そう言えばいつの日からか、口内炎がほとんど、というか全くと言っていいほどできていない。
昔はよく、口内炎が痛くてみそ汁が飲めないとかみかんが滲みるとか、そんなことがあったように思う。 口内炎パッチという直接口内炎に貼るものをもらって、それを貼ると人工の被膜によって患部がカバーされ、痛みから解放されたのは感動的なできごとであった。 いつから私は口内炎と決別したのだろうか。 口内炎パッチは、新卒の頃の先輩との思い出であったような、ないような。 不意に現れる口内炎もあれば、何かを食べている時に口内を自らの歯で噛んでしまった傷からの口内炎もあった。 思えば口内をぐきっと噛んでしまって血の味が滲んだことが幼い頃にはたくさんあった気がするのだが、そんなことはもう全然起こらなくなった。 これは、食べるのが上手になったと言っていいのだろうか。 ちなみに口内を火傷することはたまにあるのだが、口内炎といえるものまでには発展しない。 そう言えば肌が昔よりあまり荒れなくなったということもある。 粘膜も皮膚も、内膜であるか外皮であるかの違いで、おそらく炎症が起きる仕組みは似たようなものだろう。 肌荒れしなくなってきたずっと前から口内炎はできていないような気もする。 それはたぶん、栄養状態などといった状況もあるだろうが、精神的なことが大きいのではないかと思う。 自分は精神的に病んでいる、あるいは自分の精神に反する行動をしている、という少しの自覚のないままにストレスを被っていることはものすごく多々あることだと思う。 たぶん私はそうだった。 いかんせん、無自覚で、確固たる認識がないものだから渦中にいても気付けないし、過ぎ去った後である現在においてもあくまで推測の域を出ない。 私は日々それなりに楽しくて、それなりに頑張っていて、時々やりたいこともできていて、友達もいて、恋人もいる。 家族も友達も、そして自分自身も、私のことを特段心配してはいない。 そんなことが、例えば、あったとする。 しかしながら、本当は自分に馴染まないものを馴染んでいると思い込ませていたとしたら、そのツケはおそらく身体に回ってくる。 精神は精神だけを蝕むものではない、身体が何らかの形で反応を起こす。 全て、病は気から、ということはオカルトすぎると思うが、私はこのことは結構強く結びついていると思っている。 私の身体を以てして、口内炎ができなくなったことや肌荒れをしにくくなったことを体感している。 しかしながら、一度何かの呪縛から解けて一旦体も健康になったと感じても、また新たな呪縛の囚われの身になっている可能性もある。 日々それなりに楽しくて、それなりに頑張っていて、時々やりたいこともできていて、友達もいて、恋人もいる。 仮にそうだとしても、だ。 ポッと空いた時間に、「さぁて、何しようかな」と考えて、それが自分自身にヒットしたときの充実感、多幸感を味わいたい。 「さぁて、何しようかな」ということ自体が、最近減っている気がする。 「さぁて、何しようかな」と、今ブログを書くことを選択し、それなりの量のログを残せたことは簡易的な満足をもたらしている。 このようなとき、私は大抵、家でひとり缶ビールを一本空けていることが多い。 依頼いただいた校歌を書きあげて、裏打ち業者に出し、納品。 私のせいでちょっとしたトラブルもあったのだが、無事に喜んでいただけたようで本当に良かった。 依頼いただいたのは愛知県の専門学校だったのだが、後日書と一緒に学生さんたちと写真を撮って送ってくれるそうである。 辺境なHPを見つけていただき、依頼してくださったことは大変にありがたく思う。 SNSではなくても、こういった形で自分のHPを持っていたことには意味があった。 もとより、依頼窓口がなかったとしても、自分のギャラリーは作りたいとは思っていたが。 帰郷の際はぜひ学校にお立ち寄りくださいと仰る。 ぜひお伺いしたいですと答える。
0 コメント
さてさて慌ただしい日々である。
