当たり前になった朝ごはんを息子と一緒に食べる。
昨日いもうととテレビ電話をしていてごはん中の息子を映すと、全然嬉しそうに食べないね、と言われたが、確かにそうかもとも思う。 しかし全然食べなかったときに比べれば、納豆ごはんを茶碗半分ほど食べるわけで、しかもスプーンを口元に持っていけば口を開けるわけで、立派なうんちもほとんど毎日するわけで、もうそれだけで私は何の文句もない。 美味しそうに、嬉しそうに食べるのを見てみたいと思うのは、贅沢だろう。 ところでおっぱいはもう嬉しさに満ち溢れた顔で寄ってきて、口で抱きかかえるかのような様子でぱくっと吸い付いて、夢中で吸う。 私は息子の味わっているおっぱいの感触や母乳の味を想像して、羨ましく思ったりしながら乳を授ける。 以前からあまり出ていない私の母乳は最近輪をかけて出ていないのだが、この様子を見ているとなかなか断乳に踏み切れない。 私はもう軽く10年以上、基本一日二食の生活を続けてきたが、息子を産んでからはそれなりに起きるのが早くなったので朝ごはんを食べている。 朝は食べないと始まらない、という言葉を聞いて、そんな当然のように言わなくてもそうでない人もいるさと心の中で思っていたが、確かに朝ごはんが習慣化すると食べないと始まらないと言いたくなるのも分かる気がする。 自分が少数派の意見を持つとき、多数派の意見に押され疎外感ゆえそれに卑屈に反発しがちになることはよくあるのでは無いかと思うが、当たり前が違うことを認める姿勢を示すのは、多数派も少数派も双方向的に同等に行わねばならないなあと思う。 息子の長い長い朝ごはんを終えて、床を拭き掃除する。 クイックルワイパーも、マキタの小型掃除機も、ルンバもあるのだが、やはり人間の手による水拭きに適うものはない。 息子が這いずり回るのでここのところ2日に1回以上吹いている。 息子の食べ飛ばしやら、お菓子の屑やら、私の髪の毛やら、埃やら、私も這いずり回って吹いていく。 ボロ雑巾にしている使い古しのタオルを切って使い切ってそのまま捨てているので、使い古しのタオルが減って嬉しい。 掃除の回数が増えたことを、「息子のためを思って」と言ってしまいそうになるが、頼まれているわけでもなくやっぱり自分のためにやっているなどど考えながら床を拭く。 息子が埃を吸い込んでアレルギーを起こさないように、病気にならないように、と思うがある程度埃のある方が結果的に強くなったりするかもしれないという話は様々に尽きないので、もう自分の気の済むようにやれば良いのである。 しかしながら、床を拭いたときの掃除達成感は、誰かに伝えたい類のものであるので、こうして書いたり、夫に「今日も床を拭いたよ」と報告したりする。 夫は床が少々汚れていることをさっぱり気にしないらしいので、私の床拭き達成感を押し付けられるのは、感謝するどころかやや鬱陶しく思っているのかもしれない。 さて、コロナのせいか否か、置き去りになっていた保育園申請の資料に手をつける。 こういった役所の書類が山登りのようで本当に苦しすぎるのだが、勢いで始めて意を決して最後まで登山することにした。 ついに息子と長時間離れるときが来るのだろうか。 そう思うと途端に悲しくなって堪らなくなる。 ならば預けなければ良いのだが、いよいよ、本気で、ひとりにもなりたい。 仕事も思うようにしたい。 緊急事態宣言が明けそうな今日、明日とか明後日とか、役所に出向いて書類を提出するのだ。 するのだ、するのだ。
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溢れんばかりではなく、溢れるばかりの愛情というか、猫可愛がりが息子に対して出てしまうときがある。
「かわいいねえかわいいねえ。あらーもーぶちゅうー」と発しながら果敢に息子に迫っていくと、「やめろよぉ」と言った様子で、しかし満更でもない様子で手をばたばたさせている。 私がじたばたしてしまうくらい可愛いと思うときがある。 これまで、大人になってから犬などのペットを飼ったことはなく、小さき存在が四六時中そばに居るのは初めての経験と言って良い。 もし犬や猫などのペットを飼ったら猫可愛がりするのかどうなのかは分からないが、今この息子に対して臆面もなく猫可愛がりできる、ということがとても幸せである。 私の溢れるばかりの猫可愛がりを何だかんだ余すところなく息子は受け取ってくれるわけで、私の表現の一旦がきちんと昇華されていくようである。 