9月30日!
ついに息子とふたりで初めての遠出をする日がやってきた。 色々と迷ったが、たくさんの先輩お母様方が「大丈夫ですよ~~うちはひとりで3人連れて鹿児島まで行きましたよ」なんて話に勇気をいただいて、行くことを決断した。 午前中は通常通り保育園に行ってもらう。 「今日はお昼ごろ迎えに行って、新幹線に乗って、おばあちゃんに会いに行くからね。いい?おっけー?」と何度も言うと、何度も「いい。おっけー。」と答えてくれる。 「新幹線だよ、楽しみだね」というと「がっち、がっち」と新幹線のことを答えてくれるが、いまいち分かってはいない模様である。 保育園にお昼まで行ってもらうのは、もちろん旅の支度をするための時間確保と、あとは、給食を食べてきてもらうのも大きな理由のひとつである。 息子の食欲にはムラがあり、最近また家だと食べないフェーズに入っている。 ごはんもパンも嫌、アンパンマンのせんべいをあげても小さな二枚をかじるだけ、唐揚げも食べても飲み込めないと吐き出したり。 仕方がないので、ぶどうゼリーをかろうじてひとつ。 給食は相変わらず完食しているらしいので、できうる限りカロリーと栄養を摂取してきてもらいたい。 考えられる限りの準備をして、あとは期待をせずに何とかなるさの気分で向かおう。 豊橋駅では改札でけいこが待っていてくれる。 「あんたが2歳のときにね、お母さんと一緒に新幹線乗っておばあちゃんのところに会いに行ったんだよ。覚えてる?」なんて数年後に話せたらいい。 さあ、私も息子も、冒険へ。
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台風が来ているらしい。
大雨が降ったり弱まったり、赤や青や水色のまだらな雲の天気図が思われる。 夫と息子は、今月から始まった親子体操に出かけて行った。 土曜というのに、家の中には私ひとりで、別に持たなくても良い背徳感とともにパソコンを開く。 少しの免罪のために、先ほど掃除機とスチームモップをかけて、納豆オムレツを作った。 前回のブログから10日ほど経過している。 誰のためでもなく本当はもっと書きたいのだけれど、ブログを書くのはそれなりの時間と余裕が必要で、今の生活ではそれを捻出することができない。 無論、何かを止めたり減らしたりすればできるのだろうけれど。 毎日提出する書を書くのを止める、できるだけ毎日書いている書の創作物を止める、食材の買い物に行くのを止める、ご飯を作るのを止める、息子と一緒に就寝するのを止める、散歩を止める。 これらに対する一日の所要時間を減らす、あるいは回数を減らすことで時間は生まれるだろう。 しかし、これらを止めるないし減らすほどにブログを書きたいかどうかはよく分からない。 しかしながら、今私がこんなことを考えているということは、おそらく日々の生活の時間配分に何かしらのひずみが生じているということだとも思う。 習慣とは自縄自縛であり、無自覚な牢獄のような側面を持っていると思う。 すべてはバランスということに尽きてしまうのだが、バランスということほど難しいことはないのかもしれない。 まあ時間ができたからと言って、ブログに費やすということでもないような気もする。 とりあえず、ここはひとつ、サウナに行きたい。 身動きの取りづらい時世ではあるのだが、緊急事態宣言が解除されたら息子と二人で愛知県の実家まで行ってみようかとふと思い立つ。 夫が仕事の休日があるのだ。 2歳になったばかりの子を連れて、2,3時間の旅をすることはどんなだろうか。 色々と想像を巡らせてみるのだが、大丈夫かもしれないし、大丈夫でないかもしれない、としか言えない。 いもうとに聞いてみても、うちの子はお菓子で釣れるから行けたよ、とあまり参考にならない体験を話してくれただけだった。 息子は食べ物にさほど興味がないので、損ねた機嫌をお菓子で取り持つことが出来ないのである。 ベビーカーは持って行かず、ヒップシートを付けて、息子は基本抱っこで。 一泊であれば荷物はいつものリュックで行けるだろう。 ティッシュや電子マネーやビニール袋や飲み物や新幹線の切符などは出しやすくしておかねばならない。 まずは自宅から東京駅まで通常30分ほどかかるが、電車好きの息子は乗ったらすぐに降りたいので、1時間はかかるだろう。 何なら東京駅までも、たどり着けるか不安でならない。 