昨日、大根を一本買ってきた。
半分は、大きさとか形とかはまったく不揃いに適当な銀杏切りに切る。 冷たいフライパンに豚ひき肉をそのままどさっと入れて強火にかける。 ひき肉はあまりこねくり回してはいけない、とどこかで読んでから、熱するときはしばらく放置することにしている。 フライパンに接する面が粗方焼けてきたタイミングで適当に木べらでほぐす。 いわゆるそぼろのように一粒ずつではなく、大きさがいろいろの肉の小さな塊ができる程度に。 このとき、油が出てくるので他の具材をわらわらと入れて炒め合わせて、水を入れて煮込む。 お味噌汁で使った茅乃舎の出汁袋を破いて中身を入れる。 煮立ったら、酒をととと、醬油をどぼどぼ、みりんをどぼ、と入れる。 もう一回煮立ったら日を止めて半日ほど放置する。 本当は唐辛子を入れて味を引き締めたいのだが、できれば息子にも食べさせたいので唐辛子は我慢する。 この煮物は久しぶりのクリーンヒットであった。 そしてもう半分の大根をもっと適当に乱切りに切って、次々とミキサーにかける。 グガガガガガジャーーーーーーと、大根おろしができる。 何度も切って、何度もミキサーにかける。 たくさんの大根おろしをタッパーに小分けに入れて冷凍庫に入れる。 豚肉のみぞれ煮にしても良いし、きのこのみぞれ餡かけにしても良い。 夫がテレワークのときの昼食や、用意する時間のないときの夕食の大いなる助けになる。 今日はキャベツひと玉買ってきた。 まず湯を沸かして、キャベツ半玉を粗い千切りにして軽く茹でる。 一度に全部は鍋に入らないので、二回に分けて。 ざるに上げたキャベツを力強くぎゅうっと絞る。 私は手の皮膚が弱いのでこういった作業は好きではないのだが、生のキャベツを食べるのは大変なのでやはりこうして食べるのが好きである。 4分の1のキャベツをシーチキンと合わせ、梅酢と醤油で味付けをする。 残り4分の1のキャベツも明日同じようにすることになる気がするが、とりあえずどんぶりに入れてラップをかけて冷蔵庫にしまう。 このサラダはキャベツを買ってきた時には必ずと言っていいほど作ってしまうほど、簡単で失敗しづらく、おいしい。 ちなみに私はマヨネーズがあまり好きではないので、コールスローのようなものは作らない。 そしてもう半玉も、粗い千切りにして鶏もも肉のトマト煮込みに入れる。 にんにくと玉ねぎをオリーブオイルでじっくり炒めて、人参を入れさらに炒め、トマト缶をどばーっと、トマト缶のへりについたトマトを取るように水を入れてそのトマト水も鍋に入れる。 マギーブイヨン2つ、塩胡椒、蜂蜜。 蜂蜜はいつもはスプーンで入れるのだが、面倒で瓶をひっくり返して入れたら手が滑ってかなりたくさん入ってしまった。 除ける分は除いたが、大丈夫だろうか。 まああまり気にせず鶏もも肉を切らずにそのまま入れて、キャベツを上からどさっと乗せる。 半玉分全部は一度に入らないので、蓋をしてぐつぐつ、ぐつぐつ。 第一弾のキャベツのかさが減ったところで、残りのきゃべつもわさっと入れて、ぐつぐつぐつぐつ。 明日用なので味見もしていない。 これでキャベツひと玉を、ひと晩で全部料理したことになる。 大根もキャベツも、1日経つとへなっとしてしまう姿をあまり見たくなく、これらを一本、ひと玉買ってきた時にはこのような作業を黙々とすることになる。 我が家のキッチンは隔離され囲われた場所にあるので通気がとても悪く、物が傷みやすい。 面倒だけれど翌日以降楽をできるので、大きな野菜でも買ってしまう。 食べるということは、なんとエンドレスで手間のかかることだろうか。 日常の栄養をすべてサプリで摂取しているという話を聞いたことがあるが、おそらく私はそれを試みることもないだろうとは思うが、気持ちがわからなくもない。 食べるということ関わる時間は膨大なものであるから、食べることに手間がかからなくなるのであれば、膨大な時間を手に入れることができるだろう。 単純な話としては。 酒嚢飯袋、という言葉があるが、まあ本当に人間とはそのようなものである。 しかしサプリであろうと何であろうと食べないといけないのは生き物の宿命なわけで、それを良くしていこうと試行錯誤することは人生を良くすることにつながりやすいとも思う。 最近は息子の成長に伴い、ゆっくり食事をするということが本当になかなかかなわない。 何を食べているかわからないくらいに早食いにもなる。 食べることを落ち着いて楽しむことができる日はあとどのくらいでやってくるのだろう。 今日は息子は水餃子を2つ、手づかみで食べていたので、そういう食事の喜びはあるのだが、食事による自分自身の内的な喜びも取り戻したいものである。
