平成最後の句会があった。
平成最後、平成最後。 私はこの一元号変革にまつわる一連の出来事を結構楽しみに過ごしている。 しかしながら、平成最後平成最後と何をするに付けると食傷気味にもなる。 平成の空気を缶に詰めた「平成空気缶詰」が1080円で売られているそうである。 要は缶詰の缶をそのまま密閉しただけのものだ。 売れるのだろうか。 物見遊山ではあるが、新天皇即位の一般参賀に行ってみたい気持ちもあって、しかしこの身重の身体で耐えられる混雑ではないだろう。 渋谷のハロウィンではないにせよ、妊婦が気軽に立ち寄れるところでもあるまい。 四月来るコーヒー砕くけたたまし むの字だけ書けぬむむむと入学児 おかっぱをおかっぱにして入学式 古着屋の匂ひのやうな春の夢 フリージア弾む香気やパパラパパ 丸眼鏡奥の瞳の目借り時 新社員位置の決まらぬ丸眼鏡 春雨は隠し通した嘘のごと 令和来る団地の歴史老桜 吹き通る思念の風や蓬餅 上から三句を投句したが、しれっと坊主(未得点のこと)を逃れることが出来た。 十数回くらい出席していると思うが、坊主であったことは今まで一度もない。 たぶん出席者は皆、坊主であることをそれなりに恐れていると思う。 たとえいくら手を抜いて作ったとしても、我が身から出た句に目もくれられないのはやはり哀しいものである。 どんなことも、創作する、表現する、ということは簡単ではない。 時間切れ、技術不足などで不出来に終わることもたくさんある。 この世のすべてが借り物だとしても、創作することでしか味わえない喜びがあると思う。 ここでいう創作とは、何か“作品”として形にすること。 創作にまつわる行動のうちどこまでが不随意であるかは線引きがし難いところであるが、不随意ではなく意志の力を働かせた何か“作品”を生み出すこと。 意図的、意識的であること。 日々の暮らしや様々な関わり合いにおける言動も、ひとりの人間が成していることであるが、私が思う創作には含まれない。 暮らしの一部として創作する、何も考えず自然に任せて創作する、「私にとって墨と筆で字を書くことは息をするのと同じことだ」、というような言い方があると思うが、私としてはあまりピンとこない。 そんなことがあるのだろうか、と疑問にさえ思う。 創作は何かしら、立ち向かう、という要素を含むと思う。 立ち向かう先は他人や社会であることと同時に、というかそれそのものがまさに自分自身である。 私が私を観察することにおいて、創作はとても有効な方法である。 その一歩を踏み出すのは慣れていないと難しいことだという実体験もあるが、誰もが創作の喜びの片鱗くらいは知っているものだと思う。 一方で創作は面倒でもある。 すなわち、自分自身が面倒であるとも言える。 書きたくてたまらなくて書いていると思われがちだが、勿論時と場合によってそういうときもあるのだが、案外そんなときは多くはない。 面倒が伴うからである。 ではしなければ良いではないか。 と思うのだが、創作がとりあえず完了したところのひとかけらの喜びは、人生において本当にささやかであり且つ最上級である、ような気がする。
0 コメント
間違えて1時間早く起きてしまった。
色々と画像やらPC関連の整理をする。 そう言えば、少しの間産休育休を取るのでそのご案内も作らねばならないことを書き記すことで自分への喚起としておこう。 このブログの更新頻度はおよそ週1くらいであるが、6枚の画像を挿入するだけではどんどんと画像が溜まっていってしまう。 ブログの内容をもっと軽くして更新頻度を上げるか、画像挿入を10枚くらいに増やすか。 元々事務的作業全般は嫌いではないが、溜まっていると日々の行動や思考を薄く蝕むことが嫌である。 個人でやっているのだからほとんどのルールは自分自身なのであるが、自分自身が設けたルールから外れることはソフトであるが確実なボディーブローを喰らってしまうのである。 風呂掃除、床掃除、台所掃除、トイレ掃除、日常の洗濯、大物洗濯、ご飯の支度、食器洗い、買い物、植物の水やり、レシートの処理、ゴミだし、各種片づけ、などなど。 暮らしを営むということは色々なことをしなければならない。 無論私ひとりでこれらをやっているわけではないが、最近の私はもっぱらこのどれもに手を抜きがちで、その代償が目に見える山として積み上がていたりする。 