新居の方に荷物を少しずつ運び入れている。 家の来る方々は皆、物が少ないですね、と言う。 確かに物は少ない方だろう。 物を溜めこむのが好きではない自覚もある。 しかし、引っ越しともなるとわらわらわらわら出てくるのが、持ち物というものである。 これを心の贅肉とでも言おうか。 心の贅肉が自分に付いていると自分に言いたくなる、というところが肝であって、物持ちの人が心の贅肉の巨塊を持っているということではない。 とにかくその人にまつわる色んなものがあるのが、住居というものなのかもしれない。 出来るだけ物を少なくシンプルに暮らしたいと思っていて、ある程度要らないものを削った生活をしている気がする。 がしかし、書道家なんてやっていたらミニマリストには到底なれない。 墨は一種類で良いとは言えないし、異なる筆にはそれぞれの面白さがある。 黒だけでなくて白でも書きたいし、羊毛筆も面白ければ兎の口髭筆も竹筆も楽しい線が出る。 紙は消耗品だからいつも大量に仕入れてある。 たまに使いたくなる色紙もあれば、何かの時に遊んで書くかも木の板とかお菓子の箱とか、そんなものまで保管するようになっている。 命名書の額やら、賞品の立派な額やらもある。 まあでもそれを削ったら私の糧を削るも同然なので、ミニマリスト的だとたまに言われることがあるが私は全然そんなではない。 カフェに手袋を忘れてきた。 私は晩秋から初春まで割と長い期間手袋をしている。 「先生、手袋をお忘れではないですか?」とレッスン後にメッセージをいただいたとき、あんな汚いものを置いてきてしまったか・・・と少し恥じた。 私は手袋は自転車に乗るのでガンガン洗いたい、という一心で毎年100円ショップのマシュマロタッチのような手袋を使い捨てている。 さっぱりオシャレではないことは分かっているが、温かいし洗えるし肌触りも良いし100円だし、と言うことがないどころか褒め称えたい。 多少汚れてきてしまったのでもう明日洗おうと思っている、しかも1シーズン使い倒している、そんなタイミングで他人様にそれを拾われてしまった。 「もう要らないので捨ててください」と言おうかと思ったが、向こうも人の手袋を捨てるのは忍びないだろうと思って言わなかった。 保管させるのも同じくらい申し訳ないけれども。 そんなわけでここ3日ほど、手袋なしで過ごしていたのだが、本当に辛い。 こんなにも手袋様は私に温かさを与えていてくれたのか。 貴方がいなくなって、私は、かじかんで霜焼けになりそうな手を片方ずつ、代わりばんこにジャンパーのポケットに突っこんで自転車をこいでいます。 貴方なしで持つスーパーの袋のなんて重いことでしょう。 貴方の役目だった、自転車のハンドルの汚れを吸着することは私の素肌が行わねばならなくなっています。 近くの100円ローソンでは防寒用の手袋はもう置いていないとのこと。 コンビニには800円くらいのものが置いてあったが、渋ってしまった。 結局失くして3日後の今日、通りがかった西友で軍手のような、ゴルフ手袋のようなピンクの手袋を300円で買った。 たぶん、4月はじめくらいまで使うと思う。 引っ越しに伴い、作品の整理を行う。
年末にも少しやったけれど、今回はもっと奥まで、過去まで。 ブルーハーツやハイロウズやくるりやゆーみんなどの歌詞を書いたものがわんさかと出てくる。 一枚数百円もの紙を使っていたり、至極面倒な紙継ぎをしていたり。 今思えば、創作意欲に満ち溢れているというよりかは、自分の心を引っ掴まれたものをただただ書きたかったのである。 ”書道”を志していたのではない、写経にハマっていた、と言うのが一番正しいと思う。 この頃に書いたものは同じ題材を複数枚書くということが少なかった。 字を練り上げたり、空間を調整することもほとんどなかった。 とにかく“今、この瞬間、私が書いた”ということだけに、何より私自身が心酔していたということだろう。 ちなみに今はたった4文字ほどを時に50~60枚書いたりする。 書作は日記の代わりになるので、色々とあの頃の気持ちや匂いを思い出す。 あの頃、4年ほど前の私は実に頭が飛んでいた。 阿呆な意味で、無敵だったかもしれない。 