何とか東京駅の新幹線のホームにたどり着いたとして、また新幹線の多目的室(救護や授乳などに使える小さな個室がある)近くの座席を確保できたとして、物心ついてから?新幹線を見るのが初めてなのでおそらくひとしきり興奮をするだろう。 「がっちーーがっちーー」と「しんかんせん」を見て叫ぶだろう。 そして問題は、無事に新幹線に乗車して出発したその先である。 東京から豊橋まで、ひかりで1時間40分ほどかかる。 車窓を見る、動画を見せる、図鑑を見せる、お菓子をあげる、このくらいしかやることがない。 もちろん、寝てくれるのが真の幸いなので、お昼寝の時間帯を狙って出発するのが望ましい。 機嫌が悪くなったら抱っこしてデッキに出るのか、多目的室を使わせてもらうのか。 あと、今のところ解決できないのが、トイレである。 オムツを履いていくとしても、息子はもう起きているときにオムツでおしっこをすることがほぼない。 しかし、駅のトイレなど、勝手の違う場所で用を足すことを酷く嫌がるのである。 それに、おしっこはまだしも、うんちをしたくなったときにはどうするのか。 無論、これら以外の想定外も起きるだろう。 想定外は想定できないわけなので、想定外もおきるだろう、という心づもり以上にはすることがない。 冒険をしてみたい気持ちと、危なすぎるような気持ちと。 帰ってきた。 朝から雨がざんざんと降っている。
息子を抱っこ紐に括り付けて、「かーしゃ、あめあーめ」と楽しそうな息子と傘をさして保育園へ送る。 気分が良ければ、空気が洗われて雨も美しいなあなんて思えるけれど、余裕が無ければ、ずぶ濡れになって怒りに似た感情が湧いたりもする。 余裕が無いのは、息子が重いのと、保育園の荷物がかさばっているのと、靴に雨が染みてきているのと、傘をさしている手が不安定なのと。 家に出さねばならない段ボールや移動させなければならない紙の束などがあるというのも、奥底で響いている気がする。 無論、雨も息子も悪くはない。 雨はただ降っていて、息子の気持ちは晴れている、それだけである。 きっとたぶん、今温かなお風呂に使ったり、酷暑のサウナに入ったりすれば気分が変わるのだと思う。 鬱鬱とした気分や悩み事は、お腹を満たして体を温かくしてから言え、とどこかに書いてあった。 おそらくとても、これは然りであって、所詮人間とはそういうものなのだと思う。 ざんざん降りの帰り道、近くのパン屋さんに寄って食パンを予約してくる。 店員さんが私に気づいてくれて、「一本、夕方ですね」とアイコンタクトを送ってくれた。 「1.5斤まるごと、1斤を五枚切りの厚さにスライス、耳はつけたままで、16時頃取りに来る。」週に2,3回、頻繁に訪れるので、そのうちに店員さんはうちの食パン仕様を覚えてくれて、「1」と指を立てるだけで注文が完了するようになった。 また食パンを取りに行くと、たまに、「今日は雨で余ってしまったので」と残り物をくださるときもある。 私は上京して、「馴染みの店」というものを持ったことがない。 パン屋に限らず、飲み屋でも定食屋でも薬局でもクリーニング屋でも美容院でも。 どちらかと言えば顔を覚えられるのを避けているような節もあって、美容院も同じところに複数回行くことはめったにない。 私は仕事柄か、初対面の人と話すことは特に苦手ではないのだが、適当にごく短い世間話をすることが好きではない。 「あぁ変なことを言ってしまったな」「馴染みになって顔を出さなくなるのは失礼なのではないか」と後悔するくらいなら最初から話さない方が良いのではないか。 あと、店員さんにおすすめを押し付けられそうで嫌だということもある。 もちろん押し付けてない場合も多いと思うのだが。 また、ひとりでいた頃には引っ越しが好きだったので、根を生やさずひとところに留まらない風来坊のようにいたいとも思っていた。 そう思って暮らしてきたのだが、息子が産まれてから少しずつ変わってきた。 マンションの管理人さんや清掃のおじさんに毎日挨拶をして、息子がバイバイと手を振る。 薬局で「あ、どうも~」なんて言って、「この前の湿疹は良くなりましたか?」と先日の話をされて、覚えていてくれたことに感動したりもする。 毎日通る工事現場のショベルカーを見て「あかーー(ショベルカー)、かっこいいーーー」と叫ぶ息子に笑顔で応えてくれる工事のおじさんなど。 すべて息子を通してなのだが、この街の住人という気持ちが、上京して18年、初めて芽生えてきている気がする。 同時に、ある種の責任、というものも生まれた。 これまでトウキョウという場所をひとり借り物として楽しんできたのだが、息子は東京生まれ東京育ちなわけだから、この場所が当然の場所である。 地域、コミュニティ、そういうものの一員、というのはこういうことなのかもしれない。 さて、雨は止まぬのか。 昨日、急にパソコンが立ち上がらなくなり、私は茫然とした。