家電に任せられるところは家電に頼れば良いと、自動床掃除ロボットや乾燥機付き洗濯機や自動食洗機の導入を検討しても良いが、実際のところ今はそれほどの支障を感じてはいない。 それに、これらの家電を増やすということは結構な容積の物体が家に増えるということである。 埃を吸い取る大きな物体と、家中かき集めた埃の量を比べたら、その物体1台分の容積にもならないだろう。 ただでさえ、最近妊婦服や絵本を買ったため家に取り込んでいる物の量が増えて、私の心を少し圧迫をしている。 かえるくんが産まれたらもっともっと物は増えるだろう。 私本体の容積は少し減る代わりに、かえるくん本体の容積もどんどん増えていくし。 実働時間の削減と、物質が生活空間を埋めていくことへの心的圧迫は、私としては天秤にかけられるものである。 しかしながら、自動床掃除ロボットも、乾燥機付き洗濯機も、自動食洗機も使ったことがないので、試してみたくはある。 と思っていたら、とても有り難いことに自動床掃除ロボットをお祝いにといただけることになった。 実働時間が削減できることは望ましいメリットである。 家電を使いこなすのはさっぱり苦手であるが、楽しみである。 最近ベッドもソファも捨ててしまったので、もう容積の大きな捨てられるものがあまりないのであるが、自動床掃除ロボットを迎えるに際してまたこまごまと家の中を整理していくことにしよう。 ところで例えば、家事を何でも一手に引き受けてくれる人材を雇うのに十分なお金があったとして、私はその人材を雇うだろうか。 家事を全部任せられるのは確かに楽なのかもしれないが、私の満足のいくように家事をやってもらうのには様々な説明だけでも時間がかかるだろうし、それをこなせるようになるまで互いのストレスが軋轢になることだって容易に想像できる。 勿論、相手は感情と意志のある生身の人間なのだから、思いやりも気遣いも当然ながら必要になる。 そういう意味でも単純な意味でも、家の中に誰かいるというのはとても落ち着かないだろう。 家事の手離れ以上の面倒が生じてしまう可能性も十分に考えられる。 何でもそうだと思うが、物事を上手くいくように軌道に乗せる過程の面倒さや、実際やってみて上手くいかなかったときの後処理を飲みこめるなら、そのことに手を出しても良いのかもしれない。 そんな計算深いことをしていたら、やっぱり何でもひとりでやった方が良いと早々に結論を出してしまいそうにもなるけれど。 いや、でもやっぱり、何かしらの生活の新しさを求めて、機会あるごとに手出ししてしまうのだろうなあと思う。 家事のことを書いてしまったが、私はそもそも家事が嫌いではないので、どんなに裕福になっても家事手伝いを雇うということはなさそうな気もする。 大きめのグラスに浸けていたミントとタイムが根をはり過ぎて、グラスの中が根っこでぎっちりになっている。 土に植え替えたいが、どうしよう。 現在は隔週の定期検診があった。
普段、病院とはほとんど無縁の私がスケジュールに「病院」と入れるのは確かな違和感がある。 しかしながら、おそらく各所で問題になっているだろうが、大病院の診察というのはどうしてこうも待ち時間が長いのか。 受付を済ませて、尿検査をしてから1時間以上、ベンチに座りっぱなしである。 最初の受付と自ら行う尿検査で10分ほど、先生の診察まで1時間強(正味10分弱)、超音波検査待ちに1時間強(正味15分)、会計待ち30分(本日は補助金内で支払い無し)で、10時過ぎに病院へ行ったのに出てきたときには13時を回っていた。 仕事も余裕を持って組んでいるつもりではあるが、この日は14時からだったためギリギリ間に合ったくらいで、焦るのは本当に好きではない。 身重感の増す今、走れと言われても簡単には走れない急げないというのもある。 また、数多ある診療科の中で、所謂体調不良ではないのは産婦人科だけだと思うが、体調不良の人が先の見えない時間を過ごすのはとても大変なことだろうと思う。 予約時間を指定してきているのは病院側であるにも関わらず、何が大いなる渋滞を引き起こしているのだろうか。 大病院であればあるほど、規模が大きいから変革は骨が折れるだろうが、そういった改修に労力とお金をかけても良いのではないだろうか。 病院はサービスを提供しているという観点をさほど持っていないのだろう。 