ウィニーは日本に遊びに来るそのきっかけで私に連絡をしてくれたようで、今日の夜遅く、私たちは会うことになった。
もう全然、私は英語ができない。 読むことはだいたいできても、伝えたいことを英語にすることができない。 今でも昔覚えたスピーチコンテストの英文の一部を言うことができるし、英語の発音自体は嫌いではない。 しかし、改めて英語を作ることが全然できない。 お喋り好きな私としては、そもそもの言語的障壁というのは辛い。 googleに頼りつつ、遅々とメールを返信してようやく落ち合う場所と時間を約束した。 たぶんウィニーから見れば、ふっと笑ってしまうような言い回しが散りばめられたメッセージのやり取りだろうと思う。 また一文だけ、帰国子女で英語が堪能な生徒さんに訳してもらった文は、あまりにネイティブで小技が利いていて、いきなり誰が書いているのだ?となったことだろう。 自分なりに言い回しをダウングレードしようかとも思ったけれど、まあいいかとそのままコピペして送った。 私は日本語を話す場合、言い回しとニュアンスの方に重きを置いているので、そのままそれを英語にしようとするのは困難極まるのは当然である。 できるだけ簡潔に要素を伝える、ということに徹しないと会話が進まない。 一方で、やはり「慣れ」ということもあって、ウィニーからのいくつかの言い回しを見ていると思い出すこともいろいろあって、haveとかcanとかwillとかneedとかby the wayとかin order toとかatとかonとか、かつて覚えたことがふつふつと蘇ってきて、私もそれを使って返信をする。 ウィニーからのメッセージには、your を ur 、be は b 、am は m 、と書かれていたりして、そういうふうに書くのが通例なのかと知ったりもする。 見返すと、ウィニーはシンガポールでauditorをしているとあり、accounting firmで働いているというくだりがあって、私はfirmをfilmとなぜか読んだ挙げ句、さらに他の単語の意味がよく分からなかったので、カメラ関係の何かそういう仕事をしているのだなと恐ろしくも勝手に思い込んでいた。 今調べてみると、auditorは会計検査官で、accounting firmは会計事務所とのことだった。 とんだ勘違いである。 Can you drink? Oh yes, I can!!! 今頃ウィニーは空の上だろう。 果たして私は今夜、お酒を飲みながら彼女とうまく会話ができるのだろうか。 不意に、「ブログ読んでいます」と告白されることがあって、いつも少々どぎまぎしてしまう。 このブログの前にも2つ、10年以上もこんなことをやっているわけで、そういう告白は何度か受けてきてはいるのだけれど。 Facebookのように意図しなくても見られるものとは違い、ブログの場合は能動的にアクセスすることが必要なので独立性や孤立性が高い。 そんな離れ小島にわざわざお越しいただいているというのは、嬉し恥ずかし、と言ったところである。 それでもって、「面白いですね」と言われた日には、本当に幸いです、えへへ、ともなる。 もちろん文章がただ綴りたくて、何かが書きたくてやっているだけだけれど、最近はもっぱら、意味の無意味、無意味の意味、のようなことが何となくでも雰囲気的にでも伝わると良いなと思っていたりする。 言いたいことがあるようで、ないようで、意味があるようで、ないようで、私にもよく分からないのである。
0 コメント
なんだか結構本当に忙しくて、いっぱい寝てしまう。
肉体的疲労は寝ないと解消しないタイプで、しかしとてもたくさん寝てしまうので、それはそれでもったいないことをしたなあという気分にもなってすっきりしない。 痛くないときに厳密に痛いことが思い出せないように、忙しくないときには厳密に忙しいときの気分が思い出せない。 忙しいときというのは、こんな感じだったなあと他人事のように思ったりもする。 とか言って、いっぱい寝たり、ブログを書いたりもする。 29日から2泊だけ、いもうとに頼まれて姪たちと一緒に実家に帰省するのだけれど、それをめがけて、もう少しでお休み!という久しく味わっていないサラリーマン気分になっている。 いつもは特に休日を設けているわけでもないし、特に休日が欲しいとも思わないのだけれど。 いつも一泊もしないうちにお腹いっぱいになってしまう帰省だけれど、いつも帰省の前は少しだけ楽しみだったりもする。 帰省した翌日の昼ごろには「あぁもう東京に帰りたい」と本気で思って、程なくして新幹線に飛び乗り愛知県に背を向けながら爆走して東京に戻り、自転車を走らせて自分の部屋に戻る道中には「なんていい風なんだ」などと本気で開放的な気持ちになる。 