はシャリがぎゅっと握られていることの美味しさがあるのではないか。 1日目は塩昆布おにぎり、2日目はひじきおにぎり、3日目はじゃこおにぎり、4日目はふりかけおにぎり。 きつく握るのは良くないイメージがあるおにぎりであるが、ふかふかで食べると崩れるような握り方は美味しさが減るような気がした。 息子に「おにぎり」と教えると、「ぎぎぎ」と言っていた。 しかし息子にはあまりヒットしなかったようで、食べてくれる日と食べてくれない日の差がある。 ちょうど、基本偏食の息子の食べ方がまたフェーズチェンジに差し掛かった気配があるということもある。 握った手間の分だけ、食べてくれないと私の悲しさは増大するので、今後息子におにぎりを作るのはちょっと考えようと思う。 食パン狂の晩期には、私はあまりその他のパンを欲することもなくなっていた。 それまでは昼食にパン屋のパンを買って食べることが楽しみであったのだが、食パン狂のせいで全体的なパン食傷に陥っていた。 1週間ほど朝の食パンから離れてみて、パンの昼食を今欲している。 そしてまた、明日の朝は食パンでも良いかな、なんて気分にもなっている。 私は食パンについて、一周回ったのかもしれない。 何事も、気になったら、一旦はしゃぶり尽くしてみれば良い。 ゴロワーズを吸ったことがあるかい、とムッシュかまやつも言っている。 6月。
年明けから思うともう5ヶ月が経過したことには、早い、と言いたくなる。 がしかし、3月の半ば頃、断乳してからのことを思うと、まだ2か月半ほどしか経っていない、と思う。 これまでも感じていたが、断乳ということを軸に置くと、実に時間が経つのが遅い。 もはや2か月半前ではなく、去年の3月、すなわち1年以上前のことのようにも思える。 なぜだろうか。 おっぱい好きの息子は今でも健在であり、時折めくりあげてにやにやして、あわよくば口に入れようとする。 彼とおっぱいの関係は、命の食料ということ以外にも多分に何かありそうである。 最近展示会友達とよく展示会に行く。 その場所はやはり多くの画廊や美術館が点在する銀座が多く、そのついでで銀座でランチやお茶をすることも増えた。 銀座の物価がばか高いことは承知しているが、私は所謂”おしゃれ感”にお金を払うことをあまり良しとはしていないので、おしなべて割高な街だなあと思っていた。 しかしここ最近、店をきちんと選べば、かなり納得感のある食事とサービスが受けられる、というふうに印象が変わってきた。 昨日、アーティゾン美術館に行って、館内のレストランで昼食をとった。 コースメニューのみ、2000円、3000円、4000円のコース。 迷わず2000円のコース、気温が高かったので、山椒麺のトマト冷製パスタ、にした。 運ばれてきたパスタは、白くて大きなお皿にこじんまりと小山に盛られた、トマトの赤とオリーブオイルの黄緑の鮮やかなパスタだった。 いくら見た目が美しくてもさすがに足りなさそうな量だ、銀座の割高感をさらに煽る、と内心思ったが、写真に残したいほどの見た目ではあったので、iPhoneでカシャリと写真を撮った。 しかしながら、食べてみるとなんとまあ。 其処らのこじゃれたカフェのメニューではない。 料理の道を志したシェフの所業だ。 トマトとマスカットの酸味とうっすら山椒の風味、全体はオリーブオイルでまとめあげられていて、冷たくてさわやかでねっちりとしている。 記憶に残るパンチ力を持ちながら、気品を備えた凛とした味。 美味しい。 付いてきたひとかけらのパンは私としてはあまり評価するところがなかったが、小さなデザートも美味しかったし、食後のアイスティーも茶葉への丁寧さが感じられた。 展覧会友達はしらすのリゾットだったが、これも美味しかったそうだ。 また、少なく見えた量も、食べ進めてみると案外重量感があり十分であった。 美術館ならではの天井の高い広々とした空間で、平日だったからかとても空いていて。 テーブルも大きな4名席を二名でゆったりと。 定員さんも常にフロアを見渡しており、サーブも早いし、タイミングも見事だった。 2000円、とても良い値段、そう思えた。 思えば、以前には文明堂カフェ、銀座ウエストなどにふらりと立ち寄っていたりするのだが、いつもの私のランチ料金、カフェ料金としては値段は少々張ると思いつつ、実情に満足していたということはあるかもしれない。 銀座の良い店の食べ物のイメージは、見た目に小さくて、中身がぎゅっとしていること、だ。 いつかに食べたハンバーグも小ぶりだったがぎゅうぎゅうにみっちりしていたし、サンドイッチもレタスでふかふかなどしていなかった。 また今月の後半に銀座に出向く用事がある。 昨日のレストランでお昼を食べようかなと今から画策している。 主目的であるアーティゾン美術館も、もう食べきれないというほどの量の所蔵であった。 ブリヂストンという会社の創業者が作ったらしいが、石橋氏の底知れぬ美術欲と財力を見た。 ちなみに、ブリッジ+ストーン、橋+石、という由来であることを夫から聞いた。 そもそもブリヂストンが何の会社なのかわかっていないけれど、日本の会社ではないと思っていたので、二重の驚きであった。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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