まあ無論、そういう気持ちになっているときばかりではないのは、私が息子とは別の個体の人間であるからだ。 共有したり共鳴したりはするけれど、当然ながら、違う身体を生きているのである。 最近、機嫌が悪くて離乳食が食べ進まないとき、夫とふたりで、思い切り拍手をして「わーすごい!おめでとうございます!!素晴らしい!きゃーーフゥーー!」と騒ぎ立てると、なぜだか分からないが自分が祝福されているのだと勘違いするようで、「おれ?おれ?すごい?やっぱり?」といった照れる顔をして機嫌を取り直してごはんを食べてくれることがある。 また、こちらが笑えば笑うし、おちょぼ口をするとおちょぼ口をするし、「ねんねんねんねんねん」という発声をすると「ねんねんねんねんねん」と返してくれる。 また、思い通りにならないときは、「ん゛ーーうやーーー」と仰け反る。 だいぶ感情が発達してきているようである。 それでいて、喋らない、喋れない、というのはなんだか不思議で、特に息子が怒っているときは大人よりもフラストレーションが溜まるだろうなあと心配してしまう。 でもまああまり記憶はもたないようで、切り返せばすっきり顔なので、こちらもあまりそれの心配はしないようにしている。 離乳食は、どろどろにすれば様々な種類のものが食べられるようになってきた。 納豆も刻めば食べる、素麺も短く切れば食べる。 素麺は茹でてから刻んでも良いが、息子用に予めバキバキに折って短くしてしまうことにした。 バリバリバキバキ、細かく砕く作業は、やってはいけないことをやっている気持ちがした。 また、素麺を細かく砕くのは、新食感ならぬ新触感であった。 未だに少しでも固形物があると飲み込むのが苦手のようで、うどんは細かく切ってもオエッとなって食べられない。 離乳食の相談に乗ってくださった方が「喉が狭いと飲み込むことの大変」と教えてくれてなかったら、オエッとなる原因が分からずに不安がっていたかもしれない。 子どもがこんなにも可愛いものだと、知らなかった。 しかしひとつだけ、息子が産まれてしまったと思うことがあって、それは息子に今日も明日も明後日も明明後日もずっと会いたいということである。 こんなにも大切なものを作ってしまって、失えないものを作ってしまって、そのことを心底憂えて怖くなる時がある。 一般的には親より子が先に死ぬなんて、と思うが、明日死ぬ可能性は誰もが持っている。 現に私の父は私の祖父母よりも随分早くに死んだ。 私は、とてつもなく大きくて、今は小さき存在を生み出してしまったようだ。 息子を自分の所有物のように思うのは嫌だけれど、やっぱり宝物と言わざるを得ない。 夫がテレワークで帰宅が早いため、寝かしつけをしてくれる。 息子はぐっすり、外はやけに静かだ。 自粛中の都心は、みな早くに寝静まっているのだろうか。 色々と整理したいところがあってもなかなか手につかない。
家のクローゼットの中や本棚や、最たるはスマートフォンやクラウド上に保存している画像ある。 そういえば、このHPも大幅に改修をしたいと思っていたことを今思い出した。 ひと口に、忙しい、とは言えないこの日々である。 この日々、とは主にコロナの日々ではなく、息子との日々である。 家事と仕事と息子のお世話全般が絡まった状態で、それらをちょっと強引に前に押し進めている。 息子のお世話全般を絡めながらやると、効率の悪いこと、悪いこと。 そんなこともまあ良いかなと思いながら、整理ごとが片付かないのは残尿感とも言うべきすっきりしない感じがどうしても蔓延る。 世の子育てをしている人たちがこんな暮らしをしていたとは、実際にやってみないと分からないものである。 いもうとの子育ての愚痴は少しは覚えているがあまり覚えていないのは、私にその興味がさっぱりなかったからだろう。 いもうとも私に言っても無駄だと思っていた節もあるだろう。 雨のコロナの土曜日、夫もいるので少しだけ画像の整理をする。 日々の書の画像に加えて、息子の写真が膨大になってきていて、それが一緒くたになっていることは私にとってストレスである。 種類別に簡単にフォルダ分けしているが、溜めてしまうとやる気も失せる。 毎日ほんのちょっとの面倒を取るように心がけたいところである。 また、iPhoneの画像の保存形式がheicという拡張子のものになって、さらに面倒が増した。 このブログの画像アップロードがいまだその形式には対応しておらず、その都度jpgへ変更せねばならない。 