どちらも確かなことで、この気持ちは何なのだろうと、ずっと保留している節がある。 少しの解放のための少しの抑圧を味わいに行っている、のだろうか。 私の身は戻る場所があって安全である、と思っている、のだろうか。 単にちょっと遠くへ行きたい、のだろうか。 どれも少しはそんな節があるけれども、どれもしっくりは来ていない。 寝過ぎて滞っている血流を回そうと、久しぶりにブルーハーツをシャッフルで流しながら片付けをする。 トイレを磨いて、お風呂を磨いて、床を磨いて。 床を水拭きしていると、ぴちっと小さく墨が飛んでいるところがいくつかあって、それをごしごしと力を込めて拭き取る。 「PAN」というアルバムはあまり聴いてはいなくて、あまり知らないなと思う曲が流れるとだいたい「PAN」の中の曲だったりする。 その中の「ながれもの」という曲が今日は引っかかって、良い詞だなと思う。 「ながれものには惚れてはならぬ」というのは、Oasis の「Don't Look Back In Anger」の中でも同じようなことを言っている。 部屋は随分とすっきりして、血流もどーっと回り出して、水を飲んで、ビタミンCを飲む。 作ってあったかき玉汁に鶏の手羽元を入れて再度煮る。 肉の下味、というのは付けるのが当然であるようだけれど、その効力を実際にあまり感じたことがなかった。 私が作るのはほとんど水分の多い煮物だから、肉の下味を付けたってスープの中に溶け出てしまうからスープの方の味を調整すればいい、と思っていた。 スープに水を足したので塩気をと思って、何気なく塩胡椒を手羽元に振ってから入れたら手羽元がとても美味しかった。 胡椒はピッタリ肉に張り付いたまま剥がれないのか。 おそらく塩も肉に浸透して味が付くのだろう。 珍しく春ドラマをいくつか初回から録画して観ている。 録画してなかった「ゆとりですが何か」を第2話を不意にリアルタイムで観たら、これが一番面白い。 なるほど、宮藤官九郎なのか。 私は、忙しいのではないのか。 デニーズのキウイフレッシュが人に伝えたいくらい美味しい。 ベンチを買って、ベンチが届いた。
ここ2か月くらい、ずっと座椅子に変わるものを探していて、ようやく一つの決断にたどり着いた。 座椅子の座り心地や見た目はとても気に入っていたのだけれど、やっぱり床に座るというのは立ち座りが面倒だということと、クローゼットの前に置いていてどかさないと扉が開かないというストレスがあった。 奥行きが取れないので、背もたれのないベンチが良いかなと思ったのだった。 ベンチにたどり着く前に、キッズソファや分厚いシートクッションや椅子単品やスツール2個などいろいろなことを考えたけれども、あるベンチの見た目に惚れたことが決め手となった。 ベンチを買うのにトータルで一体どれくらいの時間通販サイトをサーフィンしまくったろうか。 全部私の余剰的活動だけれど、展覧会への出品もようやく終えて今、人心地が付いた思いである。 私はなぜだか昔からインテリアショップを眺めることが実店舗も通販サイトも大好きで、それをし始めると相当に無駄な時間を過ごしてしまう。 特段詳しいわけでもないしそんなに高いものも変えないけれど、自分の部屋を作るのは好きだ。 服や美容関連の自分本体にかけるお金よりも断然比重が置かれている気がする。 ちなみに私の生まれ育った家は、インテリア、という言葉さえも発したことがないような家だった。 鮭をくわえた熊の木彫りの置物や、オーストラリアの形をした便のウイスキーや、誰かが何かをこぼした染みのあるこたつカバーや、ワイヤーで適当に括られたトイレの棚や、そんなものが一貫性を持たずに存在していた。 字が上手い人も、興味がある人も、いなかった。 シビラの花柄の布団カバーや用途が不明瞭な東南アジアかどこかの布やコンパクトなPC机など、とても長く愛用しているものもあれば、入れ替えも結構ある。 部屋の景観が乱れる、という理由で「カイジ」や書道用品がむき出しになっているのもなあと思ったりする。 いつか、いつか、彫刻の森美術館で座った衝撃の椅子、ハンス・J・ウェグナーのスリーレッグドシェルチェアが欲しい。 本体が30万円ほどであることもびっくりだけれど、あの大きくて豊かな椅子をおけるくらいの広いスペースのあるところにあれを置きたい、そして座りたい。 あれは本当に忘れられない。 そのために今また彫刻の森美術館に行きたい。 そのためだけではなくても、彫刻の森美術館に行きたい。 新しいベンチは、いささか座り心地がいまいちである。 背もたれという奥行きや深みが身体を支えるのだ、と納得がいった。 座椅子を捨てようかどうか迷い、壁に立てかけになっていて部屋の景観を乱している。 その前に出しっぱなしの書道の下敷きを片付けた方がいい。 さてはてここからどうしようか。 コンビニのおにぎりを歩きながら二つ頬張った日、とても疲れてはいたけれどもう本当に出品が明後日で時間がないので、普段ならその辺で寝てしまうところ筆を取る。