自分で思い返してみても、他人から見ても、たぶんものすごく変だったのではないかと思う。 しかしながら数年経った私は、あの頃の作品を観ながら、何て浅薄な線を引くのだろうと思う一方でとても愛おしく思った。 ちょっとだけ羨ましくも思った。 ついでに、書は本当に上手くなったなと思う。 まだまだ全然マジで本当にダメだとも思う。 本格書道からすれば不味い作品たちを選り分けながら、涙がこぼれそうになった。 それがなぜなのか、判然としない。 過去の私と全く同じ気持ちをもう味わえないだろうことへの落胆なのか、今の私への後ろめたさなのか、そんなところだろうか。 あの頃の噴火のごとき体験は、私の中の土台としてとても大きなものを築いた。 脈々と続いている時の中で、大きな旗を立ててきた場所のことを振り返って、私はまた書きたくなった。 もう遊びでしか他人様の歌詞は書かないと思う。 シンプルイズベスト、というようなものも今の私としては違う。 何を書けば良いのか、それが今の課題である。 夜、依頼を請けているとある学校の校歌を書く。 たいそうなことである。 こんな辺境なHPから、ぽつぽつと依頼をいただくことが増えてきた。 ちゃんとやっていこうと思う。 おでんにちょい足し、と書いてあったセットを何となく買ってみる。
えびワンタンと水餃子とがんもどきがちょこちょこっと入っている。 別におでんの大元が家にあったわけではなく。 おでんを新しく作る気もさらさらなく。 家に戻ってフライパンに水を入れて熱し、湯船くらいの温度になったところでおでんにちょい足し具材をぼとぼとと転がし入れる。 湯船くらいの温度で入れることが良いのかどうかは知ったことではない。 ただ、フライパンに水を入れてIHヒーターのスイッチを入れてから、着替えとトイレを済ませてきたらそのような状態だっただけだ。 いつからあるか分からない妹にもらったかつお粉を多めに入れて、塩もささっと。 冷蔵庫にあった豆腐をスプーンですくって入れ、えのきだけの石づきを落としてほぐして入れる。 沸騰してきたら灰汁が出たので軽く掬い取る。 料理酒は具材や塩などを結ぶ、あるいは繋ぐ役目があると思う。 酒を入れるべき料理で酒を入れないと、具材がそのままの存在で独立してしまって、味がなじまない。 多くの料理酒は米由来であると思うが、友人があるときに焼酎を料理酒代わりに入れていたことがあった。 料理酒でなくて普通の清酒であればそれに使ったことがあるが、焼酎を入れて同様の効果が得られるのだろうか。 「米の旨味じゃなくて、麦や芋の旨味が加わるだけで、作用は変わらないんじゃない?」と友人は言っていた気がする。 となると、料理酒で大切なことは減量よりもアルコールということになる。 確かに欧米の料理であればワインで煮るものもたくさんある。 そのときに友人と食べた鍋の味がどうだったかは残念ながら覚えていない。 そんなことがあったなと思い返しながら、ちょうど料理酒を切らしていたので、1センチほど残っていた焼酎をフライパンに全て注ぎ入れた。 湯気は焼酎の匂いがした。 その後、醤油とみりんも少し入れて味を調える。 いろんな作用が考えられるからよくは分からないけれど、それに、焼酎の作用が全然だめというわけでもないのだけれど、やはり普通の料理酒、清酒の方が良さそうに感じた。 普通の料理酒、清酒の方が味が具材と塩を結び繋ぎ抱き込んで、丸くなるような気がする。 まあ些細な違いではあるけれど。 器に盛って一味を振って。 元々、水餃子やワンタンの皮が好きなのだが、煮込まれたそれらはたまらなくてろんてろんになっていて気持ち良くて美味しい。 もしも腕のあたりに乗せたら、ぺたあぁと吸いついてくるような薄くて柔らかな皮が好きである。 熱いし、食べ物だし、腕のあたりに乗せるなんて機会はやってこないと思うけれど。 今冬はごった煮をあまり作っていない。 けれども時折ごった煮らしきものを作るとブログを書きたくなる。 もう少しまともな日常がないのか、と思う反面、これが私のまともな日常なのである。 