静岡の90歳を超えるペンフレンドならぬ筆フレンドからしばらく便りがなくて心配していた。
こちらからお便りを送ると、夏の終わり、下痢や食欲不振で体調を崩されていたとの葉書が返ってきた。 葉書はボールペンで書かれていて、筆を持つのもしんどいのだろうかと、御年が御年なだけにとても心配をした。 しかし、遠くの会ったこともない若造にあまりに神妙に心配されても困るだろうと思って、心配の言葉は少しにして、息子の月間写真集を同封して返事を書いた。 一笑していただけたのならとても幸い、である。 昨日いただいたお返事には、少しはお喜びいただけた感じの文面が書かれていたので良しとしよう。 具合もボチボチ、快方であるとのこと。 文通というのは改めて難しさがあるなあと思う。 何の気なしに書くと、季節の挨拶や天気の話、ご自愛ください、といった内容に尽きてしまって、時々の葉書ならまだしも、それでは文通にならない。 しかし、即時性もないし、PCのように入れ替え挿入削除など簡単にはできず、何度も書き直すのは億劫なので長文は難しい。 文通は何か新しい近況を、端的な文章で潔く書くのが望ましい。 文通はテンポが大切なので、返信までにあまり時間を空けてはならない。 とにかく何でも、拙くても良いから、何か新しいことを見つけてさささっと書かねばだめだ。 と思って、テレビ番組「新美の巨人たち」でやっていた小倉遊亀の絵が良いと思ったという内容を唐突に、また簡単に書いた。 そのことが返信時に看過されても、それが文通である。 やはり保育園について、とても悩ましい。 男性も子育てをする人が増えており、当然そうするものだという通念も育ってきていると思う。 夫は子育てにも私の仕事にも極めて理解があるし、実際に当然のこととして行動に移してくれる。 しかしながら、妊娠・出産・子育て、をやってみて思うのは、やはりいかようにも主導は女になりやすい、ということだ。 フェミニズムやら男尊女卑やら、そういうことではない。 妊娠・出産・子育てのとても多くの場面で自らの肉体を使わざるを得ないのが、女だからである。 だから女性は大切にされるべきだとか尊いとか、そういうことではない。 ただ事実、生物的に女は妊娠・出産・子育てをするように出来ているのである。 子育て、においては、女がどうしても主導になってしまうのは、母乳で育てている場合、また母乳を必要とする乳児期に限定されるかもしれない。 まあでも現実には、母乳で育てない場合にも母である女が子育ての主導をしていることが多いだろうとは思う。 主導する、ということは、決断をする、ということである。 私は、自分以外に影響が多大に及ぶ決断をすることが基本的に好きではない。 たとえば誰かと結婚することを決めたり、誰かと外出する行き先を決めたり、誰かと食事する場所や内容を決めることさえも全般的にできればしたくない。 おそらく私は、決める、ということには、責任、が発生すると考えていて、その責任を負いたくないというのが理由だと思う。 とはいえ、食事レベルの事柄であれば、どうしても食べたいと欲するものがあれば、その食事にまつわる前後時間まで含めて責任を負って提案することもある。 しかし、特別に、これと言って、外出も食事も、大した希望が無いことがほとんどなので、「あなたの好きにしていいよ」と言われるとやや不快にさえ感じてしまう。 「好きにしていいよ」という気遣いや恩を着せられた挙げ句、決断まで強いられるのだ。 一方で同時に、相手も私のように決断が好きではない人の場合は、相手にその決断の重荷を背負わせるわけにもいかないので、こういう場合には互いの協力体制が必要となる。 今回の我が家庭での保育園問題も、できれば私は決断をしたくないのだが、どうしてもこれは夫の問題ではなくて、ほとんどが私の問題なのである。 その前に、夫が会社員を辞めて私が家計を支える、あるいは夫が収入減を覚悟して働き方を変える、という変更プランもあるにはあるがそれは私も夫も望んでいない。 