その後息子の体調不良は、あれよあれよと暗転した。
今は既に回復の兆しの中にあるが、明日も保育園をお休みする予定で、先週に引き続き社会からの離脱感が膨れてきた。 いやしかし、一時は40.5度という目を疑うような体温が出て慄いた。 しかも、脇の下に体温計を入れてくれないので首で何とか測った体温がそれである。 おそらく41度を超えるような体温だった。 子どもの救急相談#8000にも連絡。 とりあえず、意識がないとか全く眠れていないとか水分が取れていないとか、そういうことはないので、朝まで様子を見ることにした。 身体は熱々、目は涙目、身の置き所なく力弱く寝苦しそうにする息子は、存在が儚すぎて、今にも溶けるか蒸発するかしてしまいそうだった。 翌日、2日前に受診した小児科に電話を入れて症状を説明。 12時に枠を設けるので時間厳守でお越しくださいと言われる。 小児科では感染症対策として受診の発熱時特別枠を設けていて、いつものエレベーターは使わず階段で、窓全開でピューピュー風が吹きすさぶ、間仕切りで区切られてソファだけがあるスペースに通された。 簡易的な防護服を着たお医者さんと看護師さんが出てくる。 受診の頃にはまた熱も下がっていたので、とりあえず聴診器で胸の音を聞いて口の中のチェックをして、コロナの抗原検査をしましょうとなる。 あぁついにか、と思った。 熱も下がっているし、快方に向かっていると考えられるので、このままお家でゆっくりしてください、コロナの検査結果は30分ほどで出るので、家で待機してください、とのことだった。 ちなみに、コロナの検査は唾液でもできるが、小さな子どもが適切な量の唾液を適切な場所に吐き出せる訳もなく、鼻の穴に長い綿棒を突っ込む方式で行われた。 帰宅して間もなく、院長直々に電話がある。 抗原検査の結果は陰性でした、と伝えられる。 安堵するとともに、PCR検査と抗原検査の違いが気になっていたので聞いてみる。 PCR検査はウイルスを倍増して検査をするので少しのウイルス量でも発見が可能、対して抗原検査はウイルスを培養させることのない簡易検査。 症状の出始めや無症状の場合はウイルス量が少なくて抗原検査では反応しない場合があるためPCR検査のが適しているが、今回は、症状が出て発熱からの時間が経っているのでもし感染しているのならウイルスは多いはずで抗原検査で十分と判断したとのこと。 加えて、PCR検査はここでは鑑定ができず、しかも検査機関が猛烈に混んでいるので結果が出るまでに2、3日かかってしまうかもしれないらしい。 丁寧に説明してくれて、そしてコロナではなくて、ひと安心。 しかし、熱の原因をコロナだけ排除して安心するのもおかしいなと後々になって思い直す。 病院で体力を使った息子はまた間もなくして眠ってしまった。 翌日、息子は、少しはすっきりしたような顔であり、しかし病み上がりの疲弊感を全身に醸した寝起きだった。 40度を超える熱で身体は疲れ切っているだろう。 しかも、2、3日の間、ヨーグルトやプリンやゼリーのようなものしか食べておらず、相当体力を削られているだろう。 普段から少食で偏食の彼は、普通食に戻るのにしばらくかかりそうだ。 幸い、変哲のない炭酸水が好きな息子は、水分補給を炭酸水で行っていた。 発熱で喉が乾くのだろう、夜中に何度も起きて自分でコップに注いだ炭酸水をごくごく飲んでいた。 脱水は事態が重くなりがちと聞くので、その心配があまりなかったのは有難かった。 句会が迫っていて、投句をしなければなからなかったが、少し遅刻を許してもらう。 いや、何はなくともいつも遅刻している。 雪催い警備員の真一文字 高層ビルの足場こんもり雪積もる 誰も居ぬ人の日カップ麺を食ふ ブロッコリ正しさ問はれ不可食部
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息子の体調が良くなく、と言っても、鼻水がたまに垂れるくらいと熱が少々、久しぶりに保育園をお休みしている。