だいたいいつも、何かを書くときは洋楽のブルースかロックをうっすらと流しているけれど、漢詩は直には意味が入ってこないので日本語の歌がバックミュージックでも書くことができる。 くるりとか尾崎豊とかキリンジとかフリッパーズギターとか、そのあたりを。 今回は本当にいくつかの意味で自分の不甲斐なさばかりを身に染みさせられた。 それもそれだけれど、やはり本当に全然ダメダメである。 それもそれだけど、と私は完全に落ち込んでしまうことをしないというかおそらく生命制御システム的にできないタイプなのだと思うけれど、今回はちょっと落ち込みもした。 いつだって、奇跡的に一番良くて、「今の私の最高」しか何事もやることはできない。 本当はもっと技術があったのに、もっと上手くできるのに、とかそんな言い訳も全部ひっくるめての「今の私の最高」。 「今の私の最高」はある程度やりきったらもう逃げ場なんてないわけで。 私は生徒さんによく言う。 「そのときの最高しか書くことはできない。去年の今頃の最高の字が、今の自分の普通や最低が上回っていれたらいいですよね。私たちはアベレージをじりじりと上げていくことしかできないんです。」と。 まあ偉そうなことをいうわけだけれど、結局全部自分に言っているようなものだ。 身体を使う作業に、いきなり何にもせずに急激に上手くなるなんてことはあり得ないと思う。 ただ、やっていれば、ちょっとずつやら大幅にやらたぶん必ず上手くなる。 桝野浩一さんの短歌集を買ってやっぱりいいなあと思う。 追加で2冊、また買った。 誰からも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲け 「淋しい」と思ったこともないくらい淋しかったと気づいてしまう クールさを競い合っても死体にはかなわないから生きてる僕ら 結婚はめでたいことだ臨終はかなしいことだまちがえるなよ カッコして笑いと書いてマルを打つだけですべてが冗談みたい(笑) 絶倫のバイセクシャルに変身し全人類と愛し合いたい 数十首の中から私が拾った短歌はこのようなものだった。 物事は多面的なので、自分においても作者においても他人においても一義的に解釈することは避けたいけれど、桝野さんの短歌には私の心を鋭く突いてくるものがある。 巧いなと思ったり、羨ましかったり、ちょっとした悔しさみたいなものを感じてしまうのは、私が言葉の世界が包括的に好きだからなのかなと思う。 桝野さんは、ある生徒さんがお気に入りとのことで教えてくれた歌人の方で、他の人のレッスン時にも桝野さんの名前を私はよく出す。 ほとんど「バカリズム?」と聞かれるので、「ますの」という苗字のイメージ覇権はバカリズムが持っているらしいことを知る。 家でひとり、軽く酔っていると少しだけギターを弾きたくなる。 そんなとき、たぶんギターをもっと自在に弾けたならたぶんすごく気持ちいいだろうなあと思う。 よく寝た。
やっぱり、座いすなんかではなくてベッドでちゃんと寝ないとな、と特に新しい発見でもないことをしみじみ思う。 と、書きかけになっていて、今日はまた寝ていなかったりする。 花粉もようやく終わりを迎えそうで、春を愛でられる気分になってきた。 ブルーデイジーは1クールを終えてまたたくさん蕾を空に向けて伸ばし、クワズイモも新芽を蓄えている。 長らく行けていないプールにでも行きたい。 比較的忙しい毎日が続いていて、出しっぱなしのあれこれややりっぱなしのあれこれが散乱している。 片づけたいけれど、まだ出しておいた方がいいあれこれややった方がいいあれこればかりである。 冷蔵庫の鶏肉は早く茹でてしまわないと無駄な嘆きをすることになってしまう。 新しく中学校が始まった男の子が、ちょっと久しぶりにやって来た。 相変わらず「めんどくさい」が口癖でツレナイ態度ばかりをとる彼だけれど、ちらほらと学校のことや仲の良くないお姉さんのことや好きなゲームのことを話してくれるようになってきた。 「暗殺教室」というアニメの主題歌の「青春サツバツ論」という歌がちょっとは好きなのだそうだ。 