ダブルインカムでなくても工夫次第でいくらでも生活はしていける状況にはある。 実際に保育園に通わせるときに二人で分担することになるのは、送迎と保育料である。 それら全てをひっくるめて、夫は私の良いようにすれば良いと言ってくれている。 夫は私が決断を依頼すれば、おそらく夫の責任で決断をしてくれるだろうと思う。 しかし、「来月から保育園に入れる」という決断には私はNOを出すし、「3歳の幼稚園の時期まで働かずに子の面倒を見て」という決断にも私はNOを出す。 となると、NOを出す時点で既に私が一部決断をしていることになる。 夫に決断を委ねるならば、夫に決断を委ねるという決断を私がせねばならないことにもなる。 となると、決断はいつでも自分でしていることになるので、私が嫌がっているのは決断ではなく、出だしの提案か。 ともあれ、現状私が平日日中息子と一緒にいて、夫が働き方を変えることを私が望んでいないので、もう私の裁量に一任するしかないことは明白なのだ。 夫は相談には乗ってくれるだろう。 だから、今回は私が出だしの提案も決断もせねばならない。 息子と一緒にいたい気持ちと、息子の子育て環境への配慮と、仕事や創作を存分にしたい気持ちと、もう少しひとりになりたい気持ちと。 息子も私も日々変化し、波立っているので、いろんな日があって思うことが少しずつ違う。 息子がこんこんとよく寝る日とそうでない日は、もう私の気分に雲泥の差がある。 そんな波をひと波もふた波もみ波も乗り越えた後に、一時的な決断は下そうと思う。 決断への覚悟は持った。 そんな今日の日は、息子はとてもよく寝る。
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もう9月の終わりである。
秋分、午後6時には日が落ちで辺りは暗がりとなる。 夏好きの私としては、夏至からすでに太陽の減りへの憂いが始まる。 頂点や絶頂というのは喜ばしさや輝かしさがある一方で、それ以上は望めないというある種の諦めや絶望や切なさを多分に含んでいるものである。 10月に入れば少し大げさに言って今年も終わりだ。 というのも、レッスンで早い人は年賀状を書き始める時期でもあるからである。 基礎を含めて、3か月間をかけた年賀状なんて今どき稀有なものだろう。 さて、最近の私は、保育園と煙草、について思い悩んでいる。 保育園と煙草、には何の脈絡も因果関係もない独立した事項であるが。 どちらも深刻に思い詰めているわけではないが、近い将来に何らかの決断を下さねばならない、私にとって比較的大きめの事案である。 保育園については、いつ入れるか。 妊娠中には、できるだけ仕事量を減らさずにすぐにでも復帰したい、子どもはどこでも育つはずだから早めに、可能なら生後2,3か月で保育園に入れようと考えていた。 四六時中赤子と一緒にいたら誰だって息が詰まるだろう、それに自分ひとりの時間だって譲りたくない、そんなふうに思っていた。 だから園の見学も2,3か所出向き、私が個人事業主だからそのための情報や資料を集めていた。 しかし困ったことに、息子との生活が現在2ヶ月が経って、息子が日増しに可愛くなっていくのである。 もうたまらなく可愛くて、愛しい。 増し増しに、てんこ盛りに、おかわり必至で、可愛い。 確かなこととして、こんなはずではなかった。 もちろん思うように寝られない動けないとか腕が痛いとか色々と大変なことはあるのだが、けいこの援助も終わった初めの頃、夫の帰宅頃にはもっとぐったりと疲れていたように思う。 最近はそれほどでもない。 これは、子どものいる生活に慣れたということもあると思うが、たぶん、息子との人間関係を日毎に養い、息子と仲良くなれてきたからなのではないかと思う。 息子の物事の認識力が上がって成長しているということもあるだろう。 そういうわけで、早々に保育園に入れることを思い直している。 