さらに使っているドロップボックスの容量がいっぱいになってきており、毎度もうすぐ容量オーバーになるので課金して容量を増やしませんかというお知らせが来るのもうんざりしてしまう。 Amazonプライムの方のストレージに乗り換えようか。 色々、諸々、腰を据えて大掛かりに整理をしたい。 しかし、今この文章、息子の速さを増したはいはいを見ながら、息子の行く先を制御しながら書いているが、実に散漫である。 元々書くことが無い無いと思いながら書いていたことということもある。 雨雨降り降り、正午を越えた。 どんより曇って靄がたっぷりだが、その向こうの太陽はいたって元気、雲が眩しい、プール開きの日の匂いがする。
息子は寝汗をじっとりかいて、起きていても髪の毛に熱がこもるようになった。 ふぁさふぁさ、と髪を手で仰ぎ触ると気持ちよさそうにしている。 息子が随分早起きで6時頃、1時間ほど、ティッシュを引き抜いたり、私の顔に乗りかかってきたり、おっぱいを飲んでみたり、ついにはにこにこ笑いながら私の髪の毛をぶちぶちと抜いてくるので「やめてやめて」と声を上げると、既に起きていた夫がリビングに息子を連れていってくれた。 「おかあさんといっしょ」の刑に処されるのだ。 しかし録画の連続再生ができないので、夫が出勤直前に再生しても30分で終わってしまう。 そうなると寂しそうに呼ぶので私も起きざるを得ない。 8時前、私はようやく必死で起きて、私が昨夜寝たのは2時過ぎである、着替えたり洗濯物を片付けたり朝ごはんの準備をしたり夕ごはんの準備をしたり。 私はトーストとヨーグルトとコーヒー、息子はたらとじゃがいもと玄米のどろどろとコーンペーストと私のヨーグルトも少し、の朝ごはんを食べて、眠そうな息子がいる。 しばらく椅子に座らせたまま、リアルタイムでやっている「おかあさんといっしょ」を見させて、私は夕ごはんの続きを拵える。 とりあえず、玄米を研いで浸水し、油揚げと糸こんにゃくと豆腐の炒め煮、鶏出汁のお味噌汁を作る。 鶏出汁というのは、鶏むね肉を茹でるついでにそのまま味噌汁にしているだけである。 一応一汁三菜を目指していて、もちろん切っただけの冷やしトマトなども一品に数えるが、朝に汁物と何か1、2品は作ってしまう。 煮物は味を含ませるために一度冷ましたいので朝に拵えることが多い。 相変わらず、毎日、コンセプトと完成図のない一汁三菜が並ぶことになる。 息子が椅子から下ろせと言うので、ベビーサークルの檻の中に入っていてもらう。 しばらく静かにしているなと思ってのぞくと、水を入れてあったストローマグの蓋を開けて服までびしゃびしゃになっている。 これは4日連続の惨事である。 まあでもこれがうんちでは無いのは全く気が楽で、そうなると分かっていても毎日ストローマグを渡したまま目を離してしまうのだが。 下着まで濡れているので全て脱がせて着替えをする。 暑いので半袖を着させると、何だか赤ちゃんではなく幼児になった感じで、一抹の切なさを思う。 そう言えば昨夜、西松屋のオンラインショップであれこれと息子の夏服を買った。 今までは有難いことにほとんど出産祝いなどの頂き物でまかなっていたが、これからの夏ものがあまり無いのである。 今の息子に服の趣味はないので私が着させて楽しむだけだが、購入した甚平を着せるのがとても楽しみである。 さぞかしさぞかし、可愛いだろう。 着替えてぐにゃぐにゃしている息子は積み木に頭をぶつけて大泣きするので、おっぱいを差し出すと咥えたまま寝入った。 窓からのぞく曇り空を見ながら、私もベビーサークルの中で横になり、眠いけれど眠れそうにないのでこれを書いている。 蒸し暑いけれどまだまだ夏は浅く、時折心地よい風が吹き込んでくる。 新緑の香りを纏った、大好きな5月の香りである。 昨日は、母の日であった。 母の日、そうか、私が母か。 私の母には孫写真のカレンダーを作って送ったけれど。 もちろん、今年の息子が意図的になにかしてくれることは無いが、母の日が受動なものになるなんて何だかさっぱり実感がわかない。 やっぱりまだ、私は“親”という実感が乏しい。 さて、カーネーションでも、その辺で摘んだたんぽぽでも、もらえる日が来るのだろうか。 もそもそと息子が動き出したと思ったら、くるりと寝返りをしてうつ伏せになり顔を上げ、寝起きでにっこり笑っている。 枕にしていたグレーのカバーのクッションが濃いグレーになって濡れている。 息子はべたべたと私にまとわりついてくる。 邪魔だし、暑いし、可愛いし。 久しぶりに服と靴を買った。
