あと二か月で今年が終わる。
まあでも何も終わったりしない。 こんなときいつも、虚子の句「去年今年貫く棒の如きもの」を思い出すのだが、この句はやはり凄みが凄い。 ご縁あって、新規オープンするカフェバーの飲みものメニューを揮毫させていただいた。 半紙半分のサイズ、B5用紙より少し小さい、 通常活字で書かれている文字を、実際に筆で書くととても小さいと感じる人が多いと思う。 実際に半紙半分のサイズにこれだけの文字量を書くのは、目がちかちかしてしまうほどだ。 しかも、当然ながら一字たりとも誤字脱字は許されない。 私は鉛筆で下書きとか、行数を書き込むとか、PCを使ってレイアウトのシミュレーションなどは行わない。 まずだいたいの見立てで何となく一枚書いてみるのが始まりである。 そうして、文字の大きさや余白のあり方などを把握して、2枚目以降は本番さながらに書いてみる。 最近では、時間が許せば、一旦良いものができたらその日は終わりにする。 日をまたいだ方が書きあげたものへの判断を冷静にできるし、次のタイミングには一段良いものが書けることが多いからだ。 そしてまた次の作業日、前のものを眺めつつ反省点をリカバリーするように書いていく。 慣れが生じるからか、2日目の方が誤字脱字が多くなる傾向にあるような気がする。 せっかく上手くいっていたのにーー、といったことを経て、細かい調整ごともすべてクリアした完成品を書きあげる。 我慢、辛抱、不屈、執念、である。 こういった仕事は神経を使い、骨が折れる。 しかし、書きあがったときの爽快感は、おそらくジョギング5キロくらいを走った爽快感に匹敵するものがあるのではないだろうか。 ちょうど、般若心経を書きあげるのと似ているかもしれない。 なかなか良い仕上がりなのではないかと思う。 自分で言うのもなんだが、自分でそう言えないのもどうかと思う。 もちろん、どのレベルでもどころがないというのは嘘だけれど。 店長の女性もとても喜んでくださった。 ほっとした。 緊急事態宣言が明けて、コロナ感染者数もかなり下火になっているので、是非街に繰り出して飲みにいきたい。 しかしながらコロナどうこうではなく、息子がいるので難しいところである。 一緒に行っても良いが、きっと30分くらいで帰る帰ると騒ぎ出すことだろう。 最近の息子は本当に私にべったりである。 そのことは私を嬉しくさせる一方で、身動きの取りづらさを感じざるを得ない。 寝るときは小さな息子と抱き合って寝ている。 息子は自分が寝入るまで背中をさすれと言わんばかり、手を離すと怒ってまた私の手を持っていく。 起きるときに視界に私がいないと大不機嫌になる。 私がいればにこにこしている。 私は自分の存在価値を息子によって劇的に上げられているので、それをそのまま世間様に向けて高慢になってはいないだろうかと時々不安になる。 まあでも、息子が私に対して必要としている安心は、私のできうる範囲いっぱいまであげたいとは思っている。 それがおそらく、将来の様々な意味においての自立の一助になると信じているからだ。 神経質な面がある息子だが、私以外の場所でも屈託なく笑えるようになってほしいと願っている。
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勝手に心配していたいもうとのあかちゃんは比較的スムーズに出てきてくれたらしい。