と言っても今のところは、少なくとも年内に入園させるのはやめよう、という程度の決断だけれど。 ところがこの問題は、息子と一緒にいたいから保育園は先延ばしにしようということに留まらない。 私の身体もだいぶ回復し、徐々にレッスンなどの仕事も再開するにあたり、私の生業である書道をする時間がもっと欲しいのである。 自分のやりたいことをやって息子ともたっぷり一緒にいる、その贅沢を100%の形でなくとも何とか手に入れたいという問題である。 各個人が日常的に、やりたいことをやる、したいようにする、というのは私は出来うる限り我慢すべきことではないと思っている。 前にも書いたが、誰であっても自分以外の誰かのために何かをしてあげる、という言い方考え方が私は本当に嫌なので、回りまわって全く全てのことを自分のために行いたい。 たとえ語弊が生じようとも、このことについては私はそう言いたい。 それが結果的に、総合的に、自分にも周りの人のためにも最良であると考えている。 また日々は揺蕩っているものでやりたいことやしたいことはその時々で変わることも多い。 そんな不確実な暮らしの中で気の向くままにやれたら良いけれど、さすがに赤子のいる今はそうもいかないので、やりたいことをやる時間を意図的に区切って確保する必要くらいはありそうである。 例えば、保育園に週3,4日通わせるというのも良いのかもしれない。 近くの認可外保育園では、月額料金は変わらないがそのようにしている園児もいるとのこと。 あるいは、生後6か月を過ぎれば一日4時間の一時保育をやっている区の施設を利用するのも良いかもしれない。 現在レッスン業を再開しているが、息子は極めておとなしく、生徒さんに抱かれて愛想を振りまいている。 この状態が続いてくれるのであれば、週3,4日の通園で仕事をしながら私の書道などの時間も確保し、息子との時間も保てるだろう。 色んなことに気が急いていた私だが、年内は私の息子への溺愛ぶりを自分で観察することにしようと思う。 年末頃にはまた違う気持ちになっているのかもしれない。 何事もその場に立ち会ってみなければ何とも言えないことばかりだ。 もうひとつの悩みごと、煙草についてはまた書くとしよう。 息子の初めての予防接種、注射を3本と飲み薬を1つ、やってきた。
朝からそわそわしていたのは母である私の方である。 息子は産まれてすぐ、鼻から管を通されたり、点滴を刺されたり、血糖値を測るために毎日針を刺されていたから、医療処置の経験はあると言えばある。 しかしこの処置は、血糖値計測以外は私が目の当たりにしていないので、息子がどんな顔していたかは知らない。 1か月検診以来の病院。 1か月検診までは出産をした大きな病院だったのだが、予防接種は街の小児科で受ける。 小児科は徒歩圏内にいくつもあるけれど、どこが良いのかさっぱり分からなかったので、よく通りかかる近所の小児科に予約を入れた。 案外病院臭くない病院で、これなら次回以降病院に足を踏み入れた瞬間に匂いで注射を思い出すこともないだろう。 ちらほらと同じ月齢くらいの赤ちゃんがいた。 問診票を記入して間もなく診察室に呼ばれた。 すごくどきどきする、私が。 お医者さんが今回の予防接種の説明を早口でしてくれるのだが、どきどきしているのでさっぱり頭に入ってこない。 はい、はい、と私は同意してサインをし、息子は看護師さんに抱かれて固定され、お医者さんは慣れた手つきで躊躇なくぶすりと腕に針を刺した。 私は自分が注射を打たれるとき、血液検査などあらゆる注射針から目を反らして受ける。 しかし息子のは見届けねばならないとなぜか思い込んで、注射針と息子の顔を交互に見ることにした。 小さな腕に、やたら大きく太く見える注射針。 ぶすりと肌に突き刺してから、薬を注入するのにポンプがぐぐぐと押される。 息子はいつも見せるような不快な表情とも違う、痛い、という表情で大口を開けて泣いた。 