あるいは、仕組みは既に持っているのに、それが上手く機能していないのか。 その点、病院でも最近の歯科医院は予約時間に厳密に対応をしてくれるところが多くなってきたように思う。 前の歯科医院も、今の歯科医院も、「恐れ入りますが、予約時間を10分超えてしまいますと診察ができない可能性がございます。ご協力をお願い致します。」というような告知がされていて、それは脅しではなく本当にそうするようだった。 事実、12時半の予約で12時35分に診療室に入って歯科衛生士さんに「お待たせしてしまって本当に申し訳ありません。」と謝られたこともある。 とある町病院のアレルギー科では、待ち時間がインターネット上リアルタイムで確認できる仕組みを持っているらしい。 忙しない、と言う人もいるかもしれない。 丁寧に診てくれないのではないか、と言う人もいるかもしれない。 そもそも患者数が潤沢でないと成り立たないというのもあるだろう。 無論、ほとんどの物事は限度と度合いを以てして良質であると言えるだろうから、どちらも行き過ぎは弊害が生じるだけだ。 それに、医療の世界ではイレギュラーなケースだって多く発生するだろう。 それでも、ある程度の所要時間を読んで、少なくとも今よりも潤滑に診察を進めていくことが可能だろうと思う。 遅刻してくる人がいたり、思わぬ治療が発生する人がいたり、雑談を長引かせる人がいたり、そういったことも加味しても。 かえるくんは元気だった。 なぜか超音波を当てられると、いつもこちら側に顔を向けて、口をぱくぱくさせていたりする。 胎児には、意志や感情というものがどれくらいあるのだろうか。 胎盤は少し子宮口からほんの離れた地点で動きが止まってしまったようだ。 このままいくと帝王切開になるかもしれない。 できれば経膣分娩を経験してみたいと思っているが、母子の健康を優先してリスクの少ない方法でいきたい。 出産や子育てについて、本当にこれといってこだわりたい箇所が今のところ思い当たらない。 先日友人の勧めで、イメージトレーニングにアカチャンホンポに見学に行ったのだが、どうも上手くイメージが沸かない。 可愛らしいベビー服やゆりかごのようなものがたくさんあったけれど、私個人としては別にどれも欲しくないのである。 寧ろ、物が増えるから要らないのである。 そんなことを言っている場合ではないのだが。 経験のないことを目の当たりにしたとき、自分がどんなふうに思うか、自分自身がよく分からない。 どんなふうに思っても、どんなふうに感じても、それは仕方のないことである。 かえるくんにはまっさら未経験の新世界が待ち受けている。 私が思うことと、かえるくんが思うことは基本的には異なるだろう。 慮ることしかできないけれど、私はかえるくんの誕生とこの世界での存在を楽しみにしている。 妊娠8か月、あと3か月もある。
正産期まであと10週間ほど。 都合よく、胎内の成長が済んで10週間後に産まれてくれることを願っている。 出産や悪阻が辛いというのはよく聞く話だが、妊娠中後期が辛いというのはあまり誰も教えてくれなかった。 何が辛いって、総じて、身動きが取りづらい、ということに尽きる。 日々のかえるくんの拡張作業に、これまでの私の身体がついていっていない。 悪阻も陣痛も、症状や感じ方は人それぞれ個人差がかなりあるだろう。 私の痛みや私の辛さは、私だけのものでそれは残念ながら他人と共有のしようがない。 それと同様に私は人の痛みを正しく感じることはできない。 痛いとか辛いとか、あるいは、嬉しいとか楽しい、でさえも他人尺度で正しく感ずることなど不可能なのである。 それを正しく知ることは、他人に優しくなれるひとつの方法であると思う。 マーシーの「コインランドリー」という曲の中の「想像力それは愛だ歴史の果てまで」という一節を思い出す。 「漂白剤ぶちまけるぜ世界の果てまで」と続く。 子どもへの成長の希望として「人の痛みの分かる人間に育ってほしい」なんて言うことがよくあると思うが、それを口にする親は他人の痛みを分かっているのだろうか。 これは私のただの屁理屈なのだと思うけれど、願えるとしたら、「人の痛みを精一杯想像することを止めない人間になってほしい、そしてそれを踏まえどのように行動するかを自分自身で決断する人間であってほしい」と、そういうことだろう。 それにしても胎児という存在は不思議である。 