さすが3人目である。 まだ彼女らは入院中なのでLINEでしか話を聞いていないが、いもうと曰く、先生が子宮口を4センチからさらにこじ開けてくれて、途中へその緒を赤ちゃんが踏んでいて苦しくなってしまっていたので吸引で分娩したとのこと。 私が驚愕したのは、赤ちゃんが外部の手によって引っ張り出せるということ。 ちなみに私もいもうとも、子宮口の開きやすさなどの面でどうやら難産タイプの身体をしていると思う。 うまく言えないが、難産タイプのお母さんから経膣分娩する場合、赤ちゃんの意思なしには出てくることが難しいのではないかと思う。 温かくて安全な子宮の中から、暗くて狭くてぎゅうぎゅうで苦しい産道を通り抜けて未知の場所に出るわけだから、赤ちゃんにとっても相当な覚悟なのではないかと思う。 現に、いもうとの第一子、第二子もそんな感じだったようだし、私の息子の場合、まだ腹の中にいたいところを無理やりの陣痛促進剤の締め付けに遭い、ストレスがかかってお腹の中でうんちをしてしまったのではないかと想像する。 がしかし、今回のいもうとのケースは、予定日まで1週間もある39週の予定分娩でもものの4時間ほどのスピード出産だったようだ。 産科医の腕が良かったこと、経産婦であること、無痛分娩により痛みがほとんどなく母体が元気であったこと。 色々と良い条件がそろっていたのだろう。 直前で逆子だったのを先生がぐるりと回して、子宮口に頭をはめ込んだらしいと言うのだから、中の赤ちゃんはぎえええええとなったのではないかと思う。 とにかく、二人とも無事ということが何よりというか、もうそれで良いのだ。 そして、おばの私は、三人目にしてようやく名付け親を勝ち取ることができた。 私は名前を考えることが本当に大好きで、これまでも生徒さんのお子さんを図らずも名付けてしまったことさえある。 一人目、二人目のときもたくさん提案していたのだが、採用されたことはなかった。 今回は一人目二人目の名前に入っている「珠」という字を使うことが条件だった。 「花珠(はなみ)」という。 まるくてふんわりしておだやかで、良い名前なのではないかと思う。 私の名付けは、苗字と合わせて字面が良いこと、画数は一切何も見ないこと、強い願いを込めないこと、奇抜な漢字を使わないこと、ありそうであまりないこと、このようなことを大切にしている。 温めている名前は、例えば私が二十歳から二年ごとに四十歳まで生み続けたとしても余りある。 まあでも結局またそのときそのときで新たに考えるのだろうけれど。 今回のように、ある漢字を使う、とか、読み方の音は決まっているけど漢字が決まらない、と言った場合にも、発想が膨らむので楽しい。 ほやほや新生児の花珠ちゃんを見に行くのが楽しみである。 もうすぐいもうとの子どもが産まれる。
三度目、おそらく最後の出産なので無痛分娩にすることを決めたらしい。 無痛分娩について、まったく、つゆも、異論はないけれど、通常分娩の倍以上も費用がかかるらしい。 何でも良い、母子ともに無事であれば。 自分も出産を経験して本当に、そう思う。 死ぬほどたくさん食べたとか、死ぬほど急いだとか、死ぬほど泣いたとか、文字通り死ぬほど何かをすることは、本当にはほとんどないだろう。 しかし出産は皆それぞれに”死ぬほど”の体験をするのは、冗談や誇張や過言ではないと思う。 ”死ぬほど”と思わなかった人もいるだろうけれど。 実際には、妊産婦の死亡は、10万人に対し3.1人ほどらしい。 これは世界を見てもかなり低水準と言える。 無論、10万人に3人ものお母さんが亡くなっているというのはいたたまれないが、出産で死亡することは実際にはかなり起こりづらいと言って良いだろう。 だからと言って、安全で安心、というものでは全然ないと思う。 多くの危険を医療技術によってなんとかかんとかカバーしているというのが実際だ。 現に、私が産まれた1980年代には、妊産婦は10万人に対し18人弱、1900年代を見ると約400人くらいが亡くなっていたようだ。 それこそ縄文時代には、女性の死亡率は10~20代が最も高いというデータもあるらしく、それは出産に関した死亡と考えるのが妥当であろうと言われているらしい。 