鼻風邪はたまにはひくけれど発熱はほとんどない子なのでやや心配ではあるが、見た目には風邪っぽくもなく、当然ながら、子どもはこのくらいの体調不良では通常運転である。 2歳で保育園に通っているということは、基本的に両親共働き。 今回は夫の仕事の調整がきくということで、夫が有給休暇を取得してくれた。 夫は個人事業主の私よりも個人事業主に理解が深い。 しかしながら、外に出られない子どもと遊ぶ一日というのは、どうしたものかと頭を悩ませるのはうちだけではあるまい。 クリスマスプレゼントにと買ってあった、トミカとプラレールを合体させて遊べるカンカン踏切セットをここぞとばかり満を持して出すことにする。 クリスマスプレゼントは他にもいろいろあったので、こんなときのために渡さずにとってあったのである。 息子はトミカやプラレールを愛していて、それらの箱とわかると、はにかんだような、笑顔を抑えてもこぼれてしまうといった嬉しそうな表情で、開封を要求する。 飛び跳ねて喜ぶタイプではないらしいが、その喜びの顔はプレゼントする側も報われるというものである。 ちなみに、家に届くダンボールの荷物は全ておもちゃが入っているかもと勘違いしている節があり、宅配便が来る度に嬉しそうに「あけてよー」と言ってくるようになってしまったが。 しかも今回のセットは、よくできた踏切が付いており、がちゃがちゃとたくさんの触れるスイッチがあり、電車の発車アナウンスも何パターンか喋るという、かなり壮大なものである。 そしてなんと言っても、YouTubeでこのおもちゃで遊ぶ動画があって、それをかなり真剣に見ていたのである。 私が仕事をしている最中、夫が開封して組み立ててくれたようだ。 見事にハマって何時間も遊び倒したそうで、何より。 このレベルの壮大なおもちゃは5000円とか、それ以上するものなのであるが、こんなにも遊んでくれるならまた何か買っても良いかななんて気分にもなる。 しかし、そう上手くもいかず、大事をとって休ませている2日目には、30分ほど遊んで飽きてしまったようだ。 遊ばないというわけではないが、まあ初見の喜びに勝るものは無いのはよく分かる。 それでもまあ、思い出しては遊んでいるので良しとする。 年始に始まった動画の第二回が公開された。 第二回にして、筆から離れて、アラビア数字である。 しかし、ふつうの数字を教えてくださいと、生徒さんから言われることは多いので、困っている人には役に立つ内容ではないかと思う。 ただ、動画の尺が長い。 そう、我々は話好きなのである。 これについては、第3回ももう長いことが決定している。 今後については検討の余地はあるが、あまり短くはならない気がする。 あと視聴者からの声で複数あったのは、私の眼鏡が照明で光っていること。 けいこからは隣の家からおばさんが来たみたいな髪型どうにかしたら、であった。 もはや私は身なりに無頓着と言っても良いほど無頓着なので、撮影時にふとその声を思い出しても、撮影に出掛けるときにはそのことを思い出せないのである。 お字書き道TALKS 第二回「アラビア数字」 https://youtu.be/Z1dKTIs6lj0 どうぞご覧いただけたら大変嬉しく思います。 当面は、チャンネル登録数100を目指しておりますので、よろしければチャンネル登録も宜しくお願い致します。 1/15 21:00、URLを変更しました。 音声トラブルがありまして、再投稿しています。 本当に御手数ですが、もしご覧いただいた方もこちらで再生いただけると大変幸いです。 申し訳ありません。 11月に生まれたほやほやの姪と、2歳半の息子が初対面を果たした。
幼いうちに妹や弟が生まれると、兄や姉は赤ちゃんに嫉妬して赤ちゃん返りをしたり、機嫌を損ねたりするというのはよくある話である。 いとこである赤ちゃんと息子との対面はどんな感じだろうか、と私は楽しみにしていた。 息子は目の前のおもちゃに夢中で、赤ちゃんを見ても大した反応を示さなかった。 次は私が赤ちゃんを抱っこしてみる。 すると、サッと息子の顔色が変わって、「ねんね、ねんね、だっこ」と赤ちゃんをここに下ろして自分を抱っこしろと慌てて私の元にやってきた。 瞬間的に、取られる!と思ったのだろう。 やはりこうなるのか、とある程度予想通りではあったものの、私はなんだか良い気分だった。 次にアスカちゃんという赤ちゃんよりはだいぶ小さい人形を抱っこして、「かわいいねえ、よしよし」とあやすふりをしてみた。 当然ながら、特段反応を示さない。 次に6歳になる姪をおんぶしてみた。 他の子をお母さんに取られているという状況は、赤ちゃんと同じである。 しかし、息子は特にこちらにやってくることも攻撃してくることもなかった。 次に夫が赤ちゃんを抱っこして、あやしてみる。 ここが一番正解が分からなかったところであるが、息子はほぼ無反応であった。 