産まれてしまえば私たちと同じ人間であり、生きていく能力が著しく低い人間とも言える。 最初のうちは、ひとりで移動することもできなければ姿勢だって変えられないし、食料を獲ることもできなければ固形物すら消化もできず、排泄でさえ処理することができない。 しかし胎児は母体との完全なルートを確保することによって、これらのこと全てがひとりでできるのである。 その上、産まれてからの人間は水の中で呼吸することはできないが、胎児は呼吸さえもできているわけである。 ちなみに羊水はほとんど胎児の尿であり胎児は尿を飲んだり排泄したりしているらしいが、老廃物は臍帯から排出されるようになっており、その羊水は無菌なのだそうだ。 胎児が選び取って練習してそれをやっているわけではなく生物プログラムがそうなっているのだけだが、何だか胎児の能力に畏敬の念すら抱いてしまう。 酸素も栄養も、胎外にいる私たちとは全く異なる能力で得ているのである。 無論その生命維持は母体ひとつにかかっているわけで、栄養も選べなければ睡眠だって思うようには取れていないかもしれない。 狭い暗いという概念はないにしても、何かしらの窮屈感はあるのかもしれない。 しかも、母体が死んでしまえばほとんどの場合胎児も死んでしまう。 でもきっと、温度変化が少なくて温かくて、ふわふわと浮いて力が要らず、肩こりなんて言葉さえ無い心地の良い場所なのではないかなと想像する。 母体の私の身体は大変なのだけれど、かえるくんのいる場所は居心地の良い場所であってほしい。 ずっとそこには居られないのだし。 春、4月。 1年前、おじいちゃんとおばあちゃんが立て続けに死んだ。 その1周忌法要が週末にある。 ついでに私の出産の影響で早められた父の13回忌も同時に催される。 3人同時の法事。 帰省は新幹線だから良いのだが、1日のトータル歩数が10000万歩を越えないように動いた方が良さそうだ。 体力維持のためにも動けるだけ動いた方が良いだろうし、動きたいのだが、如何せん無理がきかない。 ところで陣痛中に字は書けるのだろうか。 少しでも気晴らしや息抜きや転じて笑いになると良いので、筆ペンと紙くらいは持ち込もうと思っている。 毎日続けている書の提出物を、途切れさせないなんてことが果たして可能だろうか。 眠い。
朝方人間、夜型人間、という言葉があるが、これは遺伝子に組み込まれた身体のサイクルを言うので生活習慣を改めてもどうしようもない、というような記事を読んだ。 科学が全て正しいということもないだろうが、自分の身体の反応に身に覚えがあることについて科学的解釈が加えられると俄然納得感が高まる。 一般的には、朝起きて夜寝るという生活リズムが推奨されているように思う。 人間とは皆、そういう生き物だ、と言わんばかりに。 朝日の光は私たちの脳に刺激を与え、朝ごはんは眠っていた身体を活発にするためのガソリンで、夜は早めに夕ごはんや入浴を済ませて就寝までは神経を高ぶらせるあらゆることを避け、日付が変わるまでに床に就く、それが正しい生活習慣である、それが心身ともに健康的である。 ホルモンバランスも整い、新陳代謝も高まる。 などと、誰からでもなく教わってきた気がする。 とても多くの人が、その“健康的で正しい生活習慣”ができているかどうかを別にして、このことについて信じきっているようだし、私の“乱れた悪しき生活習慣”を心配する人も多くいることも事実である。 それは、多くの人の身体が、それぞれ我が身の体感として、“健康的で正しい生活習慣”という認識をしているのということなのだろうか。 数年前に会社員を辞めたとき、私はある程度仕事の調整をしながら、好きな時間に寝起きし、好きな時間、好きな回数ごはんを食べたり風呂に入るという実験をしたことがある。 その“健康的な正しい生活習慣”に抗う強迫観念や罪悪感をほとんど無しに。 放っておくと、私は朝方5時とか6時に就寝して昼の13時くらいに起きる、という習慣になっていた。 夜は目が冴え冴えして仕事も創作も極めてはかどったし、朝方眠るときはその心地よい疲労感を携えてこてんと眠りに落ちた。 あの頃、輝かしいやる気や鋭気に満ちていたのは、精神のちょっとした躁状態であったということはあるだろうが、それにしても身体の調子が良く、軽かったように記憶している。 