まあそもそも寿命が20~30歳とかそのくらいだったらしいが。 それほどに、人間の出産というのは冗談でなく「命がけ」なのだと思う。 私はこのことについて、だから出産した女性を敬えと言いたいのでは全くなく、何だか言い知れない怒りにも似た、未だ処理しきれない感情を抱えている。 私は息子を帝王切開で出産したので、もし医療技術が発達していなかった時代だったとしたら、私も息子も悶え苦しみながら死んでいたのかもしれない。 私たちは偶然にも整った医療を受けられる現代に生きているので、私も息子も事なきを得たので良いではないか、とも思うけれど、それですっきり片付けられない何かが私の真ん中の奥底でずっと燻っている。 出産は感動的で祝祭的に思われがちだが、私は自分の出産体験がそういったものではなかったことについて、なかなか向き合えずにいる。 かと言って、誰かの出産が感動的で祝祭的であることに問題があるわけではない。 というか、できればそうあってほしいものである。 身近な人の出産は久しぶりだ。 出産祝いでなくて、お姉さんになる二人の姪にプレゼントを買った。 お姉さん記念のプレゼントだ。 きょうだいが産まれると、親の愛情はどうしても分散されがちになるので、その慰めに。 つるんと、すぽんと、産まれてきてほしい。 がんばれ。 電車族の息子は、電車を見たり、電車に乗ったり、電車のおもちゃで遊ぶことが大好きである。
好きなことがあるというのは素敵なことだ。 しかし毎日の保育園の行き帰り、電車の方に行くと暴れるので母は少し辛い気持ちもある。 保育園のお休みの日は、電車に乗りに行く。 息子は自分の思うままに電車に乗ったり降りたり、見たり、エレベーターやエスカレーターに乗ったりしたい。 しかし、そうするとどこに連れて行かれるか、全然分からない。 昨日は、成り行き任せに都電改め東京さくらトラムに乗ったら、これまでにない大興奮を見せた。 路面電車は発車時に「チンチン」と音が鳴る、これが大層気に入ったようだ。 地元の路面電車は「チンチン電車」と呼んでいたが、これは方言ではないだろうか。 どうせすぐに降りるだろうと、終点まで2駅のところで乗ったのだが、終点に着いても「絶対降りない」とばかりに手すりにしがみついた。 しかし折り返し運転で、一度扉は閉まってしまうので無理やり手すりから引きはがすと、息子は私の眼鏡やらマスクやらを引っ張って大暴れした。 それだけでも十分に辛いけれど、こういうとき、本当に引っかいたり噛みついたりしないのは息子なりに手加減をしながら暴れているということだろう。 私は眼鏡がずれたので、暴れる息子を夫に託すとさらに大物のマグロを釣り上げたかのような大暴れをした。 「じゃあもう一回乗ろう!!!!」と錯乱中の息子を抱えて向かいのホームに移ったら、運転手さんが東京さくらトラムのステッカーをくれた。 先日も西武線で西武線のカードをもらった。 街は子ども優しいなあ、と私はしばしば思う。 もちろん、地面で寝転んでストライキをしている子どもがいれば、皆じろじろとこちらを見てくるのだが、まああの姿というのは言わば子どもという生物の風物詩のようなものなので、私はあまり視線も気にしてはいない。 双方の安全には気を配らないといけないけれど。 東京さくらトラムでずいぶんと遠くまで行き、「降りる」と言った駅にJRの路線があったので、そのままJRで帰路を目指す。 昨日JRは大騒動で運休が相次いでいたようだが、夕方頃には電車は動いており、なぜかかなり空いていて助かった。 やはり電車に乗ることを覚えると、地下鉄よりは地上を走る電車の方が当然面白い。 家にあるプラレールと一緒の列車が走っていたり、新幹線や特急なども見られるのは楽しいだろう。 プラレールと言えば、西武線の駅のコンビニに、西武線列車のプラレールコーナーがあって、息子があまりにもそこに釘付けになるものだから、西武線列車を買ってしまった。 