愛機アイフォン6がもうほとんどの動作で長考するようになってしまって久しかったので
年末にアイフォン11変えた。 カメラが驚きの優れものとは聞いていた通り、本当に優れものだった。 なんと言っても、ポートレート機能。 写真の中心となるものに焦点を当てて、それ以外の周囲をぼかすことができる機能である。 周囲がぼけると途端に中心となる被写体が浮かび上がったようにくっきりと輪郭を帯びる。 画質の良さも伴って、本当にまるでプロのカメラマンが撮ったかのような写真の風合いとなる。 しかし、写真の画像データの拡張子に変更があったようで、このHPサイトへの画像のアップロードがそのままではできない。 jpgデータに変換するWEBサービスを一つ介さねばならないのはとてもとても手間である。 weeblyさん、本当にどうにかしてほしい。 ともあれ、アイフォンの動きももちろんすばやくびゅんびゅんになったので、息子の写真を撮りまくっている。 産前、あんなにするもんかと思っていた待ち受け画面を遂に息子の写真にしてしまう始末。 またあるときには、子育て漫画がこんなにも世の中にあふれていることも知らなった私であるが、そして今もそんなに読んでもいないのだが、たまたま読んだこのぐっちゃんの漫画に不意に涙してしまう始末。 https://gumamasan.biz/2019/03/29/post-579/ 子育ては日々相手の変化が大きすぎて、大人たちは戸惑いの連続である。 人生はいつだって誰だってもう戻らないことの刹那の連続であるのだが、子どものそれは四季の巡りで還ってくるものではない点がより切なく感傷的な気分にさせるのだろう。 いろいろあるけれど、本当に息子が可愛くて仕方がない毎日である。 しかしながら一方で、今私には久しぶりに書においてやりたいテーマのようなものが見えかかっているのだけれど、それはどうしたら良いだろうか。 散漫な文章を書きたいわけでは決してないのだが、書の画像も溜まるばかりなので散漫アップでもしておこう。
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本当はもっと日記を書きたい。
日々を記録したいし、考えを一旦まとめておきたい。 のだが、昼寝を細切れに30分ほどしかしない息子なので、日中にブログを書く時間がさっぱり取れない。 かくいう今は息子は傍で遊んでいるが、そのうちに、あうらうらうきゃーあぁぁぁああ、と不服を申し立ててくるだろう。 息子を寝かせた夜9時以降、大人の時間とはなるのだが、最近これまでにやっていた毎日の書に加えて、また有志のグループが立ち上がってそちらにも提出を始めたため、やはりブログにまで手が回らない。 しかしながら、新しく立ち上がった方のグループでは自分の言葉を書くことにしているので、書くに値する言葉も見つけなければならない。 「一期一会」とか「ほろほろ酔うて木の葉ふる」などでも良いのだが、やはり少しの言葉好きの矜持を持って自分の実感を伴った言葉を書きたい。 先の記事にも少しだけ触れたが、このグループは美術のギャラリーへの売り込みを目標としている。 日本の書道はまだまだ絵画などの美術作品として評価がされておらず、まずは美術界への認知から進めていこうとしているものだ。 最近は一人の現代アート書家の力によって美術界の人が書道へ少しずつ視線を向けてきているらしい。 美術界ではアートオークションで値が付けられる。 ちなみに、以前ZOZOTOWNの前澤社長がバスキアの絵を123億円で買ったのはこの界隈では非常に有名な話であるが、書作品は井上有一が最も高値で3000万円ほどである。 「美術」という言葉にややアレルギーのようなものがある私だが、グループのテーマである「骨董になりうる書」というものにとても興味があるので参加してみることにした。 これまで毛嫌いというかとても遠い世界だと自ら敬遠してきた美術というものの歴史を学んでいかねばならないだろう。 美術界における書のあらましや、「骨董になりうる書」についてもう少し詳しくまとめておきたいのだが、それは隣で息子が叫んでいないときにしたい。 これまたその世界では著名な佐藤辰美さんというアートコレクターの方がいて、その方にこのグループに提出した書が一枚売れた。 この活動の旗振りをしている方のコネクションを通じて、参加者の抱き合わせで、とっても安い価格で、だけれど「値が付く」というのは嬉しいものである。 いろいろと書きたいことがあって忘れてしまいそうだが、ここまで20分、息子が限界のようなので終わりにする。 春の温かさを感じ取って土の中でもぞもぞと蠢き出したかのように、息子は年明けから急に何かに気付いて、この世界の動く範囲を格段に広げてきた。
これまでは寝返りが仰向けからうつぶせになると戻れなかったのだが、そこから仰向けになる技術を得て、裏表うらおもてと回転を繰り返して布団一枚分くらいは楽々と移動している。 事実上、障害物がなければ平面であればどこにでも行ける。 前にあるおもちゃなどを取ろうとして、前方にもわずかにじりじりにじり進んでいる。 静かだなと思うと、観葉植物をひっぱっているか、おもちゃにかじりついているか、おしりふきをたくさん出してこれまたかじりついているか。 成長は喜ばしいが、危険も多いので、さっそくベビーゲートとプレイマットを購入する。 さながら人間檻である。 その檻に私も入って一緒に寝たり遊んだりする。 テレビの目の前が檻なので、檻越しにテレビを見ることになってしまって非常に見づらい。 そういえば「グランメゾン東京」のドラマは日常娯楽におけるテレビドラマとして、とても素晴らしかった。 テレビドラマ好きとしては、このブログ記事に何の脈絡もなくても記しておきたい。 