その一節を課題としてお手本を書いて彼に渡す。 私は彼の愛想笑いでない笑いが見たいと思って、ちょっとだけ態度をいろいろと変えてみたりする。 目の前の人が小さく喜んでくれるのは嬉しいのです、と私は思ったりする。 また、年度末で忙しいとかいろいろな理由で休んでいた生徒さんが何人か久しぶりに連絡をくれて戻ってきてくれている。 それもまたなんと嬉しいことではないか。 とそんなことが続いたと思ったら、今度はウィニーから10数年ぶりにフェイスブックを通じて連絡が来た。 ウィニーとは、中学生のころに家にホームステイに来ていたマレーシアの女の子だ。 その後、ウィニーに招待されてマレーシアに家族で旅行に行ったりもした。 父が死んでいることは、ウィニーに伝わっているのだろうか。 どういういきさつでホームステイに来ていたのか未だによく分からないのだけれど、数日間家に泊まって、私の拙すぎる英語と、聡明なウィニーの片言日本語で話をしていた。 ウィニーは英語とマレー語と中国語を話すトリリンガルで、数か月前から学び始めたという日本語も私の英語レベルにできたのだった。 Hello, Emiko. Ogenki desuka? こういう場合、英語の方がいいのか日本語の方がいいのか、「久しぶり」って英語で何て言うのだったっけ、と「久しぶり 英語」と検索をかける。 私は英語がからっきしダメである。 Hello, Winnee. It’s great to see you!!!!! Winnee ha genki desuka? と、かつてそうしていたように英語と日本語を混ぜて返信をした。 ちなみに、It’s great to see you!!!!!というのはコピペしたので、そんなことをしているから私の英語はきっと上達しない。 全く意図せず友人の誕生日に出くわす。 0時のその瞬間に地球(地表?)にはいない、という友人の中学生の頃からのお誕生日儀式、単純に23時59分59秒くらいのタイミングでジャンプをするというもの、を私は確か3年前も見た。 写真を撮って欲しいと言うので、ローアングルからiPhoneを構えたけれど、0時のジャンプの瞬間、私はシャッターボタンではなくて誤ってホームボタンを押してしまった。 こういう咄嗟の大事な場面で、そんなエラーが起きやすい私である。 友人がジャンプから降りてくるのと、私のiPhoneがホーム画面に戻るその二つの様は、スローモーションかコマ送りみたいに、私のフィルムには焼き付けられた。 時々ごはんを炊く日、だいたいお味噌汁を作る。
豆腐と油揚げのお味噌汁。 あと、にんじんと切り干し大根と高野豆腐と豆腐と油揚げとえのきとしめじを鰹だしで煮たものと、納豆と。 白菜のごった煮も大したごった煮感があるけれど、今回のごった煮もとてもごった返している。 大豆ばかりの精進料理で食卓が出来上がった。 私はベジタリアンではないし、たまたま肉がなかっただけだ。 こういうごはんはしみじみ美味しいなあと思う反面、やっぱり動物性たんぱく質がないと物足りなさがある。 いただきものの西表島のちんすこうを食べる。 イリオモテヤマネコがトラみたいに口を空けて威嚇しているパッケージデザインがイカしていた。 私はちんすこうが好きである。 ほろほろ崩れる感じと、小麦粉と砂糖が同量くらいで固められているのではと思う甘さとが。 今日はいただきものの苺大福も食べた。 そのお店のみたらし団子はぎゅっとしっかりしていて肉厚で弾力があって、真剣な感じがして美味しいことは知っていたけれど、大福は初めて食べた。 大福もぎゅっとしっかりしていて肉厚で弾力があって、真剣な感じがして美味しかった。 あんこも豆感がたっぷりで、苺はちゃんとジューシーで。 コンビニのやわやわな大福生地もとても好きだけれど。 私は苺大福などが好きである。 あんことチーズとか、あんことカスタードとか、あんこと苺とか、あんこと杏とか、そんな甘さと塩気や酸味のメリハリ感が。 ミスチルは幅広い世代に愛されるバンドだと思うけれど、そして私が中高生だった頃にもとても人気があったけれど、なぜかあまり今まで通らずに来た。 借りたアルバムを聴いて、またこれも超今さら、ミスチルっていいね!となっている。 思っていたよりも、というか、別に特に何も思ってもいなかったけれど、桜井さんの切実さにもきわどさにも、音にも歌詞にも聴き入ってしまう。 あの頃にも、「名もなき詩」と「花 -Memento-Mori-」はよく聴いた。 何かを感じていなかったわけではなかろうに、あの頃の所在なさの思い出ばかりを思い出して、曲そのものについての思い出が思い出せない。 