2800円ほど。 高い。 しかし、息子はプラレールの長い箱を離さずに歩いてくれたし、昼食時もそれを眺めて遊んでくれ、家に着いてから開封すると「みてみてーでんしゃーー」と本当に嬉しそうだった。 床に寝そべり張り付いて、プラレールの電車をそれと同じ高さで愛でていた。 好きなことがあるのは素敵だ。 2800円は素敵代、ということにしておこう。 話は変わるが、生徒さんの中にパティシエの方がいて、創作ウェディングケーキのコンクールに出るということでその相談にしばらく乗っていた。 何度か制作途中のケーキを送ってきてくれて、ティーカッププードルの位置とか文字のバランスなどを簡単にアドバイスしていた。 昨日ようやく完成したらしく、その写真を「寝ます」というメッセージ付きで送ってくれた。 全体はパステルピンクで、レースや薔薇のあしらいがとても繊細で、ティーカッププードルが上目遣いしているところがとても可愛らしかった。 バランスも完璧と言って良いのでは!という出来栄えだった。 集中すると時間を忘れるタイプの方だが、きっと夜通し、朝になってもやっていたのだろうなあと思う。 好きなことや集中できることがあるのは素敵だ。 さて、旅日記とは鮮度が命である。
理想はその日のうちにパソコンに向かうことである。 学生時代、東南アジアをバックパックを巡っていた頃、日本語が使えるネットカフェを見つけては頻繁にブログの更新をしていた。 旅をしていると、あれもこれも文章に書き留めたくなって、もはや心はどこにあるのやら、となったりするほどだ。 カシャカシャと大きめのキーボードを打つのが心地よく、2,3日分の旅の記録を書くのに、2時間も3時間も、あるいはそれ以上ネットカフェに入り浸っていたような気がする。 今はパソコンに向かわずとも、寝ながらスマートフォンでも書けるのだが、腕も目も辛くなってくる。 あと、小さい画面では推敲がしづらいということもあって、なかなかそのやる気が出ない。 そんなこんなで旅の続きを書いてみようと思うのだが、鮮度落ちの褪せたものになってしまうことは否めない。 2日目、朝7時半ごろ息子は目覚めた。 けいこのマンションは東海道本線沿いにあり、在来線のみならず貨物列車なども非常によく通る。 当然ながら通過音がうるさくて、私はあまり眠れずに朝を迎えた。 かつて住んでいた実家は新幹線にほど近い場所で、新幹線が通過する際にはその振動で揺れるくらいだったので、列車の騒音には慣れていると思っていたのだが、もうそんな身体ではなくなっているようだ。 朝ごはんのときに息子が食卓についていないのはいつものことで、昨日もらったトミカで遊んでいるところにごはんをお運びして、ひと匙ずつお口に入れて差し上げる。 自分で食べてほしいけれど、ならば食べなくても良い、というのが息子のスタンスなので仕方ない。 けいこは「座って食べない子にはごはんないよ」と言うのだが、そんな言葉は彼には通用しないのである。 朝食を終えるとすぐ、「い、い、おー」と言う。 これは「えいえいおー」のことで、外に行く、という合図である。 ごく少ない語彙で自分のやりたいことを何とか伝えようとする姿は愛おしいものだ。 特に何の用もないので近くの公園に行ってみるが、すべり台もブランコもなく、あるのは鉄棒だけ。 息子は公園だとも認識していないので、その足で電車を見に行く。 特に何の用もないけれど、珍しい電車に乗ってみようと、名鉄の赤い電車に乗ることにした。 息子はいつもはSuicaでピッとやるのを楽しみにしているのだが、残念ながらここには自動改札がない。 券売機にお金を入れて切符を買って、駅員さんにハンコを押してもらう。 私はSuicaしか持ってきておらず、けいこに切符を買ってもらった。 