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最近息子の成長が著しい。
まず、二足歩行がとても安定してきた。 はいはいする姿がほとんど見られなくなって、もう少しで走れそうである。 おそらく二足歩行によって、彼の世界は著しく広がり、重力のかかり方も体の支え方も酸素のいきわたり方も、あらゆることが劇的に変化しただろうと思う。 最近のほとんど成長は二足歩行の安定に端を発して、様々な変化に結びついているのだろうと思われる。 そして一番の変化と言えば、これまでほぼ流動食を食べていて少しでも固形物があるとおえっとなって受け付けなかったのだが、なんと手づかみでつくねを食べた。 もぐもぐ、しかもひと串、三つの肉団子を。 もぐもぐ、もぐもぐ、口も良く動いている。 今までは舐めるようにしか食べていなかったのに。 柔らかめで味も薄かったので食べやすかったのは分かるが、いきなりのことでたいそう驚いた。 これまで結構悩んできたので不意に涙が出てしまいそうだったのだが、二個目でビデオを回して早速いもうととけいこに送る。 その数日後、機嫌が悪いと思ったらなんとお腹が空いているというアピールだった。 息子はお腹が空いていると訴えてきたことが、私が理解する上では一度もない。 だいたい、時間を見計らって捕まえて食べさせていることがほとんどである。 ぶどうパンをあげるとこれまた軽快に口をもぐもぐさせているではないか。 しかもレーズンもまったく気にせずに食べている。 これまで、友人たちや保育園の先生や友人の歯科医や小児科の先生や発達支援センターの言語療法士などに相談してきて「いろいろなものをチャレンジしつつ様子見」と言われ続けた息子の大きな一歩が進んだようだ。 やはり、いろいろチャレンジすると言っても子どもに無理強いすることは本当にできないので、機を待つことで良いのだと思う。 元保育士の友人が「その子が困ってなければ大丈夫」という言葉は本当にいつも支えになっている。 どろどろのものでもカロリーはとれているし、息子本人はこのことで一度たりとも悩んではいなかったと思う。 勝手に悩みたてていたのは、周りの大人ばかりである。 そしてまた変化と言えば、怒る、という表現が板についてきたことだ。 今までは不機嫌になっても他の代替案を出すことでおさまっていたことが、継続する明確な怒りを声や地団駄や体の反らしで伝えてくる。 だいたいが「やりたい」という意思が思い通りにならないことによるものである。 その「やりたい」ということは大半は危険を伴うことだったり、面倒なことだったりする。 力も強くなっているので、これはなかなか先が思いやられる。 他にも、テレビ番組の登場人物や親の仕草の真似が素早くできるようになった。 できる真似事のレパートリーも増えている。 意味のある言葉はまだなのだが、「わんわんわんわん」と言うと「ぅわぅぅわぅぅわぅぅわぅ」と返してくれる。 名前を呼ぶと両手を挙げる。 息子ではない名前を呼ぶと反応しない。 可愛い。 べらぼうに可愛い。 しつこいですが、狼煙展まだやっております。 今月30日で一旦展示は閉めます。 もしよろしければまた最後にのぞいてみてくださいませ。 竹内恵美子 狼煙展 https://emikonoroshi.thebase.in/ 気が気ではない一週間を過ごした気がする。