ホルモンバランスも新陳代謝も良いという体感があった。 ところで会社員時代、夜そんなに遅く寝ているわけではなかったが、朝はどうしても起きるのが嫌だったし目覚めも良くなかったのも事実である。 そして今、人と暮らすようになって、腹に子どもを宿して、生活がまた大きく変わろうとしている。 私は同居人や子どものために“健康的で正しい生活習慣”にするつもりはあまりないのだが、いかようにしても身体が重たく辛く思えるので、ここらでまた生活習慣を変更する実験でもしようかと思っている。 身体が重たく辛いのは、単純に膨らむ重りが腹にあるからであるが、変化に変化が積み重なっていくスピードに私の心と身体が不随意にはついていかないので、ここは一度意志の力を行使してみたい。 自分自身の多くのことについて不随意なものに従うことを良しとするばかりに、意志の力を蔑ろにしている感じが最近とても強く自認していてそれに辟易としていたということもある。 例えば、夜11時に寝て朝5時に起きる。 例えば、朝湯船をはって風呂に入る。 例えば、朝散歩をする。 例えば、昼寝をしない。 例えば、夜スマートフォンを見ずに読書をする。 昨夜、夜11時にベッドに入ってみた。 眠気はあるが眠れずにスマートフォンでネットサーフィンをしながら1時くらいには寝ただろうか。 7時過ぎに目が覚めてごろごろと二度寝三度寝をしているともはや11時である。 しかし意志による作戦にあっけなく敗れたのではなく、上の、例えば、を文章にして考えたのは今の今なので今朝の段階では意志の力は行使していない状況と言っても良い。 今晩からやってみるか、どうか。 決めると苦しいので、決めたくないのが私の性である。 ただ、今の私には何か大きな生活実験の必要性があるようには思っている。 ちなみに、かえるくんは夕方5時~8時くらいの間が私の体感として最も活発に動いている。 腹を眺めているだけで、ぼこっと隆起するのが分かるほどである。 胎児は30分おきくらいに寝起きしていると言われているが、胎内にいて概日リズムがないということもないだろう。 私とは別のリズムなのだろうが、その限りなく無垢なリズムに、産まれてから立ち会えるのは楽しみでもあり不安でもある。 最近、やはり腰が痛いのと動悸がするのとで全然思うように歩けない。 ひいひいふうふう、おなか、ぱんぱん。 昨日の歩数は思いがけずも13000歩。 ディックブルーナの0歳と2歳の絵本を買い足した。 かえるくんには別に中古で買う予定である。 朝、と言っても時刻的には昼過ぎから、せっせせっせと料理をする。
先日不意に換気扇の掃除を引っ越し後初めてやったのだが、油のべとつきをすっきり落としたのでこれで料理をしなければ換気扇が汚れることもないのに、と頭によぎった。 オイルサーディンとキャベツのトマト煮込み、お味噌汁、ひじきの煮物、ついでにきのこ類をばらばらに分けて冷凍。 同時に、ブランチにとパンを焼いて、コーヒーを淹れる。 だいたい似たようなものしか作らないし、見た目にさほどこだわらず雑にやるので、私の料理をしているスピードというのはおそらくかなり早いのではないかと思う。 作るものは煮物系が多いので、味を含ませるために一旦9割方完成させてあとは数時間放置しておくことが多い。 お湯を沸かしたり、ざるに上げたり、複数の食材を切ったり、様子を見ながら調味料を入れたり、洗い物をしたり。 冷蔵庫の中身と使うべき食材の優先順位と、料理の手順と、少ない洗い物にするための合理的手順と、あれこれと考えながら目の前のタスクをこなしていくのは嫌いではない、好きである。 私は、大方筋書きが見えているある程度煩雑な事柄を段取りよく片づけていくのが好きである。 一方で大方の筋書きが見えていないものに向かうことが苦手である。 例えば私の見知らぬシステムや仕組みを用いて、現実に起こっているある課題を解決する、など。 無論、無いものを有るようにするような、新しいシステム開発や仕組みづくりには向いていない。 当然ながら初めてのことは皆知らないのだから知る努力をするしかないのだが、先が見通せないストレスが先立ってしまうため、あらゆる新しい物事への取っ掛かりが非常に遅い。 その代わり、見知ったシステムや仕組みを使って物事をより潤滑に進めていくことは比較的得意であり、行動も早い。 