今はかろうじて一時間に二本走っている電車は、廃線を迫られている単線路線だ。 コロナで乗車人数が減少したとかそういうことではなく、もうずっとずっと前から走れば走るほど赤字路線なのである。 通勤通学時間帯にはそれなりに人がいるらしいが、その他の時間は1車両に4、5人も乗っていれば良い方だ。 ちなみに車両は2両編成である。 しかし市民の足であることには違いなく、名鉄に市がお金を払って存続させているという現状らしい。 5,6駅先にけいこの実家がある。 つまり私の祖父の家、息子の曽祖父の家、あるいは私の叔父叔母の家。 連絡をしていないけれど、そこに行くことにした。 いつもは車で行くけれど。 その駅は、路線の中でもひときわ寂れている。 ワンマン運転なので運転手さんがいるところの切符回収箱に切符を入れる。 小さな駅のホームには大きな傘のような屋根があり、ホームを降りると掘っ立て小屋のような駅舎がある。 駅舎の中には古いベンチと新しい自動券売機、覗くのも怖いような暗く小さな便所もある。 無論、無人駅である。 この駅舎は古くなり、建て替えはしないということで近日取り壊しになるらしい。 どういうふうになるのか分からないが、自動券売機だけ、ということになるのだろう。 最初は電車に興奮していた息子は、私に抱かれたまま途中から寝てしまっていた。 駅から出て、5分ほどのところにある祖父の家に向かう。 ちなみに祖父は96歳、今は入院中とのことで不在である。 この家はとても広く、庭はジャングルのようである。 目覚めた息子を連れて庭に入ってみるが、私は虫やら何やらが怖くて足がすくむ。 私はもう田舎に住むことはできないと思う。 叔父叔母に連絡をすると、出かけていたがすぐ戻ると言ってくれた。 コロナのせいで会うのは2年ぶりくらいだろうか。 叔父叔母も元気そうだったが、子どもたちは皆自立し、孫もいるが、何だか時間を持て余しているとのことだった。 叔父も叔母も、ちらほらいるその辺の畑作業をする人たちも、下校中の小学生も、皆マスクをしていた。 当然のことなのだと思うけれど、こんなに田舎でも、皆が皆マスクをしている生活をしていることに、何だか少し胸が疼いた。 世界はまるごと、変わったのだなあと思う。 皆でお昼を食べに行こうと、叔父の車に乗せてもらっておすすめの和食屋に連れて行ってもらう。 こういうとき、息子は特に食べたいものがないので、大人が食べたいものを選択できる。 息子はあらゆる引き戸が大好きなので、しばらく料理屋の個室の襖で遊んでいた。 肉や魚などを一人分煮る小鍋のふたに、革紐のような取っ手が2本出ていて、息子はそれを見て「かたあちーー」と言って喜んでいた。 かたあち、はかたつむりのことである。 物の名前を大枠の形や概念で覚えていくことに、何だかいつも感心してしまう。 息子の脳みそは、絶賛稼働成長中である。 息子は私の頼んだ鰻の釜めしを少し食べたが、これではカロリーが足りない。 まああとで蒸しパンかクリームパンを買えばよいか。 外出時に困ったときの外カロリー補給は、たいてい蒸しパンかクリームパンである。 あれは口どけの軽さとは裏腹に驚くほどカロリーが高いのである。 その後、叔父は海沿いを走ってくれた。 海と船を見せたかったらしい。 「ふね」は写真で知っているけれど、「うみ」は理解するようになって初めて見たかもしれない。 息子はとても喜んでいて、後日東京に戻って市ヶ谷あたりで中央線からお濠を見たときに「うみーー」と言っていた。 あれはね、おほり、しかし何と説明すれば良いのか分からなかった。 叔父は家まで車で送ってくれると言ったが、息子が電車に乗りたいだろうと思ったので、帰りも赤い電車に乗って戻ることにした。 