牽制と取り繕いで私はできていた。 いよいよPCを買わねばなるまい。 かろうじて動くうちに、音楽データを移行したい。 今の状態は遅すぎて取り込むことも億劫だし、もうかなり長い間、半年くらい、そのPCを立ち上げてもいない。 主に使うのはiTunesとインターネットくらいなものなので、初めてMacでも買おうかしらと思ってはいるものの、もし無事に移行が完了したとしても、私はその後の操作的には大丈夫なのだろうか。 それよりも、あのPCはそもそも大丈夫なのだろうか、立ち上がるのだろうか。 不安が大きくて手を付けられない。 反故と眠気と、気怠いボブディランが積み上がって、すっかり夜が明けてしまった。
こめかみがとくとくと波打っている。 太ももは少し筋肉痛を起こしている。 夜通しで、缶ビールと缶チューハイを一本ずつ。 ごく軽い酔書である。 これまで漢字作品にろくに取り組んで来なかったことと、”思い”を先行させてきてしまったことで、今さらながら自分の出来なさ加減に焦りすら感じている。 ”思い”完全先行なら”思い”が高ぶったときにただやればいい。 と言っていてもどうしようもなく出品の期限は迫っているので、とりあえず練習をと思って、本棚から作品集を取り出して臨書をする。 どうにも漢字の発想不足であるし、筆ともまだまだ仲良くなれなくて、結果力でねじ伏せるようなやり方をしてしまう。 ここで接筆を突き出すのか、一体この線は筆がどうなってできているのだ、ここでこっちにこんなに行くのか、ここで捨ててもいいのか、よくもまあこんなに短く、あぁ私はいつもこうばかりやりがちだ・・・云々、発見はとにもかくにもそれを体得するには時間が足りない。 そもそも私は元々が全然創作向きではないし、自分の枠から出るのはとてもとても苦手なタイプだ。 最近お会いした人にはあまりそう思われていないような気がするが、根っからの、本物の、小心者であるし、どうにも芸術コンプレックスがある。 自由に書く、の、自由、なんて端くれにも触れられないくらいに遠い。 練習に時間をかけ過ぎて、本番の創作ですっかり体力切れになってしまった。 書いている途中で、字を飛ばしてしまうし、間違えてしまうし、空間は間延びしているし、見れたものではない。 本画仙は墨をよく吸う、それもまだだめだ。 好きなことを勝手にやっていて辛いならやめてしまえというのは、確かなことだと思う。 今までそれをあまり思わずに来たことは、間違いなく何かをないがしろにしてきたからだろう。 花屋に寄ったらうわあああと伸びている多肉植物がたくさん入っていて、いくつか買った。 うわあああと元気の良い植物が好きである。 家の一所に緑を集めたら愉快な感じになった。 届いた花も入れ替えて飾って。 オーストラリアでは外来種として疎まれてもいるフリージアは、やっぱりラッパみたいで、いい香りがする。 真面目に考えることも、真面目に考えないことも、真剣にやることも、怠けることも、それから目を背けていないのであれば、同じことだ。 ハノイの朝みたいだ。
いもうとはふたりの子どもを電動自転車に乗せて現れた。 いもうとの家に行くときも帰るときも、なぜだか私はいつもハイロウズを聞いているような気がするけれど、イヤホンをしたまま、前にも後ろにも自分の子どもを抱えたいもうとの姿はとても奇妙だった。 久しぶりに姪たちに会いに行くと、7か月になる姪はもそもそと世の中を這いずり回り出していた。 寝返りがやっとだったのはほんのひと月前ほどのことだったのではないだろうか。 3歳の姪が小さかった頃と違うのは、お母さんの姿が一瞬でも見えなくなるとすぐさま泣き出して追いかけまわしていることで、私がどんなにいもうとと顔が似ていようとも私ではもう全く手が付けられない。 時々、いもうとと私をまじまじと見比べているけれど、騙されたりしない。 おばあちゃんでも、お父さんでも、ダメらしい。 私のお母さん!私のもの!どこ!いない!やだ!だめ!という感じで大泣きして、お母さんが抱きあげてくれれば何事もなかったかのようにケロッと泣き止む。 いもうとがお風呂に入っている時に、泣きながら風呂の扉にしがみついているので、抱き上げようとも仰け反って泣くのでまあいいかとしがみつかせて泣かせておく。 だっておばさんではどうにもできないのだ。 風呂から上がった姪に「オムツをよろしくね、反対に付けないでね」と言われ、「任せて!」とほやほやに濡れた姪をバスタオルで受け取ってソファでオムツを付けようとも、ひと月前とはわけが違ってオムツを付けようとする側から泣いて仰け反って逃げていくので、ただでさえオムツの付け方がよく分からない私は、お母さん!