もう、私が泣きそうである。 よく、代われるものなら代わってあげたい、ということを聞くが、少なくとも注射ならば本気でそう思った。 注射にも耐えられないような男になってほしいわけでは毛頭ないが、こんな小さき者に苦痛など与えたくない。 哀しい顔も、痛がる顔も、母の私がどうにも見たくないのである。 3本の注射が終わって、泣いている息子を私が泣きそうになりながら宥め、ロタウイルスという任意の予防接種の飲み薬をぺろぺろと舐めて、待合室で少し安静にして。 意外とすぐに泣き止んだけれど、まだ私がどきどきしていた。 そうして息子と私の初めての予防接種は終わった。 ベビーカーに乗せるとすぐに息子は寝てしまった。 疲れたようで夜になってもよく寝る。 発熱をすることもあるので気を付けて見ていてくださいと言われたが、今のところすやすやと眠り、今日の体験を引きずっている母の心配は杞憂のようだ。 これから2年ほどの間、予防接種の嵐である。 もちろん、自分が幼い頃に受けた予防接種の痛みなど覚えていないし、記憶にある小学生頃の注射も特にトラウマになったりなどはしていない。 だから本人はまあ、一時の痛みを感じるだけなのだろう。 となると、この試練は母である私のものなのか。 来月は今日よりも増えて5本の注射があるらしい。 例えば誰かの痛みを代わることができたとして、例えば息子が出産することになっても私は絶対に代わってあげないが、筋肉注射5本なら何の躊躇いもなく代わってあげたい。 もちろん予防接種の効果は息子のもので。 実際には誰の痛みも代われないのは、心苦しい面もありながらやっぱりそれで良いのかもしれないと思ったりもする。 今期のドラマは「監察医朝顔」と「偽装不倫」の2つを観ている。
後者は先日最終回を迎えた。 どちらも観ようと思って見たわけではなく、ずっと前の何かの録画予約がそのまま継続されてかれこれ2年ほど経っているだけである。 ちなみに「ノーサイドゲーム」の録画もあったのだが、1話の段階で頭に入ってこないので見るのを止めた。 最後まで観ておいてなんだが、「偽装不倫」はなんて面白くないドラマなのだろうと思いながら、それでもあのドラマに存在した“ぎこちない違和感”が止められなくて見続けていた。 息子をあやしながら観るので物語がライトな方が見やすかったというのもあるが、何とも力強い“ぎこちない違和感”に引きつけられていた感じがある。 “ぎこちない違和感”というのは、少なくない居心地の悪さ、ある種の気持ち悪さ、と言い換えることができる。 “ぎこちない違和感”の正体のひとつは、原作が漫画であることから来る実写の乖離というのはあるだろうと思う。 コミカルな展開や恋愛のときめき感などは、漫画の方がよりポップな誇張表現が可能なので向いていたのだろう。 話の内容もその展開が手に取るように分かるようなベタベタのラブストーリーである。 しかし、私が感じていた“ぎこちない違和感”は、主人公である鐘子を演じる杏にあったような気がしている。 その他の出演者の、宮沢氷魚、瀬戸利樹、仲間由紀恵、MEGUMI、谷原章介らは漫画的なキャラクターにさらりと乗っかっていたと思う。 しかし杏だけは、杏本人からにじみ出る個性が、漫画的なマットな質感の演技と実写のウェットな質感の演技にこそばゆいような絶妙な不協和音が奏でられていた。 そもそもドラマは作りものだし、私は全然演技などには明るくないので、杏の演技の不協和にありえないとか嘘くさいとか言うつもりは毛頭なくて、私自身があのような“ぎこちない違和感”改め”こそばゆい不協和”にどこかしら引きつけられることに興味がある。 ちなみに、「監察医朝顔」には主人公朝顔一家の家族のやりとり全体について、似たような”こそばゆい不協和”が存在している。 我ながら不協和音悪趣味だと思う一方で、この”こそばゆい不協和”というものが一体何であるのか、自分の創作にあたっても何か鍵が隠されているのではないかと思っている。 違和感や奇妙さ、居心地の悪さ、気味悪さ、気持ち悪さ、不協和、そこに“こそばゆい”というような少しの捻じれた明るさを加えたような、そんな風合いが私の好みというものなのかもしれない。 「偽装不倫」については何処まで見ても物語はさっぱり面白くなかったという私の評価は変わらないのだが、「ノーサイドゲーム」のように1話で見切りをつけられるよりは作り手としては成功だったと言えなくないのかもしれない。 首を派手に寝違えてしまった。