ところで、東京に来てもはや15年以上が経過した。 私の母語である三河弁と所謂標準語との区別は無論年々明確になってきていて、さすがにもう無自覚的に三河弁を東京で使うことはないだろうと思っていた。 しかしながら、三河弁をもちろん正しいというか一般的なものであると育ってきているので、誰かに指摘されたり自分で気づいて調べるなどしない限りそれは分からないのである。 「引き出しをさばくる」「鍵をかう」「これさら食べる」「とごる」などは上京して数年して方言であると知ったものである。 ちなみに、「さばくる」は引き出しの中を乱雑に探す、「鍵をかう」は鍵をかける、「これさら」は「これごと、これのまま」、「とごる」は砂糖などの粒子が解け切らずに沈殿することを言う。 昨日またひとつ新たに方言だと知った言葉がある。 「風呂にすくむ」。 すくむ、というのは、竦むであり、立ち竦むなど恐怖で身を縮める意味があることは知っているが、風呂にもすくむのである。 湯船に深く浸かるといった意味合いである。 用例は、「ちゃんとすくんで出ておいでんよ」といったふう。 私は地元のことをほとんど愛してはいないが、方言が話せることについてのアイデンティティはどこかしらまだ欠片を手放していないように思う。 かつて合わないように感じていたあの地から離れることができたのは当然ながらあの場所があったからであり、そして今、ここではないどこかにあの日の居場所があったという事実は、少し勇気づけられる気がしないでもない。 東京の都心生まれの息子にとってみれば標準語こそ母語になる。 お母さんの「トウキョウ」は、息子の「東京」なのである。 将来、ここから離れることはいくらでもできるが、「上京」はできない。 息子は日々着々と大きくなるが、まだ息子が青年になったりおじさんになる想像がつかない。 おじさんやおじいさんになるまで元気に生きてほしい、そんなふうに本当に切に母は思うものなのだなあと心がぎゅうっとなる自分に感心している。 以前は実家に帰る新幹線の中から、あるいは皆が早くに寝静まってしまった実家から、スマートフォンでブログを更新していたのだが、子どもを見ながらではそれも叶わず、すでに新年も5日である。
2020年、あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 年賀状を出そう年賀状を出そう、と生徒さん達には2,3か月前くらいから指導していたのだが、自分のものはなかなかアイディアがまとまらずについに29日。 夫とコラボレーションしようと思っていたのもいけなかった。 私の中での創作物は、ひとりで完成をさせる他ないものなのである。 結局夫には何枚も書いてもらったものの不採用というかわいそうなことになってしまった。 夫と私と息子の足跡をスタンプ台でとって、スキャンして比率をそのままにはがきサイズに縮小印刷、その上から息子の名前をどんと書いて、ちょっとした新年の挨拶を書いた。 今年は全員分を手書きで書いている時間は毛頭ないので、一枚完成品を作ってコピーすることにした。 丁度良い色味とか絶妙な配置とか、細かなところまでは全然思い通りにいかなかったけれども、30日の夕方ごろには夫の分も合わせて100枚以上にもなる宛名書きを手書きで完了し、投函することができた。 まあ、元旦には届かなかったであろうが。 けいこは夫と私と息子の大中小の足跡がすべて息子のものだと思ったらしい。 デザイン的にもあまりうまく伝わらなかったのかもしれない。 作品づくりにおいて、構想の段階も、実際に書く段階も、やはり焦って良いことは何ひとつない。 どの段階においても、アイディアや出来を一旦寝かせて、時間を経過させて冷静な目で見てみることは大切である。 そのときは良いと思っていても、後々そうは思わないことも多々ある。 しかし、「そのときは良い」と思っているのだから、「そのとき」に「後々そうは思わないかもしれない」からそれで決定とせずに、出来立てほやほやの熱い気持ちをなだめないといけない。 後日の鑑賞に堪えうる作品、というのが良い作品であるということは疑っていない。 事実、私はよく書けたと思う作品を半年とか1年というスパンで壁にかけていて、半年で飽きてしまうものがあったり1年で飽きてしまうものがあったり、まだまだいけると思うものがあったりする。 今年の年賀状は、それぞれの段階すべてに寝かせと練りが足りなかったなあと思っている。 私の年賀状には儀礼的な意味はほぼないと言って良いので、何のためにやるかと言えば作品作り、作品披露のための自己満足である。 となると、今年は育児という大きな言い訳を抱えながら自分に負けたということになる。 今年は3月か4月か、やはり息子を保育園に預けようと思う。 息子と離れがたくもあるけれども、自分自身の趣味ごとからも離れがたいのである。 息子はべらぼうに可愛くもあるのだけれども、自分自身の頭が衰えていくような気がするのは耐え難いのである。 日々変化していく息子に対して、日々対応を変えていくわけで、ならば保育園に行っても尚、その対応を常々変化させていけば良い。 保育園に通わせる前から保育園を辞めるかもしれない想定も早計過ぎるが、保育園というのは私たちの生活において大きな変革になるだろう。 最近フェイスブックの書のグループで「骨董になりうる作品」というテーマのグループがあり、そこへ私も投稿を行っている。 卒意、衒わない、素の自分の字、上手く書かない、そんなことを醸しつつ、わびさびの世界に通じるような作品。 このことはまた書こうと思う。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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