子どもを持つ夫婦が互いのことを「おとうさん」「おかあさん」あるいは「パパ」「ママ」と呼ぶことがある。
というか、そういうケースの方が多いように思う。 かつて私は、それは二人称として変だ、間違っている、と何かしらへの対抗心も含みながら思っていた。 夫は妻の「おとうさん」ではないし、妻は夫の「おかあさん」ではない。 「おとうさん」というのは家計を支える偉き存在であり、「おかあさん」は家庭を守る強く優しき存在である、というのは昭和の時代の遺物だ、時は平成も終わり令和であるというのに、とそんなふうにも思っていた。 と、令和元年に初めて子どもを持った私は、本当にごく自然に、何の悪気も他意もなく、夫のことを「おとうさん」と呼び始めている。 夫に子どものことではない話題を話すときにも「おとうさん」と呼んでいる。 「おとうさん」と発してしまってから、何となくしまったと思いながら、その時はこのことを話していないから後でこのことを話題にしてみようと思うのだが、その機会がなかなか訪れない。 そんな調子のまま、日常的にそのことを忘れるわけでもなく、「おとうさん」と発語する度に少しだけ頭を擡げるのである。 それにしてもこんなにも自然に「おとうさん」なんて口について出てくるほど、この呼称は自然なことだったのかもしれない。 家の中で頻繁に呼ぶ人の呼び方がいくつもあると面倒だという意識が働くということもあるだろう。 固有の名前で呼ばず「おとうさん」と呼ぶことで、一般的な「おとうさん」の役割がより強固となる。 固有の「〇〇くん」」ではなくて「おとうさん」となると、個を握りつぶし、途端に一般性と社会性を帯び、「みんなのおとうさん」のように何かぼんやりとしたものの所有物かのような感覚もわく。 「おとうさん」への敬意は払っても、「〇〇くん」への敬意が薄れてしまう。 一方で、「おとうさん」本人は「おとうさん」と呼ばれることで「おとうさん」としての自覚を芽生えさせ、「おとうさん」としての役割を意識的にも無意識的にも果たそうとする働きがあるようにも思う。 家長としての「おとうさん」に祭り上げ、仕立て上げられるのである。 まあそんな悪意のあるような言い方をせずとも良いし、場合によっては揚々と「おとうさん」を乗りこなしていく「おとうさん」もいるだろう。 そうやって”家族”というものは守られるのかもしれないし、子どもは生まれて初めて属するコミュニティの見えざる掟や規範を会得していくだろう。 しかしながら、無自覚な個の消失というのは長いスパンにおいて良いことはほとんど生まない気もするのである。 そういえば、冒頭で夫から妻のことも「おかあさん」「ママ」と呼ぶケースが多いと書いたが、そんなことはないかもしれない。 妻のことを「おかあさん」と呼んでいる人を私は思い出せない。 「ママ」と呼ぶ人は数人思い当たるが、この場合スナックの「ママ」のようにも聞こえてしまう。 やはり妻が夫のことを「おとうさん」や「パパ」と呼ぶことの方が浸透しているだろう。 妻が夫のことを「おとうさん」「パパ」と呼んでしまうのは、そのくらい子どもの「おかあさん」「ママ」の役割をせざるを得ないからなのかもしれない、とふと思う。 程度の差こそあれ子育てに没頭せざるを得ないため、夫を見る際も子どもという存在を一旦介してしまう癖がついてしまっているのではないか。 それであれば夫が妻のことを「おかあさん」「ママ」と呼ぶケースが少ない理由にもなりそうである。 ちなみに、サザエさんはマスオさんのことを「マスオさん」と呼ぶ。 フネさんは波平のことを「おとうさん」と呼ぶ。 両親と同居している場合は、「おとうさん」の地位は一人しか獲得できないということか。 夫婦間でしか、この「おとうさん」「パパ」のような本来の意味とは異なる呼称は使われないように思う。 離婚した夫婦間では、子どもの前以外では相手のことを「おとうさん」とか「パパ」とは呼ばないだろうから、やはり婚姻関係上においてのみの話である。 ところで夫は私のことをやはり「おかあさん」とは言わず、一貫して名前で呼んでいる。 私が私らしくいてほしい、というのが夫のたっての望みであることは結婚する前からよく聞かされていた。 私は夫に、「私らしく」の「私」が一体なんであるのか、結婚する前の「私」を維持しなければならないとしたらそれは「私らしくいることとは違う」、などとうだうだと言ったことがあるが、このことは変わりゆく「私」が変わらずにあってほしい、という禅問答に落ちるので最近は問わずにいる。 夫にとっての私は、妻であり、ひとりの女性であり、「おかあさん」ではないのである。 夫はおそらく私に「おとうさん」と呼ばれる度に違和感を感じているのではなかろうかと思うのだが、何にも言わないのは夫の意思を感じるところである。 息子は日に日に成長し、抱っこしてほしいときに抱っこしようとすると背中を上げるようになった。 「ぼくのこと抱っこしてくれるの?やったやった、ここに手を差し込むんでしょ?」と言わんばかりに体を突っ張って反らせてくる。 それが可愛くてかわいくて、何度もやらせたくなる。 10年使ってきたパソコンがいかれて、いよいよ動かなくなってきたので新しいDELLのパソコンを新調した。 キーボードが一回り大きくなってバックスペースやコントロールキーやシフトキーの感覚がまだ馴染まない。
0 コメント
ここ数日で、息子の人見知りが始まったように見える。