買ってくださった作品の裏打ちや額装に回ったり、依頼されていた書を納品したり。 句会があったり、来月の展示会のこまごました対応が入ったり。 それでも、子どもがいなかったとしたら、仕事が忙しくても合間を見てゆったりと気を抜いてだらーーとしただろうけれど、子どもがいると本当にきちんと休めることが少ない。 慣れないことばかりやっているのと、やはり作品が売れたことに対する胸のどきどきが止まらないのと、作品がお手元に届いたときにがっかりしないだろうかというのが不安でならないのと、いろいろと気を揉んでいる。 酒でも飲んでぱあっとなれれば良いのだが、あいにくまだ酒も飲めない。 そういえば、産後1年4か月ほどが経ったが、殊更に酒が飲みたいというふうにはなっていないのだが、やっと今酒が飲みたいなあと切に思う。 しかし酒は体へのダメージ時間が長いので、飲まない習慣の今は、二日酔いで半日以上つぶしてしまうなんてことは皆無になったのでそれは良いことである。 酒を飲んでぱあっとなる、そしてぱあっとなるのを通り越してぐでえとなるのは良いけれど、二日酔いは辛い。 体が辛いだけでなく、無駄に時間を過ごして、何一つ物事が進まないということになる罪悪感に苛まれるのも辛い。 酒を飲まなければ、朝も夜も、自由な時間にしっかりと活動ができる。 まあでも、かつては暇だから酒を飲んで有意義な時間に変えていたように思うので、それもまた良かったのだ。 今は子育てが忙しいし、子育てに終わりは来ないと思うけれども、また暇にまかせて酒を飲む日を恋しく思う。 ちなみに、煙草はもっと前から吸いたいなあと思うことがあって、夢の中で「しまった吸ってしまった・・・!どうしよう」なんて狼狽えていることがある。 よほど吸いたいのだろうと思う。 授乳もいつ終わるのかまだ目途が立っていないが、煙草を再度吸うかどうかは、そのときが来たら改めて考えよう。 息子は最近、とことこと安定して歩くようになって、地団駄が踏めるようになった。 地団駄を踏む、というのは1歳にして体に搭載されている機能なのである。 ところで、大人で地団駄を踏んでいる人を私は見たことがない。 一方、子どもで舌打ちをしている人を私は見たことがない。 この二つは、瞬間的なストレスを回避するための生体反応なのだろうと思うが、どうして大人になると舌打ちをするようになり、地団駄を踏まなくなるのだろうか。 いつからそうなのだろうか。 地団駄の句を作って本年最後の句会にのぞんだが、地団駄の句だけ無得点であった。 ほかの句はなかなか高得点で、最近自詠の書を書くために俳句を考えていたりするので、少し筋トレの成果が出たのかもしれないと思う。 多少苦しくても、できるようになりたいことは淡々と日夜続けるべきなのである。 初霜や幼子は地団駄を踏む 空っぽのドロップの缶星月夜 ししゃも食む卵の数は数えない まだまだ開催中です。 どうぞごゆっくりご覧くださいませ。 竹内恵美子 狼煙展 emikonoroshi.thebase.in/ 人生初個展、竹内恵美子 狼煙展は、大盛況と言って過言ではないだろう。
私なんかどうせ、と過度に自分を卑下するのは良くないことだと思っているが、お世辞でもいただけて、一人でも多くの人に見ていただけたらそれで良いと思っていた。 しかし実際には作品は現時点において20点ほど売れているし、売れてしまった作品の問い合わせも入った。 もちろんだが、同じ作品は本当にもう二度と作れないのだけれども。 「間違っていた」という作品が人気で、序盤に売れたのだが、そのあと4名の方から「欲しかった」「もうないのですか」と連絡が入った。 実はあの作品は何か他の作品を書いていた最後に、とても不意に書いた1枚だったのだが、確かにそういうものが良いというのはあることである。 買ってくださった方々は普段からSNS上、または直接やり取りのある方ばかりだが、あまり存じ上げない方もいらしたし、その世界では大家と言って良いような方も買ってくださったりしていて、私はその日の夜は興奮してなかなか寝付けなかった。 値段のつけ方も絶妙だったのではないかと思う。 それにしても、いろいろな均一市があると思うが、4000円均一は聞いたことがない。 恐る恐る上げた狼煙は、確実に、何十人か何百人かは見てくれたことになる。 そして身銭を切って購入してくださったなんて、なんとまあ恐れ多いことか。 また、お世辞ではないだろう有り難い言葉もいくつかいただけて、胸がぎゅうっとなっている。 飛び上がるほど嬉しい、というような手放しの嬉しさでは全然ない。 心の置き場に困るような、少しだけ苦しいような、恐縮する気持ちが膨れ上がった。 これからに対する期待感を背負ってしまったような自意識過剰状態も生まれた。 今までの人生の中で感じたことのない気持ちのような気がする。 個展開催の前日、明日の21時から開催しますと宣言して、前日当日は最近には見られない集中力を発揮して、全部の作品にキャプションを入れた。 