ところで、美味しい料理を作りたい、という方向性を持たないわけではないのだが、やはりコストパフォーマンスやかかった時間や費やした労力や味などの全ての合理的総合点に向かってしまう。 多種多様な犠牲を払っても美味しいという高得点を取りたい、のではなく、なるべくあらゆる犠牲を少なくした上での最大得点を取りたい、のである。 だから、美味しさのみに精魂費やした丁寧且つ完璧な味や美しい見た目にはならない。 だいたい、家庭料理とはこのようなものだろう。 もっとにんにくを丁寧に弱火で香り出しすれば、もっと玉ねぎを細かく刻めば、肉の下ごしらえをきちんとすれば、煮込み過ぎないようにもっとよく観察していれば、もっと複数のスパイスを混合すれば、もっと器にもこだわって彩りを考えて盛り付ければ、もっともっと良くなれる可能性はあるのかもしれない。 これらの把握できている改善点については次の回からもう実践すれば良いだけだが、それも面倒が勝ってなかなかできない。 未だ把握できていない改善点もそれはもう数多くあるだろうから、勉強と練習をすればもっともっと良くなれるだろう。 しかしながら、総合点を上げることにはこれからも鋭意精進していきたいとは現時点で断言できるが、日常の料理にあらゆる総合値を考えずに向かっていくことを私はしないだろうとも断言してしまいそうである。 この傾向は私の多くの行動に現れているように思っていて、この合理主義を時に愉しみ、時に辟易とする。 もっと無駄をたくさんたくさんしても良いし、それはきっと無駄ではない、そんなことは経験上知ってはいるのだ。 しかしながらこと料理において言えば、出来たものがどんなに美味しくても食べてしまえば記憶の中にしか残らない、という切なさを嫌に思っているのかもしれない。 目に見える成果物にしがみつきたいのだろうか。 たぶんそれはとてもある。 夢中になった結果の達成感のみならず、何か成果物が欲しい。 できれば後々にもその成果物を眺めていたい。 書も俳句も、私の日常にあるこれらは成果物を眺めることができる。 歩くことやサウナ通いはダイレクトな体感が最大の成果物であるが、歩くことは歩数計を、サウナは銭湯スタンプを取り入れることによって成果物を可視化してきた。 これはおそらく所謂執着のひとつなのだろうなあと思う。 ダイレクトな体感や何かを夢中でしているその時間のみで満足できないのは、どうしてだろうか。 簡単に思いつくこととしては、人に共有できる形にすることで得られる誰かの反響を欲していて、それはすなわち他人とのコミュニケーションを欲しているということである。 となると、目に見える成果物に執着しなくなったとき、私は他人とのコミュニケーションを必要としなくなるのだろうか。 あらゆる執着を解き放っていくことは良いことだと思っているが、これはそういうことなのだろうか。 もうひとつ、私が可視化できる成果物にこだわるのは、自分の前進の軌跡を自分で確認したい、ということもある。 去年よりも、一昨年よりも、五年前よりも、上手くなっていたいし前進していたいし賢くなっていたい、そんな風に思っているのかもしれない。 成長呪縛、確認願望といったところだろうか。 まあこの執着は持っていても良い気がするが、何のために上手になるか何のために賢くなるかというのはやはり一部他人が絡んでいるところがあるように思うから、厄介にも感じている。 どうやら、他人の目を気にせずに生きることを良しとしたくて、その他人と上手くコミュニケーションを取りたいようなのである。 私が料理に多量の熱量を注げないのも、入り口の入り口だけ齧った音楽に夢中になれなかったのも、心の深層において、目には見えず、瞬間的に消費されてしまうことが短絡的に嫌だったのかもしれない。 料理も音楽も、もっと深堀りできれば大いに成果物もコミュニケーションも望めるだろう。 夢中になれるだけの参入障壁を越える気概がそれらに対して向けられなかった。 事柄は何でも良いから、合理性を重んじずもっと夢中になれる凝縮された無駄をしたい、とは常々思っている。 この場合の無駄というのは、他人から見たら無駄ということだからわざわざ無駄をしたいなんて言い方しなくても良いのかもしれない。 夢中になりたい、で十分か。 そもそも、夢中になるということは自己自然発生的なものなので、他人が強いることができなければ、自分でも夢中になることに向かうことは難しい。 積極的にリラックスに向かうことが難しいことと同じようなものだ。 ところで、青森の方からいただいた青森産のにんにくが素晴らしかった。 りんごの切り口のように瑞々しく、熱してみると決してくどくはない爽やかで清潔且つ屈強な香りが立つ。 いつかにジョーマローンの香水を形容したときのあの感じに似ている。 にんにくは料理に魔法をかけられる。 さてさて、来月からの新元号が発表された。