先日、出産後初めてとある書の集まりの飲み会に出かけた。 私は授乳中なので飲めないが、そのような場に行くのも久しぶりだったので楽しみにしていた。 前日の夜から、夜ごはんをカレーにするなど細々と家をしばし空ける準備をする。 おかあさんがいない日のごはんのイメージはやはりカレーライスかななんて思いながら、ハイローチェアに乗せた息子を台所の入り口に置いて、私はぐだぐだの料理番組のようにカレーの手順を説明しながら拵える。 息子は一応見ているが、ほとんど独り言である。 その夜から息子は、明らかに夫に抱かれると火が付いたように泣くようになってしまった。 まさか翌日の私の外出を察しているとは思えないが、夫が抱くと「ちがーーーーーーーーう!」という感じで大激怒を始める。 そんなに泣いたらそのままひきつけを起こすのではないか、喉が切れるのではないか、虐待が起こっていると児童相談所にへ通報されるのではないか、とそんなことを考えてしまうほど。 私が抱き上げると猛烈な怒りをぴたりと収める。 翌日夫は会社から早めに帰宅してくれたがやや不安そうな面持ちだった。 いざ出かけるときに息子は既に泣き、私はそれを見て胸がぎゅうっとなったが、ここで諦めたら私はこの先外出できなくなってしまう。 互いに試練だと言い聞かせ家を出る。 飲み会の間にも大丈夫?と夫にメッセージを送るが、大丈夫と返ってくるだけだった。 状況の説明が無いのは私に気を使っているのもあろうが、大丈夫ではない証拠なのだろうと思ったが、これも試練だ。 会を終えて急ぎ足で帰ると、いただきものの「うたううあ」のCDがかかっていて、泣き疲れて寝たふりをしている息子と、床の上で疲労困憊でハイローチェアをゆすっている夫がいた。 3時間半ほどの外出で、息子は正味2時間半ほど泣いていたらしい。 顔が見えると怒るので、隠れるようにハイローチェアをゆさゆさとしているのだとぐったりしながら床から夫は訴えた。 一般的に、おかあさんでないと泣くというのは、物事の認識力が上がっているという成長の証である。 しかしながら、泣かれるのは単純に切ないし、泣き声を聞き続けるのは精神的に良くない。 息子本人も過度に泣くことは大きなストレスにもなろうし、疲れるだろう。 ちなみにこれまでは夫と息子がふたりでいても問題なかったし、それなりに仲良くやっていた。 だから余計に夫としては悲しい思いをしているようだ。 徐々に慣れていくしかないだろうから、まずは私がいるところで一緒におとうさんとの触れ合いを増やし、”安心できる人”という認定を息子にさせなければならない。 私は息子に好かれるのはとても嬉しいことで、ひとしおに可愛いものであるのだが、もちろんおとうさんのことも好きになってもらいたい。 夫は積極的に息子の世話をしてくれているし、何より息子のことが大好きである。 それなのに息子に泣かれて切ない顔をしている夫を見るのは私まで切なくなる。 と、ここまでは良いのだが、その一方で、私は少々複雑な気持ちになる。 と言うのも、どうやら私は、息子が夫ではなく私に懐いていることに優越感のようなものを感じているらしいからである。 息子に好かれるのが私で良かった、私はかけがえのない人物として息子から必要とされている、どこかでそんなふうに思っているらしい。 そう言えば以前、息子が夫にとびきりの笑顔を見せていたとき、私の中に軽い嫉妬心と不安感のようなものがくすぶっていることにも気が付いたことがある。 私の方を好きでいてもらいたい、そんな自分の傲慢さや独占欲の片鱗を見て、困ったものだと思った。 夫と息子が仲良くしているのはとても良いことなのに。 息子にしてみれば母である私はいつも一緒にいて何より乳を与えてくれる命綱なのだから、母親に懐くのはほとんど当然とも言えるのだが、息子からの絶大な支持を得て「私でないとだめなのね」と変な勘違いを含んだ自信が奥深いところで根付きそうになっている。 子どもはほとんど場合母親というものをすがりついてしまうので、母親側はそれをさらに肥大させて、どう振る舞おうとも子どもからは嫌われない絶対的な存在として君臨していく。 このことは、子どもを持つ女の人のどこか傲慢な側面、に繋がっているのではないかと思うことがある。 傲慢な側面、というのは、自信に満ちた側面、とも言い換えられるが、それは時に傲慢に見えることがあるように以前から思っていた。 もちろん、子どもを持つすべての女の人がそうではないが。 自分が愛される存在であるという適切な量の自信があることは、個人が個人として成立する確かに大切な要素だと思うが、母子の関係において得られたそれは、その他の社会関係の中においては取扱い注意のように思う。 何でも過剰は良くない。 そしてしかし、適度、というのは難しい。 青森県の立派な瑞々しいにんにくをいただいた。 シンプルに、アンチョビのペペロンチーノを作る。 にんにくをたっぷりのオリーブオイルでゆっくりじっくり熱して、輪切りの鷹の爪も入れて熱し、アンチョビを加えて茹で汁を少し、よく乳化させることが重要といつかどこかで見た気がする。 こういうシンプルすぎる料理は、素材そのものの良さが大切で、調理はごまかしがきかなくて難しいものだ。 それなりに美味しくできた祝日のランチ。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|