無理!お母さん!お母さーん!、といもうとを呼び立てる。 結局オムツはいもうとが付けた。 不甲斐ないけれど仕方ない。 一体この子はどんな子に育つだろうか。 そして私はオムツを上手に付けられる日が来るのだろうか。 上の姪はそんな日常を我慢して振る舞っているように見える。 姪は人の肘を触るのが好きで、テレビを見ながら「てて貸して」と言うので、「はい、どうぞ」と腕を差し出す。 いもうとが先に下の姪を寝かしつける間、私にぴったりくっついてアンパンマンを見ていると、私が必ず寝てしまう。 「おばさんねえ、すぐ寝ちゃう」と普段も言っているらしい。 いもうとが作るパンが美味しくて、それはホームベーカリーで作っている。 いもうとも私と同じくらい面倒くさがりなので、決してパンをこねたりはしない。 私たちは、美味しいパン屋さんの話をよくする。 総菜パンや甘い菓子パンなどよりも、粉に忠実でシンプルなバケットや食パンやハード系のパンが好きで、時折それらのパンのことを「真剣パン」と呼んでいる。 粉をケチらず、バターなどの油脂やハチミツなどの糖分に頼らず、膨らませ過ぎていないずっしりとした重さが好きなのだ。 ホームベーカリーも、粉と砂糖や塩やイーストの配合を間違えなければ「真剣パン」が焼ける。 炊飯器ほどの大きさのホームベーカリーからパンの焼ける匂いが漂ってきて、思わずみんなで近寄る。 ステンレスの焼き釜から小ぶりの食パン一斤がごろんずしんとあつあつで出てくる。 香りも見た目も、幸せというよりは幸せの象徴、という感じがする。 ふかふかのそれは、小麦そのものの甘さがあるのでバターもジャムも要らない。 ホームベーカリーを私も買おうかと思ってしまった。 自分でパンを焼く、というハードルの高さはホームベーカリーにはほとんどないし、ひとり暮らしにもおすすめ、といもうとは言っていた。 確かに、ごはんを炊くように、パンも自分で焼いたらいい。 例えばそれを誰かの家にお邪魔するときのお持たせなんかにしたら絵になるし話になる。 挨拶にマフィンを焼いて、ギンガムチェックや花柄の紙を敷いたかごに入れて持っていく「デスパレートな妻たち」の料理が得意なブリ―のようである。 しかし私は本当に家でパンを定常的に焼くだろうか。 ならばトーストが劇的に美味しくなるというバルミューダのトースターがとても気になっているけれど、その方が断然に使うだろう。 ホームベーカリーの倍くらいの値段がするけれども。 「カイジ」からの悪魔的スピンオフの「中間管理録トネガワ」をセブンイレブンで購入。 「カイジ」よりも圧倒的にギャグ的であって中身は薄々なのだけれど、親愛なる福本さんのギャグ的世界感がとても好きなので、本当に愛おしく読める。 笑ってしまって、笑ってしまって。 「キーチ!!」を読み進めているわけだけれど、「宮本から君へ」よりももっと涙目になる。
今までも、私が何に心を引っ掴まれているかはだいたいわかっていたけれども、「キーチ!!」にもそれがある。 「カイジ」も「天」も「すべてがFになる」も、飲茶さんの哲学の本も、ブルーハーツも、オアシスも、くるりも、言ってみれば私はその要素を拾い続けている。 漫画的男子感でもなくて、文章的悦楽でもなくて、音楽的トランスでもなくて、“それ”。 それは、エンターテインメント的に面白い、ということではない要素で、それは一番最初、「リンダリンダ」を聞いたときに訳も分からず腹落ちだけが先立って起こったわけだけれど、後々解釈を深めていくとそういうことだった。 それは私がそれまで自覚していなかった居心地の悪さのようなものを云わば“癒してくれた”。 エンターテインメント的に面白い、というのはそれはそれで大好きだけれども。 それは、言葉で言ってしまえば、今分かっている範囲で言えば、「圧倒的ひとり」「どう考えたって独り」であるということ。 悲観でもなく、絶望でもなく、楽観でもなく、諦観でもなく。 そんな当たり前のこと、そんな単純なこと、なのかもしれない。 ただそのことは、本当に私を“癒した”。 「ひとり」であることは、“わたし”が“わたし”であって良くて、それは例えば親も関係がない。 「産んでくれてありがとう」だなんて、だからこそ言えるのではないかと思う。 ただそもそも離ればなれで「ひとり」である人々の存在それぞれが希望であり、他人の存在自体が温かい、というのは「カイジ」からの抜粋だけれど、私は鉄骨渡りのそのシーンが一番印象的だったし、そんな風にも思っている。 「ひとり」であるというただそのことは、先日も書いたけれど、孤独を好む、ということではない。 