けいこのマンションに戻り、蒸しパンでおやつを食べ、その後夕食を食べ、珍しくものすごく眠そうにしていた息子は21時半には寝てしまった。 翌日は午前中に水族館に行く。 なんと大人500円、安い。 息子は「かなな、かなな(魚)」と言ってはいたものの、あまりご機嫌が良くなく、途中からは誰でもトイレの引き戸に夢中になっていた。 この水族館は所謂インスタ映えするような生き物はあまりいないのだが、結構珍しい生き物がたくさんいて面白い。 大きなウツボや大きなタカアシガニが見どころである。 広告宣伝にも力を入れ始めてからは結構有名になって、入場制限をしているほどに混雑していた。 今の状態なら息子と一緒でない方が大人が楽しめる。 お昼にはマクドナルドに行ってみる。 なんとハッピーセットのおもちゃがプラレールだったからである。 息子はご機嫌にプラレールで遊びながら、ポテトを少し頬張っていた。 私も何年かぶりにチーズバーガーを食べた。 14時半ごろの新幹線で東京に戻るべく、駅に向かう。 けいこはそのまま一緒に東京に来てくれた。 大人がふたりいる安心感たるや。 しかもこちらの重たいリュックまで背負ってくれた。 息子は新幹線に乗る前に寝てしまい、新横浜あたりで目を覚ました。 再び新幹線に乗っていることに興奮した息子は東京駅で降りてもホームから離れようとしなかった。 行こう、というとホームにまた転がってストライキを起こす。 少し待って、無理やり引っ張って連れて行くかどうか、根競べをしていたら、息子は自動販売機に向かったので「りんごジュース買って行こうか」と提案したら意外とすんなり納得してくれた。 無事に帰宅。 疲れた。 けれど、良い冒険だった。 新しい経験にはたくさんの労力が必要だけれど、やはりたくさんの経験をしてほしいなと切に思った。 その経験が何に活きるかは知らないけれど、心の襞にたくさんの見聞きを刻むことは悪いことではないだろう。 冒険から数日、息子は明らかなイヤイヤ期に入った。 電気を点けるな、ごはんじゃなくてパン、パンツじゃなくておむつ、水じゃなくて炭酸、といちいち突っかかって大暴れしている。 保育園に送るときには「がっち、でんしゃ、キンコン、のる、こっち」と大変である。 ここ数ヶ月、息子のことであまり悩ましいことがなかったのだが、また悩ましいフェーズに入ったのかもしれない。 仕方ない、人間だもの。 人間だもの、って恐ろしいパワーワードである。 息子との長い秋休みを終えて、保育園に送り出す。
昨夜、息子には明日から保育園だという旨の説明をし忘れていたので、息子は朝から「きんこん、いく」と暴れて、酷くご機嫌ななめだった。 きんこん、というのは電車の扉の閉まる合図の音である。 旅の備忘録を書いておこう。 9月30日、夕方頃実家に到着し、ほど近くに住んでいる兄の家にけいこと一緒に出向く。 そこには小学三年生と保育園の年長さんの甥がいる。 誇張ではなく山ほどトミカがあって、もう遊ばなくなってしまったのでそれを息子に暮れるらしい。 兄宅に着くなり、息子はトミカに目を輝かせて遊び始めた。 「目が輝く」という言い回しは子どもに対してよく使われる。 好きなものを目の前にして子どもの「目が輝く」という姿を、私たちは確かに度々目にすると思うのだが、実際に目から光線が放たれるわけでもなく、目に多くの光が集まるでもなく、一体何が起こっているのだろう。 通常よりも目を開いているということだろうか。 もちろん表情全体の現象だとは思うが、たとえ子どもがマスクをしていたとしても、「目が輝く」状態とは確認できるものなのではと思う。 甥は、久しぶりに会ういとこにやや恥ずかしがりながら、トミカの説明をしてくれた。 ゆくゆくは全部くれるらしいが、とりあえず小出しにいくつか持って行って良いと言われたので、息子がつかんで離さなかったバスなどをいただくことにした。 