他人から見ると機器の取り扱いがとても粗雑らしいし、私の自覚としてはあらゆる機械と相性が悪い。 何らかの機器に不具合が起きたとき、道に迷っているときと同じような感覚になる。 大げさに言わなくとも、動悸がするし、脳内にバグが発生している気がする。 すごく不安な気持ちで胸が苦しく、解決策が思い浮かばずにたじろぐだけしかできない。 かつて算数の問題につまずいたときも、同じような状況に陥っていたように思う。 これは、私は機械に対して極めて不得意であり、そしてそれに対峙することを避け続けてきた怠慢の話でもある。 パソコンというのは、私にとってみれば巨大で荘厳なビルのようなもので、傍からはビルが私ではどうにもできないほどの大きさであることと、色が灰色をしているということくらいしか知ることができない。 とは言え、このページは自作であるし、ブログを書くなどのタイピングは問題がない。 けれど、それはこの巨大なビルの入り口で、与えられているカードをピッとやるとゲートが開いて入れる、その程度のものである。 何階の何号室まで、そのカード一枚でたどり着くことくらいはできるのかもしれない。 しかしいざトラブルが起きたとき、今回で言えばパソコンの入り口部分、私は何の対処法も知らない。 いや、知っていることと言えば、強制終了して再起動することくらいか。 カードが使えないとして、何階の何号室に行けば、そもそもどのように連絡、アクセスすれば良いのか、何を聞けば良いのか、さっぱり全く、分からないのである。 再起動を何回か行ってみてもパソコンは真っ暗である。 そんなとき、本当に頼りになるのが、夫である。 会社員の頃、パソコンやネットワークに不具合が起きると、情報システム部に連絡して直してもらっていて、情報システム部の彼らのことを私は「魔法使い」と呼んでいた。 かなり前だがSEの仕事をしていた夫も、もれなく「魔法使い」である。 夫は、自分のパソコンを持ってきて状況を調べ、次にドライバーを持ってきてパソコンを開け始めた。 なんということか、手術をするらしい。 私は息子を近づけないように、固唾をのんで見守った。 うんうん唸りながら夫は作業を進め、なんと魔法を使ってパソコンを直してしまった。 私はまだ不安の動悸を抱えながら、夫へ賞賛の拍手を送った。 ただ、夫は私に分かるように原因を少し教えてくれた。 もちろん魔法の使い方ではない。 原因は何か。 ここのランプがこの色で光っているときはこの場所に不具合が起きていること、もしかすると接触不良かもしれなかったこと(だから開けた)、よくある原因としてOSのアップデートが考えられること。 要は、パソコンというものの大枠の成り立ちを知っており、原因のいくつかを想像できること、が必要なのである。 おそらく、アップデートの途中で電源が切れるなどして、アップデートが中断したことが原因だろう、とのこと。 OSというのはウィンドウズだけではなく、もう一つパソコン本体にもあって、そのアップデートは度々手動で確認する必要があること、ということらしい。 ちなみに私のパソコンは夫が選んだもので、夫も同じ機種を使っているので、想像もしやすいようだ。 もちろん私はよくは分からないのだけど、今後このようなことが起きたとき、少しは動悸が減るかもしれない。 とにかく、アップデートはきちんとした状態で行うべし。 私ひとりではどうにもできないわけなので、大切なデータはパソコン内ではなくクラウドに上げて保存すること。 夫にお礼を込めて、ハイボールを作ったら、その後飲みすぎてしまったらしい。 どうもありがとう。 今日は9月の8日か。 もうすぐ年が暮れるのかもしれない。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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