ただ「ひとり」であるという、ただの事実。 だからそんな他人が愛おしいのだと思う。 私にとってものすごく大事なことなのだけれど、さっぱりうまく言えている気がしない。 こんなことを大事に思うのは、きっと多かれ少なかれ、思い通りにならなかった過去、によるものなのだと思う。 それが大事なのは、欠落してしまった自分の何かを受け入れて、「ふう~~~~」とひと息ついて、「さあて、どうしよう?」と変わりなく脈々と続いていく時間を“わたし”が生きていける、ということだ。 それはそれでまたとても難しいものなのだけれど。 こんな概念を、素晴らしい作品を通して見る度に、私は何度も、ううう、と目頭が熱くなってしまうのである。 急に思い立って、まな板を買った。 引き出し式になっているジョセフジョセフのものを結婚式の引き出物のギフトカタログでもらって使っていたけれど、分厚くて邪魔なのと2層式で洗うのが面倒なのと、木のまな板を使ってみたくて。 ちらちらっとAmazonを探して、値段がそこそこで評価がそこそこの、ひばのまな板にした。 プライムはすごい、深夜に注文して今夜に来た。 「木の香りが強い」というレビュー通り、木材屋にいるような匂いが部屋中に立ち込めた。 葱と玉葱を切ると、今までとは違う、木の「トントン」という音がした。 出汁の香りとやかんの湯気が漏れてくる台所で、白い割烹着を着て大根を切るお母さんの後ろ姿が見えるような音だった。 これは、イメージ上の。 桜の花びらがベランダに4枚、落ちていた。
30mほど先に1本の桜の木が見える。 きっとあそこから風に乗ってやってきたのだろう。 夜になって思いの外寒くて、スプリングコートでは自転車に乗れないと、歩いて駅まで向かう。 眼鏡では視力が低くて、だいぶ近づかないと信号の交差点名が見えない。 最近3日に一回というハイペースでペン字を習いに来ている新中学一年生の男の子がいる。 まあ本人の意向ではなくて、お父様の意向で。 本人にあまりやる気はないので、私はやる気スイッチを押せたらなといろんな方向からあれこれ質問してみたりお喋りしてみたりする。 私との年齢差はお父様の方が近いだろうけど、私は親になったことがないので、お父様の気持ちよりはこの男の子の気持ちの方が想像しやすい気がする。 所謂中学受験戦争を勝ち抜けた彼にどこの大学に行きたいのと聞いてみたら「早稲田」と答えた。 別に特段の希望ではないようだったけれど、「私早稲田だよ」と言ったら、羨望と疑念がちょうど半々に入り混じった顔で私のことを見た。 なんだかハッとした。 なぜ疑われてしまったのだろう、ということもさることながら、学歴というのはその場では証明ができないのだ。 大学のことを話せるとか、HPに載っているとか、そんなことでは証明できない。 「本当にそうなんだって」と言えば言うほど、こちらだけがどつぼに嵌っていくようだった。 別に私が早稲田卒であろうと何であろうと私がやりたいレッスン内容にも、あわよくば彼に知ってもらいたい私という人間性の何かには何にも関係がないので、彼のために卒業証明を取ったりはしない。 そう言えば今まで、学歴を疑ったことも疑われたこともなかったけれど、誰にとってもそれが事実であることをその場で証明できる人はほとんどいないだろう。 そして、彼が私の学歴について本当に疑っていたのかということさえも、彼がそう明言したわけではないので分からないと言えば分らないことだ。 思い返すに、今よりもずっと意識の遠のいた学生生活を送っていた私だけれど、「早稲田はいいところだよ」と疑いのかかった身から言っておく。 全般的に投げやりな態度をとる彼が、当初とりあえず春休みだけでも、とお父様に依頼されていたのだけれど、(中学校が始まっても)続けてもいいよ、と言ったらしく私はそれが嬉しい。 「宮本から君へ」に続いて、「キーチ!!」を読んでいる。 あと、貸すとは言ってなかったらしいのに持ってきてしまった「マンガは哲学する」も読んでいる。 「デビルマン」も買ったけれど、積読状態の本が多すぎていつ読むだろうか。 哲学“的”なことを考えることは好きだけれど、哲学というのはすべてを平等に疑って一旦地表に下ろし、あらゆる側面を論理立てて検証・思考せねばならず、その論理的思考に私の頭はすぐにショートしてしまう。 哲学的論理考察だけならまだしも、飛躍したような、あるいは飛躍していると私が勝手に思っている例示などを提示されると、何が何だったっけ?となってしまう。 私は科学的なことにも興味があるけれど、何にしても突き詰めるほどの思考体力がないのであって、およそ学問的なタイプではない。 東京タワーは、灰色の曇り空を夕焼け時が止まったみたいに淡くオレンジ色に染め続けていた。