このブログをお読みになっている方は分かると思うが、私はべちゃくちゃと説明をしたい方なので、キャプションを書くのは全く苦ではなかった。 ブログの短縮形のような感じだし、そもそもその言葉を書くに際して色々な思いあって書いているわけなので、書くことには事欠かない。 ただ、画像や金額情報を入れながら本当にばーーーーっと書いて読み直していないので、誤字脱字はあると思うけれど。 キャプションがあったから買うに至ったケースも多いように思うし、私は自分の満足度が高まったので、頑張って書いてよかったと思う。 今回いろいろな言葉を書いて、80点ほどの作品をアップしているが、購入されたものについての傾向も少し知れて参考になった。 売れるものを書くのが正解なのか否かは難しいところだが、売れるというのはかけがえのない評価だと思う。 まさに、有り難し。 ビジネスの仕組みや方法論が好きな夫は、前期展・後期展に分けたら良かったねと言ったが、確かにそうかもしれない。 作品数がとても多かったし、会期が長くてもほとんどが最初の2,3日しか見られないなら、二回にわけてやった方がより多くの人に、頻度も高く見ていただけたことだろう。 狼煙展の題字ももちろん自分で書いているが、真面目すぎる風合いなので中身の面白さを損しているのではないか、という意見もいただいた。 私は和食屋などが草書体の看板を掲げることをとても疑問視しているので、意図的にきちんと書いたのだが、少しでも作品の風合いが題字から伝わると良いというのはそうかもしれない。 買ってくださったうちの数人からは額装まで依頼されているので、今日作品の裏打ちを自分で行った。 水で濡らして、アイロンでくっつく裏打ち用紙を張り付ける。 すでにお金が支払われていると思うと、かなり慎重になる。 作品以外にもいろいろと改善点のある、実りある個展となった。 まだ終わっていないけれど。 さて、今後の予定は、5月にやる予定だった展示会が12月12日、13日になって、その事務員を仰せつかったのでとても気ぜわしい。 次の個展の予定は未定だけれど、また粛々と作品は書き溜めていこう。 いつかリアル展示会もやってみたいが、WEBでも結構疲弊するのだから、リアルはどんなに精神力を使うだろうと思う。 まだまだ開催中です。 どうぞごゆっくりご覧くださいませ。 竹内恵美子 狼煙展 emikonoroshi.thebase.in/ お待たせ(?)いたしました。
何とか個展の準備が整いましたので、サイトをオープンいたしました。 この個展では作品の販売も致しております。 作品は、ほとんどがこの2か月ほどで書いた新作です。 (Instagramにはアップしておりました) ひとつひとつの作品にキャプションを入れました。 作品は、ぱっと見の良し悪しがまず先行するとは思いますが、 それを書くに至った経緯を知ると、見方が変わったり、深みが増したりといったこともあると思います。 ほとんどが自詠の言葉なので、その言葉への思いもぜひ合わせて楽しんでくださいますととてもうれしく思います。 この個展開催に際し、私はなぜ表現をするのかを考えていました。 しかるべき機関に評価を受けたい、歴史に残りたい、などという思いは到底遠く、イメージがつきません。 ひとつ、私の目的としては言えることは、「私の作品を見て、誰かの人生がしかと実感を持ち始めて動き出す」ということがあってほしいということです。 もし作品を見て万一陶酔してくれる人がいるとしたら大変光栄なことに思いますが、もちろんそういう体験もしてみたくはありますが、それよりも、その人の人生が動き出すことを願っています。 かつて私が甲本ヒロトから受けた影響のように。 あとは、「良し悪しよく分からないけれどなんか二度見しちゃう」みたいないわゆる変な作品でありたいというちょっとした願望もあります。 ひとりで準備をしましたので、誤字脱字やその他不備がある可能性もあります。 その際はそっと私にメッセージいただけますと大変助かります。 また作品についてのご質問などございましたら、どうぞお気軽にメッセージください。 それでは、ごゆっくり、ご覧くださいませ。 竹内恵美子 狼煙展 産まれて初めて、人生初の。