そしてまた私が赤ちゃんを抱っこしてみる。 すると息子は瞬く間に飛んできて、私の顔を引っかいた。 息子は混乱、困惑、憤懣遣る方ない様子で、これ以上その子ども抱いていると酷いことになるからな!と言わんばかりの目をしていた。 仕方がないので赤ちゃんを寝かせて、息子を抱っこするとまだ怒っている様子だった。 きょうだいができると上の子は否応にもこのような状況にさらされることになる。 しかし息子は現状ひとりっ子なので、お母さんを取られるという経験は疑似でも初めてである。 ちなみに私は息子に好かれているということが嬉しいという面が大きいので、周囲からの「この子はお母さんべったりで大丈夫かなあ」なんて声はあまり耳に入ってこない。 息子にとって良い経験だったかどうかは分からないが、大人はなかなか見ごたえのある反応であった。 息子は疲れ果てて寝てしまった帰りの電車の中、夫に、「なぜ6歳の姪をおんぶするのは良くて、赤ちゃんを抱っこするのはだめなんだろうね」と話すと、「赤ちゃんは魅力が溢れているからじゃない?」と返ってきた。 私は至極、なるほど、と思った。 6歳の姪に魅力がないということではないのだが、赤ちゃんには確かに特別な魅力がある。 神々しいと言っても良いような、恐ろしいまでの魅力である。 その燦然煌々と輝く魅力に、息子はかなわないというある種の負けを感じているからこそ、魅力に取りつかれたお母さんが帰ってこない恐怖を感じてしまったのかもしれない。 相手はうにゃうにゃ言っているだけで、自分で数センチも移動することもできず、力も誰よりも弱い存在であるにも関わらず。 確かに、嫉妬というのは、自分が負けていると思う存在に対してするものなのかもしれない。 ただし自分が負けを認めているかどうかは関係なく。 あの光り輝くヤツに自分が受けている寵愛を奪われるかもしれない、あるいは寵愛の量が減るかもしれない、今すぐに取り返さなくては!とする行動が嫉妬なのだろう。 「可愛い」の語源は、古語の「かほはゆし(顔映ゆし)」と言われている。 「相手がまばゆすぎて正視できないけど放っておけない、でも気恥ずかしい」というような意味から、転じて、「見ていられないほどかわいそう、気の毒だ」というようなややマイナスな言葉になり、また転じて、その気の毒な様子を愛しむ意味合いになって、現代の一般的な「可愛い」という意味になったらしい。 この意味の変遷全て含めても、「可愛い」は赤ちゃんのものであり、「可愛い」は圧倒的に周囲の人から視線を集める、まさに魅力的なのである。 生きていれば誰もが赤ちゃんでなくなるし、息子はすでに赤ちゃんと言うには大きすぎるサイズになってきている。 赤ちゃんは可愛い、赤ちゃんは魅力的、それは仕方のないことである。 そしてまた今は生後二か月の姪もそのうちに赤ちゃんではなくなる。 私は今でも息子のことを今が一番可愛いと赤ちゃん扱いしているけれど。 ちょうど昨日たくさん喋るようになった息子に不意にとても驚いた。 いつまでも赤ちゃんでいてほしいとは私は全然思わないのだが、思うよりも成長は進んでいるのかもしれない。 作ったごはんを食べてもらえないストレスというのは、自分が思うよりもずっとダメージが大きい。
何なら泣けそうなほど胸の中心部が苦しくなる。 深呼吸しようとするけれど、なかなかうまく空気が身体に入っていかない感じがする。 2歳の息子に立て続けにごはんを拒否された、という大変よくある取るに足らない話なのだが、ごはんを拒否されるというストレスは本当に思うよりも大きい。 最も拒否され続けていたのは、彼がまだ1歳にも満たない時期、母乳量が減ってきてミルクを飲ませようと苦心していた頃だ。 作っては流しに捨て、作っては流しに捨て。 離乳食もほとんど食べられずに床にぶちまけられたり、そのままゴミ箱に捨てたり。 体重は増えないどころか減ったこともあり、医者にカロリー不足だと言われ、「砂糖水でも良いから飲ませて」と言われ、涙ぐみながら帰ったこともあった。 「食べないのが当たり前」「お供え物だと思って」「1食くらい食べなくても死にはしない」 そうかもしれないが、どうしてもこれらのことには心から同意はできなくて、毎食が憂鬱であった。 あの時に比べれば今は良い、作ったごはんは食べなくともふりかけごはんと納豆は食べるのだから。 親心的に肉と野菜と色々食べてほしいと、キャベツを入れたのがいけなかった。 