真下から見上げるに仰け反ってしまうその大きさと、圧倒的に空を突き抜けるシンメトリーなその形と、頑強に組み上げられた美しい鉄骨と、洗練されたライトアップと、東京タワーは高い確率で見ると感動する。 たまに来ると、いつだってちょっと以上に良い。 お茶の水から東京タワーまで、18000歩くらいを奇妙に散歩した。 iPhoneに元々入っているヘルスケアというアプリは、日々の私の歩数を勝手にしこしこカウントしてくれていたことを初めて知った。 真っ直ぐで整然として由緒ある皇居周りの大手門から二重橋前のあたりの内堀通りは、雑多で活気に満ちた東京の街とは一線を画した都会の凄味がある。 進行方向左は松ばかりがたくさん植えられた広場と、内堀通りの道路を挟んで、右にはもう暗くて見えない皇居の森、距離感がうまく掴めない向こうの方には絵葉書みたいな現実感のないビル群が小さなキューブの光をたくさん灯していて、凱旋門のような薄灰色の国会議事堂も遠くに見えた。 下町の商店街の賑やかさも悪くはないけれど、静かでがらんと広い東京を見つけたときは、あぁ良いところだ、と思う。 皇居の周りや、小石川植物園や東京体育館や。 空は広くて、地球は丸い。 それらの場所は私が其処彼処の丘陵地帯が好きな多くの理由と被っている。 すっきりと見渡せるほどに広くて、風の匂いがして、空が広くて、地球が丸い。 散歩をした昨日は、冷たい風が吹きすさんでいて、お花見日和なんて言えなくて寒が戻っていた。 どこか遠くの、緑と土の薫りのする丘陵に、晴れてうららかな新緑の季節に、欲を言えば花が咲き乱れているような、それはとっても行きたい。 道中、御茶ノ水でギターアンプを見て欲しくなって、サムピックを買って。 そういえば2年ほど前の今頃、レスポールのギターを買おうとしていた。 ストラト、テレキャスター、フジゲン、エピフォン、サンバースト、バインディング、その時に覚えた言葉たちのいくつかは定着して、いくつかは意味が合致しない。 ローランド、キューブ、ブラックスター、オレンジ、DV MARK LITTLE JAZZ、また新たに奇妙な単語たちが私の脳にうっすらと皺を増やした。 東京タワーの界隈にはいくつか桜が咲いていて、花見客がブルーシートを広げて宴会をしていた。 花は大好きだけれど、思い返してみれば東京タワーの写真ばかりで、桜の写真を一枚も撮らなかった。 それから、合理性を全く無視して、赤羽橋から大江戸線に乗って、東中野に移動する。 冷たい雨まで降ってきて、傘などなくて眼鏡が視界を濡らした。 酢飯が苦手な私でも食べられるお寿司屋さんに入った瞬間、眼鏡がぶわっと曇ったので眼鏡を外すと、視力0.1の世界に切り替わってくらっとした。 目の前の焼き鳥屋さんにはしごして、焼き鳥を三本くらい食べてまた電車に乗る。 チレは肺ではなくて、脾臓らしい。 フルヤ君がいるかも、とジョナサンに続いた。 フルヤ君はいなくて、夜は簡単には明けなかった。 フルヤ君とは、誰なのか。 翌日、目覚ましのスヌーズモードを11時半から5回くらい繰り返した。 出かける前にシャワーを浴びなければもっと寝られるとひらめいた。 スヌーズ、というのは「居眠り」という意味なのか。 ジャスミンティーを淹れて、かき菜と葱と手羽元をあごだしで煮る。 うどんを茹でて、かき菜と葱と手羽元のかけうどん、にして食べた。 かき菜はつるむらさきみたいで茎が美味しい。 よく行く近所のパン屋さんで食パン半斤と小さなあんぱんを買った。 たとえば明日、ポケットにあんぱんを入れて出かけたらどうだろう。 奇妙な散歩について、ある奇妙さを散りばめて滲ませて。 感覚的には花粉のピークを越えた。 毎年何とも言い難い体調不良感が続いて、もちろん日々にるんるんの日もあればそうでもない日がある波の有り様には変わりはないけれど、花粉による体調不良のせいで心や脳に綿でも詰められたような気分になる割合が増えてしまう。 もうすぐ、開けるだろう。 目が腫れているのか傷ついてしまったのかコンタクトレンズができないので眼鏡で過ごす。 一日を通して眼鏡をしていたら、世界への手触りが遠くなる感覚がだんだんと世界と一致するようになってきた。 しかし、駅で急に話しかけられたと思ったら、「バッグが空いていますよ」と言われてしまった。 ありがたき忠告だ。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|