息子を寝かせようと狭く細い場所で私も寝落ちしてしまったのが良くなかった。 文字通り、首が回らない事態。 こんなに酷い状態になったのは初めてかもしれない。 上を向いても下を向いても右を向いても左を向いても、痛い。 無論斜め上も、斜め右も。 八方塞がりである。 ついでに、首だけでなく肩周りや後頭部まで痛い。 物を食べたり飲んだり、サーキュレーターのスイッチをひねったり、食器を洗ったり、洗濯物を取り出したり、くしゃみをしたり、そんなことで激痛が走る。 寝たり起きたり、寝返りを打つのもひと苦労。 当然ながら授乳をするときに力の入れ具合や、首の向きにも要注意である。 下を向けないので、息子の口にうまく乳首を運べず、飢餓状態の息子を何度も怒らせてしまった。 幸い字を書くことにはさほど影響しないので、全くないわけでもないが、字は首を使っていないのだなあと改めて知る。 PCも問題ない。 ベビーカーを押すことは特段問題はないのだが、やはり歩く時間が長くなってくると、色々なところをかばって歩いているのか上半身全体がばきばきとしてくる。 首が回らないので車や人などの確認も大変で、気まで疲れる。 これを書いている今は寝違えてから三日目なのだが、昨日よりはましと言ったところでまだ不自由極まりない。 「寝違え 治し方」など色々と検索してみたが、体操とか冷やすとかそんな方法もあれど、基本的に痛い方向には首を回さず安静に自然治癒を待つしかないらしい。 ぎっくり腰とおそらく仕組みは変わらないのだろうと思うが、解明されていないことも多く、特効薬も特別な治療法もないというのが現状のようだ。 ざざっと検索結果を漁ってみると、内部で炎症が起こっているので寝違え直後は温めない方が良い、マッサージやストレッチも基本的にやらない方が良い、らしい。 血流を無駄に良くしてしまうと、炎症範囲が広がったり、さらに痛みが強くなったりする。 炎症が治まってきたら血流を促して治癒を促進させるべく、温めたり軽いマッサージも効果的なようだ。 また、生理痛や頭痛、歯痛などに用いられる消炎鎮痛剤は良いとのことで、帝王切開の傷用に処方されていたロキソニンが余っていたので服用する。 昔からロキソニンには信頼を置いている私だが、やはり今回の痛みにもてき面に効果を表した。 全く痛くなくなるわけではないが、痛みを気にせずに動くことができるようにはなった。 しかしながら、痛みというのは基本的に身体から危険信号なので、無理に感じなくさせてしまうと逆に危険にもなりかねない。 なるべく首を動かさないよう安静にしつつ、タオルを首に巻いて過ごしている。 これで布の帽子をかぶれば、息子の野球の応援をしに来ているおばちゃんのようだ。 息子は最近、夜に長く寝るようになってきた。 最長5時間ほど、そしておっぱいを飲んでまたこんこんと眠る。 彼が何となしに身体ごと目覚め始めるのは10時とか11時である。 息子も私に似て、基本形は夜型なのかもしれない。 夫が朝型なので、私たちはどちらかの身体の良い方に時間を合わせていると、どちらかに支障が出てくる。 私はフリーランスで元々不規則であることが規則になっているし、どうせ授乳で起きなければならないのでできるだけ会社員である夫の時間に合わせている。 朝は起きないけれど。 というつもりだったのだが、夫も私に合わせていたらしい。 