ふりかけごはんと納豆と唐揚げと絹揚げ豆腐とヨーグルトと食パン、これをローテーションしていれば良いものを。 このような経験をした皆が大きなストレスを感じるかどうかは定かではないが、程度の違いこそあれ、そう感じる人も少なくないのではないだろうか。 巷にはよくある類の話なので、それはすでに笑い話のネタになったり、漫画化されていたりもする。 しかし、当の現場では昇華前の悲しみと怒りに満ちたストレスが渦巻いているのではないか。 偏食さんを持つ親たちは、毎度同じものを出されても良いわけなので楽だという見方もある。 確かにそうとも言える。 しかしながら、食べるものは身体の成長や心の安定にも関わる大切なもの、食は自分の身体を使ってできる最高のエンターテインメントのひとつ、そんな観念も無論是としているから食べるということに対してこちらが諦めきれない。 と言っても、かく言う私自身が食べるということに対してさほど興味がある方ではないし、偏食さんではない子の親たちから見ればだいぶ食育に諦めをにじませている方だと思う。 結局、このようなことを繰り返して気分を落としたりして、また、とにかく食べれば良い、という結論にたどり着く。 ひとつ息子に言いたいのは、食べない判断を下すのは、食べる前の見た目ではなく、食べてから味で決めてほしい。 それはそれで作った側は傷つくかもしれないが、食べてみたら美味しい、というものがほとんどのはずである。 「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」 山本五十六の超有名な教えであるが、一文目を大いにやってもなかなか動かないのが、偏食さんたる偏食さんである。 さて、2022年が始まった。
あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 夫の実家に3泊も泊まらせてもらって、家族的正月気分は存分な年越しと三が日であった。 息子には、中学二年生と小学校五年生のいとこがいる。 彼らは日常の多くを学校と野球で占める生活をしていて、盆と正月くらいしかまともな休日がないらしく、なかなか遊んでもらうことができずにいた。 しかしやはり子ども同士というのは子ども同士の世界があるもので、さらに男同士とくれば互いに分かち合えることも多い。 今回はたっぷりと彼らに遊んでもらって、息子の心の発達に一役も二役も買っただろうと思う。 また、いとこはいとこで、自分よりも小さい存在を自分なりに可愛がることで、心の襞がさらに豊かになったことだろう。 私も幼い頃はいとことよく遊んだものだが、大きくなるにつれてだんだんと合わなくなっていった。 それが悪いことだともさして思っていないが、ごく自然に結構な距離感を感じるようになった。 かつて幼きあけすけの状態を見られているということは、それぞれの学校生活を経る中で所謂思春期には何となく恥ずかしい過去に変わっていったのかもしれない。 そういう自覚があるわけではないけれども。 でもとにかく、機会があればどんどんいとこ同士で遊ばせたいものである。 先日告知した通り、YouTubeの動画が1月1日にアップされた。 とりあえずアップしたのみで、まだ第二回以降のいろいろな開店準備が整っておらず告知をしていないのだが、ここには載せておこうと思う。 動画を編集するということは、様々な要素の難しさもあるのだが、最も思うところは時間がかかるということである。 動画本体の編集はお任せしてしまっているのだが、それでもテロップを書き出したり、チェックをするだけでも、それぞれ本体時間の1.5~2倍はかかる。 世に上がっている動画もさることながら、テレビの編集などって本当にものすごく大変だろうし、その上本当に質が高くできているということが分かる。 普段目にしているあらゆる制作物が、変に見えておらず何の違和感もないということだけでも、かなりの技術や時間がかかっているということを知る。 色々と作る側になって首を突っ込んでみると、もっと世の中に敬意が生まれ、優しくなれる気がする。 お字書き道TALKS 第一回「起筆」 https://www.youtube.com/watch?v=O-cjC9L1kl0&t=22s |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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