というか、久しぶりに違う服を着た。 ここ数ヶ月、毎日まいにち、全く同じ服をずっとずっと着続けていた。 もちろん靴も。 紺色のシャツと、ジーンズ風スキニーのような。 元々、会社員を辞めてからと言うもの、毎日同じ人に合わないので日々同じような服を着ていたが流石に全く同じ服を来続けているのはなかった。 毎日同じ服を着ているということは、かつて、特に夏に財布の入るポケットのない服装で近所に自転車で飲みに行くのなら、小さなバッグよりも小さなビニール袋の方が良いと豪語していたことと近いものがある。 冬はコートのポケットがあるので手ぶらで良い。 誰ひとり、賛同を得られなかった。 ちなみに、妊娠してからは飲みに行かなくなったことと、ベビーカーや抱っこ紐がバッグ代わりになっているので、相変わらずバッグを持って出かけない。 この際、破れるまで着て、破れたら服を変えようと思っていたが、色褪せてはきたものの、なかなか破れない。 ジーンズ風スキニーの方は随分とよれよれになったが。 アップル創始者の故スティーブ・ジョブズも、服を選ぶ時間がもったいないという理由で毎度同じ服装をしていたときいたことがあれば、あれは同じと言っても、何着か同じ服を持っていて交換していたのではなかろうか。 私の場合は全く同じ服を毎日着ているけれども。 と言っても洗濯は夜なので、毎日洗ってはいる。 下着は二組を交互に着ている。 私は物を捨てるのは好きだが、所謂ミニマリストでは全然ない。 毎朝部屋に干したシャツとズボンをハンガーから取ってそのまま着る。 一連の行動がなんてエコなのだろうという自賛感と、女性としてどうなのかというほんの僅かな背徳感の狭間で何となく、自分が毎日同じ服を着ていることについて考えていた。 女性としてどうなのかなんて背徳感は、もう全く、その感じを持つこと自体が嫌だなと思う。 毎日同じ服を極めてナチュラルに着ながら、一体全体、どこにそんな自意識があるというのか。 それに、「女性として」という言い方も嫌である。 男性だって女性だって、体の性差と違って、衣服への行動は法を守っていさえすれば自由で良いはずである。 まあ法外であれば捕まる可能性があるというだけだが。 衣服のこだわりは他人の目線を気にするなら、このように思われたい、だからこの服を着る、それで良いと思うのだが、服のおかげをもってこのように思われたい、ということが今の私にはほとんど無い。 変ではない、動きやすい、汚れても良い、すぐ乾く、すなわち気楽な服であれば何でも良い。 しかしながら、衣服についてこれだけ考えているのだから、私は衣服から完全に自由というわけでは毛頭ない。 何物にも囚われない自由な状況、というのは何においてもそう簡単なものでは無い。 私は御籤や占いが好きではなく、それはそんなものに左右されてたまるかという気持ちからだったのだが、そうやって大袈裟に拒否をすることはそれに囚われていることを真っ向から証明するようなものである。 しかし、実際に十数年ぶりに恐る恐るひいてみた御籤の結果を数日後にはきれいさっぱりに忘れていたということがあった。 たぶん私は御籤の類からは自由になれているのではないかと思う。 そうすると、時にはエンターテインメントとして御籤を楽しめるようにもなるのである。 それに、服そのものや“可愛い”ということに興味がないというわけではない。 だから、気温も上がってきた最近を鑑みて、服を買ってみることにしたのである。 授乳できる、家で洗濯できる、着るのが楽、という条件はあるが、ブラウス3枚とスカート、それと日除けの帽子も買った。 早速生成りのブラウスを着ている今日だ。 紺色よりも涼しげだろう。 うるさかった前髪も自分で切った。 明日はマスカラでも塗るのか。 玉ねぎをまるまるひとつ、ミキサーでジュース状に。