0時までには就寝したいというのは知っていたので、何となくそのくらいの時間に寝られるように私としては諸々早めの行動をし、実際には0時半から1時くらいの就寝になっていた。 しかし夫の身体的には、21時か22時くらいに寝て未明3時とか4時に起きるのが最良らしい。 そういうわけで最近は少しだけ身体が辛い、という申告があった。 とはいえ、夫の帰宅が平均して20時くらいなので、夜ごはんを一緒に話しながら食べて片づけをして、息子を風呂に入れてとなると21時や22時の就寝は不可能と言って良い。 夫も、私や息子との時間を削って寝たいわけではないらしいので、とりあえず23時半くらいには寝室に入り0時くらいに就寝するようにしてみることにした。 習慣付ける訓練によって私が朝型に変えられれば良いのだが、それを実行するのはなかなか大掛かりなことで難しい。 仮に朝型への変更が可能であったとしても、1週間や10日、あるいはひと月ほど連続してそれを保たなければ習慣にはならないだろう。 試したことがないので試してみても良いのだが、私のゴールデンタイムを一時的にでも失うことにはやはり抵抗感があるものである。 それと引き換えに夫は夫のゴールデンタイムを失い続けているのであるが。 誰かと暮らすのはいつでも難しさを伴う。 ここ数年、私は規則的な時間の概念からの解放に向かって暮らしてきたので、いよいよまた大きな転換期なのかもしれない。 夫だけではなく、息子というパラメータも増えて、複雑化している。 あっちが立てば、こっちが立たない。 誰の為に自分を犠牲にした、という言い方考え方が私は劇的に嫌いなので、最終的に自分の為にそうしたのだと言えるように日々を暮らしていきたい。 妊娠中から眼鏡を買おう買おうと思っていたのだが、9月も半ばになろうとしている。
無事に新宿までたどり着き、頼んであった新しい眼鏡を受け取ってきた。 新宿には、マルイにも伊勢丹にもビックロにも清潔で広々とした授乳・おむつ替え室があって安心である。 平日の日中であれば、新宿ど真ん中は乳飲み子連れはかえって居やすいのかもしれない。 と言っても、新宿ど真ん中に私はあまり用がないのだけれど。 最近は授乳室とおむつ替えが快適にできる設備を事前検索しながら、ベビーカーに息子を乗せて積極的に出かけている。 一日の歩数も6000~15000歩となかなか戻ってきた。 自分の足で歩くことが大切なのだ、ということは何だか哲学的にさえ思う。 息子はまだ文字通りの歩くことはできないけれど、人生はしっかりと歩んでいる。 さて息子はベビーカーに乗っているだけなのだが、やはり乳児には少しの外出も疲れが出るようで帰ると一時機嫌が悪くなってその後よく眠ることが多い。 ベビーカーに乗っているだけと言っても、私たちが電車や新幹線に乗っているだけで疲れるのと同じで、自分が歩く走る速度以外で進むと、その速さに比例して疲労するのだろうと思う。 新幹線に2時間乗るのと、飛行機に2時間乗るのでは、後者の方がぐったりするのは私に限らず皆同じだろうか。 飛行機の場合は、高揚感がアドレナリン的に働いて変に疲れを感じないところはあると思うが。 赤ちゃんの場合、強制的な速度の他に、風や音や匂い、人気、気温などさまざまな初めての要素だらけで情報過多になってしまう感じがある。 もうこれ以上情報を入れるとパンクする、その前にシャットダウンしてしまおうとベビーカーでも揺れにまかせてよく眠る。 赤ちゃんは毎日毎日新しいことだらけで、刺激的すぎて、疲れるだろうなあと思う。 さて、ところで、なぜ私は新しい眼鏡を買ったのだろうか。 しかも比較的値段の高い眼鏡を買ってしまった。 確かに妊娠前から眼鏡を買おう買おうと思っていたのだが、なぜ買おう買おうと思っていたのか思い出すことができない。 今ある眼鏡がゆるゆるになってしまっているので直したかったのはある。 しかしそれはただ直せば良いのである。 新しい眼鏡を注文した日は夫が夏休みで、区役所に用があって3人で歌舞伎町に出向いていた。 