すでに夕刻、日暮れも迫っていたのだが、兄はどうしても連れて行きたい場所がある、と皆を車に乗せて、少し離れた公園まで走らせた。 今回、兄は自分の甥が来ることを、仕事を早く終わられて飛んで帰ってくるほどに楽しみにしていたらしい。 私はそれが大層意外だったのだが、兄は自分の子どもが産まれてからというものの、結構子煩悩に子育てをしている。 自分の息子たちがある程度大きくなったので、2歳くらいのまだ赤ちゃん感の残った甥を見て懐かしさや愛おしさの懐古の情を抑えきれなくなったのかもしれない。 そういえば、いもうとの旦那さんも、夫の妹の旦那さんも、自分らの子どもが大きくなったからか、2歳の息子を見ると皆一様に目を細めて抱っこしようとする。 息子は簡単に慣れない人に抱かせたりしないので、それをとても嫌がるのだが。 兄が連れてきたのは、山間にある、長い滑り台のある公園だった。 私は久しぶりに山に囲まれて、「やま、やま、あれはやまだよ」と興奮して息子に教えた。 時々、山を見るのは良いものだ。 滑り台には小学生の高学年らしき男の子たちがいて、ボブスレーのような猛スピードで滑っていた。 カーブでは身体が浮くほどのスピードで、最後は滑り台から吐き出されるように、ボンっと身体ごと飛び出してきた。 「いてーいてー」などと言いながら滑っているのを見て、私は身の毛がよだった。 息子は最近、滑り台が大好きである。 よいしょよいしょとアスレチックのようになった坂をよじ登って、滑り台の入り口を目指した。 息子ひとりで滑らせることはできないので、私も一緒に滑ることになる。 いざ、息子を抱えて滑ってみたのだが、全然滑らない。 手の力で一生懸命漕がないと進まない。 私は少しホッとしたけれど、さすがに滑らない滑り台は面白みに欠ける。 どうやら前日の雨で湿気ていて滑りが悪いらしい。 小学生たちがなぜあんなに滑っているのかは本当に分からなかったが、おそらくは学校のズボンの化繊のジャージ素材が滑りやすいようだ。 息子は楽しかったらしく、3,4回滑ったところで、辺りは大分暗くなってきた。 ほんの15分ほどだったと思うが、楽しませてくれた兄にお礼を言って、けいこの家に戻った。 その後、夜ご飯を食べて、お風呂に入って、寝た。 私はとても疲れていたが、あまり眠ることが出来なかった。 布団が固いなあと思いながら、今日の無事に胸をなでおろした。 さて。
初めての息子とふたりの遠出。 懸案事項は多々ありながら、最終的にはあまり頭で考えずにことを決断した。 「考える、とは頭の中で思考する、ということのみならず、身体全身で行うことである」とは夫の名言だと思っているが、私も本当にそうだと思う。 このことは、自分の思考能力に自信がないということを隠しうるのだが、たとえそれをあけすけにしたとしても、考えるとは全身で行っていること、という体感は自信を持って存在するのである。 それはさておき、なんとまあスムーズに新幹線に乗って実家まで帰ってきた。 12時に息子を保育園から引き取り、一度家に帰って保育園の荷物を置いて、私は軽く昼食をとった。 抱っこ紐とヒップシートとどちらで行くか迷ったが、息子が抱っこ紐を持ってきて「だっこ」と言うのでそうすることにした。 決めがたい事象に、他人の要望があるのはありがたい。 13時に出発、地下鉄とJRを乗り継ぎ、東京駅まで難なく到着。 ヒップシートなら息子は度々降りて歩きたいと言ったであろうから抱っこ紐で正解だったかもしれない。 しかしながら、重たいリュックを背負い、11.8キロになった息子を前面に抱えていた私は、この時点でもう肩や背中が吊りそうになっていた。 しかも、新幹線の出発時刻の40分も前に着いてしまった。 ギリギリにはなりたくないとは思っていたものの、早く着きすぎるのも問題である。 