まだまだそんな接頭辞が何でもついてしまう息子だが、昨日は人生で初めての美容院に出向いた。 息子は同月齢の子と比べると髪が比較的生えている方だと思うので、本当はもっと早く切るべきだったのだろうが、ここはやはり母が書道家ということで、胎毛筆を作るべく長くなるのを待っていた。 目に髪がかかってしまうので、最近はもっぱらちょんまげに結んでいた。 彼のちょんまげは、頭の上にぴよっと一本細い筋が立っていてなんとも可愛らしかった。 しかし何せ私は美容院にはこだわりがないし、行きつけもない。 まして子どもを散髪するのはやはり子どもに慣れているところでないと無理だろう。 そんなわけで検索をして、同じくらいの子どもを持つブロガーの方が行ったというところに決めた。 親と一緒に椅子に座って、専用の二人羽織のようなケープを一緒にかぶれるということが決め手だった。 あとは、1歳は1,000円、というのももちろん魅力的である。 家から徒歩60分。 歩きたい我が家では、その上こんなにも散歩に適した季節なので、もちろん歩いて行った。 普段まったく散歩コースで行かない方面というのも良い。 いつもと違う街並みを歩けるのは、それだけで楽しいものである。 予約は16時半。 休日の息子はだいたいお昼ごはんを食べて13時か14時くらいから昼寝をするのだが、もう少し頑張って起きていてもらい、15時くらいに家を出る。 暖かい格好をさせてベビーカーに乗せて、10分くらい経ったところで、ばたっと後ろに倒れてきて何かと思ったら寝ていた。 してやったり、作戦成功である。 目的地の美容院には予約時間よりも少し早く着いたので、店の周りをぐるぐるして息子が起きるのを待つ。 起き抜けでは機嫌が心配である。 しかしなかなか起きないので店の前に行ってスタンバイをすると、店員さんが気付いてくれて挨拶をしていると息子はようやく昼寝から目を覚ました。 美容院はやけに白くて明るくて、息子は目をしぱしぱさせながらやや驚いていた。 病院のようにも思えるし、何せ美容院というところが何をするところなのか知らない彼はしばし固まっていた。 いよいよ断髪か、と私は新しい息子に出会えることにワクワクしていた。 簡単に筆の相談して、いざカット。 ハサミや霧吹きに目を奪われて首を動かすのでなかなか思うようには進まないが、思ったよりは全然静かに座っていた。 記念の意味合いと、息子の気を引き付けるために、インカメラにしたiPhoneのビデオを回す。 ざくざくとざんぎり頭になっていく。 毛先の細い、あのふにゃりとした髪がなくなっていく。 そして何より、息子のフォルムが変わってゆく。 最後バリカンのところで少し泣いたけれど、概ね大人しく大変よくできました、といった感じである。 しかしそれはそうと、私は変わってしまった息子の姿にふつふつと沸く切なさを感じていた。 すっかり日の落ちた秋の夕方、帰りは電車に乗る。 その前に見つけたパン屋で、食パンとこしあんぱんとしろあんぱんを買って食べた。 帰路の途中も、帰宅後も、当たり前なのだが、息子は変わっていない。 よちよち歩いて、まんまんまんまんキャーキャーと叫び、隙あらばいたずらをしたがる。 表情も変わっていない。 髪が短くなっただけだ。 そう、そうなのだが、何だか泣きたいほどに切なさがあふれ出てくる。 おそらく、赤ちゃんとしての息子が一部が失われてしまったことによるものだろうと思う。 あかちゃんの独特の愛くるしさを、私は息子の髪のみに見ていたわけではなかろうに、やはり見た目の支配というのは大きなものなのかもしれない。 切らなければよかった、ということでもないし、ずっとずっと赤ちゃんでいてほしい、ということでもない。 それはどちらも困るし、逆に大いに心配である。 いつか変わってしまうと信じているから、失うことが惜しいのである。 これからもこんな気持ちにたくさんなるのだろう。 赤ちゃんという服を一枚脱いだような息子は、今日も変わらず、朝ごはんを食べて保育園に行った。 今日も変わらず、世界の探検である。 ひと月後に筆が届く。 実際に使う人はほとんどいないのではないかと思うが、2本作ったので、1本は使おうと思う。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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