夫は私がひとりになる時間を事あるごとに作ってくれようとするので、その言葉に甘えて私はひとりで眼鏡店に行った。 壊れかけた現状の眼鏡の修理依頼をし、私は店内の眼鏡を物色していた。 眼鏡を買おう買おうと思う心はなぜだかこのときも継続していた。 しかし、「欲しい!」という物欲では全くなくて、今この時にこのタスクを完遂せねばならない、という使命感のような観念にほとんど無意識に強く駆られていた。 ついでに、息子はもうすぐおっぱいを欲しがってしまうかもしれない、私の胸も放っておくと岩のようになってしまう、家までは何分くらいで帰れるから、眼鏡を選んで視力を測ってあれこれするともう時間の余裕など全然ない!!!でも今このひとりの時間を味わわないと!!!という焦燥感に煽られまくっていた。 「これにします」と半ば適当に眼鏡を決めて、出来上がるまでに30~1時間くらいと言われたので当日受け取ることは諦めて足早に店をあとにした。 夫はゆっくりでいいよと言ってくれていたのに、心が急くことを止められずに私は小走り気味に家まで帰った。 おっぱいの問題がなかったとして、心ゆくまでゆっくりしてきて良いと例えば丸一日や一週間などもらったとして、今の私はゆっくりすることができるのだろうか。 息子のことが気になってしまうし、息子に会いたくなってしまうし、その後の日々の準備などもあれこれしてしまうだろう。 しかし、ずっと息子と一緒なのもやはり息が詰まることもあるわけで、ゆっくりする練習を少しずつしていかなければとも思う。 ゆっくりする練習、リラックスする練習、何か可笑しみを含んだ言葉である。 ほとんど無意味に手に入った新しい眼鏡をかけてサウナにでも出かけようか。 しかしサウナと水風呂はまだ帝王切開の傷が少々怖い。 良い知らせがあった。 自分のことではないけれど、それなりに嬉しい。 苦節何年なのかは詳細には知らないが、万感の思いであるだろう。 良かった、よかった。 ものすごい台風だった。
のだと思う。 確かに、夜中授乳に起きたときに風雨の音が凄まじかったのだが、私も息子も授乳の途中で居眠りをしてしまうくらい睡魔の方が勝っていた。 今日は台風一過、夏のぶり返し日である。 そして私は今日から仕事復帰。 息子同席で良いとおっしゃってくださる生徒さん向けにレッスンを再開した。 概ね息子はおとなしくしていてくれた。 しかし今後、60分のレッスンの間、指導がままならないなんてことも起こり得るだろうと思う。 つらい、と口にすることについて。 私の好きなブログのひとつを書かれる方が、この方は実際にも面識がある、書いておられた。 今までずっとずっと心の内にしまってきて、何度も何度も反芻させた錦繍のような文章だった。 まず自分の中でその考え事の納得を丁寧に探し、様々なことに配慮して紡がれたことが文章の質感でよく分かる。 ネガティブなこと、つらいということを書くこと、何らかの形で表現すること。 文句や泣き言ではなくて。 突発的で一時的な感情でもなくて。 それはおそらく、自分自身をひとつ受け入れた、ということだろうと思う。 自分が思うことや実際の行動が、社会通念と異なっていたり、自分の考える理想像と異なっていたり、あるいはもっとややこしいのは「自分が思うこと」と「自分が“ほんとうに”思うこと」が異なっているとき、それを受け入れることはなかなかに難しいものである。 そこには、“ほんとうのこと”が本当に“ほんとう”であるかどうかもまた延々に疑わしいのもあるが。 そこにも書かれていたが、例えば妊娠において言えば、おそらく、「妊娠は身体を案じなければならないが、とても喜ばしく輝かしいものだ。」というのが社会通念であると思う。 社会通念は「半ば絶対的に」そう思うべきだ、皆そう思うに決まっている、と当然のごとくのさばるものだ。 「妊娠はつらいものだ」と発することをあまり良しとはされていない風潮があるだろう。 