とりあえず新幹線の発車ホームまで行き、私はひいひいとベンチに腰を下ろした。 新幹線に興奮した息子に「ちょっと降りて新幹線の先頭まで行ってみようよ」と誘い、抱っこ紐から息子を下ろす。 下載の清風、なんて禅語があるが、文字通り荷が降りて秋の爽やかな風が汗ばんだ私に心地よく吹いた。 息子は揚々と先頭まで歩き、次々出発する新幹線に嬉しそうにしていた。 しかし、新幹線のホームの先頭は鉄柵になっているのだが、鉄柵の幅は結構広く、なんと息子の頭は通り抜けてしまうほどだ。 頭が通り抜けるなら身体も抜けるはずだ。 きっとこの位置から新幹線を見る子どもなど沢山いると思うのだが、なぜこんなに幅広の柵なのだろうか。 これまで一度も、柵を通り抜けて線路に行ってしまった子どもはいないのか。 注視して息子を見守っていたが、案の定柵の間から顔を出してしまった。 私は驚いたけれどあまり強く言うと息子がパニックになるかもと、「だめだよ、だめだめ」と隠しきれない焦りを滲ませながら息子を制止して、そっと柵から顔を抜かせた。 息子にはばっちり私の焦りと不安が伝わり、自分のやりたかったことも遮れられたため、大激怒してしまった。 新幹線のホームに寝転がり、泣いてバタバタした。 まあ思い通りにいかないとこうなること(夫と私はこの状態をストライキと呼んでいる)はこれまでにも何度も経験があるので良いのだが、この状態で抱き上げるのは危ないし辛い。 「あっち見たかったよね、ごめんね、でもあそこから顔を出すと本当に危ないからやってはだめなの」と説明した。 なかなか収まらない様子だったが、その間にも新幹線は何本か出発していったので、やがて少しは気が紛れたようだ。 そろそろ予約席の12号車に移動しようと一緒に歩き出したが、大好きな新幹線が目の前にあるので息子は色々なことが気になって仕方がない。 理由はもはや忘れてしまったが、先頭から12号車にたどり着くまでにもう2回彼はホームに転がってストライキをした。 そうこうしているうちに出発時刻となり、新幹線に乗り込んだ。 息子はさも分かっているかのように、靴を脱ぎ、座席に座った。 私は、リュックの中から新幹線のおもちゃとアルコール除菌シートとお菓子を出した。 ムスコはキョロキョロしながらも新幹線のおもちゃをコロコロ転がしていた。 私はいざとなったら動画を見せようとWiFiにつなぐべくスタンバイをしようとしたが、疲れていたのでとりあえず休息することにした。 出発後は車窓を見ながら、「新幹線だよ。すごいね、速いね」と言いながら過ごしているうちに、程なくして息子は寝てしまった。 何と思い通りの展開か、と寝入った息子の写真を撮り、夫と、心配してくれていた保育園の先生方のLINEに送った。 ちなみに、新幹線の予約席は乗車率3割にも満たないくらいで、ものすごく空いていた。 私は一睡もできなかったが、あっという間に停車まで10分のアナウンスがかかった。 寝ている息子を起こさぬよう支度をしたが、息子は起きてしまった。 豊橋駅では約束通りけいこが待っていてくれた。 東京駅で一悶着あった以外は、何の問題も勃発せずに、最も望ましい形で到着することができた。 息子に「寝てくれてありがとう」と言うのは起きている息子の否定になりそうで言わなかったが、心底「寝てくれてありがとう」と思った。 兄家族の家に行ったり、けいこの実家に行ったり、西松屋に行ったり。 実家への帰省は結果的に疲れてしまうことが多いのだが、今回は旅行が久しぶりすぎて、とても満喫することが出来ている。 続きの備忘録レポートも書きたい。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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