「生まれながらのごはん狂」というフードエッセイストの女性を取り上げた番組を観た。 「美味しいだけがごはんじゃない」「まずくても楽しい」、というのはとても共感するところがある。 もちろん彼女だって「まずいものが食べたい」ということではないだろうが、作る、食べる、ということの周辺エピソードを取り込んだ“食”には、人生を抱き込むくらいの大きさがある。 そんな食への敬意に満ち溢れた人だった。 私は「生まれながらのごはん狂」と言うほど食に時間を割けないけれど、食べる、という実に多面的で巨大な行為には大いに興味がある。 先日高校時代の友人とクロマニヨンズのライブに行き、また違う先日大学時代の友人が子どもを連れて自宅までやって来た。 あの頃のように、延々延々と喋っている時間は今はお互いにないけれど、それでも気の置けないお喋りは最高級の遊びである。 出会った頃、何を嗅ぎ取ってお互いが近寄ったのか、たぶん発する言葉に自分と似たニュアンスを感じたからだと思う。 それは言葉そのものの記号的意味だけではなくて、その人の言葉を扱う姿勢だったり、物事の考え方の方向性だったり。 言葉だけがコミュニケーションではないけれど、でもお喋りが何らかの障壁無く滞りなく交わされるときはすごく嬉しく思う。 そのことにやはり価値を置いていたのだなあと、改めて認識する。 こんな寒い日に。
こんな寒い日に。 電気ひざ掛けが壊れたではないか。 これまで何の不具合もなく、一切の前触れもなく。 電気が入らなくなった。 電気ひざ掛けは愛読していたブログで紹介されていたもので、そのレビューの通りものすごく使い勝手よく、毎冬多大なる温かさを享受してきた。 ひとりこたつ、と呼んでいた。 とっても温かいのはさることながら、コンパクトで電気代も安く、さほど乾燥もしない、そして洗濯が可能。 電熱線のようなものが切れたのだろうか。 ショートしたのだろうか。 接触不良だろうか。 とにかく電気が入らない。 思えば神楽坂のあたりに住んでいたころから使っているので5年ほどは使用しただろうか。 このようなものは5年くらいが寿命なのか、どうなのか。 頭に眼鏡をしながら眼鏡を探しているような現象だといけないので、プラグがきちんとささっているかも確認済みである。 amazonで同様の商品を即座に注文し、悲しみのボルテージをエアコンの温度に転換して26度に上げた。 室温が上がって快適にはなっているが、空気がばりばりと乾燥し始めた。 外は霙が降っているから、窓を開ければ湿度が上がるのかもしれない。 当然、極寒である。 それにしても寒すぎやしないだろうか。 テレビのニュースは、暑くても寒くても「危険だ危険だ」と言う。 リポーターは極寒の駅で霙に晒されながら人々が帰宅するのを神妙な面持ちで伝えている。 こういったニュースを見ると鬱々とした気分になるのでチャンネルを即座に変えてしまう。 「危険だ」と伝えるその半分くらいの時間を、電気ひざ掛けや転ばない靴底など、リポーター個人のお気に入りの防寒グッズを熱を込めて宣伝でもしたらどうだろうか。 そのグッズのプロではない個人が、実際の所有物を「本当に買って良かった」と、事細かな個人的感想を交えてニュース番組内で言えば結構売れるのではないかと思う。 所謂家電芸人がそのようなことをやっているが、ニュース番組の中でやれば切実度も上がる。 大事なことは、あくまで本人が本当に感じている個人的感想を、「危険だ」と伝えるニュースの中でやることである。 広告としてやるのであれば、テレビの場合そこからの購入者数を計りづらいので、どの地点を料金として定めるかは難しいところだと思うけれども。 ちなみに私は何の回し者もやっていないが、実際に私の紹介で電気ひざ掛けを買った人は2人いるし、茶香炉を買った人は5人くらいいる。 私の個人的感想のみならず、実際に体感をしてもらっていることが大きいけれど。 さて、最近は選択の連続である。 選択に継ぐ選択を迫られている。 がんばっている。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|