令和、とは意表をついてきたなというのが最も大きな感想である。 このインターネット情報敏速時代、様々な予測憶測が飛び交う中、元号思案の面々はきっと新元号の発表までの秘匿に恐ろしく躍起になっていただろう。 というか、読みやすい書きやすい既存語句にない、といった元号制定の条件に、「国民皆に発表前にばれていないこと」という条件が追加されたくらいの意気込みだっただろう。 だから、やや一風変わった漢字「令」を用いらざるを得なかった節もあるように思う。 かえるくん、予定通り新元号令和元年の子どもになるべく、どんなに早産でも少なくともあと一か月間は出てきてはならない。 無論、5月に入ってもまだ早い。 あと三か月、私のお腹の中でこの世への準備を進めてほしい。 新元号が発表となった昨日の11時半過ぎ、私はお昼を食べながらどきどきとテレビを見守っていた。 菅官房長官が出てきて、元号が書かれている額の傾きで、「命」という文字が見えた気がした。 命!!これまた斬新な元号。 「命和」、だと明和と読みが被ってしまうから、「命知」とかだろうか。 「命」と来たらもう軽々しさとは程遠い重厚感から逃れられない時代になるだろう。 と思った矢先、菅官房長官が額を正面に向け、「令和」と発表された。 随分とすっきりした鈴音のような音感であり、書くとあまり様にならない字面だなと思った。 でも何だか、なぜか、少し熱いものがこみあげてきた。 何だろうか、妊娠のせいだろうか。 時代、という言葉は至極曖昧であり、その内実も雲のようなものである。 しかし、私たちは時代というものを感じ、翻弄されたり、流れに乗ったりと影響を受けて暮らしをしている。 時代、ということに含まれる妙味がおそらく確かにあるのだろうと思う。 私は、時代を飛び越えた普遍的な格言や芸術などに憧れる一方で、現代を生きているということを蔑ろにしがちなのかもしれない。 時代はそもそも今を生きながら飛び越えられるものではない。 時代を飛び越えたという認定は、その時代が終わって随分と過ぎた頃、ようやく大勢の他者から認定されるものだ。 今を生きる、というか今しか生きられない我々全員は、曖昧模糊としたこの時代という大きな生き物に身をゆだねたり抗ったりを真っ当にしていく必要があるのかもしれない。 「令」の字の書き方や、万葉集からの典拠などについて、様々な野次のようなものが飛び交っているが、きっと令和3年にもなればすっかり慣れるだろう。 令和18年頃には、今平成元年の振り返り映像を見て古臭く懐かしく思うように、今この令和発表のどよめきもセピア色になるのだろう。 その頃にはかえるくんも、令和18年には18歳にもなり、お母さんは52歳にもなる。 かえるくんの名前を、以前から私の頭の中で一案出していたものを夫に伝えてみる。 少し前から伝えようと思っていたのだが、満を持しての機会を見計らっていたら言いづらくなってしまって、令和の発表とともに紛れて恐る恐る。 令和の発表やらその他の話題に紛れて、夫はそのメッセージをあろうことかすっ飛ばしていた。 その後無事伝わったようだが、反応が至極薄い。 お気に召さなかったのか。 かえるくんは、ぐるんぐるん、もごんもごん、ぷちぷち、ぶるっ、ぬおーん、どぅるっ、と腹の中で蠢きが大きくなっている。 私は非常に疲れやすく、ひと駅分ほども歩くとひーひーとなる。 歩くのも遅くなって、途中カフェで休憩を挟まないと家までたどり着けないこともある。 妊婦であることは、私の想像よりもはるかに身体への影響が大きい。 無事に行けばあと三か月。 これから始まるテレビドラマの新シーズンの最終回とともに私の妊婦生活も終わる。 全然調べていないが、何か良いテレビドラマがやるだろうか。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|