僅かに残っていた柚子酢と醤油とみりんと砂糖と黒胡椒とオリーブオイルを入れて火にかける。 くつくつ、ぽこぽこ、沸騰させながら味を見て醤油を足したり、砂糖を足したり。 鶏ソテー、豚ソテー、牛ソテー、小松菜やほうれん草など、とにかく何でもソースやドレッシングに。 それから大根半分をひたすらにごごごごごごとミキサーにかける。 鶏もも肉のみぞれ煮、豚しゃぶ、豚ステーキ、納豆おろしパスタ、鯖の塩焼きの添え物などなど。 おろし玉ねぎも、おろし大根も、流用性が高くてとても重宝する。 慢性的な緩い育児疲れで頭が働かないこともたくさんあるので、このようにかけるだけでドレスをまとったような豪華さと美味しさになるものは頼もしい。 息子の3食と、我々親の2食を用意するのはそれなりに大変である。 何がそう思わせるかというと、時間が決まっているからである。 自分がお腹が空くとか空かないとかではなく、ごはんの準備をせねばならぬのは結構骨が折れる。 ごはんのために起きなければいけない、ごはんのために散歩から帰らなければいけない。 もちろん、買い出しや料理の時間などを鑑みて行動せねばならない。 一日がごはんのために制約されているようだ。 息子はあまりお腹が空いたというアピールをしないので、こちらが時間を見て与えないといけない。 離乳食開始前から少食というか、食に興味が無いのは相変わらずで、虜になってしまいそうなりんごジュースやスナックパン、カッププリンなど、もう何でも食べられそうでカロリーがとれそうなものをあげるのだが、虜になっている感じはない。 それらは気が向けば食べなくもないが。 鉄分、カルシウムが不足しがちということで、ウエハースを買ってみるが、始めて1週間ほどは食べたが、最近はめっきり食べなくなった。 仕方が無いので、未だどろどろのお粥に粉ミルクを混ぜこんでいる。 唯一息子がコンスタントに食べる好きなものは、コーンのペーストである。 キューピーの瓶詰めが割高なので、最近はコーン缶を買ってきて、ミキサーにかけて裏漉ししている。 ちなみに、裏漉しというのもほとんど初めてやる料理工程であった。 息子が食べるのを、がんばれがんばれと励ますけれど、自分に言っているのかもしれない。 今夜も明日も明後日も明明後日もずっと、がんばれがんばれ、ゆっくりでもがんばれがんばれ。 けいこが昔、「1時間かけて作っても食べるのは5分」とか「一日中ごはんのことばっかりやらんといかん」とぴりぴりしていたことを思い出すが、実家は最も多いときで8人が住んでいたのでどんなにごはんに支配されていただろうかと思うとゾッとする。 CoCo壱番屋でカレー弁当を買ってくるにしても、8個を買ってくるなんて考えただけで注文も面倒だし何より重くて泣きそうである。 ごはんを作ることも買ってくることも本当にどうしても嫌なら止めればいい、それは正論であり、それを行使する勇気と決断はいつでもできるようにしておかねばならないと思うが、やはりそれをすることはハードルが高いのは今自分が親になって初めて身に染みて感じるところである。 さて、息子が寝ている間以外にもブログを書けるようになってきた。 「おかあさんといっしょ」「いないいないばあっ」を観せている間である。 音がうるさいので気が散るが、書けないことはない。 二番組とも録画をしているが、一日に20回くらい観せている気がする。 本当に吸い寄せられるように、ベビーサークルにつかまって観ていてくれるのでそれはそれは助かる。 息子が騒ぐ時は「いないいないばあの刑に処す」と言ってビデオを再生する。 私も時々一緒になって見るが、わんわんもはるきちゃんもおにいさんもおねえさんも、本当に素晴らしい。 絶えず壊れない満面の笑顔と、指先まで神経の行き届いた軽快で大きな動き、底抜けの体力も収録が終わると能面のように動かなくなってしまうのではないかと余計な心配をしてしまう。 「みんな、げんき〜?」「ゆういちろうおにいさんも、あつこおねえさんも、げんき、げんきー」という甲高い声をつい真似したくなる。 映像等の技術がどれだけ発達しようとも、この番組のやっていることはあまり昔と変わらないように思う。 子どもは古今東西、このような仕立てが好きなのだろう。 変わったのは、コロナの影響ではるきちゃん以外の子供たちの出演が無くなったことである。 「ピカピカブー」というダンス?曲があって、大きな犬の着ぐるみとはるきちゃんとたくさんの乳児たちが踊っていたのだが、着ぐるみ犬とはるきちゃんとその他指人形のみになってしまった。 一年後、息子は走ることもできるようになっていると思うが、一体どんな世の中になっているだろうか。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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