これはほとんど、母体ではなく、子の方にその喜ばしさや輝かしさの焦点が充てられているからだろうと思う。 めでたいのはあくまで子の誕生であり、母体ではないのだ。 「どうかお身体を大切に」というのは、「子を守るお身体を大切に」ということである。 そう思うのは私の卑屈であろうか。 もちろん、母体である妊婦が子の誕生をめでたく輝かしいものだと思っているとしても。 また、妊婦本人としても「妊娠を愛おしく大切に喜ぶ私」や「妊娠期を満喫する私」や「飄々と妊娠を乗り切る私」でありたいという理想像を何となく持っていたりもする。 その理想像に自分の行動がかけ離れていれば、否応なく自責の念にも駆られるだろう。 あの方がそう言ったからではなく、そして既に以前も少し書いたが、私も妊娠は辛かった。 絶望的に悪阻が酷かったわけでも、妊娠糖尿病などになったわけでもなかったけれど。 私には、数か月前に出産を終えていた、私にとっての妊婦モデルとなった知り合いがいて、その妊婦さんのように「妊娠していてもあんまり普段と変わらないよ」と、そんなふうに私は飄々と妊娠を過ごす予定だった。 これも馬鹿な私の好からぬ期待なわけだが、だから尚のこと、あんなふうに飄々としていられなかった自分に嫌気がさしていた。 ただ、渦中に「辛いつらい」と言ってしまうと、もはや最後まで完遂できない気がして、つらいと口にすることをなるべく自分のために我慢していた。 色々な症状があったけれど、総合的には単純に身体が重たいということと、血を分けていることによって思うように身体が動かなかったのが辛かったのだと思う。 しかしながら妊娠末期、予定日も過ぎた入院前の日に夫を前にして、「もう妊娠しない」と私はやっとの思いで口にして、さめざめと泣いた。 それは私の場合「妊娠を止めたい」でもなく、「腹の子がかわいくない」でもなく、ただ「もう妊娠しない」ということだった。 「妊娠を止めたい」「腹の子がかわいくない」、そう思う妊婦さんもきっといるだろうと思う。 自分の中で思うこととそれを口にすること、また何か行動に移すことはそれぞれに全く異なることである。 最も前段階である自分が「思うこと」というのは、ほぼ自然発生的で言うなれば「思ってしまうもの」であるので止めることはできない。 まずは自分がその「思うこと」を自分で正しく捕まえられるか、それが最も重要であると私は思っている。 それ以降の行動は意志によるものなので、自らのタイミング、自らの判断により“大人”の行動をすれば良い。 自分の外側に吐き出すことによって、ひとつの決着がつく。 というか、物事をあれこれ逡巡して考えてしまうタイプの人にとって、自分の外側に吐き出すことができるようになった頃には、自分の中の納得感はほとんど得られているものだとも思う。 ブログのような公の場所にそのことを書くのは、共感を得たり、同じ境遇の人の励ましになればと思う気持ちもあったかもしれないが、自分自身との大切な決着の軌跡をブログの1頁として刻んでおきたいという面が大きいのではないだろうか。 今、息子はかわいい。 いつが一番かわいい盛りなのか知らないが、もっぱら最近は毎日かわいい盛りである。 数日前の奇跡的なほほえみから、見間違いではなく、本格的に笑えるようにもなってきた。 息子が笑ってくれるのは、もうたまらなくかわいい。 あれとそれとは別の話。 それに、NO MORE HIROSHIMAくらいに、NO MORE NINSHINを謳っているように思うが、無論、これより先私が再び妊娠することがないわけでもない。 変わっても変わらなくても、いつでもなるべく、自分の生々しい声をキャッチできたら良い。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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